子ども観の歴史を越えて
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昔から、子どもは未だ成人せざるものとして、また無知蒙昧なるものとして蔑視され、煮て食おうと焼いて食おうと勝手次第の親たちに殺生与奪の権を握られた愛玩用家畜同然の存在でしかなかった……と言ったら、当然相当の異議申立てがあるだろう。と言うのは一般的には、これと真向から対立する形で、〈昔から、子どもは純真無垢な魂の持ち主である故に、誰からも愛され、親もまた、子を思う心の深さ尊さ故に讃えられてきた〉と信じられているからである。
いずれが問題の本質を衝いているかはともかくとして、いずれもおとなの側からの発言である故に、おとなはおとな社会の一般の建前としての後者に傾くのも当然と思われる。確かに後者の所論に資するであろうと思われる古い文芸作品も少なくはない。
遊びをせんとや生まれけむ、
戯れせんとや生まれけん、
遊ぶ子どもの声聞けば、
我が身さへこそ動がるれ、
改めて説明するまでもないと思うが、これは源平合戦はなやかなりしころ、後白河院によって、それまでに広く一般に流布していた今様歌謡等を集めて編集された『梁塵秘抄』巻二の四句神歌・雑に収められたもののひとつである。
これについて最近読んだ月刊幼児教育雑誌の中の一文が、やはりこの歌を冒頭に引いて、
遊び戯れながら育ってゆく子らによせる限りない愛と期待、無情の世を生きる親の、子の将来に対する不安と希望、その微妙なゆれ動きが「我が身さへこそ動がるれ」という、結びの言葉に集約されています。/子どもたちの心や体が、無心の遊びの中でより美しくたくましく育って行くことを願う、いつの世にも変らぬ親心といえましょう。
と、かなり調子よく、まさに後者の所論を代表するように親心を讃えていた。ところが、ここに歌われている「我が身」とは、「遊び戯れ」ている子どもたちとは何の関係もない、遊女なのである。つまり「遊び戯れるためにこそ生まれてきたものであろうか」という子ども観が、その子どもの声で罪障に汚れはてて済度し難いとされる遊女の心までおさえ難くさせるというのである。「声」に象徴される童心世界への思い入れ、もしくは憧憬が浄化作用をもたらすという、かなり宗教的な色合いを含むもので、この歌の校正をなす主体と客体の対比のうちには、罪障に汚れたものと純真無垢なものというパターンがあり、子どもは純真無垢なものとしている。これとても、果して純真無垢なものかどうか……。意地悪な観方をすれば、「遊び戯れる」内容はわかっていない。ことによると、餓鬼どもはひきがえるをたたき殺して遊んでいたかも知れないのである。逆に言えば、子ども期から離脱してからの時の流れの無常観へのモチーフとしての「声」への思い入れである。ということになれば「いつの世にも変らぬ親心といえましょう」というのは見当違いだし、ちょっと困惑せざるを得ない。
ところで、この「子どもは純真無垢」であるという一般概念は、それによって、子どもの社会的位置や人間性を保証するものではなかった。純真無垢であるなしにかかわらず、その社会人格は一切認められていなかった。確かに子どもはその親たちから、自然の情として、感性的な部分での愛は受けていた。年代的には『梁塵秘抄』より、ずっとさかのぼるが、親の愛の典型として『萬葉集』に我子を思う山上憶良の歌がよく知られている。
――子等を思う歌一首 序を幵せたり
釈迦如来い、金口に正に説きたまはく、等しく衆生を思うこと、羅?羅の如しとのたまえり。又説きたまはく、愛は子に過ぎたりといふこと無しとのたまへり。至極の大聖すら尚し子を愛しぶる心あり。況むや世間の蒼生の誰かは子を愛しびずあらめや。
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ 何處より 来たりしものそ 眼交に もとな 懸りて安眠し寝さぬ
反歌
銀も金も玉も何せむに勝れる宝 子に及かめやも
憶良は「至極の大聖釈迦如来ですらわが子羅?羅を愛したのであるから、まして世間一般に言うに及ばずであろう」と深く思い入れ、肉親の情を理屈抜きに吐露し、「銀や金や玉」などの財宝との経済的交換価値の対比を越えて、絶対不等価を附して形容することで、その愛の深さ、執着の強さを謳いあげてはいる。しかし、この憶良の祈りにも似た深い思い入れにもかかわらず、子どもは親の愛を得て宝となる存在、言い替えれば親の所有に属するが故の宝でしかなく、それは、家・家族の枠を越えて社会的な拡がりをもつものではなかった。
