横谷輝児童文学論集1』(横谷輝 偕成社 1974.08.14

第二節 児童文学の思想
―児童文学における「近代主義」の問題―

(1)
 日本の児童文学を進展させ、より豊かなものにしていきたいということは、おそらくだれもが共通して抱いている問題意識であるにちがいない。だが、その日本の児童文学を、どのような方向において、どう発展させていくかについては、さまざまな視点や立場からのアプローチが考えられる。まして、現在日本の児童文学にとって、なにがもっとも根源的な問題であり、かつ緊要事であるかという点になると、きわめて多様な解答が予想されるだろう。
 ここでまずわたしの解答をひきだすとすれば、それは児童文学についての原理的な思考ということになる。
 たしかに、現代日本の児童文学がかかえている問題はあまりにも多い。それに対応して、問題の解決方法が多岐にわたることも、必然の動きである。そしてすでに、いくつかの処方箋がないわけではない。しかし、そうした現代日本の児童文学についての処方箋の多くは、そのときどきの現象にそくして提起されるごく短い時評であり、せいぜい状況分析ていどにとどまっている。
 いうならば、長期の見通し、広い視野にたっての本格的な処方箋というよりも、移りいく時の状況に応じたインスタントな解答だといっていい。
 もちろん、つぎつぎと生じる問題や状況にたいして、その底にひそむ問題点をえぐりだして的確に判断し、内包している意味を整理しながら、ホットなかたちで見解を提示することは必要であり、そのことの意義は、けっして過小に評価することはできない。ときにはその現状分析のなかに、本質的な問題点が露呈していることもしばしばであり、そのような作業の集積が、時代の動きを導くことも十分にありうることである。
 だが、同時にこのような現象的な時評や即席の解答が、おのずからの限界をもっていることもこれまた、たしかなことである。
 過ぎていく時や揺れ動いている状況にアプローチする場合、ともすれば、適度の要領と小ぎれいなすマートさによって問題を把握しがちであり、時事的・現象的な処方箋になってしまう危険さは、しばしば目にするところである。こうした処方箋が、時代を指導することは、おそらく不可能なことであるといわなければならない。
 具体的な事例をあげよう。つぎに引用するのは、現在の児童文学状況についての、わたしの現状分析であるが、状況分析思考のひよわさがよくあらわれている。
「創作児童文学の花ざかりである。昨年から今年にかけて一〇〇点以上の作品が出版されている。この現象を、形式論理的にいえばよろこぶべきことといわなければならない。だが、この盛況を手ばなしで肯定していいのかどうか。もちろん、花ざかりそのものを、いたずらにケチをつける必要なないだろう。いま必要なことは、こうした花ざかり現象に内在するプラス・マイナス両面を冷静にみつめ、問題の所在を明確にすることによって、創作児童文学の行方を展望することである。このさい整理は、問題にアプローチする一つの方法である。ところで、日本の児童文学はおよそ十年を区切りにして、転換してきているという感じをわたしは持っている。戦後の児童文学において、いまから十年前の一九五九年が大きな転換期であったことは、すでに文学史の常識になっている。一九四九年頃からはじまった、創作児童文学の不振と停滞からやっと脱出し、若い作家を中心にした新しい長編児童文学が世に問われはじめた時期である。ここでこの時期の特質について論じている余裕はないが、もっとも特徴的なことは、長いあいだとじこめられてきた作家の情熱が、一挙に噴出し、密度の高い作品が出現したことであろう。若々しい作家の気がまえが、作品の質を保証し今日でもその輝きは失われていない。なによりもまず、そこでは質が問題であった。そして、以後現在までの創作児童文学は、その出版点数において進展をしめしてきたが、そのあゆみを単純にいってしまえば、質から量への転化の過程であった。この転化の過程の背後には、送り手である児童文学作家や出版社、受け手の教師や母親などの、それぞれの領域におけるねばりづよい努力があったことはいうまでもない。