年をとること
ここの所、例によって『ボクラ少国民』の続編のための古い教科書や、教育雑誌に埋没している。ついこの間、児童文化功労賞とかいうのを貰った人が、「われわれは国民学校なる発射管に児童を装填して、絶忠の火薬に火を点ずる……」などという恐ろしいことを書いているのに仰天したり、いまをときめく四〇年の教科書造りのベテランが作った教科書の、
この国を 神生みたまひ、
この国を 神しろしめし、
この国を 神まもります。
という詩にあきれはてたり、また、児童文壇の長老ともいわれる詩人が、尽忠報国の至誠に燃えて、
てふてふ てふてふ
くみだせ はこべ
みなみの はなの
だいじな みつを。
あめりかてふてふ
いぎりすてふてふ
しづんだ うみに
おひさま のぼる。
てふてふ てふてふ
とべとべ てふてふ
てふてふ てふてふ
日本の てふてふ
などという童謡を書いているのにぶったまげたりしている。そんなわけで、ほとんど新刊書に目を通すひまがない。そして熱中すればするほど、自分がひねたガキになって行くようなとまどいと、へたをすると、一九四〇年代前半(戦時下)の過去にとりこまれてしまうのではないかという恐ろしさにとらわれている。つまり、いつまでたってもガキで、ガキのところから抜け出せない自分にいらだちを覚える。
しかし、現実はそんなに甘くはない。ぼくをガキのままになどしておいてはくれない。先日、小田急線の電車のなかで、ぼくは小学生に「おじいさん」といわれた。「おじさん」ではない。
ぼくは別に彼に入れ歯をはずして見せたりした訳ではなかったから、さすがにガクゼンとして、その小学生の顔を見た。その小学生はつれの母親らしき人物に「あのおじいさんのとなり、あきそうだよ」とぼくの方を見ていったのだ。確かにぼくのとなりに腰をおろしていた若い男が、網棚からアタッシュケースをおろして下車する仕度をしていた。新百合丘駅で若い男が降りて、そこが空いたが、同時に向かい側もあいて、その親子はぼくの正面に並んで腰をおろした。ぼくはいささか敵意をこめて、その小学生を見た。と、その小学生が若干斜視であることに気づいた。ぼくははっとして、自分の側の座席を見た。空いた席の向こうに、間違いなく老人がいて、ぽかあっと気の抜けたような顔で車窓を眺めていた。その小学生が「おじいさん」といったのは、どうやらぼくのことではなかった。しかし、ぼくはしばらくその衝撃からいやされなかった。
過ぎ去った、それも三〇年も前の過去にいつまでもこだわるのは、オニイサン(若者)たちのやることではないだろう。どちらかといえばオジイサンのやりそうなことのような気がする。だがオジイサンになってからやったのでは、まにあわないこともある。せいぜいオジサンのうちにやっておかなければ……。
そういえば、いまから、もう一五、六年前になるが、ある児童文学の講座で、たまたま講師だった、例の教科書造りの大家にいわれたことがある。
「山中君、あんた、もっと年をとりなさい。老成しなければ、よい児童文学は書けませんよ」
華奢で小柄で童顔のその老人は、慈愛のまなざしでぼくを見つめながらいった。ぼくは当時、不勉強でその老人の過去の経歴を知らなかった。しかし、その老人のいかにも自信に満ちた態度に、反発をおぼえた。もちろん、外国などでは、老成して、よい作品を書いた児童文学者はたくさんいる。人によっては評価が一致しないかも知れないが、アーサー・ランサムや、先ごろ物故したT・R・R・トーキンなどの例はいくらでもある。
だからといって、かならずしも老人ばかりがよい作品を書くとも思えない。すべての老人がランサムやトーキンではないのだから。それと、その「よい児童文学」が問題である。だれだって「よくない児童文学」や「よくない児童読物」を創作するために苦しんでいるわけではない。ただ、戦時下の児童文化関係資料を見てきていえることは、政治的多数決評価は時流に見合った政治的によい作品しか生めないということである。
脇役登場数世界一の教師について
