児童文学は、いま……
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現在<児童文学>とか<児童図書>といったものに対して、直接にはなんのかかわりも持っていないおとな一般の読者に向けて、それらの今日的な状況を語るというのは、正直に打ちあけて、私にとってはかなり気の重いことなのである。
あえて極端な言い方をするとすれば、それは多分、極めて漠然としたものであろうが、そこには「美しくも可憐な花壇らしきものが存在するに相違ない」といった程度の予測だけで、直接に足を踏み入れることもなく、また予測もなにも全く関心を抱くということもなしに、一旦は通り過ぎてしまった人たちをわざわざ呼び戻してまで、「そこには美しい花壇なんぞはない、文学とは名ばかりの悪しき政治主義に荒廃した領域である」などということを告げたとして、それにどんな意味があるか……、ことによるとそれはいらざるお節介というものではないか……などと考えてしまうからである。しかもその場所に既にプロとして一五年もどっぷり浸って、今も根を生やしたみたいに居すわり続けている私自身が、したり顔にそれをやるというのは、なにやら「エエ恰好」を気取っているみたいになりかねない。したがって、これは「児童文学における今日的状況を告発する」という大それた主旨ではなく、それこそ居心地が悪いのに現在もなお居すわり続けている人間のはなはだ「恰好悪イ」言訳であることを了承していただきたい。
さて、一般的な概念からすれば、<児童文学>といえば、グリムやアンデルセン、日本でいえば、小川未明、浜田広介あるいは坪田譲治、新美南吉、宮沢賢治といった作家たちの作品のことで、それは「世俗的なものと隔絶された美しい郷愁のファンタスティックな山野に花咲く童心のロマンの世界である」という思い込みがあって、そうした世間一般の思い込みの庇護のもとに、あるいはその善意にまぎれて、なにやらやってきたのが、この国の<児童文学>とよばれるものなのである。
<児童文学>に対する、この一般的な思い込みはかなり強固なもので、ついでに<児童文学者>とよばれる人たちに対しても、<童心の求道者>といったふうな聖職者イメージがついてまわる。これは<児童文学>をふくめて、児童文化というものが教育文化に従属していると目されている証拠でもある。だから、日本の児童文学状況がそんなものではないということを語ると、人によっては目を剥いてそれはお前の被害妄想だとなじる。彼のイメージの中で<児童文学>の世界はそのようなものではないし、そのようなものであってはならないのである。彼のイメージの中の<児童文学>は、汚れなき童心をはぐくむという崇高な理念のもとに創作されるものであり、その創作者は汚れなき童心の共鳴者であって<児童文学>界で徒党を組んでゲバルなどというのは、とんでもないことなのである。
確かに戦前の日本の児童文学の多くの作品は「童心主義のロマン」とよばれるにふさわしいものであったと思う。しかし、<童心>なるものに<主義>がつくほど科学的な思想体系など持ち合わせていなかった。童心への憧れは、むしろ極めて雰囲気的なもので、そのようなものとしてしか現象しなかった。
小川未明を例にとるなら、彼はおとなの文壇への捲き返しに失敗し、世上「童話宣言」とよばれる『今後を童話作家に』(一九二六年・東京日日)というエッセイを書き、ひたすら<児童文学>の創作だけに専念するようになった時期は、昭和恐慌期であり、暗い世相のかげで天皇の統率する股肱は中国大陸へむけて軍靴をそろえていた。それこそ、どちらを見てもろくなことはなかった。そうした中で未明はひたすら<調和した美を求めて童心の世界へ>と埋没していった。しかし未明のいう童心の世界は、おとなの労賃の三分の一から六分の一の安い労賃でこき使われていた幼少年労働者である子どもの心の世界ではなく、未明がおとなの世界を見てみにくいと思う心に対置される美しいと想定された子どもの心であったのである。つまり未明自身の内なる世界にしか存在しない<童心>だったのである。
そもそも<童心>というのは、子どもごころとか、幼なごころ、あるいは「子どものように汚れない心」という意味で使われている。今日、新聞紙上でも「童心をきずつける行為」などと見出しになったりするが、子どもが汚れない心を持っているとするのは、大人の願望なのであり、子ども主体に考えた場合、そんなものは存在しない。子どもは好んで幼ながっているのでもなければ、世情に無知なことを美徳として、自認しているわけでもない。大人がそれを泣き所に、勝手に美化し、有難がって信仰しているだけにすぎない。はっきり言って、そうした子ども離れの童心への求道は現実の子どもとは無縁であるばかりか、現実の子どもをどう捉えるかという、文学上の方法論としての問題ではなく、自らの内なる童心をどのように開陳するかという形而上の観念的な展開に終始してしまった。その結果、未明の児童文学の題材となったものは、<死>であったり、<永遠>であったり<彼岸>であったりといったふうな極めて形而上的命題であった。
