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 ファビアンは、コピー・ライターである。ケルンの大寺院と肩を並べるようにして写された一本の煙草に、次のようなキャッチ・フレーズを考える。
   すべてにまさる
   かくも巨大な
   塔のごとき
   足もとにもおよばぬ
   (シガレット……)

 虚像のむなしさを知っているファビアンが、虚像の作成に従事している冒頭からして皮肉である。
   ……楽天家は絶望するでしょう。ぼくのような厭世家は平気です。ぼくは自殺する気にはなりませんね。なぜって、ぼくには功名心というものがまるでないんですからね。功名心なんてものは、壁に頭をぶつけるようなもので、しまいには頭が負けるに決っていますからね。ぼくは、むしろ、じっと眺めて待っているんです。礼儀というものが、世の中で勝利を得るまで待っているんです。それからはじめて、自分を世の中に提供しようと思っているんです。
 ファビアンは、コルネリアに語る。礼儀を失った世界に対しては、観察と「待つ」ことしかない……と。観察されるのは、もちろん、混乱のワイマール共和国の人間の動きである。帝政復活を意図する右派政治家。軍部の策動。労働争議。共産党とナチズムの進出。ヌード・サロン。衝動的快楽主義。失業苦。貧困……。「眺めて待つ」姿勢には、禁煙先生のおもかげがある。禁煙先生以上に、孤高のモラルの息づきを感じる。
 しかし、なぜファビアンは待っているだけなのだろう。人間の人間らしさ、世界の人間らしさの恢復を望むなら、どうして、敗戦後の混沌と頽廃にむかって行動を起こさないのか……。プロレタリアンの親友ラプウデは、問いかける。ラプウデは恵まれた自分の階級を罪悪視し、プロレタリア運動に接近をはかっている青年である。ファビアンは言う。
   ……(じっと眺めていることが)なんの助けになるって言うのか。きみは権力を欲しがっているんだ。きみは、小市民を集めて、指導しようと思っているのだ。それが、きみの夢なんだ。きみは、資本をコントロールして、プロレタリアに市民権を与えようというのだ。そうして、まるで天国のような文化国家をつくりあげようと言うんだ。しかしね、きみ。そういう天国へ行ったからって、かれらはやっぱり横っつらをなぐりあうんだよ。こんなことは結局、ぼくの食うそうで、できっこないことだが、とにかく、ぼくにだって、一つの目的がないことはないんだ。もっとも、そいつは、残念ながら目的じゃないがね。ぼくは、人間をまじめに、理性的にしたいと、思っているんだ。それで、今のところ、ぼくは、人間に、どこまでその資格があるか、研究中なんだよ。
 ファビアンは、直接的な政治行動の限界を先取りする。経済的解放と、人間性恢復とは、異質の次元の問題であると言い切る。階級闘争のプログラムから、人間個々の救済は生まれえないと考える。政治的、経済的要求よりも、道徳的な、あまりにも道徳的な要求が先行する。このモラリストの姿勢は、もちろん、経済的要求、政治的要求を排除して成立するものではない。夜の街頭で、ピストルでわたりあい、共に傷ついたコミュニストとファシスト……。その時、ファビアンの語ることばは、こうだ。
   ……プロレタリアは一つの利益団体だ。いちばん大きな利益団体だ。きみたちが、きみたちの権利を要求するのは、これはきみたちの義務だ。それに、ぼくは、きみたちの味方だ。なぜなら、ぼくらは同一の敵を持っているんだから。ぼくは正しいことが好きだ。たとえ、きみたちの方で何と言おうと、ぼくは、きみたちの味方だ。だが、しかしだ。たとえ、きみたちが天下を握るようになっても、人類の理想は、依然として実現されやしないんだぜ。ぼくらは、いまだ、それほど善良でもなければ、聡明でもないんだ。だがそれは、貧乏のせいばかりじゃないんだ。
 現実変革のイメージから欠落する部分を、ファビアンは見ている。現実変革の主体となる人間の、衝動性、政治的配慮、党派意識を、ファビアンは見ている。現実変革のイメージの一面性に対して、二重構造のイメージを、ファビアンは投げかける。政治的・経済的変革と、人間の内面的変革という……。しかし、「礼儀ある世界」とは、人間が理性的でなければならぬ、善良で、聡明でなければならぬ……と言うことにより、ファビアンにおける「変革」の主題は、個人のあり方に限定されて行く。内面的な価値意識を、現実変革の思想より優先させてしまう。ファビアンのイメージの中では、並存しているはずの変革の二面性が、現実世界の政治的動向を眺めているうちに、分化し、一方をえらぶようになる。世の中の人間が、ファビアンのイメージの中にある一方の道を進むなら、せめて自分だけは、自分の望むところの人間らしい生き方をしよう……という選択を生む。
