2.「献身」と「変身」-七○年代の状況

『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)

           
         
         
         
         
         
         
    
 斎藤隆介の『立ってみなさい』(昭和四四年)を読むと、その「あとがき」でつぎのようなことばに出あう。
「私は今まで一貫して『献身』というテーマを追求して来ました。マイホーム主義ではマイホームを守れないのは明白です。逆に、何千万の仲間のために命をすててもたたかう道をゆくことにこそほんとうの幸せはあると思うのです。『マイホーム主義』と『よい子教育』のどぶ泥を浴びせられている少年少女たちの心に、一段高い、そして真実の幸せへのあかりがともることを祈って、新しい話は書かれました」
「今まで」というのは、『べロ出しチョンマ』(昭和四二年)に収められた作品群を指すのだろう。その中の『八郎』『三コ』『花咲き山』などは、後に独立した一冊の本になっている。『立ってみなさい』に収められた『ひさの星』や『でえだらぼう』も、おなじく一冊の本として独立している。これに、長編『ゆき』(昭和四四年)を加えると、斎藤隆介が「一貫して……」といったことが、よくわかる。
 一九六○年代のおわりから七○年代にかけて、日本の児童文学の世界に、斎藤隆介は、力強い光芒を放つ一つの星のような存在だったのである。
 古田足日は、『児童文学の旗』(昭和四五年)の中で、「『立ってみなさい』はどういう児童文学なのか。それは今後の児童文学の中心的存在たり得るのか」と問いかけ、そうではない、児童文学の未来は、別の方向にある……と指摘しているが、今のところ、斎藤隆介は、なお一つのシンボルの役目を果たしている。一九七○年代の入口では、この「献身」の発想をしのぐ、別の座標軸がすえられていないからである。斎藤隆介をしのぐ作品があるかどうかということも一つの問題だが、それよりも、「献身」の発想に対峙する(あるいは正反対の)作品が、それなりの価値を評価されていない点に問題がある。現代から過去へ遡行しようとして、そこで、まずクローズアップされてくるのが、七○年代の初期の「献身」ということになる。古田足日が、児童文学の中心的存在となりえないだろう……と推測するものが、なぜ、この時期のシンボリックな存在となったのか。その理由の一つとして、別の流れをつくる作品の評価がなされていない……ということをあげたが、それ以外に何があるのだろう。「献身」の発想をシンボルにまで押しあげたものについては、時代思潮なり、過去の発想なりが、大きく働いていたのではないか。児童文学の領域では、きわめてあざやかに「献身」は浮き立っていたが、この時代、あるいは、この時期を端的に示すす発想とは何であったのか……。
 それは「献身」ではなく「変身」である。そうはいえないだろうか。テレビ番組に『へんしん忍者あらし』というのがある。しかし、ここでいう「変身」とは、あながちそうしたテレビ番組だけを指していうのではない。たとえば、児童文化の領域で、もっとも伝播力のあるマンガの中に、つぎのような形でも「変身」の発想があった。
 『男一匹ガキ大将』や『巨人の星』にみられるような、「根性もの」の形で示される変身。いうまでもなく、前者では、一介の学生戸川万吉が、喧嘩につぐ喧嘩を手がかりにして大集団の支配者に変身していくし、後者では、長屋住まいの少年が、特訓につぐ特訓で、花形球団の名選手に変身していく。
 『奥さまは魔女』、あるいは『ふしぎなふしぎなふしぎなあの子』のように、「魔力」を持って変身を示すもの。ここに『魔法使いサリー』のようなマンガも含まれる。
 永井豪、あるいは谷岡ヤスジによって、その名をひろめた「ハレンチもの」も、また一種の変身ものといえる。女の子柳生十兵衛が、生徒でありながら、忍者そのもののような特技を持っているからではない。それもあるが、ここでは聖ハレンチ学園の教師集団も、生徒集団も、共に、従来の教師像・生徒像をうちこわし、異質の人間集団として登場した点で変身というのである。
 忍者やスーパー・マンが変身することは、『仮面ライダー』などのテレビ番組でおなじみである。落とすことのできないのは、怪獣の変身である。これは、怪獣の日常化と呼んでもいいだろう。たとえば、一九五○年代の中期から六○年代の初期にかけて、まさに恐怖のシンボルであった怪獣が(注6)、つぎのような変貌をとげていたのである。
「宇宙のはるかかなたアミカブル星(夢の星)に、この親子怪獣は住んでいます。親子怪獣とは、いつも親と子がはなれずにいる怪獣です。親が散歩に行けば子どもがついて行き、親が働いている時はいつもピッタリくっついてお手伝いするか、ながめています。親子怪獣とは『愛の怪獣』なのです。まずはじめにカタグルマン・カメダイン親子をみなさんに紹介します」
 これは、『タットイ国の親子怪獣』の紹介文である。タットイ国には、つぎのような親子怪獣が用意されている。ケラケラゴン。メヒカノン。ヒラリンダ。タマネギラ。サンタンク。トンテンゴン。キューケッラ。 コケムシラ。カンガロット。クラビンラ。すべて硬貨をほうりこむように別の口がついている。いうまでもなく、某信用金庫が、預金者向けのサービスとして渡している「シリーズ貯金箱」である。
 怪獣は、快獣となり、完全に、金融資本の道具に変身した。『ゴジラ』(昭和二九年)が、国産第一号の怪獣としてスクリーンに出現した時どうであったか。(これについては「部分的『怪獣大戦争』論」で触れているので参照してほしい)。そのことを考える時、これは、もっとも典型的な変身いえるだろう。
 「変身」は、文字どおりいえば、姿を変えるということだろう。外形容貌の変化ということになる。しかし、もう少し広義に考えていくと、この児童文化のヒーローやヒロインの変身は、わたしたち全体の変身現象を、縮小するか拡大するかした形の投影像ではないのだろうか。それは、人間が変わるということ、少なくとも、人間観の変質を反映していたように思えるのだ。