未明もその「童話宣言」で書いているように、子どもに理解されなくても、やむを得ないというものになっていってしまった。この現実の子どもを無視したものが<児童文学>の最高峰として通用したことは、はなはだ奇妙なことであり、日本の<児童文学>自体にとっても不幸なことであった。
そのころ、こうした、芸術と見なされる<児童文学>になじんだ子どもたちはそれこそほんのひとにぎりで、そのほとんどは中間インテリ層以上の家庭の子弟であった。そしてほとんどの子どもたちは当時隆盛を誇った『少年倶楽部』等の児童雑誌に掲載されているような、<大衆的児童読物>やマンガに引き寄せられていってしまった。それらの大衆的児童読物は当時の支配的イデオロギーを根底として立身出世談や軍国美談に仕立てられたものではあったが、子どもの興味に対して適確に対応していった点では芸術派の児童文学のとりすました肌合いとはまるでちがっていた。こちらはむしろ方法としては講談・講釈の伝統を継承したものであった。
両者とも、実は一九二〇年代に契機したものであるが、この時期は日本の教育思想が、自由主義・社会主義・天皇主義と派生し始める時期と重なっている点も興味深い。あるいは根はひとつであったのかもしれない。
一九三〇年代には、そうした日本の児童文学に科学的に思想体系を導入しようと期した<児童文学運動>があった。所謂<プロレタリア児童文学運動>であるが、これも、天皇の権力機関によって終息させられ、芸術的な遺産を残すまでに至らなかった。そして、これに参加した作家たちも、またぞろ<童心>への本卦還りというか、転向を強いられてしまった。かくして、日本の芸術的児童文学とよばれるものは、<童心求道>一色になってしまった。
一九三八年、「天皇の警察」の総元締めである内務省警保局の図書課は、子どもの読物が商業主義に毒され、時局認識に欠けるとして『児童読物改善ニ関スル指示要綱』を出して、児童図書・児童文化の統制にのりだした。文部省で教育審議会が「国民学校制度」に関する答申に着手していた。この<要綱>作成には民間有識者と称せられる芸術派の児童文学者や、教育学者・児童心理学者らが参画した。この時点から、大衆的児童読物はその席を芸術派の児童文学に譲らざるを得なくなった。この<要綱>は児童雑誌の内容をこまかく規定し、長編マンガを禁じたり、仮作物語(フィクション一般を指すものと思われる)の量を減らして、国史物語や軍事物語に変えろと要求したりした。いきおい児童雑誌は露骨に軍国調を出し、娯楽の部分は次第に色あせて、ついには全く学習誌なみになってしまったのである。
一九四一年四月、それまで「尋常小学校」と呼称されていた初等学校が「国民学校」となり、教育における臨戦体制は完了した。また、それまで続けられてきた<新体制運動>とよばれる国家への忠誠奉仕運動は大政翼賛会および内閣情報局という国家機関を通じて拡大化され徹底化され、その年の暮、太平洋戦争が勃発したのである。いまや国家権力の庇護のもとに大衆的児童読物にとってかわり隆盛を誇りつつあった芸術派児童文学の<童心への求道者>たちは、そのまま、「少国民の思想善導」のお役に立つべく「日本少国民文化協会」へ結集した(一九四二年)。これは確かに戦争を指導した当時の権力の肝煎りで、お膳立てされたものには相違なかったが、現在残されている当時の作家たちの文章を見ると、いやいやながら、その機関に徴用されたというのではなく、かなり積極的に権力の意向を担おうとしていたことがわかる。もちろん、この組織も、他の戦時下の文化団体同様に上層部はおよそ児童文化などといったものとはほど遠いような、高級官僚やら、御用機関の指導者、高等官、功労者たちに席を占められ、その下で作家たちは「少国民の思想善導」のために文学報国をしたのである。
ここで再び未明に例をとるが、彼などは<大東亜共栄圏確立>という権力側のスローガンを、天皇のもとにおける日本帝国主義強化のための、軍事資源確保のための、アジア民衆収奪のための、アジア植民地再編成を目指すものとは捉えず、真実アジア共同体の確立であると思いこみ、この戦争を権力側のいう通りに<聖戦>と認識して疑わなかった。彼は作品『頸輪』(日本少国民文化協会機関誌『少国民文化』一九四二年六月創刊号)を創作し「アジアの日本万歳!」と絶叫して、戦争プロパガンダとなってしまったのである。しかし、これは単に小川未明個人の問題ではなく、現実の子どもに目を向けようとせず、あるいは目を向けても、その子どもたち(当時<少国民>とよばれていた)をとりまく状況を科学的に捉えることをしなかった当時の児童文学者たちに共通していえることであった。