親はいつでも必用とあれば、子どもの意思を斟酌することなく、子どもを経済的交換価値の対比に晒すことができた。全ての親たちが憶良と同じではないのだ。また、親たちが農奴として所有されておれば、子どもは二重に所有されることとなり、その場合、所有者の意志の前には親の権威さえ無視された。それは愛玩用家畜に対する飼い主の絶対性にも似ていた。
確かに子どもはいつまでも惨めな子どもではなく、年齢とともに肉体的に情緒的に子ども期から離脱することになる。だが、子ども期から離脱することはできても、階級社会の矛盾からも離脱できるわけでなく、むしろ、意識された桎梏は逆に子ども期を憧憬させるほどに苛酷なものであったから、子どもの位置は依然として社会構造の最低線のところから一歩も浮上するものではなかった。
こうした子どもの状況は、その後の封建制の確立した武家社会でも例外ではなかった。嫡出の男子の長子のみがそれに見合った待遇を受けたのみで、それすらも血統継承、家督相続者としての位置に対する保護であり、子ども一般に対する処遇ではなかった。しかもそれさえ「間引き」などの嬰児殺しが半ば公然と行なわれ、人買いが横行する農民社会の収奪の上に成立していた。子どもたちは「子は宝」と親に隷属しつつ、運が良ければときに親の愛を恵れつつ、生殺与奪の権を握られながら、そうした社会の片すみに生息しつつ、やがて世代交替によって子どもであることから離脱していった。
2
さて、明治の近代を迎えても、「明治維新」という政変が改革としても不徹底なものであったから、子どもの社会的位置づけをも大きく変えるものではなかった。ただ近代国家の経営にとって教育は将来への維持のための基本事業であり、明治五年(一八七二年)八月の学制頒布は、子どもを国家の名において国家の望む方向へ訓練する対象としたのである。明治一二年(一八七九年)夏の『教学大旨』及び『小学条目二件』はその体質を端的に示している。
教学大旨
教学ノ要仁義忠孝ヲ明カニシテ智識才芸ヲ究メ以テ人道ヲ盡スハ我祖訓国典ノ大旨上下一般ノ教トスル所ナリ然ルニ輓近専ラ智識才芸ノミヲ尚トヒ文明開化ノ未ニ馳セ品行ヲ破リ風俗ヲ傷フ者少ナカラス然ル所以ノ者ハ維新ノ始首トシテ陋習ヲ破リ智識ヲ世界ニ広ムルノ卓見ヲ以テ一時西洋ノ所長ヲ取リ日新ノ効ヲ奏スト雖トモ其流弊仁義忠孝ヲ後ニシ徒ニ洋風是競フニ於テハ将来ノ恐ルル所終ニ君臣父子ノ大義ヲ知ラサルニ至ランモ測ル可カラス是我邦教学ノ本意ニ非サル也故ニ自今以往祖宗ノ訓典ニ基ツキ専ラ仁義忠孝ヲ明カニシ道徳ノ学ハ孔子ヲ主トシテ人々誠実品行ヲ尚トヒ然ル上各科ノ学ハ其才器ニ随テ益々長進シ道徳才芸本末全備シテ大中至正ノ教学天下ニ布満セシメハ我邦独立の精神ニ於テ宇内ニ恥ルコト無カル可シ
小学条目二件
一仁義忠孝ノ心ハ人皆之有リ然トモ其幼少ノ始ニ其脳髄ニ感覚セシメテ培養スルニ非レハ他ノ物事巳ニ耳ニ入リ先入主トナル時ハ後奈何トモ為ス可カラス故ニ当世小学校ニ絵図ノ設ケアルニ準シ古今ノ忠臣義士孝子節婦ノ画像・写真ヲ掲ケ幼年生入校ノ始ニ先ツ此画像ヲ示シ其行事ノ概略ヲ説諭シ忠孝ノ大義ヲ第一ニ脳髄ニ感覚セシメンコトヲ要ス然ル後ニ諸物ノ名状ヲ知ラシムレハ後来忠孝ノ性ニ養成シ博物ノ学ニ於テ本来ヲ誤ルコト無カルヘシ
二去秋各県ノ学校ヲ巡覧シ親シク生徒ノ芸業ヲ験スルニ或ハ農商ノ子弟ニシテ其説ク所多クハ高尚ノ空論ノミ甚キニ至テハ善ク洋語ヲ言フト雖トモ之ヲ邦語ニ訳スルコト能ハス此輩他日業卒リ家ニ帰ルトモ再タヒ本業ニ就キ難ク又高尚ノ空論ニテハ官ト為ルモ無用ナル可シ加之其博聞ニ誇リ長上ヲ侮リ県官ノ妨害トナルモノ少ナカラサルヘシ是皆教学ノ其道ヲ得サルノ弊害ナリ故ニ農商ニハ農商ノ学科ヲ設ケ高尚ニ馳セス実地ニ基ツキ他日学成ル時ハ其本業ニ帰リテ益々其業ヲ盛大ニスルノ教則アランコトヲ欲ス
『教学大旨』は新智識を世界に求めると言いつつ、それに仁義忠孝のタテ系列のたがをはめて、権力に従属せしめるための「徳育」を前面に押し出したことと同時に「文明開化」への幻想を打砕いたのである。『小学条目二件』では、それが更に具体的な形をとり、仁義忠孝は「皆之有」と恰も先天的なもののように押しつけながら、幼少のうちに仁義忠孝を脳髄へしみつかせて培養しなければ手遅れになるというのである。つまり理屈抜きで仁義忠臣をたたきこんでおきさえすれば、科学的合理主義などおそるるに足らずというのである。また後半では身分不相応の学識はほうっておけば「長上ヲ侮リ県官ノ妨害トナルモノ少ナカラサル」故に弊害だときめつけ、分相応の学科を学ばせよといっている。
