『児童読物よ、よみがえれ』(山中恒 晶文社 1978)

憲法を生きて

 ことしは憲法施行30年であるという。初めて「新憲法」とよばれる日本国憲法を読んだのは、敗戦の翌1946年の暮れであった。中学3年生満15歳の少年にとって、これは格別おもしろいものでもなんでもなかった。ただ、戦争中にことあるごとに大日本帝国憲法第一章第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」や第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」をきかされ、この世界に比類なき国柄の御民として生をうけた喜びを自覚せよと練成されてきたことから、新しい憲法第一条の天皇が象徴であることや主権在民に、目新しさと同時に、ある種のとまどいを感じたものである。
 そのころ、ぼくが在校した中学では、戦争中とかわらぬ、教師の暴力による体罰が横行していた。そこでぼくらは第十一条の「基本的人権」と第十八条の「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない・・・・・・」をたてに、抗議を申し入れた。だが、さわぎを知った教頭がかけつけて、ぼくらの抗議に一切耳もかさず、それこそ暴力的にぼくらを追いちらした。しかも、そのあとで、ぼくらの抗議にうろたえていた教師にむかって、「新憲法なんて来年の五月から施行ですよ。それまでは帝国憲法でいいんです。そのときになったら、また考えりゃいいんです。基本的人権なんていったって、おんなじことが帝国憲法に書いてありますよ。もっと勉強してください、勉強を!」といっているのを聞いた。
 このとき、おとなのしたたかさを思い知らされると同時に、無力感にもうちのめされた。いまにしてみれば、ずいぶんとお先ばしったいやらしいがきだったのかもしれない。しかし、実際、翌年の五月すぎても学校内の状況は、ちっとも変わらなかった。教師や上級生による暴力事件はあとを断たなかったし、校内風紀維持を建前にして、学校を配達先としてきた個人あての文書は開封されるし、没収されるしで、憲法などというものは、ぼくらにとって無縁のものなのだというように思った。そんなわけで社会科の授業に取りあげられる憲法には、敵意をこめて、そっぽをむいたものである。
 そののち、憲法はぼくらと無縁のものでなく、それを無縁のもののように思わせていた存在が立ちはだかっていたということが理解できるようになった。しかも、それはそのときはたまたま地方の旧制中学の教師であったが、政治的には、その憲法の効力をさまざまに国民から遠ざける立法がなされていることも知った。たしかに憲法は国の建前であり、現実には建前通りにならないという言い方がある。だがそれなら、無用の長物であろう。問題は無用の長物化させないことだ。そのための立法府への油断のならぬ監視が必要だろう。同時にそのための組織的政治力も必要であろう、ということは理解できる。
 しかし、現実に周囲を見た場合、ぼくはあの満15歳の少年であったときの、とまどいと無力感を過去のものとして捨てさることができない。あるいはぼくの日本国憲法とのめぐりあいが、たまたま不幸な原体験であったのかもしれないが、その国家の建前と現実社会の本音の極端な差が、健康という名の病人を見るような無気味さとなって、はね返ってくる。だが、果たして日本国憲法とのめぐりあいを幸福な原体験にもつ人物が、日本国民のなかに、どれだけいるだろうか。きょうも、ぼくの子どもたちは、その憲法のことを書いた教科書をむぞうさにかばんにおしこんで登校して行く。
テキストファイル化内海幸代