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ところで、ここまで書いたとき、旧高砂族兵士中村輝夫がモロタイ島で救出されたニュースを聴いた。彼に対する扱いはいままでの、横井・小野田の場合と違い、いやおうなしに日本帝国主義の恥部をさらすことになり、政府関係者は困惑しているらしい。新聞によれば、彼は一九四三年一一月、「撃ちてし止まむ」のスローガンがあちこちに氾濫しているときに、特別志願兵として台湾出兵第一連隊補充隊に入隊したことになっている。恐らく、今後、彼についての責任論が新聞雑誌をにぎわすことであろうが、日本の<児童文学>もこのこととは無関係でないことを挙げておこう。
次に揚げる作品は、高砂兵士中村輝夫が入隊して一年後の一九四四年、日本少国民文化協会の機関誌『少国民文化』一一月号に発表された「ザボンの木」と題する吉村敏のもので、この作品はまさにその問題の高砂兵士の家族をスケッチ風に描いたものである。
<岡田勇君の家には、古いザボンの木があった。弟の猛君と、けふ、学校からかへったら竹をしばりつけて、ザボンの木に、かなぼうをつくることにしてゐた。/猛君は、ことし三年生だが、けんすゐ力がなく、ニ回がやっとで、あとは、どんなにがんばっても、少しもからだが、あがらない。勇君は、それにくらべると六年生だし、十五回は平気で、少しがんばれば、どうやら二十回は、ものになるといふ、級中第一のかなぼうの名手であった。そこで、勇君は、弟にけんすゐ力をつけてやり、かたがた自分の腕もみがかうと、おぢいさんにねだったのである。/「ねえ、おぢいさん、だから、いゝでせう」/「竹がしっかりしてゐないと、あぶないが」/ことし、六十八歳のおぢいさんの名を岡田大石といふが、昔の名は張大石である。しかし、勇君や猛君に張勇君だの、張猛君などと呼ばうものなら、大へんである。返事をしないどころか、「僕は岡田だっ」と、目だまをつりあげておこる。張という姓を改めて、内地人と同じやうに岡田とよぶやうになったのは、もう、五年も前で、二人は本島人(台湾では台湾人とよばない=原註)と思はれることが、一ばんいやなことであり、つらいことである。/だから、或日の勇君の綴方に/『僕の家の姓を岡田とあらためたのは、僕のおぢいさんが護郷兵だったころの小隊長の名をいただいたものです。護郷兵といふのは、今から五十年ほど昔、台湾の土匪を皇軍といっしょに討った兵たいです。僕の家はその頃からりっぱな日本軍人の家だったのです』/と書いてあった。/また、猛君の綴方には/『たかさご義勇隊の名が内地人と同じだったのでおどろきました。やっぱり、ぼくの家が岡田になってゐてよかったと思ひます』/とも書いてあった/高砂族をせいばんとよんだのは、遠い昔のことで、いまは猛君の綴方にあるやうに、山田だの、藤田だのといひ、中には加藤清正などといふゐばった名さえある。/「この竹なら肉もあついし手ごろの太さだ。猛、にぎってごらん」/二人とも裏の竹やぶにはいって、おぢいさんはさうおっしゃった。/竹の太さは手頃だったので、根もとから切り、その小枝をはらひながら、/「わしが護郷兵になったのは明治三十年で、まだ十七歳ぢゃった。おぢいさんが一番年若で、土匪討伐にいったときは、この竹で槍をつくって攻めることも教はったもんぢゃ、台湾中で二百四十名、この宜蘭で八十名、それが、みんな国語が話せなかったのぢゃから」/「おぢいさん、護郷兵は鉄砲を持たなかったの」/「どうして」/「竹槍で攻めたって言ったぢゃないの」/「竹槍も使ったが、ちゃんと、普通の兵隊と同じ服で、鉄砲を持ったのさ」/「訓練もうけたの」/「そりゃ厳格だった。それに国語の勉強もうんとやった。けふ帰ってから、いゝものを見せてやらう」/と猛君は/「いゝものって、おぢいさん」/「軍隊手帳といふものがある。それだよ」>
(ということで、祖父はこの兄弟たちの叔父賢章が志願兵になっていることを挙げ、ふたりに叔父に続けと激励する。竹槍がもっともらしく出て来るのも、当時の世相の反映である。兄は弟がママ三回しか懸垂できないことでからかう。祖父は、人間は鍛錬次第でどうにでもなるといい、志願兵の叔父賢章もかつてこのザボンの木に鉄棒を作り鍛えたことを話す。ザボンの木は祖父が家を建てたときの記念樹で、そのとき叔父賢章はザボンの木を傷つけたというので、叱られたというエピソードが紹介される)
<「ぢゃ僕たちも、いけないかな」/おぢいさんは、さう言った勇の顔をちらとみて/「なあに、いゝとも。ザボンの木も喜ぶだらう。おまへたちがここでからだを鍛へ、りっぱな兵隊になっていくんだから。賢章叔父さんのやうにな。賢章叔父さんは志願兵だが、おまへたちは最初っから皇軍だ。勇、何といったな、なんとかへい、といふぢゃないか」/「神兵ですか」/「さうだ、その神兵を育てるんだから三十年生きてきたザボンの木も、六十八年も生きてきた、おぢいさんも嬉しいさ」>