当初からこの国の教育は、子どもの尊厳を認め、学ぶ権利に見合ったものではなく、国家権力維持のために大衆の隷属を目指す、抑圧・馴致の営為として設定されたのである。こうして親に隷属していた「子宝」は国家に隷属し、天皇の所有する「皇民(おおみたから)」という形になったが、本質的には二重の被所有でしかなかった。「親に孝」という教育の徳目は、子どもが親に隷属していると感覚させ、安堵させた上で、総体的には天皇を家長とする家族国家を幻想させる役割をも果したのである。更にこの教育理念を成文化したのが、明治二三年(一八九〇年)一〇月に渙発された『教育ニ関スル勅語』(通称=教育勅語)である。この教育勅語は渙発以来、敗戦の翌二一年(一九四六年)一〇月文部省通達によって奉読廃止になるまで、半世紀以上もこの忠孝仁義の徳目的訓育主義の教育理念を支えてきた。学校へ通う子どもたちは『小学条目二件』に挙げられた絵図の効果同様に、ことある毎に読み聞かせられて、条件反射的に「脳髄ニ感覚セシメ」られてきたのであった。
日本へ最初にアナキズムを紹介したといわれる久津見蕨村は、その著『家庭教育子どものしつけ』で、こうした徳目の押付けの訓育主義的教育を厳しく批判した。そのなかで蕨村は子どもを、一国家一家族の問題ではなく「人間社会の相続人」として、子どもの権利の保護尊重を提唱し、子どもを「うどん粉」のようにこねて型嵌めする教育を否定し、教育は子どもそれぞれの個性を活かして「人としなければならぬ」目的のためになさるべきだと主張した。当然のこと型嵌めの規範である教育勅語にも批判の目を向けた。「甚だ恐れ多いことではあるが」と建前的に前書きした上で、
△御勅語 は如何にも克く帝国臣民たるものの服膺すべき義務を明示せられたもので、継承すべきものではあるが、子供には能く分かるかどうか、甚だ請合れない。寺の小坊主が口拍子に乗ってダダブダブと経文を読む。それを聞くと誠に傑いと感心する。けれども彼れは唯読むだけだ。何にが書いてあるか一向知らない。小学校で子供が其可愛い口で御勅語を棒読するのは、之と同じ類ではあるまいか。それでは何にもならぬ。如何に尊い教でも
△子供の頭脳 へはいらなければ、何んの役にも立たないばかりではない、徒にそれは覚えるが為に苦労するの害がある。(中略)子供に之を教へると云ふのは、如何にも縁遠いことを以てするのではないか。それも子供に其日常行ふべき事柄を充分に教へて後のことならば、決して悪いことではない、けれども之を棄てて置いて、此高遠辞曲のことを教へてそれで人にしやうと云ふのはどうしても許せぬ事と云はねばならぬ。(『近代日本教育論集第五巻』国土社)
ついで蕨村は注入主義的な徳目主義の教育を排して『何も故ら教へない』開発主義で、子どもの能力に見合った形の教育が考えられるべきであり、それには子どもを知るために逆に子ども世界に学ぶべきであると、当時としては革新的な主張をした。
もちろん教育界には、こうした主張を受け入れるような基盤はなかった。世間一般にも相変らず子ども蔑視の陋習が根強く残っており、子どもの権利を認め尊重し、子どもに学ぶなどということはまだまだ破天荒なことであった。これに加えて、日清・日露両戦役の成果は支配層に富国強兵作を一層推進させ、同時に忠孝徳目教育に自信をもたせることになった。
日本の児童文学の祖といわれる巌谷小波(一八七〇ー一九三三年)によって多くの通俗的訓育童話が世に送り出されたのもこうした社会的背景によるものであった。小波にとっても読者や、聴き手である子どもたちは、彼によって訓育的徳目に色揚げされた昔話によって、禁欲的に訓育されるべき対象でしかなかった。『桃太郎』は振武の精神となり、『一寸法師』は出世物語となり、『浦島太郎』は生類を哀れめと徳目化した。その点では巌谷小波の児童観といわれるものは、当時の権力と同一視点を持つものであった。
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さて、遅れて近代化へ向って出発した日本は、当時の支配層の意識と相俟って、その社会基盤に前近代的諸相を残存させながら、急速に帝国主義の道をあゆみはじめたが、一方では西欧諸国の思想文化を本格的に消化しようとする知識層の動きもあって、それらは自由主義・社会主義等の思想研究となり、当然、教育面にも大きな影響をおよぼした。〈自由教育運動〉とよばれているものも、その具体的なあらわれのひとつである。これは第一次世界大戦(大正三年・一九一四年)以後に、その最盛期を迎えるが、新カント派理想主義を根底とした極めて形而上学的色合いを持つものであったという。