 モラリストである点は、ここにある。政治的・経済的な当面の課題よりも、自己の信条を選択した時、ファビアンは、孤高のモラリストの道を歩みだしたのである。その生き方が、現実世界に対して、どれほどの意味と役割を持っているのか。ケストナーは、問いつめていく。
(目に見えぬ価値にみずからのすべてをゆだねるものは、目に見えるもののシッペガエシを受けねばならぬ。)
 ファビアンにふりかかる第一のシッペガエシは、失業である。会社の経営不振が、ファビアンか同僚か、二人のうち一人の退職を必要とする。ファビアンは職を失いたくない。同僚も職を失いたくない。この場合、弱肉強食の論理をふりかざせるものは幸いなるかな……である。残念ながら、ファビアンは、競争社会の競争の論理を否定するモラリストである。人間の礼儀正しさ、理性的であることを標榜するモラリストである。同僚には家族がある。自分には養うべきわが身しかない。となれば、同僚のその家族を失業苦から救いだすのは、自分の失職以外に方法はない。
 ファビアンは失業する。
 過酷な現実の力は、ファビアンの大切にする人間の内面的価値を、ここで軽く一蹴するのだ。望まずして失職者に転落したのではない。モラリストであることを選んだ時、すでに現実生活からの失墜は避けられなかったのだ。
 ファビアンは、これを受け入れる。これは、まだいい。しかし、失業者ファビアンに打ちかかる第二のシッペガエシは、もっと強烈である。
         *
 失恋……とは言え、ファビアンの場合、ただの胸の痛みではすまされない問題である。
 ファビアンには、コルネリアという恋人がいる。おたがい貧しい都会生活の中で見つけだした小さな灯りだ。コルネリアは、ファビアンを愛している。それには間違いない。間違いないにもかかわらず、ある朝、突然コルネリアはファビアンをすてさる。コルネリア出奔の理由は、百マークの金である。精神的価値を大切にするファビアンにとって皮肉なことに、百マークという市場価値なのである。コルネリアは、百マークの金で、新しい生活設計をたてている、しかし、失職宙のファビアンには、百マークの金はない。そこで、コルネリアは、心ならずも五十男に身をまかせて、その金を入手する……。
 ファビアンを打ちのめすものは、コルネリアの出奔だけではない。コルネリアを売春行為にまで踏み切らせた自分の価値観の無力さ。百マークの値打ちにさえも及ばなかった自分の愛と善意の無力さである。それは、コルネリアを救えなかっただけではなく、ファビアン自身をも救えないのだ。失意のファビアンは眠れない。平静な気持ちを保てない。にがい思いを噛みしめて、ファビアンは酒を呑み、いかがわしい女の家にころがりこむ。
         *
 第三のシッペガエシは、親友ラプウデの自殺だ。ラプウデは、レッシング研究の論文が却下されたことと(これは間違いだった……と、死後、わかるのだが)、恋人の背信行為によって死をえらぶ。ラプウデは、傷つきやすい心の持ち主である。感じやすい青年である。だから、思想的立場は異なっているが、ファビアンの親友でありえたのだ。そのラプウデが、ファビアンに何一つ打ちあけることなくピストルの引き金をひいたということ。これはファビアンを苦しめる。ラプウデは死を予告しないことで(……また、死を決意するに先立って、ファビアンに苦しみを打ちあけないことで)、ファビアンおよびファビアンの信条を拒否していたことになるからだ。もし、ラプウデが、死に先立って、ファビアンに相談を持ちかけていたなら、ファビアンおよびその信条は救われただろう。相談を持ちかけられるということは、人間の内面的価値を重視するファビアンを信頼するということだから……。しかし、ラプウデは、ファビアンへの告白を拒否することによって、ファビアンの信条への間接的な不信を表明したことになる。ファビアンのモラルはコルネリアの場合同様、ラプウデにも無力であった……ということになる。
 ラプウデを救いえなかったファビアンは、ベルリンを去る。傷ついたモラリストは、なつかしいふるさとの町で、第四の、決定的なシッペガエシを受けるのだ。