神宮輝夫の説(講談社文庫『サムライの子』解説)によると、学校生活を素材にした児童文学作品は、ヨーロッパやアメリカなどにくらべて、日本が量の上で圧倒的に多いのだそうである。つまりその点では世界一だということになる。神宮は「そのことは一つの興味ある問題であるが……」と述べているが、正直なところ、割につまらないことで世界一なのだなと思った。というのは、おとなであれば誰でも学校生活の体験があり同時に子どもの日常的リアリティを設定するのに〈学校〉という場所は楽だろうというふうに考えたからである。ところが、神宮の文章を続けて読んでみて、ぶったまげた。「中でも山中恒は異常なほどに学校を舞台に作品を書いている」とはっきり指摘しているのである。
自分では気づかなかったことであるが、言われてみるとそんな気がしないでもない。ということは、山中恒は世界一量的に学校生活を素材にした作品を書いていることであり、そのことについて、自分自身で「割につまらないことで世界一」であり「楽な状況設定で作品」を書いていると判断を下してしまったわけである。だから、うかつに物は言えないのだ。もっとも、神宮はそれを、山中恒の戦時下の被教育体験へのこだわりからくるものであろうとしているが、その点は全く異議なしである。
と同時に、ぼく自身、かつて教師になりたかったのに、なれなかった無念さへのこだわりもある。ぼくが高校を卒業して、横浜市内の小学校へ代教として就職が内定したとき、ぼくの卒業した高校の教師たちが教育委員会あてに「この人物は粗暴で、危険思想者であるから採用を見合せられ度し」という投書を送りつけた。普通この種の投書は問題にされないのだが、出身校の教師たちの連名である点が重視され、既に受け持つクラスまで決まっていたのにぼくの採用は、取消されてしまった。その教師たちは揃いも揃って、戦時中、ぼくらに狂信的天皇制ファシズムの錬成を課した連中であった。もういまから二五年以上も前の話だが、そのときから、ぼくは絶えず、教師の存在を考え続けてきた。
学校生活を素材にした作品が多い以上、当然、教師の登場も多くなる。そこで脇役をふられた教師たちは、さまざまな意匠をまとって登場する。ときに教育労働者であり……、聖職幻想者であり、管理者であり、共犯者であり、権力者であり……、そのさまざまな側面をのぞかせて登場する。そして、たとえフィクションの場であろうとその教師こそ、かつて、ぼくがなりたくてもなれなかった職業人としての教師なのである。そうしたやっかみから、ときに教師はぼくの作品の中で不当な扱いを受けることもある。イソップのキツネがとれないブドウに毒づいているようなときもある。ときにロマンチックに偶像化してみるときもある。が、一方では、自分が教師でないにもかかわらず、実は、教師と全く同じ位置で子どもに対しているおとなであることに、絶えず怯えてもいる。ぼく自身、こうあるべきだという子ども像を持っていない以上、教師についても、こうあるべき教師像は持っていない。両方とも人間であるから固定概念で捉えて意識内で規定してみても無意味なのである。
ところで、現在ぼくは、これまで絶えず脇役をふってきた教師を主役に『ボクラ少国民第三部 撃チテシ止マム』の第二章〈闘う師魂〉を執筆中である。もちろんこれは、戦時下の教師についての考察であるが、これとは別に、いつの日か、子どもの読物にメイン・キャストとして教師を登場させてみたいという願いも持っている。
お互い執念深いこと
夏休みちょっと前のことである。出身高校の創立五〇周年記念誌に回想文を寄稿してほしいという依頼を受けた。前もって電話で打診してきたのは、その高校の前身である旧制中学時代の先輩であると同時に、国民学校時代のぼくが三年間受け持ってもらった恩師であった。Y先生は記念誌編集委員会からの依頼で電話をしていること、その前に、山中はこの学校に余り好意を持っていないが、それでも原稿依頼をするのかと念を押しての上であること、従って書く書かないは自由であり、この電話は一応編集委員会の意向を伝えるだけのものである旨を話された。