(というわけで、ザボンの木に鉄棒が……いや竹棒が作られる。鉄材などは金属供出で、全て徴発された時代である。そこへ兄弟の父が会社から帰宅する。そして、父ともども兄弟は祖父から古い軍隊手帳を見せられる。そこで祖父と父とによって、台湾における日本軍事史が語られる)
<と、お父さんは、/「本島人の兵隊の歴史といふかな、その最初に――一番最初になった兵隊を護郷兵、つづいて軍役壮丁、それから軍役志願者となったわけだ。だから、この九月には徴兵制が行はれるが、五十年も昔に、ちゃんと、兵隊になった本島人や高砂がいたわけさ」/(中略)「つまり、けふの徴兵制だって一気にできあがったわけぢゃないのさ。昔、かうした忠義な人が居り、それから五十年という長い間、りっぱな日本人になるために、いろいろ鍛錬してきたのだ。そして、今、りっぱに神兵としてたてるやうになったわけで、この道を、ひらいて下さった天皇様の御恩をわすれることができないね。それに、戦争だから、急に徴兵制になったわけでもない。兵隊になる資格のない者は、戦争だらうが、なんだらうが兵隊にはなれないだらう」/お父さんの説明である。それにつけ加へるやうにおぢいさんは、/「はやい話が国語のことだけだってさうぢゃないか、明治三十年に、わしらが護郷兵になった頃は、誰も国語が話せなくて困ったもんだ。もっとも、台東の護郷兵の中にたった一人――これは高砂族だが、まあ、ちょっぴり話せるのがゐたさうな。それはね、バブクツといふ所へ、日本人の漁師が難船して流れてきて、その人から、日本語を教はったさうだがね。ところが、今ぢゃ、国語の話せない者はほとんどゐない、といってもいゝ。うちにしろ全部話せる。もっとも、おばあさんだけは少し不勉強だから、あまり、うまくはないが」/と笑った。/「おぢいさん、護郷兵は本島人ばかりだったの」/猛は話がおもしろくなったのか、そんなことをきいた。/「数のうへからだと高砂族が多い。台湾で、護郷兵をつのったのは台東と埋里、それから宜蘭だった。場所がら高砂族が多い。中でも、台東の護郷兵には、おもしろい話がある。どうだ、猛、きくかね」/「はい、きかせて」/「台東にピナン社といふ所が今もある。昔、そこの頭目(かしら=原註)は仲々えらかったが、その娘にタタといふのがゐた。これは、すばらしく勇気のある娘でな、頭目の娘であるうへに勇気とちゑがあったから、社内で誰一人かなふものがない。タタはオランダ人からもらったといふ白い馬にまたがって、若者どもをひきつれ、戦にはいつも大勝利ぢゃ、台湾の南でタタの勢力を知らない者はないほどだった。このタタが日本軍にまっ先に加はって後に護郷兵を生むやうになったんだ。いはばタタといふ女は護郷兵のお母さんだ」/二人はタタの話を感心してきいてゐた。とりわけ、オランダわたりの白馬にまたがって、陣頭に立ったといふ勇ましい姿が目に浮かぶやうであった。/「軍役壮丁が軍役志願者となって、何年頃まで続いたのですか」/こんどは、お父さんがきいた。/「明治三十八年の暮に満期除隊になったきり終ったが、日露戦争の時はロシヤのバルチック艦隊が通ったらと要塞の大砲を向けて待ってゐたものぢゃ。ちゃうど、今の時代とよく似てゐる。来るなら来てみろと、なかなか、さかんなものだったぞ」/と、力を入れて話された>
(この話を聞いて、猛は発奮して懸垂をやりに行く。そして、がんばったすえに三回の懸垂に成功する。父はその猛にいう)
<「本島人といふと、おまへたちはいやがるが本島人は精神力、つまり、気力、心の力では、まだ内地人に及ばないところがある。猛のいまの三回目は、うでの力であがったのではないのだ、精神であがったんだぞ。日本の兵隊の強いのも精神力だ。だから、回数がふえるだけ、精神力もふえていくんだと思って、がんばるんだぞ」/猛君は得意であった。/「おぢいさんや、お父さんは五十年もがんばって、りっぱな日本人になることをつとめた。勇や猛は、さらにがんばって、それ、勇、何とかいったな、なんとか兵」/「おぢいさんだめですよ、忘れちゃ、神兵でせう」/「さう、その神兵になるんだ、りっぱな神兵にな」一同は明るく笑った。/ザボンの枝に頭ほどの実がみどり色である。その枝に二本の竹が、台湾の二人のよい少年をりっぱな兵隊にしあげるやうに、ま一文字にかけられてゐる。(をはり)>
この作品について、とやかく言うことはあるまい。内地人に比して精神力が弱いだの、徴兵制を天皇様の御恩だなどといっているあたり、作者の位置がわかろうというものである。作者については現在、私の手許に資料がないので、わからないが、この時期の機関誌『少国民文化』は、ページ数も格段に少くなり、この号は前年度に比べて三分の一の六八ページしかない。その貴重なページをさいていることでも、それなりの評価を受けた作品に相違あるまい。