小川未明(一八八二ー一九六一年)が、いわゆる童心を核とした新しい児童文学の書き手として登場するのもこの時期である。
この〈童心〉というのは、子どもの魂は純真無垢であるというおとなの側の一方的な子ども観に立脚するもので、子どもの側からすれば自分たちが〈童心〉の保持者であるという認識はない。子どもはときに残酷であり、自己中心的身勝手に終始したり、おとなに媚を売ることに腐心したりする。〈童心〉が純真無垢であるというのは、童心を美化して設定する側の意識の問題でしかない。
未明の場合は、小波らが普及させた通俗的訓育童話や、その他の通俗読物に対して、童話を文芸学的にも次元の高い芸術性において表現しようとするもので、その思想的核に〈童心〉を据えたのである。これは児童文学史上「童心主義の児童文学」と称せられているが、もちろん〈主義〉とよばれるような科学的思想体系を持つものではなく、当時の時代閉塞を自らの観念の中に構築した〈童心〉の世界へ逃避するものであった。
冒頭に引用した『梁塵秘抄』の歌謡が童心世界を、それとの触発によってもたらされる浄化作用という宗教的生産性において捉えていたのに対して、未明の場合、純真無垢だと考える童心世界の幻想のうちに調和の美を求めることによって、逆に現実の子ども状況へのかかわりを拒否する非生産性に裏打ちされていた。それは如何に文芸学的に高い芸術性を持ち得たとしても、つまるところは、現実の子ども状況とは無縁のおとなの心象風俗の文章的表現にしかすぎなかった。
もちろん、これらの童心派に対する、プロレタリヤ児童文化運動の側からの批判はあった。未明らもそれに同調しようとする動きも見せた。しかしプロレタリヤ児童文化運動が権力の思想弾圧の前についえると、再び〈童心〉へ郷帰りしてしまった。
前期の自由教育運動もまた同じ運命をたどることになる。伝統的に個人の尊厳を認めるという西欧市民社会と違い、前近代的諸矛盾を温存させていた日本の大衆社会では、「西洋かぶれ」の一語で排斥され、市民意識に目ざめた一部新興インテリ層にしか同調者を得られず、実験的にさまざまな業績を残したにもかかわらず、継承条件も整わぬうちに、復古主義的に反動化した画一的訓育主義教育の波にのまれてしまった。こうして、一方的に、子どもは訓育されるべきものとする支配層の子ども観は持続され、一般化された。また〈童心〉の神聖さを謳うものも、自らの内なる観念の心象風俗を構築することに終始し、現実の子ども状況に対して傍観的位置を持続したことでは、実は本質的に支配層と同じ「おとな」の基盤に立つものであった。もっとも、童話、童謡など児童文化とよばれるものも教育と同様、おとな側の主体的営為であり、子どもの主体を度外視した一方通行で、子どもは専ら、その受手としての対象でしかあり得ないことからすれば、これも当然のことであった。その意味では〈児童文化〉という名称自体、かなり欺瞞的でもある。
このように、子どもは徳目的に訓育されるべきものとする子ども観は、「昭和」時代にはいると、更に徹底したものとなる。
支配層で軍部がイニシャチブをとると、強烈に天皇制ファシズムが抬頭して来る。不況打開の為の中国大陸に於ける植民地経営(満州国建国)と、その不調、更に底深い不況、国内危機突破の為の戦線拡大と国内統制、そして、その上に立っての国内総力戦体制確立と移行する中で、子どもは「少国民」とよばれ、天皇制ファシズムのトップ・スローガンである。「八紘一宇(天皇の威光をあまねく世界にしらしめる)」思想を継承顕現すべき予備軍として「訓育されるべきもの」から、更に積極的に強化されて「錬成(錬磨育成)されるべきもの」となる。
もちろん、それまでに学校教育は時代的要請にこたえて徐々に天皇制ファシズムの支配を濃厚にしていったのではあるが、大東亜戦争勃発の一九四一年に発足した〈国民学校〉はその頂点を示すものである。
国民学校はファナチックな天皇制ファシズムのイデオロギーのもとで、子どもたちを優れた天皇ファシストとして完成させるべく、子どもたちに教師たちの恣意的暴力をともなう狂気の錬成を行なった国家的施設であった。この〈少国民の錬成〉は学校内だけではなかった。校外生活に対しても錬成の枠がはめられた。国民学校が発足した同じ年、ドイツのヒトラー・ユーゲントを模倣して組織された〈大日本青少年団〉が発足し、ほとんどの国民学校がこれに単位団として団体加入し、これが子どもたちの校外生活での錬成の一翼を担ったのである。