ぼくは現在、戦時下の国民学校教育についての著述をしている関係もあり、Y先生とは取材でしばしばお会いしていたので、先生も気軽にご自分の立場をお話しになり、諾否は求めないとおっしゃった。ぼくも「こちらが好意を持っていないことを先方が予め承知の上で、なお依頼があるようでしたら、書いてもよろしゅうございます」と申し上げておいた。
数日後、記念誌編集委員会から正式の依頼状と字数の指定、所定の原稿用紙が送られてきた。その時点でぼくは、あえて毛色の変わった回想も掲載しようという編集委員会の勇気ある態度に好意を感じ、締め切りオーバーで、一、二度の催促を受けたが、とにかく原稿を送った。「皇国民錬成と戦後民主主義のはざまで」という題で、当時の先生たちの軍国主義から民主主義へのヒョウ変ぶりや、同級生には特別の事情ある人物まで含めて、みんなになつかしさをおぼえるが、当時の先生たちのうちには未だに好意を感じることが出来ない人物もいるとして、ぼく自身の就職にかかわる鬱憤やる方ない事件のことを書いた。
それは三年卒業の際、ぼくが横浜市の小学校へ代教として採用が内定したことを知った数人の先生が、教育委員会あてに、〈この者は性格粗暴の上に、思想的にアカであるから、教員としては不適当である。従って採用は見合わせられ度し〉という内容の投書をしたのである。教育委員会ではこの種の投書はあまり問題にしていないということであったが、たまたま出身校の教師の連名による投書であることが重視され、小学校あてに採用取り消しを勧告してきた。小学校でも、辞令が出てからでは紹介者や、採用審査者の責任が問われてやかましいことになるので、この話はなかったことにしてほしいということになった。もしこの投書を無視すれば、更に上級機関に同一投書が送られるおそれがあること、そして当時、教育界にはレッド・パージの旋風が吹きあれていたという事情もあって、ぼくは因果を含められた。
そのとき紹介者は、多分お前は、この県では生涯教師にはなれないだろう、教育界というのは執念深くて、一度マークされると、なかなか消去されにくいものであるということをそれとなく話してくれた。
帰り道、まさか自分の学校の先生たちに、こんな仕打ちをされるとは思ってもいなかっただけに、ひどいショックを受け、駅のホームのベンチで、乗るべき電車を、何本も見送ってしまう始末であった。
この事件についても忘れがたい回想として書いた。
果たせるかな、掲載を断られた。理由は見積もりしたところ、当初の予算では大幅に減ページを余儀なくされることになったので、折角頂だいした原稿であるが割愛せざるを得なくなったというのである。多分、その通りなのであろう。だが一方では、そんな重大なことが突然判明するとも考えられないという疑いが起きたことも否定できない。あえて邪推すれば、かつてぼくを投書でいためつけたと同じ体質の人間がどこかにいて掲載拒否を画策したことも考えられる。
つまり、創立以来何年間、いいことずくめの教育が行われてきたかの如く自画自賛したいのが一般に公刊されている記念誌である。それにとって、たとえ事実であっても明らかに不協和音と思われるものを除去したいのは当然の人情であるかも知れない。そのことにより、事実が斬り捨てられたとしてもである。
その意味では、斯くすれば斯くなることと知りながら、敢えてタブーを犯したぼくの方が愚かであったと思う。
あのとき不採用を言い渡されて家へ戻ったぼくを父が陽気になぐさめてくれた。
「なあに、時がたてば、そんなことは笑い話になって、お互いにあの時はどうもってことになるし、そうなるためには、二度と先生になろうなどと思わないことだな」
父が他界してから一五年になる。「時がたてば……」というのは、四分の一世紀では足りないということを知ったら、父はどんな顔をするだろうか。やっぱりぼくは、学校に好意をもてないのである。
以下に掲載するものは、母校の記念誌のために書き、不採用となった一文である。
皇国民錬成期と戦後民主主義のはざまで
もし〈母校〉という概念から、一部の教師の存在を黙殺することが可能であれば、ぼくにとって神奈川県立秦野高等学校は、こよなく懐しい母校である。交通は不便だったが、景色はよかったし、同級生もいいやつばかりだった。但し母校の中にかかわりあったすべての教師が含まれてくると事情が変ってしまう。