さて、『東風』前号の書評欄で拙著『ボクラ少国民』(辺境社刊)を論じた入江氏が、詩人北原白秋のヒトラー・ユーゲントを讃える歌に呆れはてていられたがその日本少国民文化協会の選定で作詞作曲された『少国民進軍歌』などは、どういうことになるだろう。
一 とどろく とどろく 足音は
お国のために傷ついた
勇士を護り 僕たちが
共栄圏の友とゆく
揃ふ歩調だ 足音だ
二 ひびくよ ひびくよ 歌声は
戦死されたますらをの
忠義の心うけ継いで
感謝で進む僕たちが
うたふ国歌だ 君が代だ(後略)
実際、この種のものを拾いあげたらきりがない。「少国民の思想善導というものが、どのようなものであったかを今更説明するまでもないほど、露骨なものである。
そして、一九四四年、六大都市の子どもたちは、唱歌『青葉繁れる』や、童謡『お山の杉の子』(吉田テフ子作詞)や国民歌謡『子を頌う』(城左門作詞)を歌いつつ、学童疎開へと出発して行ったのである。そのころ、日本少国民文化協会紙芝居部会に所属していた加太こうじは『紙芝居昭和史』で当時を回想し、集団疎開の学童寮を紙芝居を持って巡回したことを述べ「しかし、これは地方まわりで子どもや教師が相手だからのんきな仕事だった」と記している。のんきに思想善導された疎開児童の苦しみなど、この人にはまるでわかっていない。そういえば、数年前の八月一五日のテレビ・ショウで、この人がその頃を回想し、やはり「白いめしにありつけて、よかった」などといって、集団疎開世代を激怒させた。彼等がどれほど、空腹に苦しんだかも、気づかないのだから始末に悪い。
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一九四五年、敗戦が来る。戦時下の翼賛文化団体はほとんど解散したというのに、この日本少国民文化協会だけは、このままでなんとか行けるだろうと、解散をしぶっていたが、これは占領軍命令で解散となる。この「なんとか行けるだろう……」という観測の甘さもさることながら、そこでは、自分たちがどのようなことに手を貸したか、まるで自覚がなかった。
やがて児童文学者たちは、再び結集して児童文学者協会(現・日本児童文学者協会、一九五八年名称変更)を設立し、初代会長に小川未明を据えた。一九四六年春のことである。そして未明はその機関誌『日本児童文学』の創刊号に「子供たちへの責任」を執筆した。それはわずか四年前、『少国民文化』創刊号で、「アジアの日本万歳!」を絶叫した人物とは考えられない変り様であった。
<最近小さな子供の行状などを見ていると胸をうたれる。言いかえれば時代を反映して悪がしこくなり、今までの子供らしさを失っているものが多い。
子供は純情と一口でいうけれど、それは畢竟どうにでも感化されるという意味に他ならぬ。ただ子供は大人とちがって、鋭い叡智をもっている。それは未だくもりなき心に自然がありのまま映るからである。
戦争中はいかなる言葉をもって子供たちを教えたか。指導者らには何の情熱も信念もなく、ただ概念的に国家のために犠牲になれといい、一億一心にならなければならぬとかいって、形式的に朝晩に奉仕的な仕事を強制して来た。そして日本は一番正しいのであるし、敵は残忍であり醜悪であるということを言葉に文章に信ぜしめようとして来た。それが終戦後の態度はどうであるか、今までの敵を讃美し、まちがっていたことを正しいといい、まったく反対のことを平然と語っている。子供は大人に対して抗議する力を持っていない。しかし批判力がないとだれが言い得よう。
子供たちにかかる大人の態度、言いかえれば指導者の態度がどう映るか。必ずや嘘つきであり厚顔無恥としてうつるにちがいない。しかし子供は更に一歩ふかくこの世の中を見ている。それは日本がまけたのだということである。おそらく子供の方が却って時にはこう言わなければならぬ大人をあわれむこともあろう。
だれでも子供のじぶんに経験したことがあるだろうが、よく両親がむじゅんしたことを言ったりしても、真にやむを得なかった場合、また、そうしなければならなくなった場合には子供はだまっているし却って親の心を哀れむものだ。ゆえに指導者において真に誠実であれば、かつてのあやまちも許されるであろうが、もし誠実を欠いていたならば、子供たちが大人に対する信頼をなくすことも当然である。
