『児童読物よ、よみがえれ』(山中恒 晶文社 1978)

「子どもはこうあるべきだ」論考

講演会のあとの懇談会の席上でのことですが、ちょっと座談が途切れたときに、今まで黙ってみんなの話を聞いていた若い母親が、つくづくと「子どもって、わりかしつまらないことをおもしろがって、何度でもしつこくやるんですね。びっくりしちゃった」と、ひとり言とも取れるような発言をしました。それまで他の出席者たちの多少行儀のよい、しかもものわかりのよい発言の続いたあとだっただけに、彼女は一瞬、非難めいた注目の的になってしまいましたが、その発言があまりにも実感がこもっていたので、私は思わず吹きだしてしまい、それにつられて同席者の爆笑となり、懇談会の空気が一変して気どらないものになったことがありました。
私はその若い母親の発言に好意を感じました。というのは、彼女は子どものやること、それも何やらどえらいことではなく、取るに足らぬつまらないことを、何度でもおもしろがって繰り返すということに、すなおな驚きを感じているからです。
「子どもって、そんなもんよ」って言ってしまえば、それはそれでおしまいでしょうし、また、そう言いたくなる程度のことかもしれません。そしてほとんどのおとなは、子どもというのもは「そんなもの」という、かなりおおざっぱな一つの鋳型にはめ込んでしまいます。しかも「そんなもの」というのは、具体的な何かをさすのではなく、子どものすべての生活反応を固体差を無視して、その鋳型に押し込み、その鋳型に「常識」というレッテルを貼っておしまいにしてしまいます。
 名まえは失念しましたが、外国の児童文学者が「おとなは子どものなれの果てである。だから、おとなは子どもを師として学ぶべきである」と言っています。このことばには、含みが多すぎて、単純にそのまま受け取りがたいかもしれませんが、「おとなは子どものなれの果て」と言うのはかなり皮肉のきいた事実にちがいありません。この発言者の場合は子どもがかかわり合うすべてのものに対して、感動と興味をもって全身全霊で挑戦していくのに、おとなはかかわり合うものをすべて常識で判断して、一つの概念に区分けするだけで、今はやりのことばで言えば「シラケテ」いるということを指摘しています。
 「子どもって、そんなものよ」という言い方には、まだきわめて人間くさい慰めとか、あきらめとか、負け惜しみのようなものを感じるのですが、「子どもはこうあるべきだ」という言い方になってきますと、もはや人間くささを払いのけた権力者のにおいを感じてしまいます。
 確かに子どもにとって親を含めたおとなは権力者であるには相違ありませんが、もちろん、親を一般権力者というようには規定できません。しがたがって中教審の老人たちが「子どもはこうあるべきだ」と言うのと、親がおなじことを言うのとでは、同じではないと考えたいのです。
 つまり親が「子どもはこうあるべきだ」と考えたがる根拠まで否定できないということです。「こうあるべきだ」というイメージは、子どもの未来にかける願望の結晶でしょうし、親が子どもの将来を考えることはきわめて当然な心情です。
 しかし、ここで考えなければならないことは、一般的にきわめて単純に「子ども」といった場合でも、子どもが偶然に発生した生物ではありませんから、当然その子どもにかかわりを持つ親もまた表裏一体の形で無視することはできません。ですから「子どもはこうあるべきだ」と子どもを規定した場合、全く同次元で、それに見合った形で、そうあるべき子どもの「親はどうあるべきか」が規定されるということです。親の側の「あるべき」条件を満たさずにおいて、一方的に子どもだけを規定されたのでは、子どももたまりません。「親ハ親タラザレドモ子ハ子タルベシ」というめちゃくちゃな家長権力の時代もありました。娘が親の飲み代に売りとばされてもさからうことができなかった時代、つまり、親の前には子どもはいっさいの人格も権利も認められなかった時代なら、親はかってに子どもを粘土細工のようにこねくり回して「こうあるべきだ」という抑圧のイメージを押し付けることも許されたでしょう。そして親は、ひたすら親の権威を振り回すことでしか、子どもに対抗できなかったのです。
 もちろん、そんなものは真実の親子の情愛でもなければ、美徳でもありません。自分たちがもうけた子どもに対して、無責任な犯罪を犯しているだけです。子どもに手痛いしっぺ返しをくわされたとしても、これは当然の報いと言わざるを得ないでしょう。
 話をもどします。「子どもって、そんなものよ」ということばをもう一度考えてみましょう。このことばは、第三者から当事者へ語られることばとしては、部分的に有効なものであります。それも、姑から嫁へ、夫から妻へ、教師から父兄へ、専門職員からしろうとへといった形で、子どもと格闘して頭に来ている母親に対する通常あいさつのようなものです。母親どうしの間でも交わされるものです。その「そんなもの」というのが、どんなものか、ほんとうのところは発言者にもわかっていないのです。そして、言われたほうも、「そんなもの」かと思って、ある程度、あきらめたり、怒りをおさえたりするのですから、これはもう、かなり効果のあるおまじないみたいなものです。