   ……ファビアンは橋の上を通りかかった。突然、一人の少年が、石の欄干の上で綱わたりのまねをしているのを見た。ファビアンは足を早めた。かけだした。とたんに少年はよろめいて、鋭い叫び声をあげてしゃがむと、両手を空に投げかけて、欄干から川の中に墜落した。通りがかりのものが二、三人、叫び声を聞いてふりむいた。ファビアンは、幅の広い欄干の上にからだをかがめてのぞきこんだ。少年の頭と、水をばたばたやる両手とが見えた。ファビアンは、少年を救おうとして、上衣をとり、続いて飛びこんだ。電車が二台とまった。乗客は飛びおりると、何事がおこったのかと眺めた。岸には興奮した人びとが、往きつもどりつしてかけまわっていた。少年は、おいおい泣きながら岸へ泳ぎついた。ファビアンは溺死した。あいにくとかれは、泳ぐことができなかったのだ。
 ファビアンの溺死……この小説もまた、ここで終わっている。反俗孤高のモラリストの完全な否定で、ケストナーはペンを置く。
 ファビアンは、人間を、すべてに先行する価値あるものと考えた。だから、泳げないことを忘れて水の中へとびこんだ。ひとつの命への尊重心は、水泳技術にたちまさるはずであった。結果は、人間を救うはずのモラリストは、救われざる理想主義者に転化した。
 失業。失恋。親友喪失。生命喪失。この一連の悲劇は、ファビアンの、理想に生きるモラリストであるところから起っている。ファビアンが、人間の内面的価値よりも現実のルールに身をゆだねていたら、別の人生も開けただろう。しかし、ファビアンは、なによりも個人的信条を絶対視するモラリストであった。(テキストファイル化小田ともみ)

 ファビアンの死は、単なる物語の終りではない。ケストナーの内なるモラリストの死を意味する。裁かれたのは、内なる理想主義、裁いたのはケストナーである。だから、この小説には自己批判の匂いがする。ケストナーは、ファビアンを死に追いつめることによって、個人的信条の落ちこみがちな絶対視の立場を否定することによって、おなじ道を歩きかねない自分に、おなじ結末を迎えることのないよう歯止めをかませた。この意味では『ファビアン』は、ケストナーの未来を先取りしている。本を焼かれ、執筆禁止措置を受け、ゲシュタポに連行される一九三三年以降一九四五年までの十二年間の……。およそファビアンのように、自分の信条を絶対視していたなら、絶望と死以外にはなかっただろう。しかし、ファビアンの死が、すでにケストナーの死を代行している。たとえ、ナチズムの横行闊歩がなくっても目に見えぬ価値へよりかかろうとする人間には、いつも現実は、手ひどいシッペガエシをするものなのだ。ケストナーは、その事実を、ファビアンを通して十分検証した。同じ袋小路には落ちこむまい……と考える。
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(……この世に生まれてきたことが、身の不運か。いや、そうではあるまい。「この世に生まれてきたもの」が、「この世に生まれてきた」ほかの人間の中で評価される時にのみ、身の不運という嘆きを洩らす。もし、「この世に生まれてこなかった」と仮定すれば、どうなるだろう。
 一切の自由剥奪……といういやな思いをしなくてもすむ。自分の信条に忠実であろうとして苦しむ必要もない。「あるものは悩みだけ……」というやり切れなさを感じなくてもいい。

 それでは「この世に生まれてこなかった」としても、「たいして損はしてない」ことになるだろう。しかし、「損はしていない」ということは、そのまま「得をしている」ことになるだろうか。そうではないはずだ。「たいして損はしていない」ということは、「すこしは損をしている」ということだ。生まれないということは、プラス・マイナス・ゼロではなくて、じつはマイナスなのだ。
 その点、「この世に生まれてきた」ことは、「さほど得をしていない」だけであって、「損をしている」のではない。「ほんのわずかしか得をしていない」ということだ。それでも、プラス・マイナスから言えばプラスだ。
「これが運命だ」と嘆くにしても、この世に生まれてきたことは決してマイナスではない……。)

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 このまわりくどい計算が、ケストナーを支える。反俗孤高……反現実的モラリズムを、比較計量・観察証言の、対現実的モラリズムに押しすすめる。ファビアンが、自分自身を人生観察の不動の座標にすえたのに比べ(そして敗北していったのに比べ)、ケストナーは、観察者である自分自身をも、流動する観察対象にすえる。
