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ほんとうにわれわれはよく歌をうたいました。いつ戦闘がはじまるかもしれない。そして死ぬかも分からない、せめて生きているうちにこれだけは立派に仕上げて、胸 一杯にうたっておきたいー、そんな気がしていたからかもしれません。隊の者はみな心からうちこんで練習をしました。 それも、なるべく深みのあるすぐれた歌をうたいたがりました。下らない流行歌などはいやがって、誰も口にする者はありませんでした。 それで、もちろんお百姓や労働者だった人が多いのですが、わが隊の合唱はずいぶん高尚なむずかしい曲までこなしていました。 いうまでもなく、竹山道雄の『ビルマの竪琴』(昭和二三年)の冒頭である。「はにゅうの宿」や「庭の千草」を合唱する部隊が、ビルマで敗戦を迎える。その中から選ばれて、徹底抗戦を主張する日本軍の降伏説得に、水島上等兵が出発する。捕虜収容所の中で、水島の帰隊をまつ戦友たち。いよいよ、日本へ復員帰国するという時、死んだと思われていた水島の手紙がとどけられる。水島上等兵はビルマの地にとどまり、ビルマの土になるという決意の手紙である。筋書きを語るには不要なくらい、よく読まれている作品である。 七〇年代を考える時、斉藤隆介が浮かび上がってくるように、一九四〇年代(もちろん、四五年の敗戦以降である)をふりかえると、まずこの作品がクローズアップされてくる。児童文学作品が、ほかになかったわけではない。無数の「戦後童話」がつくられたのだが、それらは、この作品のかげにかすんでいる。それはタテマエの時代にあって、この物語だけが、タテマエ主義とは異質の発想を持っているからだろう。タテマエ主義とは、敗戦をイコール平和の時代の到来、あるいは、民主主義の開花と考え、それをそのまま、人間の解放や幸福に直結するとした考え方である。児童文学の作品は、文学であるよりも、そうした理念の伝達機関であったといえばいいか。私は、そこのところを、つぎのように指摘したことがある。 敗戦直後の開放感に始まる児童文学の戦後が、「慢性的不況」「創作不振」に集約される危機意識で終焉するまでの十年(10)、常に重視してきたのは、いかにして民主主義の理念を伝達するか、また、いかにしてその啓蒙的立場を保存するか、ということであった。 そこでは、児童文学の「文学としての自立性」や「自立的価値」を問いかけるというよりも、むしろ、その社会的役割、理念普及のための効用といったことが、一つの関心であった。そのため「所与の価値」である戦後民主主義を、「自らの価値」として消化吸収(定着・確立)することは、そのプログラムの中で片隅に追いやられ、当為の問題といえば「所与の価値」を唯一の戦後価値として、その児童文学が紹介することであった。 これは『戦後児童文学論』(昭和四二年)の中の、「児童文学における戦後価値の問題」の一節である。『戦後児童文学論』は、あげて右の一点を論証することを中心にすえている。その敗戦の受け止め方を批判し、そうしたオプティミズムの後退のあとに、はじめて、児童文学が、文学としての世界を開いていったことを語ろうとしている。そのため、『ビルマの竪琴』についても、わたしなりの批判点をだし、それと同時に、この時点での「童話」の脆弱さをも記している。改めて、おなじ論証をやることほど間の抜けた話しはない。そこで『ビルマの竪琴』については、これが、なぜ同時代の作品と異質の発想であるのか、また、どうした問題点を含んでいるのかを、駆け足的に整理をすればいいだろう。問題は、それを考えるための手続きとして、『戦後児童文学論』の諭旨素描が必要となる。抜き書き風に整理してみると、それは、つぎのようになるだろう・・・・・。 『ビルマの竪琴』が「戦後」の書作品と異質であったのは、「戦後」という状況を主体的に受け止めた点にある。敗戦イコール平和と民主主義時代の到来として、多くの作品は、子供に対する説教師的立場をとった。作品を通して、自由や平和や平等といった観念を、そのまま伝導しようとしたことである。伝導の伝統は、鈴木三重吉の「赤い鳥」運動以来、根強く日本の児童文学にある(11)。子供の空想に形を与えることや、人間の可能性を「楽しさ」として形にするといった発想は、この時点でも検討されていない。小川未明をはじめとして(12)「戦後童話」の書き手たちは、まず、人生における固定した価値観を念頭に置き、それに形を与えようとしたのである。固定した価値観とは、この敗戦直後の時点では、さきにあげたタテマエということになる。竹山道雄は、そこのところを、主体的な受け止め方をしたわけだが、主体的とは、この場合、次のような意味を含んでいる。 