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昭和二七年、壷井栄の『二十四の瞳』がでる。五〇年代を考える時、この作品を落とすことはできない。少なくとも、この作品には、タテマエ主義の児童文学が描こうとしてきた「理念掲示型」の人間にかわって、ホンネ型の人間像がでてくるからである。 三咲の分校へ通う大石先生は、じぶんを受け入れてくれない小さな村にがっかりしている。 「あーあ。しんぼ、しんぼか。」 腹でも立てているように、さあっと自転車をとばした。しばらくぶりに風をきって走るこころよさが身にしみるようだったが、今日からまた、自転車でかようことを思うと気が重くなった。休み中なんどか話がでて、岬で部屋でも借りようかといってみたが、けっきょくは自転車をつづけることになったのである。自転車も、朝はよいけれど、焼けつくような、暑熱のてりかえす道を、背中に夕陽をうけてもどってくるときのつらさは、ときに呼吸(いき)もとまるかと思うこともある。岬の村は目の前なのに、日がな毎日馬鹿念をいれて、入り海をぐるりとまわってかようことを考えると、くやしくてならない。しかも 自転車は岬の人たちの気にいらないというのだ。 あんちきしょ! おなご先生大石久子は、いやなことはいやだと、はっきり考える。海辺の砂の穴にはまりこみ、アキレス腱を切ったあと、涙ながらに一年生の子どもと別れるが、だからといって、岬の分校にとどまることはない。もし、大石先生が「献身」型の人間なら、そうはならないだろう。校長にすすめられて、本校の訓導となるかわりに、はじめての受持ちの一年生のために、分校にとどまるのではなかろうか。冷たい目で彼女を見る村の人びとに正面切って向かいあい、その情熱や熱意で、じぶんの仕事を理解させるのではなかろうか。これは、砂の落とし穴のことを、許すとか許さないとかいう問題ではない。はじめから、大石先生は、子どものいたずらに腹を立てていない。むしろ、けがのあとに、八キロの道のりを歩いて、大石先生にあいにくる子どもの心情に、この主人公は感動している。ふつうの献身譚なら、その心情にほだされて、その子らのために、分校で骨を埋めるという筋書になるだろう。しかし、大石先生は、そうはしないのである。さっさと、本校の先生になってしまう。 壷井栄のこの作品は、そこのところを(つまり、大石先生が、再び岬の子どもたちとあうまでのところを)、さらりと書き流す。 海の色も、山の姿も、そっくりそのまま昨日につづく今日であった。細長い岬の道を歩いて本校にかよう子どもの群れも、同じ時刻に同じ場所を動いているのだが、よく見ると顔ぶれの幾人かがかわり、そのせいでか、みんなの表情もあたりの木々の新芽のように新鮮なのに気がつく。竹一がいる。ソンキの磯吉もキッチンの徳田吉次もいる。マスノや早苗もあとからきている。この新しい顔ぶれによって、物語のはじめから、四年の年月が流れさったことを知らねばならない。四年。その四年間に「一億同胞」のなかの彼らの生活は、彼らの村の山の姿や、海の色と同じように、昨日につづく今日であったろうか。 さらりと書き流す……というのは、右にあげたように、本校通いをはじめる子どもたちと、その四年前の出来事を、ひととびに説明文で接続することである。年月の経過を、このように「語る」ことによって、一年生の子どもと、その四年後の子どもの姿が、ストレートに接続しているような錯覚をさえ、読者に抱かせる。その間、大石先生は、どんなふうに生きていたか。子どもたちも、どんな暮らしをしていたか。そこのところは、エピソード風の回想でしか触れられていない。それが、作品としての価値を弱めているかどうか、その点は問わないとしても、そうした形で描かれる大石先生が、一つ、また一つ、何事かをなしとげ、つみあげていく人間像ではないことを示しているだろう。 物語が、本校の方に移り、警察にひっぱられる社会主義者(らしい)の先生の話と、修学旅行の話がでてくる。二つながら、大石先生の生き方に衝撃を与えるのだが、大石先生は、そこでも、けっして強くも偉くもない。教師であることに賭ける女性であるよりも、ふつうの人間として描かれる。 「なんでお母さんは、わたしを教師なんぞにならしたの、ほんとに。」 「……とにかくわたし、先生はもういやですからね。」 そういって、学校をやめていく。ここには、戦前・戦中という狭い枠組みもある。それが、大石先生を教師として自立させないともいえる。しかし、描き方によっては、時代や状況の強圧に耐える教師として、また、その強圧に苦悩して、なおかつ道を探る人間となるところを、壷井栄は、そうは描かなかった。この人間の描き方は、ふつうの人間の、まずふつうのあり方を中心にすえる発想である。