O やぶにらみの魔球

漫画『巨人の星』をめぐって
『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)

           
         
         
         
         
         
         
    

 巨人・大鵬・卵焼き。今もこのことばが通用するのかどうか、ぼくは知らない。
 三題噺のようにもてはやされた時期があるのだから、巨人というのは強いチームにきまっている。名選手がいて、ON砲というのがあって、先日、引退した金田投手がいて、監督がよくって……と、こう書いてくると、いかにも野球ファンみたいだが、じつは、さっぱり野球を知らないのである。知らない……と言うより、まったく興味を持ったことがないのである。だから、卵焼きとおすもうさんとに肩を並べる野球のチームを、「強いのにきまっている」と書いたのだが、これは風聞・また聞き・うろ覚えの程度を出ない。無責任な推定である。
 ボウリングがはやりだした頃、ある小説家が名言(迷言……かもしれない)を吐いたことがある。なんだい、徳利を並べておいてひっくりかえすなんて、あの遊びは……と。わたしの野球観も、おおむねその程度のものなのである。野球の名門校と他称される世界に、二十年近くも住みながら、ただの一度も甲子園球場に行ったことのない事実。これは、野球というものを、棒っ切れによる「まり」の打ちっこ……と考えているぼくの単純無知な野球観による。それと共にゲーム(遊び)であるはずの野球に、いがいに複雑多様な要素が混入していて、ぼくをひどく途まどわせることにも原因があるのだ。ぼくは、「若人の祭典」「単純な闘魂」などと新聞が書き立てる選抜野球の実像……といったものを、多少は知っているつもりである。そのせいかもしれない。
 寺山修司は、キャッチボールの中に、はじめて「民主主義」を実感したというが、どうも、ぼくの空腹な戦後史の中には、そうしたボールの確かな手ごたえはない。隣組の代表として、主食がわりの配給の芋を大八軍につみあげ、ただひたすら引っ張っている肺浸潤の自分がいるだけだ。まあ言ってみれば、民主主義とは芋から来た。完全な孤立意識である。どこで、どうくたばろうとも、だれも駆け寄ってはこない。
「しっかりせよ」とも、「めめしいぞ」ともいわない。仲間といっしょに、歩兵銃をかついで走らなくてもいいこと。同じ歌、同じ釜のめし、同じ死に方とおさらばをした……と言えば聞こえはいいが、早く言えば、連帯性の欠落。それが、ぼくの「戦後民主主義」第一歩だった。
 ストライクやボールを、「いいたま」「わるいたま」と言い直してまでも、一個のボールを中心に生き甲斐を感じる世代があったらしいが、戦争っ子であるぼくは、当時、一個のボールの行方よりも、一国の運命に一喜一憂する、ややだらしない愛国少年であった。
 ぼくの単純無知な現在の野球観は、どうも、そのあたりと関係がある。はっきりとは言い切れないが、血まなこになるには、ボールの行方は知れきっている……という気持ちがある。アルプス・スタンド。草むらの中。捕手のミット。ボールは転々と守備についた人間の革手袋の中を移動するだけなのである。
 先日、旧制高校の寮歌祭の模様をテレビでみたが、太鼓を乱打し、朴歯の下駄を踏み鳴らして老声をはりあげるその姿に、選抜野球の応援団の姿を思い出した。人はなぜ帰属集団のため夢中になれるのだろうか。また、夢中になるのだろうか。あきらかに「全体」か「個人」か……という価値観の転換点として「敗戦」が介在したのに、今また個人が集団に追従している。かつて、国家が果たした忠誠の要求を、細分化した形で特定の多くの集団が受けもっている。そう思う。人は特定集団に帰属することによって、はじめて自己を確認するのだろうか。生き甲斐を発見するのだろうか。ぼくは「母校の栄誉のため」とか「愛校心の発露として」強制される野球応援を前にして、いつも途まどいを感じてしまう。栄光の陰に涙あり……という美辞麗句を見ると、その涙は、ハード・トレーニングのそれよりも、芋と共に実感した「戦後民主主義」が、たあいもなくこそぎとられていくこところから流れだす。
 そんなぼくが、「巨人・大鵬・卵焼き」など、おくればせながら口にしたのは他でもない。マンガ『巨人の星』13巻を、二日がかりで読み切ったからだ。そして、柄にもなく、野球知らずの野球マンガ論を書こうと思ったからだ。子どもは言うまでもなく、ぼくが出講している女子大学の四回生に「今まで呼んだ子どもの本の中で、いちばんおもしろかったものを一冊……」と、アンケートを取った時も、『巨人の星』『巨人の星』『巨人の星』と、『巨人の星』は他を圧して一位となった。偉大なるかな巨人の星……である。いったい、『巨人の星』は、なぜ幅広い読者層にアピールしたのか。ぼくもまた、大リーグ・ボール二号をあみ出した星飛雄馬が、いよいよ、父一徹のコーチするオズマとの大戦という箇所の「つづく」という文字を前にして、思わず次を期待した一人だ。この期待感はどこからくるのか。野球知らずの野球ぎらいを引きつけるもの。それは、次のように考えられるのだ。