 たとえば、二つのことが指摘できる。一つは、昭和四七年、井上ひさしが『手鎖心中』で直木賞を受賞したことである。井上ひさしは、『表裏源内蛙合戦』(昭和四六年)や『道元の冒険』(昭和四六年)において、人間を笑いとばすに価する存在として描きだした。この作者が、受賞作でも、一種のナンセンスともいうべき人間像を描きだしたことである。戯作者になりたくて、これでもかこれでもかと、はた目には馬鹿馬鹿しいほどのことを繰りかえす材木問屋の若主人が登場する。たかが戯れにする業を……と、嘲笑されるが、その嘲笑に価することのために、この男は、命を落とすのである。作品の是非をいう必要はないだろう。ここで指摘したいのは、矮小化された人間、その笑うべき人間に、作者が懸命に形を与えていた……ということである。また、文学賞という形で、おとなの社会が、そうした人間像に、一つの価値を認めた・・・・・ということである。崇高な志など無縁のたわごとと、日常市井・鄙猥の徒を主人公として、多くの作品を生みだしてきた先達は、野坂昭如である。野坂昭如の起点を『エロ事師たち』(昭和四○年)とするならば、それ以後の『とむらい師たち』『ゲリラの群れ』などを含めて、すでに、人間の矮小化、あるいは、矮小化した人間への賛美は、六○年代中期からはじまっていたことになる。『手鎖心中』は、その矮小化の発想の延長線上に位置するものだが、これらの発想の根もとにあるものは、人間なにするものぞ、という哀感である。人間が人間であることを自負できない思想といえばいいか。その矮小化あるいは鄙猥化の中には、些末な業に命を賭けるその個人に執着する以外、何物をも信じがたし、という姿勢があった。