ぼくが母校を卒業したのは一九五〇年であるから、既に二六年も過ぎた。ひと口に二六年と言うが、生まれた赤ん坊が親父になっているかも知れぬ歳月である。確かにその間、ぼくは大学の夜間部を卒業し、職を転々と替え、現在の職業になって一七年、著書も六〇冊になる。だが、それほどの歳月が過ぎているにもかかわらず、いまだに、もし何かで顔を合わせるようなことがあれば、ものも言わずに殴りつけてやろうと思う教師が五人もいる。こうして原稿を書きながらも、その連中を思い浮かべてむかむかしているのである。もちろん、いやな教師はどこの学校にもいる。しかし、五人というのは、どう考えても多すぎるようだ。なかには物故者もいるらしいが、今思うと、よくもあんないやな人間が集ったものだとあきれてしまう。
彼等はことあるごとに〈どうせお前らは秦野の山猿だ〉とばかにしていた。ぼくらを、小田原中学、厚木中学、湘南中学へ行けなかったクズの集りだと公言してはばからなかった。自分たちの中学生時代、ぼくらの母校を〈組合立イモ中〉と称したことを得意気に言ったりした。多分冗談のつもりだったろう。だが、その不遜な態度にぼくらの胸はいたみ続けた。そして、ぼくが個人的に、彼等をいまだに許し難く思うのは、彼等が密告という一番卑劣な手段で、ぼくの最初の就職を妨害したことである。彼等は連名で、既に採用内定だったぼくの就職先の上級機関へ〈この人物は粗暴で危険思想者である故、採用を見合せられたし〉と投書した。その種の投書は普通問題にされないのだが、出身校の教師の連名である点が重視され、ぼくの採用は取消されてしまった。自分の教え子を平気で葬れる教師とは、一体どんな神経の人間であったか。ほかでもない、戦争中、恣意的に暴力をふるい、〈大日本帝国は神国であり、絶対に敗けることはない〉と教え、宮城遙拝の仕方が悪いとぼくらをけったり、掃除当番の態度が悪いとぼくらを殴り倒し、敬語の使い方が悪いとビンタをくれていた人間なのである。
ぼくが秦野中学へ入学したのは敗戦の前年である。まともに授業をしたのは一学期だけで、あとは殆ど学校造林の作業と農家への勤労奉仕であった。三年生以上は学徒勤労報国隊として工場動員されていた。農繁期は連日朝早く大根駅前に集合して、大根村の農家の作業を手伝ったものである。当時の生徒手帳が現在も手もとにあるが、それに作業日誌が記されている。〈昭和十九年一一月二六日天候晴、作業課目脱コク、奉仕先市川覚三家、本日午後作業中上空ヲ敵機通過セシヲ発見直後警報発令、金子君ノ二人〉などとある。そういえば植林作業でけがをして大秦野駅のそばの八木医院で手術を受けたこともある。そだ鎌が左足の甲から、うらへ抜けたのである。
一九四五年三月、ぼくは北海道へ転居し、そこで敗戦を迎えた。ひたすら天皇陛下のおんためにと教育されてきたぼくらは、死んで陛下にお詫びしなければならないのではないかと思った。教師たちもふだんから、もし戦争に敗けるようなことがあれば、死んで陛下にお詫びすべきだとぼくらに言いきかせていたからである。だが、だれひとり死ぬ教師はいなかった。秋には、きのうまで教科書の扱い方が悪いと生徒を殴っていた教師の命令で、ぼくらは教科書に墨を塗らされた。戦時下の天皇制ファシズムの色彩を教科書から抹殺するためであった。これは手ひどい裏切りであった。この時期の秦野中学については一年下の文芸評論家のゆり・はじめ(山口章)君が『疎開の思想』(潮新書)で若干ふれている。
一九四六年一一月、ぼくは三度めの転校で秦野中学へもどってきた。戦争中二度とお目にかかれないのではないかと思っていた懐しい母校と級友たちと再会することができて、幸せだった。しかし、ぼくが転入手続きを取りたいと申入れると、事務職員は空籍がないと言い、両毛教頭はひどく迷惑そうに、〈今は転校の時期ではない〉とまるで訳のわからないことを言った。それでも何度か足を運び自分で転校手続きをした。