 ピッチャー・星飛雄馬の投げるボールが、突然、バッター・ボックスの打者の前で消える。一瞬後、ボールはふたたび姿をあらわして捕手のミットに入っている。打者は、陶然バットを振りおくれる。ボールが消えるという発想。なによりも、一個のボールが、こつぜんとして消えるというふしぎさに、ぼくらは驚くのだ。集団催眠か、ボールに仕掛けがあるのかと、川上監督をはじめ、ジャイアンツの選手連がひらべてみる。もちろん仕掛けなどありはしない。集団催眠でもない。ヒーローの相棒、伴宙太が「消える魔球」の秘密を知っていて、川上監督に耳打ちをし、ウウムとうなるわけだが、『巨人の星』13巻のはじめでは、読者は、その種あかしを知らされないことになっている。
 大リーグ・ボール二号「消える魔球」の秘密は何か。これを知りたいという期待感。それと並行して、この魔球の秘密を見抜き、いかにして黒人強打者オズマと星一徹コーチが、飛雄馬に対決するか。つまり、術と術のかけあわせ。何の変哲もない一個の球体(物)を、あたかも忍者マンガの忍法のように突拍子もない空想の中に投げ込み、「さあ、どうだ。わかるかね……。」と、謎解きをせまる点に一つの魅力があるのだ。『巨人の星』第一巻の冒頭に「魔送球」というのが出た。大リーグ・ボール養成ギプスと、花形満のノックアウト打法が用意されていた。人間が野球の常識を超えて、ボールとバットを剣や手裏剣のように駆使すること。野球好きの子どもなら、だれしも、ふと空想する不可能な事柄への願望。それを梶原一騎が、具体的な形で持ち出してきた点に『巨人の星』の成功の一端はある。
 熊本農林高校の左門豊作の、事もなげなバットの使用。場外飛球を無雑作に打ちかえすその技。星飛雄馬の大リーグ・ボール第一号の完成。その完成のための特訓。さらには、阪神タイガースに入団した花形の、大リーグ・ボール第一号を打破するための特訓。半身の秘密兵器X選手の出現。オズマの垂直バット落下法との対決。つぎつぎと繰りだされる意表をつく「秘術」に読者はひきずられる。
 これを忍者マンガ、あるいは、007シリーズの小道具主義とパラレルに受け取ることはやさしい。しかし、忍法の特殊性……忍びの者だけに継承される門外不出の秘伝的性格、ジェームズ・ボンドにおける特殊兵器……これはテレビの『スパイ大作戦』における、諸道具の特殊性にもつながるものだが……そうした限定された人間の、さらに限定された道具使用に反して、『巨人の星』は、だれもが使用している道具、まただれもが知っている「投げる」「打つ」という行為を、そのまま秘術・特殊兵器化した点に、人気の秘密はあるのだ。
 実像と虚像。言ってみれば、実際の球団が、実際の球場で、結う名選手を繰りだしてペナントレースを展開していること。この事実を巧みに虚構の世界に移しかえる……というのではなくして、『巨人の星』は、虚構の世界に野球の実像をひきずりこんだことも、一つの魅力になっているのだろう。何がセントラルで、どれがパシフィックか、まるで興味のないぼくだって、王や長島や金田の名前くらいは知っている。ただし川上という監督がジャイアンツだとは、このマンガではじめて知ったのだが、そのスター級の選手が、ヒーローと立ちまざって、物語の展開に色をそえる構成。これも、野球ファンならだれしも知っている人物を、そのままマンガの中のバイプレイヤーにしたてたことになる。虚実入り乱れての……という所まではいかぬとしても、『巨人の星』にょって、ぼくは、虚像に手玉を取られる実像というものを感じるのだ。
 こう言えば「実名小説」という洗礼を持ちだす人があるかもしれない。しかし、「実名小説」が、良かれ悪しかれ実在の人物を首座にすえるのに反し、『巨人の星』は、実在の人物の徹底的な利用……いうなれば、ヒーロー・星飛雄馬を際立たせるための道具としている点を考えてみればいいだろう。
 いかにも物知り顔の選手や監督の描写。時には、野球の神様然とした言動。こうしたものが、星飛雄馬の野球開眼の大きな転機をつくっているように見えながら、その実は、架空の名投手を定着するための大道具あるいは小道具だったということだ。
 野球ファンは、この道具立てで、二重に楽しんでいるかのように思える。実際の球団の活躍と、それが架空の世界で活躍することのおもしろさだ。ぼくには全く解らないことだが、日本シリーズにおける実戦の記録が頭にあって、そこへ今一つの架空の日本シリーズが加わってくるおもしろさ。これは、ひろげた言い方をするならば、野球そのものを一切合切、道具化したおもしろさだろう。空飛ぶ自動車とか、分身の術とか、さまざまな道具立てで、観客読者をひきずってきた視覚的娯楽が、あくまで特殊な小道具主義に活路を求めていた時、『巨人の星』は、普遍的にして周知の事実を大道具化したわけだ。
 柔道マンガ。プロレス・マンガ。ボクシング・マンガ。と、現在のマンガは、『巨人の星』の大道具主義を踏襲しようとしている。
 しかし、それらのスポーツは、野球ほども普遍化し、一般化していない。実際に、自分でやれる可能性……いや、子どもの日常生活の中に溶け込むには、それらはまだ、「何々ごっこ」の段階にとどまっているのだ。同工異曲……ならまだしも、「所かわって品かわらず」の果てに、些末な小道具主義、特殊な秘密兵器主義に退行しないとも限らない。 星飛雄馬は、野球という大道具を使って強烈な個性を主張した。スポーツ・マンガが、『巨人の星』をしのぐには、まずヒーローのあり方に挑戦する以外にはない。そのためには、ヒーロー・飛雄馬の主張する生き方を考えねばならぬだろう。
テキストファイル化高橋裕子

           
         
         
         
         
         
         
    

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