それは大きくいって、民主的な権利を主張し、人間らしい生活を自らの手で守ろうとする広範な人びとのたたかいと結びつくことによって可能であったのである。今日みられる創作児童文学の花ざかりは、こうした基盤のうえに、はじめて生まれてきたことを確認したいと思う。このことはなにを意味するのか。児童文学を享受する子どもの生活意識の発展と共に、それをとりまくおとなたちの意識の高まりなしに、児童文学の花ざかりもありえないということである。現代の児童文学がよってたつ社会的基盤については、マス・コミの発達とか、大衆社会論的な中間層の増大といった抽象論議だけでなく、産業・社会構造の変化にともなう生活の実態をはじめとして、より具体的・科学的な追究がなされる必要があるだろう。なぜなら、生活の水準はニコヨン程度なのに、意識は中間層的になっているという矛盾は、今日の創作児童文学のあり方にも微妙な影響をあたえており、児童文学と社会的基礎の関係は、単なる交錯といった以上の新しい段階にきているのである。(中略)最近の児童文学状況を安定期とみる見方もないわけではない。だが、わたしは安定期と見ることに組みすることはできない。一見花ざかりとうつる状況の底に、不安な影がつねにちらついているのを感じる。現代の創作児童文学が、それをささえている社会的基盤にたいして新しい関係をつくりだせないところでは、安定など及びもつかないはずである。(中略)いずれにしても、安定よりも大きな転換がしのびよってきている。図式的にいっても、質から量への転化は、必然的にその逆過程もふくまれているのである。最近の創作児童文学花ざかりが、停滞につながるのではなく、前進の方向においての転換につながらなければならない。これから十年を歩みだすために児童文学概念自体の再検討をふくめて、新しい内容の発見をめざす仕事を開始しなければならない時期にきているのではないか」(『創作児童文学花ざかりの底にひそむもの』「週刊読書人」昭和四十四年三月二十四日号)。
 これをみてもわかるとおり、現象的なことがらについては、それなりに一応の見解を示すことができても、現代日本の児童文学が当面している根本的な問題については、ただその所在を提起するだけにとどまっている。
 現代日本の児童文学をどうみるかについては、その立場によっていろいろな見解が可能だ。たとえば、そのあゆみを進歩発展の過程とみるものから、過渡的な混乱のプロセスと考えるもの、あるいはそれは幻想の所産にすぎないというものまで、極端にいって一〇〇人いれば一〇〇もの見解があるにちがいない。
 かりにごく最近の一九五九年から六九年にかけての時期に限定して考えても、その状況を児童文学の安定期ないし、創作児童文学の花ざかり的な繁栄とする見解から、大きな転換期の前ぶれとしての現象であるおいう考えまであることは、すでに述べたとおりである。
 だが、その時々の児童文学状況を、花ざかりとか安定期とか、過渡的事象とか繁栄のなかの貧困とか不振と停滞といったことばで、現象的にあげつらうことはそれほどむずかしいことではない。しかし、そのこと自体にはたいして意味はないのだ。いずれは過ぎ去っていくものにすぎないのである。
 もっとも、これらの現象的な解答や処方箋が、ジャーナリズムの要請によってひきだされてきているという事実を無視することはできない。時々刻々に起こるテーマに対応して、それなりの解答を示したり問題点を提起するのが、ジャーナリズムの役割であれば、それもまたやむをえないことであろう。ただ問題は、それらのジャーナリスティックな解答の提示によって現代日本の児童文学が当面している基本的な課題が解決されると過信したり、時代の方向を導いているのだと盲信することである。このことから生じる結果は、問題の本質的な解明とは逆の、堕落した思考による問題の封じ込めであろう。
 ここに欠落しているものは、いまさら指摘するまでもなく、問題を根源的に問いただそうとする原理的思考である。原理的思考に媒介されない状況分析は、所詮問題を根底的に解決する力をもたない。