今日のこのこうした荒んだ状態から、子供を救うのは、何と言っても指導者の誠実であり情熱である。時代に迎合するというよりは当面した現実に新しい自己というものを発見して、子供たちと共に新しい日本を建設して行くという誠実がなくてはならぬ。現実に対して謙虚であり誠実であるときにはじめて新しい自己が発見されるし、新しい時代の感覚を体得しうる。そこに温醸される芸術こそ自然発生的に成長する。そしてそれによって限りなきよろこびを、あたえる者もうける者も共にうけるであろう>
未明はここで、戦中戦後の変り様を取りあげ、おとなを非難しているが、未明こそ、その非難を受けるべき本人ではなかったろうか。しかし、未明はあの「アジアの日本万歳!」を自らの内なる童心へ絶叫したのであり、その絶叫をまともにうけとらされたのも未明自身であったから未明は矛盾していなかったのである。ただ、はっきり読者としての子どもに対する責任は欠落していた。
また、当時、多くの児童文学者たちがそれこそ「雪崩れをうって」日本共産党へ入党したことも、語り草のひとつになっている。
こうして<民主主義的な児童文学>の創造はスローガンを<大東亜共栄圏確立>から<民主主義のために>と入れかえて順風満帆すべり出したかに見えた。しかし、すぐに嵐がやって来た。一九五〇年を頂点とするレッド・パージ、コミンフォルム批判、そして出版パニック。日本の創作児童文学は「慢性的不況・不毛」と評せられた<冬の季節>にはいった。一九五〇年から五四年にかけて、年間出版点数は三乃至五点というひどいものであった。確かにそういう物理的・外部的な条件はあったが、日本の児童文学は戦時下のように、権力の庇護のもとにはなかった。自力で航行しなければならなかった。にもかかわらず、船体も航行技術も、戦時下のものそのままで、へさきの旗印を取り替えたにすぎず、難航は当然の結果といえた。
そのころ、それまでは読むことのできなかった外国の児童文学が大量に紹介され、若手の作家や研究家たちに、彼我の差をまざまざと見せつけたのであった。かくして、既成の児童文壇への批判・造反が始まる。しかし、若手の作家や研究家たちには、自分たちの同人誌しか発表の場がなかった。多少その気になった出版社があったが、既成の児童文学者たちが妨害の挙に出て企画をつぶしてあるいたのである。だが、そうした防禦の視点からは新しい物は発生しない。一九六〇年前後から、若手新人たちの児童文学作品が出版されるようになった。それらの作家たちの作品は、それまでのものとはまるで異質であった。彼等はもはや<童心>への求道者ではなかった。直接子どもを啓蒙し、連帯を呼びかけようとする運動者にも似ていた。<児童文学>といえば<童心主義のロマン>と相場が決まっていたのに対して、これらの作家のほとんどが<童心主義のロマン>を否定するところから出発していた。つまり、一九六〇年にして、始めて日本の<児童文学>に戦後が訪れたとも言える状態になったのである。顔ぶれも九〇パーセント世代交替を果していた。戦時下に<少国民>とよばれ、戦時下の児童文化の<思想善導>を受けた世代が登場し始めたのである。
日本の児童文学はかつてない隆盛を迎えた。作品はまるで堰を切ったようにさまざまな方向にむけて噴き出した。リアリズムの傾向を示すもの、ファンタジィの方向を指すもの、ナンセンス・テールスを目指すもの、まさに百花撩乱であった。が、一方では、一九六〇年という時期は、既成左翼の頽廃と戦後民主主義の空洞化を露骨に現象させた時期でもあった。六〇年安保闘争は<挫折>という流行語をもって終ったが、さまざまに多くのしこりを残した。日本で最大の児童文学者の集団である日本児童文学者協会はこの時、日共路線を堅持したのである。一方、日本児童文学者協会は大衆文化団体であるという建前も崩さなかった。しかし、日共が民青を「大衆団体」とよぶに等しく、日共イデオローグ達の指導は実に宜しきを得ていた。もともと、そうした政治感覚に弱い児童文学者たちは、「大衆団体」なのだから、日共がいようと、何がいようと宜しいではないかと、票決民主主義を信奉することによって、日共批判を拒否した。
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<児童文学>の出版状況は六〇年代半ばにちょっとした足踏み状態にはいった。だがふたたび、その後半に至って、活気を呈し始めた。その原因はなんといっても全国学校図書館協議会(略称・全国SLA)の主催になる、全国青少年読書感想文コンクールの<課題図書>の設定であった。この<課題図書>に指定された児童図書の売れ行きは、まさにめざましいものであった。足踏み状態にあった児童図書出版界はこぞって<課題図書>の指定になることを目指した。いままで、年間一〇万部も売れるような児童図書はなかったし、そんな事件もなかった。児童図書出版社が<課題図書>になりやすいテーマと、作家を狙い始めたことは当然といえば当然であった。
この感想文コンクールは勤労青少年をのぞいて、学校単位で参加させるので、その分だけ、<課題図書>が売れることになり、万単位がすこしも不思議ではなかった。