 駆け足でふりかえってみよう。
 時代を見通す先駆者的人間は別として、わたしたちは、敗戦の時点(昭和二○年)から、しばらくにしても「タテマエ」に生きる時代があった。いうまでもなく、タテマエとは、民主主義を、即人間の解放ないし幸福に直結すると考える発想である。この時期は「戦後」の蜜月といいかえてもいい。この時期、もっとも脚光を浴びたのは、宮本百合子である。『播州平野』から『二つの庭』にかけて、人生に意味を求める人間像が描かれた。もちろん、椎名麟三のように、目的を喪失した人間の姿を描きだすものもあったが、よりスポットを浴びたのは「建設」型の人間である。時代は国家の再建を中心座標とし、人間もまた、『重き流れの中に』の主人公のように、虚脱感を内に秘めているものの、タテマエとしての民主主義は、それをおおいかくす形で、わたしたちの中にはいりこんでいた。ホンネを語るものよりもタテマエに形を与え、そこに意義を見いだそうという人間像が中心にあった。それが、一九五○年の朝鮮戦争、それと必然的に連関する日本の再軍備の出発によって、タテマエの時代は終わる。タテマエとしての人間のつぎに登場するのは、ホンネ型人間である。石原慎太郎の『太陽の季節』(昭和三一年)は、それをその時点で集約していたといえよう。芥川賞選考委員の意見が二つにわかれ、人間性を問題にする反対論に対して、性の遊戯の表現、自由な快楽の追求を意味づける賛成論が勝ちを制したことは、そのことを裏づける。人間はタテマエによって人間であるのではない。そうした理念の枠を踏みこえる個人に立って、はじめて人間である。そうした志向性は、その時点で氾濫した「太陽族映画」という現象の中で拡散されたが、そこには、タテマエよりも、自己のホンネに生きることを、なんのためらいも恥じらいもなく、一つの価値あるあり方だと信じた人間像がある。
 そうした個人への確信、あるいは自負への崩壊が一九六○年以降にはじまる。その年の安保条約改定阻止運動のすぐ後、深沢七郎の『風流夢譚』(昭和三五年)がきっかけとなって「嶋中事件」(昭和三六年)がおこった。個人の表現の自由は、深沢七郎を流浪の人とすることによって、一つの幻想ではなかったかという考え方が生まれた。
「あの忌わしい事件-私の小説のために起こった殺人事件に私は自分の目を疑った。何もかも私の書いた小説の被害ばかりなのである。諧謔小説を書いたつもりなのだが殺人まで起こったのである。そうして私は隠れて暮すようになった」(『流浪の手記』昭和三八年) 個人よりも国威を……という発想が大きくクローズアップされてくる。そのことは、この事件に続く東京オリンピック(昭和三九年)や、日本万国博(昭和四五年)を一つのシンボルとして考えればいい。六○年代以前のホンネ型人間の自負などは、『風流夢譚』以後、確信することができない状況が生まれてきたのである。人間は、自己のホンネを胸を張って価値あるものだということに、ためらいを抱く。はたして、人間とは、そんなりっぱなものだろうか。人間は、性や葬儀や詐欺に没頭するしか、自己確認のできないものに「変身」する。野坂昭如から井上ひさしに至る人間矮小化のプロセスは、その価値や意味はさて置き、この六○年代から七○年代にかけての「変身」を、もっとも端的に示していたものである。
 もちろん、この駆け足の見取り図を、「文壇」現象だということはできる。そういうことはやさしい。また、かりにこれが、おとなの文学の流れを語ったものとすれば、あまりにもお粗末な素描ということになるだろう。しかし、わたしの指摘したかったことは、そうした文学現象の中に、今日の時代を「変身」の時代と呼ぶきざしが端的に示されていたこと、またそれは、社会的諸条件によって必然的に生みだされてきた発想ではないか、ということである。

「変身」の発想の中には、人間に対する人間の危倶感がある。人間、なにするものぞ、という怖れがある。狼雑に生きるヒーローやヒロインを描くことは、この人間危倶感の一つのあらわれであり、そこには、所詮人間は……といったふうの、罪の意識、あるいは「業」の深さへの洞察があったと思うのである。人は変わりうるものである、変わらざるをえないもろさを持っている。そうした悲しさと怖れを示しているもう一つの例は、たとえば、本多勝一の『中国の旅』(昭和四七年)や『中国の日本軍』(昭和四七年)である。戦争に関するこの証言は、アウシュビッツの多くの記録とならんで、人間についての一切のオプティミズムを、その根底からくつがえすに十分な事実を含んでいた。タテマエ型人間といい、ホンネ型人間といい、特定の状況の中では、常に殺人者や悪魔の化身に「変身」しうるということ。いいかえれば、被害者は加害者になりうるし、加害者も被害者になりうるという人間の指摘。この指摘こそ、「変身」の発想の、もっとも根元的な発生母体ではなかったか。