 日本の児童文学の過去においては、現状分析的な思考はおびただしくあった。だが、それにくらべて原理的な思考は、ほとんど試みられることがなかったといっていい。原理的なものへの思考の萌芽すら、微々たるものでしかなかったと思われる。
 このあたりにも、日本の児童文学がになわなければならなかった不幸の原因の一端があるのではないだろうか。
 ここでふたたび強調しておけば、現状分析的な思考が不必要でもなければ、いけないといっているのでもない。むしろ、現状分析的思考のある面は、欠かすことのできないものであるが、それがより有効な機能をもつためには、どうしても原理的思考と結合していなければならないということである。
 いま日本の児童文学において、もっとも大きく欠損しているものは、こうした現状分析的な思考と原理的な思考とが、均衡をもって融合しているところの、いわば体系的な思想である。
 現代はすべての存在が、その価値や意味について疑われ、根底から問いなおされている時代である。そこでは価値観の動揺や思考の分裂が激しくおこなわれ、それを超克するためにいまいちど原理に立ちかえることが要請されている。
 このことは児童文学にとっても、けっして例外ではない。
 これまで、なんの疑いもなく是認されてきた「児童文学」ということばの意味をはじめ、児童文学がなしうる機能、児童文学がよって立つ社会的基盤としての風土・階級・民族の問題、子どもとはなにかをふくめた文明論としての児童文学の位置づけ等々、いまあらためて問いただすことによって、深く追究すべき時期にきているのである。
 これらについての原理的な追究なしには、問題はつねにくり返されざるをえないであろう。もちろん、こうした大きな課題が、一挙に解決されることはありえない。しかし、なんらかの手がかりを求めて、模索し苦闘することなしに日本の児童文学が進展していくことは期待できないと思う。
 ところで、これらの試みはある意味で、児童文学独自の思想を発見し構築することにほかならない。したがって、現代日本の児童文学が当面しているもっとも根本的な問題は、児童文学の思想をいかにして定着させるかにあるといいかえてもいいのである。
 いまのわたしには、この問題の解決についてなんらかの成算があるわけではない。だがだからといって手をこまねいて傍観していることは許されないと思う。たとえそれがたどたどしい手さぐりの道程であろうとも、暗黒のなかへ一歩をふみださなければならないのである。いくつかの視点を手がかりにして、議論を展開してみるほかに道はない。

(2)
 ところで、児童文学が子どもを読者対象とした文学であることは、いまさらこと新しくいうまでもない。だが、この児童文学にたいして、「〇歳から八〇歳までを対象とした文学」ということばが、しばしば云々されることがある。つまり、児童文学はたんに子どもを読者にもつだけでなくおとなをも読者対象にするものでなければならないというわけである。
 こうした表現のなかには、さまざまなニュアンスがひそんでいる。
 児童文学はおとなもふくめて感動させる質の高いものであることが重要だという一般的な理念から、そうありたいという作者の願望、ときにはその底に子ども相手という劣等感が裏返しのかたちで投影しているものまで、そのことばにまとわりついているものはさまざまである。
 しかし「〇歳から八〇歳まで」といういいかたは、児童文学はかくありたいという、理念的なありかたについての素朴な願望をあらわしたものといっていいはずである。
 いささか楽観主義的な口吻が感じられないでもないが、それはきわめて正当な願望であり、児童文学を国民的に解放しようとする欲求に根ざしたものと考えることもできるのである。
 もちろん、いまのところ「〇歳から八〇歳まで」というのは、一種のスローガンといった感じのものであり、象徴的なことばとしてそれを裏づける実体はほとんどなにもないわけであるが、このようないいかたのなかに、児童文学を「全体」の問題としてとらえようとする発想の芽がうかがえることは、きわめて貴重なことといわなければならない。
