『児童読物よ、よみがえれ』(山中恒 晶文社 1978)

心に残る故郷の歌

 昨年末『音声資料による実録大東亜戦争史』(日本コロンビア・GZ−七〇七五−九)なるLP五枚組のレコード・アルバムを出した。目下その姉妹編ということで『資料・戦時少国民の歌』(日本コロンビア・GZ−七一〇一−二)の制作にとり組んでいるところである。
 もともと「歌」というものはふしぎな特性をもっており、むかしよく歌ったものを聞いたり口ずさんだりすると、そのころの情景がさまざまと脳裏によみがってくる。つまり「歌」は、すでに潜在意識層下に沈澱してしまったような古い記憶を抽出、再生する力を持っているということである。その効果たるや、とても文章の比ではない。じつはこんどのレコード・アルバムの制作意図もその辺にあるのだが、この作業を始めてから、気になる歌がでてきた。しかもその歌を口ずさむと、においまでしてくるような気がするのである。
 その歌の題名も知らないし、歌詞も歌い出しのほんの一部しかわからない。幼いころの記憶なので、あまりあてにはならぬが「命令一下北鎮の 精鋭ひとたび出で征けば・・・・・・」というのである。軍歌と思えるので手もとの戦時資料に片端から当たってみたが、該当するものが見当たらない。にもかかわらず、その僅か何小節かを口ずさむと、にかわのこげるにおいと鍋焼きうどんと深夜の情景がよみがえってくる。
 なにやら三題ばなしみたいだが、今から四〇年ほど前、私の父は小樽中央駅前の稲穂町西五丁目で「中央工芸社」という看板店をやっていた。にかわのこげるにおいは、油煙をにわか汁で溶いた営業用自家製の墨汁のにおいなのである。ふわふわした油煙を大きなすり鉢に入れ、熱いにかわ汁を注ぎながら、丹念にごりごりやるのである。当時父の店には常時五、六人の職人がおり、半数は住み込みだった。
 で、私が例の歌を口ずさむと、そのにおいをぷんぷんさせながら、父と職人さんたちが夜中まで仕事をしている情景がよみがえってくるのである。深夜、夜食に鍋焼きうどんをすすっており、店の片側には竹竿が吊ってあり、それに出征兵士歓送用のキャラコ地の大きなのぼり旗が何枚もかけて乾かしてあった。
 いまにして思うと、十五年戦争の第二段階である。”支那事変”が起きて、旭川の第七師団にも動員令がかかり、小樽市内からもたくさんの在郷軍人が応召したのだろう。<東洋平和ヲ乱ス暴戻支那ヲ断乎鷹懲>という当時の戦争政策の本音は、華北以南の中国をも「満州国」同様の植民地化するための武力侵略であったのだが、送る市民も、そうした戦争指導者たちの本音を知らなかった。なにしろ「オ国ノタメ」がすべてに優先する時代だったのである。
 小学校へはいるまえだった私が、未だにその歌をおぼえているということは、その時期、その歌がかなり頻繁に歌われたということであり、父の店にのぼりの旗の注文が殺到したということであろう。そういえば店の二階が住居になっており、私は通りに面した二階の窓から、この出征兵士歓送のパレードをよく眺めたものであった。私の父の書いたのぼり旗を立て、愛国婦人会、国防婦人会、在郷軍人会、それに町内の人たちの歌う「命令一下北鎮の 精鋭ひとたび出で征けば・・・・・・」で送られた人たちは、生きているとみな65歳以上の人たちである。
 正直なところ、私は酔って軍歌をうたい戦争体験を手柄話のようにひけらかすような人種は好きではない。そういう人たちに限って、ちょっとした国際問題が起きると「帝国軍隊が健全だったら・・・・・・」などと、ぶっそうなことをいう。当時の軍歌とか時局歌謡とかよばれたものは、例外なく戦争指導者たちの思想言語によってつらぬかれていた。それは人間的な苦しみや、おそれや、悲しみの本音の言語を奪いさる狂暴な言語であった。元気づけるため、勇気づけるため
悲しみを打ち消すために歌われたというのは、その本音をおさえこむためだったのである。また、そうでなければ当時の検閲機関は、そういう歌曲の一般流布を許さなかった。
 いま私が知りたいと思い、大切にしたいと思うのは、それらの軍歌や時局歌謡を歌うことによって奪いさらわれた市民の本音の方である。その意味で、私はあえてこの題名も歌詞もよくわからない歌を「心に残る故郷の歌」としているのである。この歌を母親は、姉妹兄弟は、恋人はどんな気持で歌いつつ、パレードして行ったか。これを聞いて出征していった若者たちが戦地でなにをさせられたか・・・・・・。それを知りたい。

テキストファイル化内海幸代