『児童読物よ、よみがえれ』(山中恒 晶文社 1978)

佐野美津男『イメージの誕生 子どもにとって美は存在するか』(農文協「人間選書」)

 13年前(実際に執筆されたのは15年前)本書を著者からおくられ、ひと晩まんじりともせずにページをめくり続け、読み終ったときの、あの鮮烈な感動をわたしはいまも忘れない。
 幼いふたりのわが子の成長につれてめぐりあうさまざまな体験を客観的に観察し、そこへ自らの子ども期の体験を重ねながら、子どもにとって美意識を形成していく原体験の核を追究して行く論理的な労作なのであるが、結果はどうあれ、わたし自身、本書にめぐりあったことで多大な影響を受けたことも事実である。
 ことによるとこれは著書の意に反することになるかもしれないが、当時わたしはこれを<評論>というようには読まなかった。厳しい戦争体験を持つ著書の、子どもに関する多くの問題提起を含んだ自伝として読んだ。もちろん文章における文学的レトリックよりも、ダイナミックな理論的な展開に鮮烈な感銘を受けたのではあるが、それでもなお<評論>を超えて一種狡骨な反戦文学を読みとったように思う。その後の彼の一連の前衛的児童文学作品に強烈な父性を見たとき、わたしはこの読みとりにすくなからず自信をもったものである。
 それから13年、本書はついぞ再版されることなく書店の棚から消えてしまった。そして、わたしはわたしなりに限られた狭い範囲ではあるが、児童文学の分野とは直接かかわりを持たぬ多くの知己を得た。そして、こういう言い方をしたら、それらの人たちにとってずい分と失礼であると思うが「おや、こいつ生意気な奴だ!」と、それなりに敬意を表するようになった人たちの大半が、本書に目を通していることを知り、おどろかされた。中には児童文学作家としての著書を知らない人もいた。
 しかも「あれは現在の児童文学の分野ではどのように評価されているのか」と質問してきてわたしを当惑させた。わたしは彼らの期待に反し、ごく一部の者にしか評価されていないこと、厳しく検証を迫られることであるし、その作家主体を問われることになりかねない、事実そうした危険性(当然の問題提起)を含んでいる労作であると説明してきた。そしてこの危険性はかなりの部分において、現在でも有効である。
 そうしたことも含めて、本書は永いあいだ<まぼろしの名著>とされてきた。特に子どもの問題に関心を持つ学生たちの間では、<必読の書>とされながら、現物を手にすることができず、再刊を求める声が強かった。事実、私の蔵書はしばしば彼らにねらわれた。それがこうして装いを改めて、新しい読書の手に渡される機会にめぐり会えたことは、古くからの愛読書として心から嬉しく思う。
 さて<人間選書>の一点として新装なった『イメージの誕生』(旧書名『子どもにとって美は存在するか』)のあとがきで、著書は再刊されることについて「確かによろこびは大きいが、同時に恥ずかしさもひとしおである。いっぱしの気になって筆を運んでいるけれど、ほんとうに不勉強でなにもわかっていなかった。いまのわたしがなにからなにまでわかっているのではもちろんないが、まだまだ不充分のわたしの目から見てさえ、顔から火が出るほどに恥ずかしくなるようなことを、臆面もなくぬけぬけと書きつらねているのだ」と、ひどく謙虚に書いているが、じつは本書には、その十五年の歳月を感じさせないような今日的な問題が素朴な希いと怒りで力強く語られているのである。
 たとえば思いつくままにページをめくったところでも、
<ぼくは戦争体験が知識として伝えられることを無意味だと考えている。戦争体験はあくまでも戦争体験によって裏打ちされつつある心情として伝えられるべきである>
 といった文章にめぐりあう。今日、若い世代に戦争の意味が伝えられていない部分への提言がすでにこの時期になされているのである。そして、今日の状況でもなお、わたしはつぎの文章で力づけられる。<ぼくは子どもの内部世界が不毛であることを喜ばずにはいられないのである。いかに体制がその繁栄をうたいあげても、子どもの心が不毛であることは、確実に矛盾なのだ。この矛盾こそが実はあらゆる可能性をはらんだ空白であるわけで、その空白をいかなる色彩に染めあげるかが、彼我共通の課題である。もちろん、体制もこのことを充分承知であればこそ、教育に、児童文化にその力を傾注しているではないか>
 もちろん現在体制は繁栄は売りものにしておらず一見守りの態勢を示しているかのごとくであるが、子どもの心が不毛である現実には変わりない。しかも彼らさえ、子どもの心が不毛であることを前提として子ども状況へ介入しつつある。
 新装版へのあとがきの著者の前掲の文章を額面通り受けとったとして、こうした優れた<青春の書>を持つ著者に深い敬意を払わずにいられない。
 かつてみんな子どもであった。そして二度と物理的に子どもにたちかえることは出来ない。それ故に多くの手がかりを持ちながらも、子どもの内的世界のさまざまな秘密はときあかされていない。教育学を初め、医学、心理学、その他あらゆる分野からのアプローチはあったが、今日多くのおとなは子どもたちは不可解なイキモノとしてしか見ていない。
 今日著書が提唱し展開しつつある<子ども学>の課題もそのあたりにある。その出発点ともなった本書が今日再刊されることは、単に<子ども学>にとってばかりでなく、子どもにかかわる分野のすべてに亘って大きな意義があると思う。

テキストファイル化内海幸代