ここでも、かつて天皇制ファシズムのガリガリだった教師たちが口をぬぐって、みごとに民主主義者に変身していた。しかし本質的には変っていなかったから、戦争中とおなじように暴力主義的に生徒を管理していた。一九四八年新制高等学校の発足により、ぼくらは高校二年に編入された。この頃の学校生活はかなりでたらめだったように思う。現在なら恐らく退学処分をくうようなことが、まかり通った。が一方、敗戦で自らの教育体系を失った教師たちが、占領政策の急激な右転回と共に再び自信を取りもどしてきた時期でもあった。いまだにむかつく教師たちとめぐりあったのもこの時期である。もちろん、いまだにおつきあいを願っている方も何人かいる。ことに現在和光大学教授の武田孝先生は、ぼくの三年の時の担任で、ぼくが何度か自発的に退学しようとしたとき、その都度、先輩として暖い助言をしてくださった。またぼくはそのころから児童文学の創作を始めていた。今にして思うことは、あの時、武田先生にめぐりあっていなければ、ぼくは現在、他の職業を選んでいたのではなかろうか。一方的に自分の側のことだけ書きなぐったが、逆に考えると、ぼく自身、むかつくほどいやな生徒であったのかも知れない。
青春は汚辱だと言う。多分そうだろう。あえて言えば汚辱まみれであった。もう一度若さをやると言われても、もう高校時代はまっぴらだ。が、現在、ぼくが〈女房〉と呼ぶ女性はその時期大秦野高校で一級下、自治会の副会長をやっていた人物であり、それを思うと必ずしも、断定的な決めつけはできない。拭い難い汚辱と共に〈初恋〉も存在したのであるから。
『佐々木邦全集』第九巻(講談社)
佐々木邦という作家の名前を聞いて、即座に『苦心の学友』とか『トム君サム君』といった作品名を思い浮かべるのは、多分一九三〇年代に少年時代を過ごした人たちだろうと思う。佐々木邦は、佐藤紅緑、山中峯太郎、吉川英治らとともに、児童雑誌『少年倶楽部』の昭和初期の黄金時代をユーモア小説で支えた作家である。といっても、子ども向けの専門作家ではなく、数多くの一般向けのユーモア小説を一九六四年に心筋梗塞で八一歳の生涯をとじるまで書き続けた。
こんど講談社から刊行された『佐々木邦全集』(全一〇巻・補巻五)の第九巻には、先にあげた二作のほかに『全権先生』と『村の少年団』の四作が収められている。このうち『全権先生』だけが『少女倶楽部』に連載されたものである。書店で聞いたところでは、この第九巻だけを注文する客が多かったというが、事実、佐々木邦の名はこの第九巻にはいった作品によって知られるようになった。いいかえると、これによって多くの読者を獲得したということである。
一応、掲載順に簡単な作品内容を紹介しておく。
『苦心の学友』は、現在は廃止された制度であるが、華族の旧藩主花岡伯爵家の三男照彦のところへ、旧家臣内藤家の三男正三が住み込みの学友として行き、我がままで、なまけものの照彦の相手をつとめながら成長して行く物語で、教育主事で漢学の安斉先生というユニークな脇役が登場する。
『全権先生』は株やの主人金田金兵衛邸へ、全権家庭教師としてやってきた義弟の帝大生丹下五郎助がいかにして、我がままで、なまけものの甥や姪たちを指導し、主人金兵衛をして親の自覚を持たせるかという物語。
『村の少年団』は日出村の優等生で六年の江藤保男と土屋与四郎が相談してつくった同級の仲間四〇人の「日出村少年健児団」が分裂したり、他村の子どもたちと抗争したり、おとなの無理解にはばまれたりしながら、善行を積みあげて行く物語。
『トム君サム君』は本間君、安井君というとなりどうしの親友と、その庭の塀をへだてたとなりへ越してきたアメリカ人、ミラー家のふたご、トマス・ベンネットとサムエル・ベンネットの交流をユーモラスに描いたもので、当時の日本の国民的気風とアメリカ人気質を見事に対照させている。
実は筆者も子ども期にこれらの作品をくり返し読んだものであるが、そのためか、改めて読み返そうとすると、作品の内容よりも、これを読んだ当時のことを回想することの方が多くて、意外に時間を食ってしまった。
それはさておき、いま読んでみても、この作家の並なみならぬユーモアの才能と、当時の風俗をとらえる目の確かさにはおどらかされる。