戦争は終わった、これからは民主主義の時代だ・・・というふうに、人間は、じだいをとびこせるものだろうか。あの戦争は侵略戦争であった、だからじぶんたちは被害者である・・・というように、人間は、じぶんの参加していた戦争に向かいあえるものだろうか。すべては抗しがたい国家の重圧のせいである、今こそ、新しい国家のあり方を語るべきだ・・・というふうに、人間は、理念を口走れるような存在だろうか。この敗戦という事実のかげには、数えつくせない人間の死がある。その死を見つめずして、どうして現在唯今の生き方が確かめられるだろう。いわんや、この事実を抜きにして、未来を語ることなど不可能に近い。人間が人間である限り、この事実に向かいあい、その意味をといつづけるしかない。竹山道雄は、そうした考え方を抱いていた、といえる。そうした発想のもとに、水島上等兵をつくりあげたと、わたしは推定する。この点が、子供に向かって、「新時代」の理念を説く書作品とは根本的に違っている。空疎なオプティミズムが、借りものの理想として(所与の価値として)民主主義理念を説くのに対し、じぶんの思想を持っていたわけである。40年代後半をふりかえる時、そこに『ビルマの竪琴』を見るのは、当然とさえいえる。しかし、この作品が、作者の、自己への誠実さを示しているとしても、その誠実さ自体に問題はないのだろうか。 『ビルマの竪琴』を考えるとき、つぎの諸点を落とすことはできない。 第一は、水島上等兵を介して行われる「戦争」観の問題である。戦争の悲惨を「死」と「破壊」という一面でとらえて、そうした悲惨をもたらす「国家」のあり方を問いつめていない点である(13)。 第二は、水島上等兵を介して描かれる「軍隊」である。この軍隊からは、軍人勅諭に明示された統率者天皇の問題が削られている。ここで描かれる軍隊は、いわゆる「皇軍」ではなく、竹山道雄の思い描く、制約共同体的な「軍隊」である。 第三に、戦争責任の問題が、国家でもなく、為政者でもなく、また、軍の指揮者でもない、一兵卒水島上等兵にすべて集約されていたことである。個人である一兵卒をビルマに残すことによって、何千万もの死への責任をとらせよう とした発想である。 第四に、その戦争責任の問題を、水島上等兵という個人を介して、心の問題・内証的問題という形で集結させた点である。 すべての悲惨や不幸は、個人の内省に帰すものかどうか。本田勝一の『中国の日本軍』をあげるまでもないだろう。 少なくとも『ビルマの竪琴』は、そう言う問題点を含んでいる。 そうした問題点を含みながら、これをしのぐ児童文学作品が生まれないばかりに、「戦後」児童文学の出発点という「栄誉」を担った。もちろん、これは、思想史的な検討ということになる。そのことは否定しない。しかし、一方でまた、つぎのような点を忘れているわけではない。もし、この作品が、右のような竹山道雄の考え方を、そのまま伝達するだけのものなら、これほども、読まれなかっただろうということだ。この作品を魅力あるものにしているのは、そうした思想それ自体より、「うたう軍隊」という発想であり、一人のビルマ僧が、はたして水島かどうかという謎をはらんだおもしろさである。 戦争と敗戦という連続する重苦しい現実の中にあって、竹山道雄のつくりだした軍隊は、明らかに、実在する世界にかわって、「もう一つの世界」を見せてくれた。軍隊、即、合唱団、という架空の世界をつくりだした。これは、加藤大介の『南の島に雪が降る』という記録同様、軍隊という通念、あるいは、軍隊そのものが持っている殺伐にして陰微な日常性を、みごとにこえた発想であ る。わたしたちは、その日常性からの飛躍に感動し、そこにある「もう一つの別の戦争」を楽しんだといえるのである。この物語が、「第三話・僧の手紙」という形で終わらずに、(ということは、さきにあげた四つの問題点に集約される形で終わらずに・・・ということになる)やはり、歌いつづける奇妙な軍隊の物語として終わっていたらどうなるだろう。たぶん、この作品は、「一億層懺悔」などというレッテルのかわりに、「早すぎた楽しい世界」などと評価されたのではないだろうか。 花田清輝に『ものみな歌で終わる』(昭和三九年)という戯曲がある。出雲のおくにが、佐渡の巫女であることから、翻然、京に出て歌舞伎をはじめようとするところでおわるドラマである。これは、歌で終わるどころか、これから新しい歌をはじめようという結末になる。それになぞっていえば、竹山道雄のこの物語は、「ものみな歌ではじまっている」というようにみえる。この章のはじめに引用したとおりである。しかし、敵方のイギリス兵をも感動させたその歌声は、最後に、僧のことばでかき消されてしまう。