この点を、タテマエ型の人間像とは違って、ホンネ型と呼ぶのである。 さらに、『二十四の瞳』を、『ビルマの竪琴』から引きはなしているのは、戦争との関わり方である。水島上等兵に集約される「戦後」の発想は、おしなべて、「崇高な理念」を中心にして物語を組み立てようとした。それをひとまず「啓蒙的発想、あるいは姿勢」と名づけたが、平たくいえば、子どもに向かって、おとなが、上から下へ道を説く発想である。壷井栄のこの作品は、そうした一時期の発想に対して、下から横へ道を説く発想がある。大石先生は、特定の理念の啓蒙家ではなく、子どもと共に時代の中を流される悲しみを体現している。 「なああ大吉。お母さんはやっぱり大吉をただの人間になってもらいたいと思うな。名誉の戦死なんて、一軒にひとりでたくさんじゃないか。死んだら、もとも子もありゃしないもん。お母さんが一生けんめい育ててきたのに、大吉ァそない戦死したいの。お母さんが毎日泣きの涙でくらしてもえいの?」 大石先生の夫の、戦死の公報がやがてはいる。 その「戦死」の二字を浮かした細長く小さな門標は、やがて大吉の家へもとどけられた。小さな二本の釘といっしょに状袋に入れてあるのを手のひらにあけて、しばらくながめていた母は、そのまま状袋にもどして、火鉢の引出しにしまった。 「こんなもの、門にぶちつけて、なんのまじないになる。あほらしい。」 大石先生は、「怒ったような顔をしてつぶやき、しょきしょきと米を搗きはじめた」と、壷井栄は書く。日本の敗戦、即、民主主義時代、あるいは、平和の到来という発想も否定される。 かつての名誉の門標は家々の門から、いっせいに姿を消し、ふたたび行方不明になった。それで戦争の責任をのがれでもしたかのように。 同じようにそれのなくなった家で、思いがけなく大吉は、妹の八津のとつぜんの死をむかえねばならなかった。(中略)急性腸カタルだった。家のものにだまって、八津は青い柿の実をたべたのである。もうひと月もすればうれるのに、渋くはないということで八津はそれを食べたのである。いっしょに食べた子もあるのに、八津だけが命をうばわれた。 戦争はすんでいるけれど、八津はやっぱり戦争で殺されたのだ。 大石先生の、この子どもの死は、もちろん、つぎのような状況が継続していることを知らなければ理解できないだろう。 ――航空兵になったら、ぜんざいが腹いっぱいに食える。 かわいそうに、年端もいかぬ少年の心を、腹いっぱいのぜんざいでとらえ、航空兵をこころざした貧しい家の少年もいた。 絶対的な飢餓状況がそこにある。戦争時代と戦後とを区分する国家の変動にもかかわらず、その飢餓状況は、その境界線をこえて、一九四五年前後にひろがっている。 大石先生は、そうした状況の中で、やがてまた、岬の分校に赴任していく。 「一八年という歳月を昨日のことのように思い、昨日につづく今日のような錯覚にさえとらわれた」 『二十四の瞳』のあら筋が目的なのではない。こうした壷井栄の人間の描き方の意味を考えているのである。 水島上等兵に集約されるような「戦後」の発想に対して『二十四の瞳』は、大石先生を通して、一つの反措定を示してきた、ということである。輝かしい民主主義……そんなタテマエだけで、人は蘇生するものではない。また、人の死はつぐなえるものではない。そうした発想がある。水島上等兵が背負った「戦争責任」を、大石先生は背負わない。背負わねばならぬのは大石先生をそんな泣き虫先生にし、また水島上等兵をそうした自責の立場にまで追いこんだ日本の国家体制である。大石先生は、はっきりそのことをことばでいわないが、泣くことによって、そうだと告げている。本多勝一は、そうした立場を思想化して、『殺される側の論理』(昭和四六年)と名づけた。それにならっていえば、大石先生の世界は、「殺される側の心情」に形を与えたものだ、といえよう。その心情の中には、「うらみ」「つらみ」が、いっぱいつまっている。どうして『ビルマの竪琴』の水島上等兵のように、それをわが身をすてるという形で解決しようとしたり、国家責任まで引き受けたりすることができるだろう。水島上等兵の「献身」の発想には、じぶんが「殺される側」であることを抹消する姿勢がある。この点で、大石先生は、「反献身」の発想を体現しているように見える。 確かに、大石先生は、水島上等兵ではない。水島上等兵のよって立つ思想に対立している。その一つの批判である、ともいえる。しかし、方向や目的こそ違え、大石先生もまた、「献身」的人間ではないのだろうか。 「四十じゃあね。現職にいても老朽でやめてもらうところじゃないか。」 首をかしげる校長へ、再三頼んで、ようやく、岬ならばということで話がきまった。