 明治以来の日本の児童文学のあゆみのなかで、児童文学の対象を日本人そのものの文学生活にまで広げようとする問題意識は、戦後になってやっと芽生えてきたものだといっていい。プロレタリア児童文学において、日本の児童文学がもっている前近代性が指摘され、児童文学の国民的解放が理論的に志向されたことがあったが、萌芽の粋にとどまって児童文学理論の確立までには至らなかった。この児童文学理論の貧困は今日まで続いている。児童文学を日本人「全体」にまで拡大しようとする問題意識は、現在のところ思いつき的な段階にとどまっており、真剣な追究の対象にはなりえていない感じが強いのである。
 それには、児童文学を国民的なものに解放するまえに、解決しなければならない児童文学固有の問題があまりにも多く、それにかかずらわなければならないということがある。
 戦後、『子どもと文学』(石井桃子他)による人たちによって、日本の児童文学がもっているゆがみや特殊性が告発され、児童文学をなによりもまず、子ども自身のものに解放しようとする仕事がおこなわれた。これは児童文学を国民全体のものにしていく過程で、どうしても一度はくぐらなければならない段階であり、その意味で『子どもと文学』がおこなった発言は正当であった。
 しかし、その分析の方向は、日本の児童文学がかかえている前近代性を、欧米児童文学の理念によって裁断する傾向が強く、日本の児童文学がたっている構造的基盤にまで問題意識がおよんでいなかった。したがって、そこには日本人の文学生活「全体」という観点は欠落しており、せいぜい子どもの近代的市民への解放、自我の確立という方向しかひきだすことができなかったのである。
 この欠落は、『子どもと文学』とほぼ同じ時期に、戦後の児童文学の転換のきっかけをもたらした『少年文学の旗の下に』(早大童話会)という「宣言」にもみうけられる。
「『児童文学』の総称の下に呼ばれるこれらの全ては、その意図に拘らず、遂に近代文学としての位置を確立することができなかったという点で一致する。その重要な根源の一つが、ゆがめられた日本の後進的近代にあったとはいえ、同時に、そうした日本の現実に対する<人生の教師>としての作家の、大きく開かれなかった目の狭さ、すなわち近代文学に不可欠の合理的・科学的批判精神及びそれに裏付けされた文学上の創作方法の欠如こどが、こうした自体を招来した最も大なる原因であったのにちがいない。従って我々の進むべき道も、真に日本の近代革命をめざす変革の論理に立つ以外にはなく、その論理に裏付けられた創作方法が、少年小説を主流としたものでなくてはならぬことも、また自明の理である」。
 ここにも日本の児童文学が内在されている不具性にたいする痛烈な指摘はあるが、その要因を日本の社会構造の方向においてつきつめるよりも、児童文学固有の領域としての、方法の問題に重点がおかれ解決の方向が示されている。日本の児童文学を、日本人の文学生活「全体」にむかってどう解放していくのかという問題意識は、まだ具体的な日程にのぼっていなかったのである。
 むろん、児童文学の国民的な解放というプログラムのなかには、子どもの自我の確立の問題や児童文学の方法の問題は当然ふくまれてこなければならないが、それは順序的な段階としてではなく、児童文学の国民的解放と不即不離の関係において、同時的に把握されなければならないのである。
 ところで、こうした観点は一般文学においては、かなり早く提示されていた。いうまでもなく一九五 二年頃を中心にしてさかんに論議された「国民文学」の提唱である。この「国民文学」という概念はアイマイなものであるが、現代の日本文学がごく一部の人々を対象にしたものにとどまっている現状を批判して、より国民的なものに解放しようとする共通の見解にささえられて生まれてきたことばである。
 「国民文学」の提唱の代表的なひとりである竹内好の規定にしたがえばつぎのようになる。