また他方、母親たちを主体とした読書運動、親子読書会や母親文庫などの広範囲な読書運動も、この児童図書出版の隆盛を支えたが、やはり<課題図書>の威力はすさまじいものであった。
さすがに日本児童文学者協会も、この隆盛は良識ある母親たちの地道な読書運動や、児童文学関係者・読書運動関係者の地道な努力が実ったとしながらも、その隆盛が質的なものから量的なものへ変りつつあることに懸念し始めた(一九六九年・活動方針)。そして、どういうものか<課題図書>の影響についてはふれようとしなかった。これは現在に至るも変っていない。確かに七三年、機関誌『日本児童文学』は「課題図書とは何か」という特集を組んだが、特集の標題を一歩も出るものではなく、ようやく世間的に課題図書批判が始まり、それを無視できなくなったことに対するゼスチュア程度のことで、問題の核心に触れるものではなかった。そして、翌月号に七三年度の<活動方針>を掲載し、やはり質から量への問題を苦慮しつつ、ついに<課題図書>問題には一言半句も触れなかった。これは<課題図書>の指定を受けた多くの作家たちが協会に所属していることからなのか、あるいは全国SLAが<課題図書>にふさわしいと選定した作品の評価をめぐって統一見解が打ち出せないのか、そのあたりは不明である。もっとも全国SLAは先の「課題図書とは何か」という特集号に対して抗議を申し入れ、その中で「友好団体」としているから、これもお互でしめし合わせての茶番かも知れぬ。協会員の中には、全国SLAの関係者もいることなので、そのへんがクッションになっているのかも知れない。
ところで、このコンクールを批判しているのは、ほんのひとにぎりの児童文学者で、その批判はここ数年レギュラー化してしまった。この批判者の内で変り種は日本児童文学者協会の日共イデオローグとして最右翼である鳥越信である。彼は<課題図書>のもたらす弊害を考えるとマイナス面が多い、そしてそれに選定された本がその年度の最高作とも思えないとして、『子どもの本の選び方・与え方』(三省堂)の中でこのコンクールについて、
<電通が実際の企画者であるということは、具体的にどういう意味を持つかといいますと、いちばん端的に出てくる影響は、本の選定に対する平等性です。つまり年間に選ばれる十二点の本は、あらゆる出版社に対して、平等に割りふらなければならないという宿命的な性格が生じます。したがって、かりにある出版社がある年度、ひじょうにすぐれた子どもの本をたくさん出版したとしても、選ばれるのはその中の一点であって、一つの出版社から二点以上の本が選ばれることは絶対にないわけです。
と分析した。ところが皮肉なことなのか、主催者の意図か、このあたりもちょっとミステリィじみた謎が残るが、その鳥越の本が出版されて半年以内に、一社から二点の<課題図書>がでたのである。その一社は日共直属といわれる新日本出版社で、二点の<課題図書>は『いさごむしのよっ子ちゃん』(早船ちよ)と『スポーツの夜明け』(城丸章夫)である。しかも、昨年度は<課題図書>の売れ行きが例年に比して伸び悩み、売れ行きは前年比で二割減ぐらいだと噂され、この社の返本は厳しいともささやかれている。それにまた、前記の鳥越の本を出した三省堂は倒産により会社更生法の適用を受けているということになると、これこそ、かねてから、鳥越が<課題図書>を題材に推理小説ができるのではないかといっていたことと思い合わせて、なにやら奇妙な気がする。
どちらにしても、選定委員の顔ぶれは秘密で、選定理由も公表されないとあっては、うす気味悪いことこの上ない。このコンクールの性格については、昨年秋東京府中の団地で文庫活動をしている日本婦人会議府中支部・子ども文化研究会の主婦たちが仔細に検討し、それをまとめて『社会新報』に連載した。それについては既に『出版ニュース』(一九七四年一二月中旬号・本書二二〇頁収録)で触れておいたので詳しいことは省くが、彼女たちはその<課題図書>を自分たちも読み、子どもたちにも読ませて、これは道徳教育の一環ではないかと推定する。そして、この全国的な感想文コンクールの行事が総理大臣賞を最高賞に据え、その表彰式に皇太子夫妻を招いて有終の美を飾るものであり、関係者が金科玉条の如くふりかざす「考える読書」というスローガンが、皇太子の発案によるものであることなどから、<読書運動>だといえば、誰しもよいことだと考える間隙を縫ってまかり通っている極めて政治的な、かつ反動的・国家主義的な行事ではないのかと大胆に結論しているのである。