僧となった水島上等兵は、もう二度と歌うこともないだろう。そんなふうに推測できる。もちろん、「うたう部隊」のころを思い出して、「はにゅうの宿」や「庭の千草」くらいは口ずさむかもしれない。かれは「高尚なむずかしい曲」にひたりこみ、死ぬまで「下らない流行歌」を拒否するだろう。そう考えられる。そうした推測は「ものみな歌でおわる」と、まったく逆だ、といいたいのではない。そうもあるが、『ビルマの竪琴』のこの冒頭の部分からして、じつは、竹山道雄の拒否したはずの啓蒙的姿勢がでていることがいいたいのである。たしかに、他の「うたう部隊」の冒頭に、はしなくもあらわれているように、かれもまた、別の理念の「高尚でむずかしい曲」の(それを含む精神世界の)、啓蒙家だったのである。 しかし私は帰りますまい。私が指命としてあたえられたところのものを果たすまでは、かえりますまい。(中略)あの無数の無名の戦死者達の骨が、私をよんでいます。私が行くのをまています。私はこの呼び声に応じなくてはなりません。 私は僧として修行しながら、知りました。むかしから、この教えは世界と人生についておどろくべく深い思索をつづけています。そして、この教えに献’身’する人々は、しんりをつかむために勇猛心をふるいおこして、あらゆる難航苦行もあえてしています。それは軍隊の勇気にも劣らぬほどです。目に見えぬ精神のとりでを陥れるための戦いなのです。(傍点は筆者) 私はこの異国の僧となって、これからはこの道を行きたい、とねがいます。 これは「第三話・僧の手紙」から任意に抜き出したことばである。「いかなる苦悩・管理・不合理に面しても、なおそれにめげずに、より高き平安を身をもって証しする者たるの力を示せ」とも記されている。受苦寛容・克己捨身の発想である。すべての事柄を、おのれ一人の内部で受けとめ、支え、その重さに対する人間像の提示である。そうした生き方を、「高尚でむずかしい」ものとして想定し、後世の流動する出来事を、「下らない流行歌」として黙殺する発想・・・。こういえば、あまりに深読みしたことになるだろうか。いずれにしても、竹山道雄のこの発想が、いかに異質の理念の提示であるにせよ、そうした道を説く姿勢、あるいは「あり方」は、他の民主主義理念の啓蒙家と変わるところはなかったといえる。もし、かりに、この時期での「思潮」ということを指摘すれば、この求道性、あるいは啓蒙性ということを、あげねばならぬだろう。 今日のこのこうした荒んだ状態から子供達を救うものは、何と言っても指導者の誠実であり情熱である。時代に迎合するというよりは、当面した現実に新しい自己というものを発見して子どもたちと共に新しい日本を建設して行くという誠実がなくてはならぬ。(「子供たちへの責任」昭和二一年) この時期での、小川未明のことばである。このことばにみられる使命感の、なんとまた、水島上等兵の決意に似かよっていることか。情熱。誠実。指命。献身。あげてこの時期の児童文学作品には、それに形を与えようという志向性がある。ただ、『ビルマの竪琴』のように、そうした理念を一人の人間に仮託して、理念以上のものを描きだした作品がないだけの話しである。 『ビルマの竪琴』は、物語性があるといわれる。小説的手法・・・という声も聞く(14)。この作品に対して、こうした評価がなされねばならぬほど、この時期の作品は、非物語的であり、非小説的であったということは、覚えておいていいことだろう。要するに、その志の高さに比べて、あまりにもタテマエ主義に忠実でありすぎたということである。いいかえるなら、「新しい時代」の到来という意識だけあって、「新しい文学」は不在であった、ということでもある。『ビルマの竪琴』は、この時期の、形のない、しかし、志の高さを持った児童文学に、志の高さを、形としてあらわしたものである。この時期の児童文学の書き手はすべて、躍動する子供像(人間像)を描こうと志していた。そうした人間像の創造が、イコール、志の高さをあらわすのもであれしかと願っていた。宮本百合子は、そうした創造活動の方向を、「歌声よおこれ」(昭和二〇年)という呼びかけで訴えた。そうした訴えに対し、一つの物語世界として志を述べたのが、「民主主義児童文学」でなく、一リベラリストであったということは皮肉である。しかも、古典的といえば聞こえはいいが、その実、東西の名曲を唯一の価値とする反流行歌的発想、つまりは「保守的」な歌声運動のフォーク・ソングがなかったということが(歌そのものが中興か時代を脱皮していなかったことが)、よりこの作品の「名曲」性を際だたせている。子どももおとなも、タテマエ時代とは言え、この作品の中の兵士のように、空腹であり、さまよい歩いていたに等しいのだ。