 一方、そうした母親のほうも、ある程度、そういったきわめてあいまいな、公約数的な、世間的な範囲の中に、子どもの行為をとどめておきたがっています。ですから、「そんなもの」という当りさわりのない概念を受け取るように初めから心待ちしているのです。かりに、「そんなもの」というこどばではなく、「それは変だ、おかしい」などということばが返って来たとしたら、たぶん母親は相手が納得するまで「変ではなく、おかしくはない」という証拠をあげるに相違ありません。
 つまり母親というのは自分の子どもを世間一般の平均的な存在として考えたいのです。そして、きわめて実体のない保証ですが、第三者の杓子定規的な慰めを待っているのです。そして、それがいかにおざなりの気休めであるかは、簡単に証明できます。
 子どもがそれこそ、ひどいめちゃくちゃをやったとき、「子どもって、そんなものよ」と自分に言い聞かせてみるのです。たぶん、そんなことばでは、いったん頭にのぼった血はそうそう簡単におりてくれるものではないでしょう。実はその部分こそが、母親だと言えるのです。
「世間の子どもは、そんなものかもしれないけど、私の子はそんなものではない」と思い、では「どんなものか」と子どもに自分で対決することから、彼や彼女らがわが子であり、自分が彼や彼女らの母親であることを主体的に確認できるのです。
 あるいはそのような確認をしなくても、出産した際に出生届けを出してあるということ、生まれて以来、ずうっと自分の庇護のもとにあるといった点を主張して、あえて、確認することもないというのでしたら、それは親であるとか、子であるということがきわめて通俗的な世間的慣例の中にしか成立していないということになります。そして世間的慣例に通用する「子どもはこうあるべきだ」の借りもののイメージで子どもを貧しく育てることになってしまうでしょう。
 むしろ「子どもはこうあるべきだ」とする前に、「子どもは現在目下、どのようにあるのか、それをどのように見たらいいのか」というところから出発すべきではないかと思うのです。
 かなりしつこくこだわるようですが「子どもはこうあるべきだ」という鋳型を造った場合、はみ出す部分を切り捨てねばならなくなるでしょうし、足りないと思われる部分をやみくもに追加するためのしごきが必要になってくることでしょう。そのことによって失うもののほうがはるかに大きいことは、今さら申すまでもありません。わが子を思うあまり、けいこごとに不熱心だとわが子を絞殺したり、度を越す叱責によって自殺へ追い込んだりして、それこそ文字どおり、元も子もなくしてしまうといった事件はあとを絶たないのです。
 それを親子の断絶などという言い方をするのはおかしなことです。オギャアと身ふたつになったときから、断絶は始まっているのです。そうでなければ親が苦労することなどないはずです。そうしたものをさまざまな親子としての交流が乗り越え、架橋していくことで一つの連帯が成立するわけです。それには、その親独自のやり方があって、それぞれの子どもにそれが投影されるのです。
「わが子は目下、どのようにあるのか、それをどのように 見たらいいのか」で、客観性を持ったさまざまな働き掛けがなされ、緊張した交流がなされることにより、親が親として、子どもたちのさまざまな領域の中に、どれほどの居住権を認められているかを知ることができるでしょう。また、親ならば、その居住権を失わないように努力することが必要になってくるでしょう。居住権といっても、その区域が必ずしも広いほうがよいと言うわけではありません。きわめて抽象的なたとえになってしまいますが、浅くべったり広いのでは、子どもの主体的な独立は阻害されてしまいます。母親がいなければ、何もできないといった依頼心の強い子どもなどは、そういった例にはいります。要は居住区域が狭くても、どれだけ強く根をはっているかということです。
 そして根の張りぐあいによって、親子の間で、きびしい暴風雨があったとしても、どこかで、信頼が成立し続けて行くことが可能なのです。それを確かめることができなかったり、不安に感じたりするために、基本的なしつけもできず、うろうろと子どもの周囲を歩いて顔色をうかがうことしかできないような親が出てきてしまうのです。
 現代は母親たちの子どもに対する目が行き届きすぎるということも言われています。核家族化の問題、公害、交通災害といったことも、それに拍車を掛けていると思います。けれども、目が行き届きすぎることと、「わが子は目下どのようにあるか」とは別の次元の問題です。行き届きすぎる目が、子どもたちの行動にさまざまなタブーを作り、幼稚園や保育園へ行って「よごれるからお砂遊びはしないの」という用心深いというよりも、いじけて、貧しい子どもを作り上げてしまうのです。
「子どもは自由に伸び伸びと育てたい」とみんなが言います。しかし、それができる客観的な、心理的な、物理的な条件は全くと言ってよいほどありません。そこにはきわめて抜き差しならない政治問題が介入しております。それはそれとして、政治問題として取り組み、戦わねばなりませんが、「子どもは自由に伸び伸びと育てたい」という願いを、まず最初にわが子にかけるのは親なのです。その親自身が世間的な借りもののイメージに足を取られていたのでは、とても願いがかなえられるものではありません。むしろ、そいったものもなく、手探りで、冒険的な緊張関係を作り出していくほうが、子が子として、母が母として成長していくのではないかと考えます。育てるということは、学ぶということであり、成長することでもあるのです。
テキストファイル化上原真澄