いずれにしても、この<課題図書>はある部分、いや、かなりの部分で日本の創作児童文学の流れを変えたことは事実である。昨今、これに批判的な編集者もちらほら出て来ているが、<課題図書>の指定を受けたとしても断固拒否するという線まで、まだ程遠い。刷り過ぎて返本の山を抱えるようにならなければ、商売としては、悪くない材料だという部分がまだある。出版経営が営利事業である以上、これもまたやむを得ないことであるのかも知れない。
しかし、このコンクールのもとで、さして食指の動かない本を押しつけられてうむを言わせず感想文を書かせられてしまう読者のことを考えると、やはり、やむを得ないこととしているわけにはいかなくなってくる。
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創作児童文学はこの<課題図書>が猛威をふるい始めたときから、テーマ主義的傾向を示し始めた。そして、子どもの本の仲介者である、親たち、教師たちに通りのよいテーマのものが好意をもって迎えられ、仲介者の中でも読書運動家と目されるあたりが、本の批評を始め、本の善し悪しを作家の傾向(思想性もふくめた上で)で判断する風潮が出て来た。その点では、日共系の読書運動家や児童文学者が、数の上でも圧倒的に多く、彼等はひたすら自分たちの陣営の作家の作品をほめたたえている。
私はそのことは当然だろうと思う。そうでなければ党派的な運動は伸展しないだろうと思う。それがたとえ、露骨すぎて、読書運動ではなく、売書運動ではないかと思われるほどであっても、それは党派性という点で認めていいと思う。誰しも、自分たちの陣営を誹謗するような言動をする作家の作品は認め難いだろうと思う。いずれの側も納得させることの可能なものというのは、いずれの側にとっても正体不明であるからだ。にもかかわらず、公平・公正を装うとすれば、それはペテンであり、そこになんらかのからくりが在ると見なければなるまい。
その点で、私は割り切っている。私やずっと以前に<トロツキスト>の烙印を押された佐野美津男の作品が、黙殺されることを当然だと考えている。まかりまちがって取りあげられ、ほめたたえられたりしたら、最大の緊張をもって警戒すべきだと考えている。ただ問題は、そのことによって、読者である子どもたちの手に渡る率が悪くなるのも、やむを得ないことになってしまう。その点で、日共系の読書運動家のひとりが、自分たちの運動は、自分たちの選んだ本を子どもにひろめることであり、その運動は同時に作家を保証することでもあるといっているのはかなり説得力がある。やはり、そこでは組織がものを言っているのであるが、これはどうも、文学の問題として考える性質のものではなく、組織論・運動論といった点で捉えないと、穴があるように思える。
これが機械的に処理できることであれば、彼等の政治感覚に見合ったテーマの本だけを子どもに押しつけることにより、子どもがそういうものにいやけをさして、他の傾向の本を手にするようになるということなのだが、実際はそんなものではない。そういうものを押しつけられることにより子どもは「読書」という行為自体にいやけがさすことになり、本から遠ざかってしまう。また、「保証」される……こんなことを作家が言わせておいていいのかどうか別として、そのことにより、子どもの要求に応じる作品というより、仲介者の要求に応じた作品を生産することによって、<児童文学>の作家主体が荒廃することの方が問題だと思う。
もっとも、これは「児童文学」という極めて矮小な、閉鎖された領域のことであり、一般には、やはり、そこは漠然とではあるが、「美しく可憐な花壇」があるらしいと思われ続けているのだ。そして、地方へ講演で行ったりすると「先生の本は課題図書になりませんね、早くそうなるよう今後のご研鑚を」とお祈りされてしまったり、あるいは有力な婦人団体の雑誌のつくったリストに作品名が数多くのるようにと励まされてしまったりする。
それに対して私が、それぞれの現象はやむを得ないのだと説明しても、「みんな本気で、子どものしあわせを願っているんでしょ。だったら、仲良く手を組んで、大局的見地から、児童文学全体を考えましょうよ」と統一戦線への参加をすすめられてしまう。この国のおとなたちはどうして、こんなに、仲良しこ好しでやりたがるのだろう。
私は私なりに現在居すわっている場所をそれほど窮屈にも思っていないし、戦争中、多くの児童文学者たちが小異を捨て大同して、私たちに<思想善導>をしてくれたことをなんとしても忘れ難いのである。
今年は戦後三〇年ということで、<児童文学>もそれに登場すると思われる。だが、戦後三〇年を私は逆コースの三〇年と考え始めている。私にとって、子どもの本を書くということは、その三〇年前へのこだわりともなっているのであるが、そのことによって、私は<児童文学・児童読書>とよばれるものが、その閉鎖された領域の中にだけとどまっていてはならないとも考えている。
テキストファイル化田中志保