物語の中の兵士たちは、飢餓時代生き抜くじぶんたちであり、その兵士たちのうたう哀愁にみちた歌声は、じぶんたちの求める安らぎに形を与えたものであったに違いない。こうした共鳴の仕方は、「戦争を知らない子どもたち」に通じる者かどうか・・・。この物語を分析批判する時、この「歌」の問題を軽視することはできないのだろう。「ものみな歌でおわる」からである。 水島上等兵に話しをもどそう。 すでに引用した「僧の手紙」でもわかるように、水島上等兵のビルマ残留には、わが身をすてても、幾百万の霊の鎮魂という決意があった。 それは同時に、人類の未来のために、あるべき生き方を探ろうという行為でもあった。これを「献身」と呼ぶことができるだろう。『八郎』や『三コ』の目指すところと、それは形の違った未来かもしれないが(また『八郎』や『三コ』のあり方と異質の献身の仕方かもしれないが)、「献身」であることには変わりない。少なくとも、自己犠牲の上に立って、他の幸福を願う発想では、同一の思考形態といえるだろう。これは、理念の伝達に急で、文学としての結晶度の低かった他の「民主的」な児童文学にも指摘できることである。「献身」の発想は、すでにここにあって、その多くは、実を結ばなかっただけの話しである。その栄誉を、『ビルマの竪琴』一作にゆずり、多くの作品はその歌声のかげにいっただけである。形象化の点で、文学としての自律性の点で、痛ましい作品となったとはいえ、その志をすて去ったわけではない。「戦後」のこの時点での「献身」の発想は『ビルマの竪琴』とは違った方向で、常に、形の与えられることを待ち望んでいた。それが、「戦後」も二〇数年経って、斉藤隆介の「献身」像を支持し、大いに評価する事につながっていたのではないだろうか。 斉藤隆介が、七〇年代のシンボルとなる要因には、この「過去の発想」があると、わたしは思う。それと同時に、水島上等兵にみられるように、日本の児童文学は、最初から「献身」の発想を持っていたということである。斉藤隆介の出現によって、はじめて成立した児童文学のあり方ではないということである。いうならば、「献身」の系譜こそ、日本の児童文学のメイン・カレントのように考えられていたものではないのか。多くの児童文学史は、児童文学の流れを追う時、この発想に主軸を置き、その他の作品の中に、別のカレントのあることを片手間にしか追求しなかったような気がしてならない。つまり、「献身の系譜」の方は、確かにピックアップしやすいのである。それはどういうことなのか。そのことが次の章の問題になる。 付け足しておきたいのは「戦後」といものの捉え方である。J・Pサルトルが、第二次世界大戦の終結を、つきのように指摘している。 「旗を掲げて祝えと言われていたものの、人々はそうしなかったし、大戦は、無関心と懊悩のなかで終焉を告げた。日毎の生活で変わったところは何一つなかった。ラジオがいくらわんわん言っても、新聞が肉太の大文字でいくら書き立てても、我々を充分に納得させるわけにはゆかなかった。我々としては、できれば、何か奇跡のようなもの、空に何かし’る’し’のようなものでも現れてきて、平和が森羅万象のなかにはっきりと刻み込まれたことを証明してくれてほしかった。 現在の状態は平和というものではない。平和は一つの始まりだ。我々は、今、断末魔のなかに生きている。我々は、戦争と平和とは黒と白、暑さと寒さというように、はっきり区別される二つの違った者だと長いあいだ思ってきた。それは、ほんとうではなかったし、今になって、それが判る。一九三四年から一九三九年にかけて、平和は、戦争が勃発しなくとも終わることがあるということを知った。(中略)この世紀においては、ぼやけた状態が絶えず動いて行って、平和から戦争へと移って行く」(渡辺一夫訳) 「大戦の終末」(一九四五年)の一部である。戦争の終結が、即、平和の到来だという考え方に、はっきり否定の意を示している。この一文は、「戦後」というものを考える場合、きわめて示唆的である。わたしたちの戦後は、このような形で、一度もとらえられなかった。少なくとも、一九四五年の時点で、こうした考え方は出なかった。なしくずしに、タテマエ主義の時代が崩されていき、一九五〇年の時点で、はじめて、それが「あげ底」の平和だったということに気づく。「あげ底」の平和とは、すでに別の形で、戦争への予感、あるいは、戦争の想定の上に成立しているものだったといえる。日本の児童文学のオプティミズムを考える時、こうした状況把握の問題を抜きにすることはできないだろう。 テキストファイル化山口典子 |
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