「まず、読者の相対的な量だけを目安にして、多く読まれるのが国民文学だという考え方(林房雄氏など)は排除しなければならない。この卑俗な見方は、まちがっている。中里介山や吉川英治を、子k民文学のモデルにすることはできない。その理由は自明である。日本人の身分的疎隔をそのままにして、国民的解放を指向することなしに、コマーシャルリズムの悪しき利用の上に立って現状維持の自己主張をやっているからだ。国民文学は、特定の文学様式やジャンルを指すのでなく、国の全体としての文学の存在形態を指す。しかも歴史的範疇である。デモクラシイと同様、実現を目ざすべき目標であって、しかも完全な市民社会と同様、実現の困難な状態である。それに到達することを理想として努力すべき日々の実践課題だ。既成のモデルで間にあるものは何もない」(『国民文学論』)。
 つまり、「国民文学」は文学の理想的な存在形態であり、到達すべき目標として規定されているのである。
 いまここで、「国民文学」論議のおよそについて展望しているだけの余裕はないが、こうした「国民文学」が提唱されてきた背景には、それだけの理由がなければならなかったはずである。
 国民文学論がたちあらわれる直接のキッカケは、「文学」(一九五一年九月)に発表された竹内好の『近代主義と民族の問題』という論文であるといわれているが、その気運をかもしだしたのは、平和条約締結にともなう「民族」・「国民」問題への関心の高まりや民族の危機意識であり、そのうえに朝鮮戦争、コミンフォルム批判といった状況も相乗的な要素として働いていた。
 そうしたなかで、「日本文学における民族の問題」が意識にのぼり、日本文学の現状が否定的にとらえられたことは、当然のなりゆきであった。
「実は、この欄で文芸時評のようなものをやるつもりで、四月号の雑誌小説にあれこれ目を通したのであったが、ばからしくなってやめにした。本格小説も、私小説も、風俗小説も、中間小説も、そのほかあらゆるレッテルの小説をひっくるめて明らかなことは、日本の現代小説の特殊な狭さということだ。美女あり、野獣あり、酔っぱらいあり、殺人あり、姦通あり……何でもないのはないような観があるが、実に狭いという感じである。現在の日本の国民生活の広さと深さと複雑さにくらべて、実に狭くて、浅くて、単純で、いずれにせよ特殊な一部分にすぎないということだ」(臼井吉見『「山びこ学校」の問題』「展望」一九五一年五月号)、
とか、
「文学が、国民の一部だけのものであった時代は過ぎた。いまこそ、文学は国民全体のものとなるべきである。国民はみずからの文学をもつべきである。そのために努力することが私たちの生きる意味である」(岩波講座『文学』刊行のことば)、
 といった文章にみられる、現代文学への批判、不信こそ、国民文学論が発生した背景でなければならない。
 ここで興味深いことは、前述の臼井吉見の見解が、『山びこ学校』を読んだ感動を契機にして導きだされてきたという事実で、「文壇小説は、おそらくこれら少年たちの思考とは逆な方向をたどっている。国民生活の広さとむすびつくことを避けるところで成立している。それがいよいよ娯楽化と商品化の道をたどるのは必然である」(前出)と結論づけていることである。
 このような「国民文学」をめぐる議論は、「民族」、「伝統」、「近代主義」、「近代化」、「文学の国民的解放」、「国民解放のための文学」等々をテーマにして、さまざまなかたちで論じられたのである。
 だが今日では、その成果は乏しく、これといって見るべきものを生みだしえなかったというのが、ほぼ共通した見解になっている。国民文学論がさかんな論議のわりに、実り多い結論をもたらさなかった原因については、複雑な要素がからまっているのであろう。それを十分にえぐりだすだけの力はわたしにはないが、そこには文壇という特殊な世界の事情や、民主主義文学運動の分裂にみられる政治的な要因などがからみあって、せっかくの問題提起が、正当なかたちで深化する道をふさいでしまったのにちがいない。このような障害が、国民文学論を一時的な話題の域にとどまらせ、社会が相対的な安定期、「中間文化」の時代に入るとともに下火になっていく動因をもたらしたのである。
 しかし、さしあたって重要なことはそのことではない。国民文学論が提起した大きな課題が、いまなお未解決のまま、われわれの前におかれているという事実である。