この教育の学校内外の急激な右旋回に対して、児童文化もまた〈少国民文化〉と改称し、この動きに同調した。かつてのプロレタリヤ派も通俗派も童心派とともに文化統制団体〈日本少国民文化協会〉(一九四二年発足)に大同団結して、〈少国民の錬成〉のための教材を生産したのである。つまり純真無垢な魂の発露と見なした子どもの遊びの中にまで、錬成と称する国家権力の意志を持ちこむことを目論見たのである。
〈少国民〉という一見〈国民〉レベルへのランクアップのような印象を与える呼称も、すべての国民が〈人的資源〉と一括総称される狂暴な天皇制ファシズムの状況下では、総体的に〈準資源〉つまり使いものになるまで手数のかかる準資源としての実質的レベル・ダウンを覆いかくすものでしかなかった。
大東亜戦争は緒戦をはなばなしく飾ったものの、僅か一年足らずで戦局は憂色濃いものとなる。指導者たちは、あたかも子どもたちの自発的表現であるかのように「欲しがりません勝つまでは」というスローガンを押しつけた。国民の身辺からはさまざまな生活物質が姿を消していき、子どもたちはその欠乏の中で、さらに学校で狂気の錬成に耐えねばならなかった。
戦況が更に悪化し、本土空襲が必至となると、都市に於いては「学童集団疎開」が実施された。建前としては、次代に備えて空気の良い里(農村)へ移って錬成を受け続けるということであったが、今にして思えば、都市空襲の際の足手まといの排除と、空襲で多くの子どもたちの死傷を頻繁に見ることは国民の戦意阻喪につながるため、それを予防するための措置にほかならなかった。いつ帰るというあてもなく、子どもたちが親もとを離れて集団で自活するという未曾有の異常事態は、参加した多くの〈少国民世代〉にさまざまな傷あとを残した。飢餓と暴力、猜疑、不信、絶望感によるパニックは凄惨なものであり、その実態については、今日まだ充分に語られてはいない。
敗戦が目前に迫った昭和二〇年(一九四五年)一月、内閣情報局編集の政区PR誌『週報』(四三一号)は「週言」と名づけた巻頭言につぎのような文章を掲載した。
子供たちは生活して来た歳月が短いから、過去のことを振返ったりせず、現在に即して物を考え且つ行動する。だから戦時下いろいろな苦難があっても、これに負けず無意識にこれを克服して、至って愉快に暮らしてゆける。大人となると過去が生活にこびりついているため、今と昔を比べて愚痴が出る。過去が永ければ永いほどこの傾きは強い。
この戦争を勝ち抜くには苦難に堪えて努力邁進することである。我々の生活は現在に即し未来の夢を追ふべきである。しかして現在への努力と未来への追求大なるが故に、過去への愛着を自ら断たれるといふ境地に達せねばならぬ。この境地に達し、これを実践しているのは子供たちである。戦時生活の大悟また「童心に帰れ」の一語に尽きる。
はっきり言って、当時、子どもたちは「至って愉快に暮して」いたわけではない。これまた、子どもは純真無垢というおとなの一方的な思い入れに過ぎない。子どもは〈無告の民〉であるとはいうものの、しめつけ序列の悪循環的再生をまさに観念だけの、実態のない「童心に帰れ」と結ぶ怪しさはしたたかなものである。「欲しがりません勝つまでは」と言わせておいて、つまり〈無告の民〉に仕立てあげておいて、それを見習えというのである。このあたりにも、子どもの存在それ自体が体制的であると言われる様相がある。
事実、特攻隊となった学徒兵が飛行場周辺で遊び戯れる子どもたちを見て、「この子どもたちのために死のうと決意した」と述懐するのを聞いたことがある。だが、その子どもたちにしてからが「欲しがりません勝つまでは」というスローガンを単に物資不足の耐乏生活への呪文として押しつけられたばかりでなく、先に挙げた『週報』の巻頭言が出るころは、生きるという人間本来の基本的なねがいすらも「欲しがりません勝つまでは」と断ち切られてしまうのである。
勝ち抜く僕等少国民
天皇陛下の御為に
死ねと教えた父母の
赤い血潮受けついで
心に決死の白襷
かけて勇んだ突撃だ(国民合唱・上村数馬詩・橋本国彦曲)