 大きくまわり道をしたが、児童文化の中の「変身」譚には、時代思潮としての「変身」の発想が、無意識のうちに反映していたのではないか。そのことがいいたいのである。
 これは、人間における変身願望(注7)とまったく無縁だとはいえないかもしれない。本来「変身願望」には、時代や空間の枠をこえる発想があるからである。しかし、「魔女もの」として指摘した「変身」以外、どこに現実をこえる発想があるだろうか。「根性もの」も「ハレンチもの」も、怪獣や忍者ものともども、人間の多様な生き方を開くよりも、現実に癒着して栄光の座を占める考え方、あるいは、その枠内でうまく立ちまわる考え方である。また、「魔女もの」の変身譚も、多くは別世界(もう一つの国へ子どもをいざなうことより、この日常的世界での活躍を中心にしていた。もし、矮小化ということばをこの場合にあてはめるなら、ここにあるのは「変身願望」の矮小化である。日常的世界をこえて、「もう一つの世界」で、人間あるいは子どもの可能性をたしかめるのではなく、日常的世界そのものの中に「変身願望」を限定することによって、それは矮小化したといえるだろう。変身願望を、そのように、人間の自由で多様な可能性への追求のあらわれとするならば、七○年代前後を占める「変身」とは、それとは逆に、現実への適応現象の集約、あるいは、自由であることからの後退現象ではなかったか。
 この「変身」には、状況を変えることのできない人間の、それならせめてじぶんの方を変えようという悲しい願望があったような気がしてならない。こういうあり方は、おとなだけのものだろうか。

 『日本人の生活時間・一九七○』(一九七一年・NHK放送世論調査所)という本に「行動別平均時間量」という付表がついている。それでみると、小学校上級から中学生にかけての「休養時間」や「余暇の時間」は、平日で、計一時間十七分。日曜で、やっと三時間五分になる。その「余暇の時間」に、子どもの遊びをするのは、平日で、一日のうち三十分、日曜で、やっと一時間一分ということになる。「学習時間」の方は、学校の授業や行事をのぞいても、「休養」「余暇」のほぼ二倍。平日で二時間十六分、日曜で一時間五十九分、勉強をしていることになる。平日にせよ、休日にせよ、現代の子どもは、学習塾や自宅学習などで、「遊び」をはるかに上まわる時間を費しているわけである。この「生活時間」調査は、子どものそうした「遊び時間」の余裕のなさを示している。それと同時に、こうした調査を必要とするほど、現代人が「時間」に分割されて生きていることを示している。人間が、自由に、じぶんの時間を使用するのではなく、時間が、人間生活を分割支配しているということである。「忙しい」ということばが、あいさつことばとして使用されるのは、この自律できる時間量の減少に関係している。人は、仕事で忙しいという時、仕事における熱中度より、その労働時間が、のっぴきならない形で、じぶんの自由をしばりあげていることを語っている。時間の支配から抜けだせないじぶん。これは、子どもでもおなじである。宿題や勉強にしばられることは、必要な作業に対する苦痛感よりも、じぶんが、その時間をどうすることもできないこと、一定の枠づけされた人間である……というその苦痛感の方が強いのである。
 なぜ、こんな生活しか送れないのか。こんなじぶんでしかありえないのか。別の人生、別の生き方をするじぶんがあってもいいはずである。この疑問、この束縛からの脱出願望は、何も子どもだけのものではない。大人を含めて、人間全体に関わる疑問であり、願望である。

 これは、藤子不二雄のマンガ『パーマン』(昭和四二年)について論じた時、わたしの記した一節である(注8)。おとなが、変えようのない状況の中にいるなら、子どももまたおなじである。そのことをいうために記している。そこでは、「パーマン」に変身する子どもの問題を考えたのだが、この変身への願望の根拠となるものは、他の「変身もの」すべてに通じるものであろう。強くなるか、怪獣を御するか、その形態はさまざまだとしても、子どももまた、変身しないではいられない状況を生きている。
 斎藤隆介の「献身」の発想は、そこに、生まれるべき必然性を持っていた。「変身」を必要とする状況に対して、『八郎』や『三コ』は、まさに、その状況変革の行動者として描かれていたからである。はじめにあげた『立ってみなさい』も、『ゆき』も例外ではない。すべて、「何千万の仲間のために命をすててもたたかう道」を選んでいる。斎藤隆介については、別のところで論じたので(注9)、繰りかえさないが、こうした「献身」の発想が、他の児童文学作品から抜きんでて、評価され、脚光を浴びる一因に、右の時代思潮、あるいは、状況意識のあることは「抜き」にはできないだろう。
 しかし、それだけが、「献身」の発想をクローズアップしているのであろうか。わたしは、この章のはじめで、時代思潮とともに、「過去の発想」ということも記しておいた。それはどういうことなのか、という点に触れなければならないだろう。そこで問題を「戦後」の起点にまでもどし、そこにある考え方と、今日の「献身」の発想の連関性を考える必要がある。児童文学における「楽しさの系譜」ということは、その後の問題である。昭和二○年八月一五日、あの敗戦のあと、日本児童文学の思潮は、どのようなものであったのか……。そのことを、つぎに考えてみよう。