   ……わたしはじぐざぐに入り乱れて走る数百万のアリの中の一匹だった。日記をつけているアリだった。わたしは走りながら見たこと聞いたことをメモした。死んだふりをしながら、希望したこと、恐れたことをメモした。(『一九四五年を忘れるな』まえがき)
 絶対的な座標というものはありえない。高邁な理念は、時代を超えて生き続けるにしても、高邁な理念を受けつぎ持ち運ぶ人間は、流動する時代の規制を受ける。高邁ではあり得ない。「良心もまたかわる。かえられ得る」と、ケストナーは『一九四五年を忘れるな』の中で記している。高邁な理念を信じるものが、高邁でなくなる事実を、自分を実験台に供することによって確認する。人間が可変不節操であることから、逆に、高邁な理念の価値を確認する。亡命をすすめられたケストナーが、「やがてはじまる残虐行為を、この目で見るため国内にとどまる。」と言ったエピソードは、あまりにも有名である。ケストナーが、祖国の証言者の道を選んだことは、高邁なモラルのせいである。しかし、みずからが高邁不動でありうるとは決して考えていなかったはずである。高邁なる信条が、それだけでは存在し得ない以上(人間の行為の中でしか確認されない以上)、だれかがその実験台に立つべきである。それは、高邁な理念を信じるものをおいて、ふさわしい人物はない。とすれば、ケストナー自身が、ドイツにとどまるほかはなかっただろう。
 ファビアンの場合は、望まずして特定の状況の中に投げ出される。ケストナーの場合は、望んで特定の状況を選び取る。トーマス・マンのように、比較的安全な状況も選べたであろうに、苦難の状況を選び取った。高邁なる理念はためされる。ケストナー個人を危険にさらすことによって確認される。
 十二年にわたる自己と国家の相対的観察の中から、ケストナーの引きだしてきた教訓は無数にあるだろう。しかし、『わたしが子どもだったころ』(一九五七)に記された次のことばは、もっとも感動的だ。みずからのモラリズムを批判しつつもモラリストであろうとした一人の作家の、激しい怒りがこもっている。
   ……ほんとにドレースデンはすばらしい都市だった。みなさんは、わたしの言うことを信じてよい。信じなければならないだろう。みなさんは、だれも、たとえ、おとうさんがまた大層な金持ちであっても、わたしの言うことが正しいかどうか、見るために、汽車にのって行くことはできない。なぜなら、ドレースデン市は、もはや存在しないからだ。ドレースデン市は、いくらか残った所をのぞいて、地上から消えてしまったからだ。第二次世界大戦は、たった一夜で、たった一つの手の合図で、この町を消し去ってしまった。あの比類ない美しさを創造するのに数百年かかった。それを地面からすっかり失くしてしまうのには、数時間でこと足りた。それは一九四五年二月十三日の出来事だった。八百機の飛行機が、高性能爆弾と焼夷弾を投下した。そしてあとに残ったのは荒れ野原だった。(中略)
    今日でも、諸大国の政府は、だれがドレースデンを殺したか言い争っている。今日でも、この虚無の中に五万人、あるいは十万人、あるいは二十万人の死人が横たわっているかどうか、言い争っている。そして、だれも、それをしたとは言わない。めいめい、ほかのものにその責任がある、と言う。ああ、言い争いが何になるんだろう。言い争ったところで、ドレースデンを生きかえらせはできない。美しさを、死人を、生きかえらせはしない。将来は政府を罰せよ。人民を罰するな。あとになってはじめて罰するのではなく、即座に罰せよ。それは単純に聞えるけれど、実際はそんなものじゃないって。単純に聞こえる以上に、実際に単純なことだ。

 即座に政府を罰する思想……人民の不節操を責めない思想……これは権力と、人間の弱さを凝視してきたものの発言だ。すでに、ナチズムの悪に対する連合国の悪も糾弾されている。正義の名において対立国の人間を皆殺しすることの犯罪性も……。
 ドレースデンはすばらしい都市だった……というケストナーの口吻は、怒りにふるえている。その怒りは、ケストナーを圧迫したナチズムだけではなく、人類の愚行に向けられていることを忘れてはならないだろう。
 真正のモラリスト……それは怒りを知る人である。(テキストファイル化天川佳代子)