 国民文学論をめぐる論議にひそむ、さまざまな心情や思惑をとりはらって、そこに残された問題を考えるとき、今日なおその有効性はうしなわれていないのである。
つまり、日本の近代文学をどのように打開していくかという問題や日本人の心を底ふかくさぐり、それを国民的な規模においてどう表現するかという問題は、その解決が待望されている痛切な今日的課題なのだ。その問題意識は現在において、より新鮮にうけとめられる必要があるのではないか。
 そして、わたしは児童文学の世界においてこそ、このすぐれた問題提起を、しっかりとうけとめる必要があるし、またうけとめなければならないと考えているものである。
 「国民文学」ということばや表現は、このさいどうでもいい。その実質をかたちづくっている児童文学の国民的な解放や、子どもを真に解放するための児童文学という重い課題は、日本の児童文学が発展するために、どうしても回避することのできない問題である。
 もちろん、このままでは児童文学的には不消化な概念であるそしりをまぬがれない。そこにはいくつかの媒介的な要素が必要なことはいうまでもないが、いまここで確認したいことは、日本人の文学生活の原点に、あるいはその原型として、なによりもまず児童文学そのものを位置づけるということである。
 真にすぐれた児童文学は、日本人の文学生活の原点に十分になりうるはずなのだ。そのときにおいてはじめて、「〇歳から八〇歳まで」を対象とする児童文学が成立可能となるにちがいない。

(3)
 児童文学を日本人の文学生活の原点に位置づけるということは、人間のいっさいをすくいとって、「全き人間像」としての日本人の原型を表現するということにほかならない。
 だが、日本の近代児童文学のあしどりは、「全き人間像」の原型を表現するうえで、大きなゆがみをもたらしてきた。そのゆがみを、もっとも端的にあらわしているものは、いうまでもなく「童心」という観念であった。この観念は児童文学創造の根底に広がっているはずの、どろどろとした層に足を踏み入れるのではなく、子どもを「童心」という抽象的な要素によって規定しようとするものであった。
「この空間と、時間の観念に支配されず、貧富の差によって、階級などの考えを全く念頭に持たないものは子供であります。其処にただ暗い夜と明るい昼と、悲しいことと楽しいことしかありません――しかしこれだけでは、ほんとうの人間の生活でないと、なんで言うことが出来ましょう。」
 「子供程ロマンチシストはありません。誰でも一度は子供の時代があったのです。どんな心の醜悪な人間も、実利主義者も、また悪人も、ロマンチシストであったのです。この子供の心境を思想上の故郷とし、子供の信仰と裁断と、観念の上に人生の哲学を置いて書かれたものは私達の求める<童話>であります」(小川未明『童話の詩的価値』)。
 このような子どもにたいする規定が、抽象的で不完全なものであるということはいうまでもない。そして、この抽象性が具体的な生きた人間との結びつきを断絶し、おとなの内部にすむ観念的な子どもを描くことを強制する結果になったことは当然であった。日本の近代児童文学が背負わなければならなかったゆがみは、人類共通の童心というただひとつの要素によりかかって、児童文学の創造をおこなわなければならなかったところにひきおこされたものであり、それは日本の近代社会の構造的な欠陥と密接につながっていたのである。
 しかし、子どもを「童心」と規定したこと自体には、必ずしもマイナス面ばかりを生んだわけではない。日本の近代社会の構造のなかにあって、子どもを文学創造の過程に具体的にのぼらせようとするとき、「童心」という抽象的な操作はさけることのできないものであった。「子供の心境を思想上の故郷とし」て、小川未明のように強烈な自己主張をやらない限り、近代的な児童文学の創造などまず考えられなかったことは考慮してみる必要がある。
ところで、関英雄は、日本の近代児童文学の流れを、つぎのような関係においてとらえている。
「お伽話→童心文学→プロレタリア児童文学→生活童話→民主主義児童文学の流れを実際に見てくると、各期の運動間の否定と断絶の現象は、児童文学近代化のおくれという歴史条件の中で、じつは同じ近代化の土壌の上の、否定しながら継承発展してゆく関係にあるといえる」(『新編児童文学論』)。