この歌は当時、ラジオを通じて、空襲警報を告げる軍管区情報のあいまに流されたものであるが、先の『週報』の文章と重ね合わせてみると、子どもを純真無垢とする〈童心〉憧憬の思想が、もともと子どもの状況や、人間としての存在の尊厳になんのかかわりももたぬおとなの趣味的な心象風俗であることにより、美化した、あるべき子ども像を提起し、容易に国家権力の教育要求に移行し得るばかりでなく、ときに狂暴な形で子どもに襲いかかるものであることを示している。はっきり言って、おとなの側から設定された〈あるべき子ども像〉は現実に子どもにとっては、型嵌めの桎梏になるのである。
一九四五年八月一五日、日本は敗戦を迎える。「日本は神国であり、不滅である」とくり返しおとなに注入されてきた子どもたちは、この時点で激しいおとな不信に陥るが、それまでに課せられた苛烈な錬成は、それを表現する意志まで圧殺していたから、ひたすらおとなの右往左往を見守るだけにすきなかった。最近多くの若手の作家たちが、自らの子ども期の戦争体験を作品にしはじめたが、こうなるまでに二〇年、三〇年の日子を必用とするほどだったのである。
敗戦はそれまでの抑圧からの解放で、一時、国民に自由感を味わせはしたが、これも、明治維新がそうであったように、子どもの状況を変えるものではなかった。かつて〈戦う少国民〉として悲壮に賞賛された戦災孤児は、戦争の犠牲であるにもかかわらず、犯罪予備軍の浮浪児として胡散くさい目で見られるようになった。そして子どもはおとなの始めた戦争に対して〈無国の民〉であったにもかかわらず、〈一億総懺悔〉というおとなのスローガンに取りこまれてしまった。子どもたちが懺悔するとすれば、不幸にして、たまたまその時に生を享けてしまったという、不可抗力的なものでしかない。
こうした歴史的なイヴェントを経て、学校でも教科書から、軍国主義、国家主義色を排除し、かわりに民主主義の理念なるものが導入され、制度の面でも、名称や義務教育年限について若干の手直しはあったが、本質的な改革はなにひとつなされなかった。にもかかわらず、戦後最初に出された文部省の『学制八十年史』は、それを誇らしげに書いている。
おなじように児童文化の面でも、〈民主的児童文学の創造〉という発想はあったが、基本的に童心派の伝統を継承していたから、体質的に大きな変革はなかった。つまり、子どもの状況は敗戦という歴史イヴェントを経ても、何ひとつ本質的に変らなかったということである。一九五一年(昭和二六年)五月五日『児童憲章』が公布された。
児童は、人として尊ばれる。
児童は、社会の一員として重んぜられる。
児童は、よい環境のなかで育てられる。
と前文にある児童憲章は、それ自体額面通りに受けとるとしたら、日本の子どもの歴史において画期的なことであったろう。しかし、建前的には評価できても、画餅にしか過ぎないことは、現実の子ども状況を見れば一目瞭然である。この児童憲章も現在では、毎年五月五日の「子どもの日」にだけ、まさに気まぐれ的にマスコミに顔をのぞかせる風物詩化している。だが児童憲章があることで、おとなが子どもの尊厳を認めているといったような感慨をいだかせるとしたら、これは却って有害でさえあり得る。無いよりは有る方がいいといった程度の飾りものであるなら、おとなの自己満足であり、子どもに対する欺瞞でさえある。これは権力側の建前的茶番であって、本音ではない。
それにくらべたら一九六六年(昭和四一年)中教審答申として出された『期待される人間像』の方がはるかに本質的である。これは権力側による理想的人間像の押しつけであり、子どもをその方向にむけて型嵌めしようという意図が露骨であることは、既に幾多の論議によって明かにされたことではあるが、これも「子どもはこうあるべきだ」という形で、まさに連綿として変らざる権力の子ども観から、当然出るべくして出されたものであるにすぎない。
さて、時期的には若干前後するが、一九六一年(昭和三六年)に出版された『現代子ども気質』(新評論)が川崎市の小学校教師であった阿部進を一躍時の人にした。そして本文にあった「現代っ子」という言葉が新語として流行し始めた。なんらかの形で子どもにかかわりを持つおとなたちはこの本で少なからず衝撃を受けた。この本は多くのおとなたちが「これこれこうあるべきだ」という自己体験を基準にいだいていた「子ども像」を打ち砕いた。阿部はときに教師の目、おとなの目、共犯者の目で、子どもたちの言動を記録することによって、〈子ども像〉を摘出したが、問題はそこで摘出された〈子ども像〉ではなく、記録者の視点を脅すほどの子どもたちとの緊張した関係、その関係を構築する視点の設定にあった。設定によっては、ときに子どもが見えなくなるのである。つまり、あらかじめ「子どもはこれこれこうあるべきだ」という視点の設定では、フィルターをかけたように見えなくなる部分が拡大されてしまう。フィルターを取外すことと、見えにくい部分に挑発して露光させねばならない。その意味では阿部の視点は必ずしも一定したものではなかった。それだけに実験的な素材の提出とも見られた。