確かにどの作品も、当時の体制的なTよい子づくり″を目指すものであり、当時の体制的なイデオロギーを根底とした〈教育物語〉であるには違いないのだが、華族とか金持ち階級のなかにある鼻持ちならぬ退廃を〈諧謔〉という手法を武器に鋭く衝いているし、子どものバイタリティにも目が行き届いている。しかも、その目にはTどんな子もよい子なのだ、初めから悪い子などいない″という、あたたかさがある。恐らく、このあたたかさを持つ〈諧謔〉が、当時の年若い読者たちを強烈にひきつけたのだろうと思う。それと、文中の会話の巧みさとテンポの早さは、いま読んでも新鮮さを失っていない。
先に当時の体制的なTよい子づくり″の〈教育物語〉といったが、そこを越えてくるあたたかさは、彼自身、著述に専念する前まで、慶応大学予科で英文学を教え、翻訳家として、マーク・トウエインから多くを学んだことによるだろうと思われる。
当時の児童マスコミの第一線にあったことは、それ自体体制的であったという問題もあろうが、ユーモア小説のジャンルに残されたこの才能のひらめきは、今日なお恐るべきものがある。
筆者自身、ジュニア向けユーモア小説を何点か刊行してきたが、常にこの佐々木邦が念頭にあった。そして佐々木邦の作品の持つ〈意志〉への抵抗がある。佐々木邦には〈おとなの目〉がある。〈挑戦〉とよぶにはあまりにも小粒で身の程知らずかも知れぬが、べつの目を獲得したいと願っている。いま、筆者自身、佐々木邦がこれらの作品を書いた年令に近づきつつある。
ぼくにとってのサトウハチロー
ぼくの子ども時代は、戦争中でしたから、本やに行っても、ユーモア小説など、売っていませんでした。役人が、ユーモア小説など、戦争下の子どもにふさわしくないといって出版させなかったのです。ですから、こういうものが読みたいときは、ずっと年上のねえさんやにいさんのいる友だちのところへ行って、古い本を読ませてもらったのです。そのなかに、サトウハチローのユーモア小説がなんさつかありました。物語のなかの会話のなかに、やたらにおかしなだじゃれがあって、けらけらわらいながら読んだものです。
日本の子ども向けのユーモア小説の元祖は佐々木邦ですが、佐々木邦のものには「ためになるユーモア小説」というふんいきがあって、ユーモア小説としては、完成度の高いものですが、やはり教訓的なところがあって、どこかに、かたぐるしさがありました。
ところが、サトウハチローのものは、どちらかというと、八方破れの、めちゃくちゃなところがあり、かえって、それが、ユーモア小説としては、子どもの心をつかんだように思います。
そのサトウハチローも、戦争中は、雑誌で、ちっともおもしろくない、ユーモア小説を書いていました。ぼくはそれを読んで、「戦争だから、サトウハチローもまじめになっちゃったんだなあ」なんて、本気で思ったものです。もちろん、これも出版関係の役人が、目を光らせていたせいもありますが、世の中には、わらいのゆとりなど、なくなっていたのです。
そして、敗戦後、サトウハチローは、そのときのことを取りもどすみたいに、『ジロリンタン物語』などを書きだしました。その後、ユーモア小説は、おとなの小説の分野では、遠藤周作、井上ひさし、田辺聖子をはじめ、サトウハチローの妹、佐藤愛子といった人たちにひきつがれていますが、子ども向けのユーモア小説としては、めぼしいものはほとんどありません。サトウハチローのあと、ぷっつり切れてしまったみたいです。
その意味で、ぼくもこんど、読売新聞社から、児童よみもの選集全一〇巻を出しますが、そのうちの八さつまで、ユーモア小説です。それは、ぼくが佐々木邦や、このサトウハチローの作品から学んだものです。この、岩崎書店の「サトウ・ハチロー・ユーモア小説選」を読み終わったら、ひとつ、つきあってみてくれませんか。
佐野美津男の〈戦後〉