しかもそれは大石先生のもっている教員としての資格でではなく、校長いちぞんで採決できる助教であった。臨時教師なのだ。かわりがあれば、いつやめさせられるかもしれないのだ。早苗は、気のどくさにしおれて、それを報告した。だが、大石先生の目は、異様にかがやいたのである。 「岬なら、願ったり、かなったりよ。まえの借りがあるから。」 条件の悪さなど気にもかけず、心の底からつきあげてくるような笑顔をした。 そのとき大石先生の心には、忘れていた記憶が、いまひらく花のような新鮮さでよみがえっていたのだ。 せんせえ またおいでェ…… 足がなおったら、またおいでェ…… やくそく したぞォ…… 夫・子ども・母をなくし、大石先生が、戦後の生活を組み立てるため、再度、分校へつとめようとする個所である。悪条件にかかわらず、大石先生を岬の分校へおもむかせるのは、はじめて持った一年生の、遠い日の呼び声である。大石先生は、それに応えようとする。つきあげてくる涙がある。こうした人間のあり方は、使命感に裏づけられているのではなかろうか。老骨にムチ打って……というには若すぎる主人公だが、少なくとも、生活の糧のためだけではない何か別の衝動が、ここにはある。 もちろん、これをそのまま、「献身」の発想というのではない。それも含まれるが、そうしたものを含む物語全体のあり方を、わたしは考えているのである。 この作品は、岬の分校で、十二人の一年生の瞳をみつめ、どうしてこの瞳をにごしてよいものか……と、大石先生が考えるところからはじまる。いろいろな出来事があって、時代は移り変わり、再び、大石先生は、岬の分校にもどる。そこで、大石先生は、かつての一年生たちに囲まれ、悲しみを内にこめて、思い出話にふける。つまり、一貫して、この主人公は、十二人の人間のことを考えているのである。そんなふうに、子どもの生長を見守る教師として、大石先生は描かれる。十二人の子どものために、命を投げうつことはないとしても、その子どもたちの心の支えとして大石先生が描かれることは、これもまた、「献身」の発想といえないだろうか。 この物語は、一人の女性を、そうした子どもへの愛を抱く教師として描きだしている。表現の仕方こそ違え一種の「献身」物語といえるだろう。自己犠牲の度合や形態は(また、その方向性や目的は)それぞれ異質であるとしても、『ビルマの竪琴』を否定するはずの作品の中に、同根の発想があるわけである。「献身の系譜」という考え方は、この点からきている。読者である子どもは、おとなであるわたしたちともども、ここで、じぶんたちの世界の可能性を発見するのではなく、じぶんたちの世界の中の、避けがたい苦悩と、それに向きあう人間を発見するのだ。それは、児童文学の「楽しさ」ではなく、児童文学の指向する「価値観」といってもいい。 それにしても、水島上等兵や大石先生のあり方だけが「戦争」を語るものだったのか。一九六〇年代をふりかえる時、多数の「戦争児童文学」と呼ばれる作品のあることに気づく。そこには、『二十四の瞳』で考えたような、献身的発想はあるのだろうか。それとも、異質の発想があるのだろうか。わたしは、六〇年代において、「献身」の発想に対する、「楽しさ」の発想を考えたいのだが、それには、まだ、いくつかの曲り角をまがらなければならぬようである。 五〇年代の作品は、『二十四の瞳』に集約されるのではない。たとえば、与田準一の『五十一番めのザボン』(昭和二六年)や、国分一太郎の『鉄の町の少年』(昭和二九年)、あるいは、石森延男の『コタンの口笛』(昭和三二年)を検討する必要があるだろう。それだけではなく、五〇年代末期、一九五九年に、佐藤暁の『だれも知らない小さな国』と、いぬいとみこの『木かげの家の小人たち』が出版された。少しさかのぼって考えれば、大石真の『風信器』(昭和二八年)は、観念の形象化で行きづまっていたこの時期の短編に、子どもの躍動する姿をさわやかにとらえ、一つの新しい道を開いたとさえいえる。いぬいとみこが、『ながいながいペンギンの話』(昭和三二年)をだしたのもこの時期である(「象徴童話の疑い」「近代童話の崩壊」ともに、昭和二九年)。 五〇年代中期は、児童文学同人誌の運動が盛んになったことは、児童文学史一般の記すとおりである。その意味でいえば、五〇年代は、低迷をきわめる児童文学の世界で、つぎの時代の幕あけを待つ、新しいエネルギーの蓄積・準備の時期だった、ともいえる。そのシンボルのように、一九五三年の「少年文学の旗の下に」という早大童話会の宣言がある。これについては、その功罪を、別の章で考える必要があるだろう。 テキストファイル化大塚菜生 |
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