 つまり、日本の近代児童文学のあゆみは、一貫して「近代化」を目ざす過程であったというわけである。
 この児童文学史観は、「近代化」ということばのアイマイさを別にすれば、わたしも大筋において賛成である。
 では児童文学の「近代化」とは、一体なになのか。もともと「近代化」という概念そのものが多義的なものであるため、児童文学の近代化といっても、その意味するところのものは不明確でなかなかひと口にはまとめにくい。したがって、ここでは私流に解釈するしかないが、端的にいってしまえば、児童文学が児童文学として自立していくプロセス、あるいは児童文学が、その固有のものを回復する運動であったと思う。
 日本の児童文学の近代化とは、日本の社会構造によってゆがめられた児童文学のありかたを、それ本来の姿にもどしたいという復元の動きそのものではなかったか。そして、その復元の実質を形成するものは、ひとつは子どもであり、いまひとつは民族の心情であり、それらをふくめた日本の社会現実である。
 この日本の児童文学の近代化の過程を、象徴的にあらわしているものは、児童文学の理想像として、近代日本の児童文学理念をかたちづくっていた「童話」理念の崩壊という事実である。お伽話→童心文学→プロレタリア児童文学→生活童話→民主主義児童文学という道程は、日本の近代児童文学が共通の基盤とし、理想像としてきた「童話」理念が、つきくずされてゆく過程でもあったのである。復元ということでいえば、「童話」理念が見落していたもの、あるいは欠損していた部分が、その復権を要求して正当な位置づけをおこなってゆくあゆみでもあった。 
 このような、児童文学本来の姿を回復しようとする欲求に根ざした動きを「近代化」というならば、その「近代化」は前向きなものとして、積極的に評価ししなければならない。だが、この日本の児童文学「近代化」の方向を、手放しで評価しうるかといえば、必ずしもそういえないというのがわたしの判断である。
 その理由のひとつとして指摘できることは、日本の児童文学「近代化」の方法が、一般の文学と同じく、ヨーロッパの近代児童文学ないし現代児童文学をモデルにして、日本の児童文学のゆがみをただすという方向をとってきたということである。戦後の児童文学においてとくにその傾向がいちじるしく、モデルはヨーロッパだけにとどまらずアメリカにおよんでいる。その典型的な事例が、前述した『子どもと文学』の方向であったことはいうまでもない。
 後進国から先進国への脱皮という方向は、明治以来の日本人が、たえず当面しなければならなかった基本的な課題であり、日本人は西ヨーロッパをモデルにして、追いつけ追いこせというかたちで、日本の近代化をはかってきたのである。日本の児童文学の「近代化」の過程も、このワクの外にでるものではなく、その「近代化」は「欧米化」と同義であったといっていい。
 もちろん、この「欧米化」が日本の児童文学の前進に大きく寄与し、空白の部分を埋めるのに役立ったことを否定することはできない。一九六〇年代の児童文学の成果が、ある程度そのことを立証している。
 だが同時に、その一九六〇年代の児童文学の成果には、大きな疑問点があることも無視することのできない事実である。その疑問ないし不満といったものをつきつめてみると、結局現代日本の児童文学作品が、日本の社会現実との緊密な結びつきのうえに創造されてきていないということにつきる。すなわち少数の例外的な作品を除いて、「子ども」が日本の社会現実からきりはなされたところでとらえられているということである。
 わたしはさきに、日本の近代児童文学が「童心」という抽象的な観念によってささえられていることを指摘したが、ここではその裏返しとしての「子ども」が、社会現実を構成するひとつの要素としてではなく、万能化してしまい「子ども」という普遍的価値がアプリオリなものとしてふりかざされている。部分によって全体がとってかわらされてしまっているのである。