出版当初この本に対してかなりの褒貶があった。ただ批判の大部分は阿部の摘出した子ども像の評価に終始し、実験的な視点設定の方法論について言及したものは少なかった。その後、阿部はその視点設定の方法を理論的体系的に思想化する作業を放棄してしまった。また批判した側もひたすら政治論に収斂するか、「現代っ子は風化した」という言い方で、問題を閉鎖的な形で処理してしまった。結果的には、阿部の問題提起は不完全なままで放置されている。その意味では今後、これをむし返し開かれた形で再検討できればよいと思う。
この〈現代っ子論〉が話題になったころ、児童文学の分野でも、質的戦後がもたらされつつあった。
さきに敗戦は児童文学の分野でも質的転換をもたらさなかったと書いたが、そのあたりから大まかになぞってみる。
戦時中〈日本少国民文化協会〉に所属していた児童文学者の若手進歩派は、この協会が占領軍命令で解散させられると民主主義的児童文学創造の旗を掲げて〈児童文学者協会〉(現・日本児童文学者協会)へ結集した。多くの児童文学者がなだれをうつように日本共産党へ入党したのもこの時期であるといわれている。児童文学者たちは戦時下の抑圧から解放された喜びで、旺盛な創作活動を開始した。確かに大量に児童文学書が出版された。しかし、これは出版社、読者を含めて戦時下の出版の不自由を取戻そうとする過渡的隆盛現象で一時的なものでしかなかった。作品面では〈無国籍童話〉と名づけられたものの中に、ラジカルな風刺性の強い実験的なものもあったが、多くの児童文学者たちは、なんらかの形で童心派伝統の尻尾をぶらさげており、方法的には相変わらず童心世界の上に作品を創作し、それに若干、スローガン的に民主主義の色づけをしたにすぎなかった。つまり、理念的にも方法的にも、子どもへのアプローチの姿勢は変っていなかった。多分、これは児童文学者たちが、自らの戦時下の戦争協力にかかわる戦争責任の問題を極めて情緒的に処理してしまったことと無関係ではないだろう。
そのため一九五〇年(昭和二五年)、朝鮮戦争が勃発し、占領軍政策が〈レッド・パージ〉などに見られるような極端な右旋回をし、また出版パニックが訪れると、その商業ベースの上でのみ開花していた創作児童文学はたちまち発表の場を失い〈不毛不振〉とよばれる沈滞状態へ陥ってしまった。このときこそ、従来の童心世界を基盤とした創作主体と作品体質を再検討すべきであった。けれども児童文学者たちの多くは、この沈滞状態を政治的経済的反動化によるものとして、その外的条件を呪詛することのみを当面の課題として、自らの問題としての取込みを怠ってしまったのである。当時の児童文学界の左翼教条主義的政治主義が問題の本質解明を疎外してしまったのである。この状態は五〇年代後半まで持ちこされた。
一九六〇年を中心に前後数年に亘って、ようやく変化のきざしが見え始めた。それまで同人誌によって状況批判を続けながら、新しい方向を模索していた若手たちの作品が一せいに提出されだしたのである。この時点で、日本の児童文学は初めて質的戦後を迎えたのである。それは永い間、童心派伝統にとりこまれていた日本の創作児童文学に於けるルネサンスを思わせるものがあった。事実、部分的にはその栄光を担うものでもあった。
六〇年代後半を過ぎると書き手は全く世代交替したかの感があった。作品の傾向は多様化し、出版点数は更に増加し、それは一種の氾濫状態を呈した。だが、そうした児童文学の流れとは別に、児童図書出版の商業ベースの上で強力な変化がもたらされた。全国学校図書館協議会主催の「青少年読書感想文コンクール」の課題図書が注目され始めたのである。課題図書の指定を受けた図書の売れ行きは目を見はらせるものがあった。注目されだしたころ五万部といわれていたが、それが年々五万部ずつ増加し始めたのである。その売り上げ部数はかつて日本の創作児童文学が経験したことのない数字であった。当然、多くの児童図書出版社は自社の刊行物がその指定を受けるための対策を講ずるようになり、課題図書に見合う傾向、つまり主催者が望む感想文が書きやすいテーマの作品が数多く出版されるようになった。創作児童文学が急激にテーマ主義に傾斜したのも当然であった。日本の創作児童文学は氾濫状態のままで停滞させられてしまったばかりか、その商業ペースを維持するためにテーマ主義のステロタイプの量産に動員されてしまった。また、時を同じくして各地で種々の読書運動が抬頭し、そこでイニシャチヴを取った日共系読書運動家たちと日本児童文学者協会の日共イデオローグたちも、政治的テーマ主義の作品評価で、児童文学作品を裁断し始めた。