毎年八月一五日が近くなると、ぼくはいやおうなしに、一九四五年の同日の自分に引きもどされる。これはぼく個人の問題ではなく、同世代の人間にとって共通の現象である。ところで、ここ十数年前から、その時の自分へ舞いもどると同時に、佐野美津男のことを思うようになった。というのは、ぼくが〈敗戦〉という現実を認識する以前に、佐野は三月一〇日の東京大空襲で両親とふたりの姉を失い文字通りの孤児となり、実質的〈敗戦〉を五か月も前に体験していたという話を聞いてからである。当時、学童集団疎開で宮城県の白石にきていた彼は上級学校入試のために帰京し、まだ煙をあげているわが家の焼跡の前に立ったのである。それまでに、佐野はなんどか疎開学寮から脱走を試みて失敗している。それについては『浮浪児の栄光』に詳しい。それほどの思いまでして、やっとわが家へもどることができたのに……。浅草区済美国民学校初等科六年生の佐野あきとし少年の心情は察するに余りがある。
帰る列車のなかでも、なんとも説明のつかぬおかしなことが起き、なにやら不吉な感覚にとらわれたが、まさか家もろとも家族が焼死するなどということは思いもつかなかったという。ま新しい下駄がまっぷたつに割れてしまったり、まちがいなくきちんと網棚へあげたはずのリュックサックが転げ落ちて、なかにあった、それこそ宝物のように大事なにぎりめしが通路へ落ちてつぶれたという。佐野は、自分は学校でもボスだったし、抜けめなかった方だから、網棚へリュックをあげるとき、一番先に、一番確実な場所へリュックをのせたという。それなのに、こともあろうに、佐野のリュックだけが網棚から転げ落ちたのである。「ひとりでリュックがとびだしたとしか思えない」と佐野が語ってくれた。そして、その日から、佐野の壮絶な戦後が始まるのである。
しかもその日からまさに満三〇年、一九七五年三月、佐野の少年詩集『宇宙の巨人』が理論社から出版された。公刊された詩集としては最初のものである。「はじめに」で佐野は「千篇以上は子どものための詩を書いたはずなのに、集まったのは百篇たらず。そのなかから、まず日本的なものを除外した。昔はずいぶんと日本的なところがあったことがわかり、大いに反省させられた。/いまでは、日本的なものに対しては、否定的にしか関心がない……」と書いているが、そのたくさんの詩作のなかから選びだしたものだけあって、詩人としての佐野の優れた資質を改めて知らされた。
がなかでも、ぼく自身の仕事のかかわりから「・ さよならの歌」に収められている七篇には、ぼく自身の子ども期、青春前期、青春期と重ね合わせ、心を深くえぐられる思いがした。よく「少年の心をいつまでも持ち続けているのが詩人だ」といわれる。だが、佐野にとっての「少年の心」とは、決して、もやのように甘いノスタルジックな回想に彩られたものでないことは、いままで述べてきたとおりである。「最も戦う少国民」としての戦災児童から、一変して「戦災浮浪児」として邪魔もの扱いにされ「非行少年」としておとなから徹底的にいためつけられ、自殺を試みるほど、ぼろぼろに荒廃させられたものであった。くり返すが、まさに壮絶な生き方を支えた心であった。
それなのに、この章に収められた詩の、なんと暖かくやさしいことか! この稿を書くため、ぼくは改めて読み返してみて、せぐりあげてくる熱いものをおさえられなかった。
正直、ぼく自身、詩はにが手なのだ。ぼく自身詩人ではない、そのことは前にも佐野に指摘されている。だが、そのぼくでさえ、この詩に感動している自分に、更に感動したくらいなのである。
今年の五月、日本児童文学者協会の機関誌『日本児童文学』は特集〈新しい詩よ おこれ!〉を組んだ。予想したことではあったが、出版リストにはあげてあったが、だれもこれには触れていなかった。もっとも、へたなとりあげられ方をするくらいなら、黙殺される方がこの詩集にはふさわしいのかもしれない。政治的な読みでよごされるくらいなら、そっと片すみに置いておかれた方が、この詩集を愛する者として心やすまる。
まだまだ書くことがあるはずなのに、紙数がつきた。葉書なら「不一」と書くところだ。考えてみたら、ぼくは自分の本の解説や推薦文をなんども佐野に書いてもらっているのに、ぼくはいまだに佐野個人について論じたことがなかった。これを機会にいずれまた、佐野について書きたいと思う。
テキストファイル化泉和加代