これらのテーマ主義的傾向は児童文学を訓育教材に仕立てることで、「子どもは訓育さるべきもの」とする基盤に立つものである。童心派が現実の子どもへのかかわりを拒否してしまったことで、戦時中、容易に権力の訓育主義に同調したことと考え合わせ、イデオロギー的には反体制志向を持ちつつ「子どもは訓育さるべきもの」とする体制的基盤を共有する体質は再び復活しつつある。
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以上歴史的な概略を追ったが、最近、近藤純夫が「現代をしゃべくる子どもたち」とサブタイトルを附した『子どもがいる』(教育出版)を出版した。日本各地の子どもたちにインタビューして、その発言をまとめたもので、そのあとがきで、
子どもをとりまく現況は即ちおとなをとりまく現況でもあるのです。“昔”と“今”ではなく“同時代に生きるおとなと子ども”として子どもを考えるべきでしょう。
その意味でこのインタビューは現代の子どもを理解するのではなく、子どもの言葉によって我々おとなをもとりまく現代を考えるものであると僕は考えています。子どもは、おとなとちがって、現代と比較すべき過去を持っていません。常に過去の尾をひきずっているおとなより、ずっとストレートに現代の状況を体現しています。子どもの表現の多くの場合、我々おとな以上にはるかに現代的です。それ故に現代を鋭く批判するものであるはずです。
と述べている。もちろん、阿部進の視点にも、子どもを〈現代を生きる同時代人〉としてとらえる視点はあった。だが近藤の場合はその発言〈子どもたちの〉をおとな状況を含めて現代への逆射としてとらえ、状況批判の要素を摘出しようとする点で若干の差がある。もっとも近藤の場合はインタビューアとして発言を促す立ち場で、かなり意図的な挑発も試みているので、トータルな〈子ども発言〉として考えるには抵抗があるかもしれないが、そうした挑発を含めて、彼らの発言をまるまる否認してしまうことはできない。嗜好の問題で言えばかなりいらだたしい発言もあるが、その発言の動機まで嗜好の問題で切り捨てることはできない。そして、それは当然、おとなへはね返って来る問題である。
子どもを〈同時代人〉と見ることは当然であるが、それさえも一般的にはストレートに通りにくい伝統的な子ども蔑視がある。
いまわれわれに課せられていることは、彼らを無条件で独立した〈同時代人〉と認めることを一般化させることと同時に、おとなより多くの未来を持つ彼らに連帯的に賭けることであろう。もちろん公教育を含めて政治的要素につながるさまざまなはたらきかけがなされているが、それをかいくぐり、彼らに賭け得る部分を、われわれが〈同時代人〉として主体的に発見することであろう。
賭けると言っても、傍観的であれば、それは従来の権力一般、おとな一般の立ち場へ容易にスライドしてしまうことであり、かつての〈童心派〉と同様の轍を踏むことになる。どの部分に賭けるかで、それを接点とした極めて緊張した共犯関係を構築しなければならない。親であり、教師であり、あるいは彼らにかかわり合うおとなである限り、プリミティヴに共犯を可能にする位置はある。問題はその位置を彼らとの連帯を構成し得る接点として主体的に再生し得るか否かである。また、賭けて共犯関係を成立させる部分を発見する視点には、当然その歴史的パースペクティヴを可能とする理論づけも要求されるであろう。それは同時に防衛的効果を持つからである。
もちろん、こうした理論的展望が即刻、具体的実践のテキストとなり得るとは思えないが、これを根底に実践面で多くの試行錯誤がくり返されたとしても、共犯関係の緊張度により、有効性を持ち得ると思う。いま望まれることは、子どもたちをどう見るかではなく、どの部分で子どもたちと共犯者になり得るかであろう。
テキストファイル化鶴田かず美