 いまさらいうまでもなく、「子ども」だけが児童文学のすべてではない。児童文学において、「子ども」がオールマイティーだと錯覚するところに、すべての誤解の根源がある。児童文学が文学として自立しようとするならば、当然のこととして「子ども」をふくめた「全体」が対象として取り組まれなければならないのである。
 現代日本の児童文学作品の表現している思想や主義が、ヒューマニズム、自由、子ども尊重といった一般的・普遍的な価値の抽象的な強調にとどまり、日本の具体的な社会現実と結びついた生きた人間像をとおしてあらわされていないということも、これらのことと無縁ではない。つまり、それらはあまりにもきれいごとすぎて楽天的であり、暗いどろどろしたものをふくめたいっさいをすくいとっていないのである。
 こうした欠落が、日本の児童文学の「近代化」の方法によってひきおこされていることはいうまでもない。そこでは、なにかが空白のまま残されているのである。
 ここでわたしたちは、夏目漱石の有名な発言である「日本の開化は地道にのそりのそり歩くのでなくって、やッと気合を懸けてぴょいぴょいと飛んで行くのである」。「足の地面に触れる所は十尺を通過するうちに僅か一尺位なもので、他の九尺は通らないのと一緒である」という「日本の現代の開化は外発である」ことを告発したことばを思いだしてもいい。あるいは、これを「近代主義」といってもいい。
 竹内好によれば、この「近代主義」とは「民族を思考の通路に含まぬ、あるいは排除する」ことであり、高島善哉によると「一般に後進国が先進国の近代化の過程をモデルとしてその後を追いかけるという発想法なり生活態度のことである」という。
 その解釈はどうであれ、現在日本の児童文学にはこの「近代主義」の弊害があらわになりつつある。そして「近代主義」の問題を、根底から真剣に掘り返してみる時期にきている。この作業を回避しては、日本の児童文学は内面的に荒廃していくしか道はない。まして、児童文学を国民的に解放することなど望むべきもないのである。
 たしかに、今日においても「児童文学近代化のおくれという歴史条件」は、克服されないままに残存している。その基本的な解決はつまるところ、日本の社会構造自体の変革をまつしかないとしても、現に日本の児童文学をとりまいている前近代性は批判し、のりこえていかなければならない。児童文学が児童文学として自立するために不可欠の条件である「子どもの解放」は、日本の児童文学の内外にひそむ封建的要素とのたたかいなしにありえない。近代日本の児童文学のあゆみが、そのたたかいの足跡であったことは、児童文学の方法の主流がリアリズムであったことによっても裏付けられている。そのあゆみが巨視的に見て、欧米をモデルとした「近代主義」のワクにとどまるものであったとしても、このたたかいの成果は正当に評価し、位置づけなければならない。 
 だが、まえにも述べたように、封建性や前近代的要素へのたたかいが、子どもの自我の確立という方向しか導きださず、国民(民族)的連帯あるいは人間連帯の基盤にまではとどいていないのである。いうならば、封建的要素とのたたかいが、個人の独立にとどまり、民族の独立をもふくみ込むまでに発展していないのだ。
 現代日本の児童文学におけるたたかいが、真の意味でのたたかいにまで至っていないことは児童文学の子どもへの解放をめざした戦後児童文学が、現在の段階において、子どもを変革していくよりも、おもしろさという大衆性の次元にとどまり、ファンタジーには植民地化の傾向があらわれていることによっても物語られている。
 ここにあるものは、児童文学における「近代主義」の毒である。「近代主義」の傾向は、知らず知らずのうちに、わたしたちの内における健全な民族意識をマヒさせ、正しい意味でのたたかいをにぶらせてしまう反作用をもたらしている。
 このような傾向が、日本の児童文学にはっきりしたかたちでたちあらわれたのは、「赤い鳥」の時代であったとわたしは考えている。つまり、日本の近代児童文学が確立した時期において、伝統の止揚というかたちで抽象的な子どもが設定され、民族的な要素が切り捨てられたのである。そこでは民族的なものと近代的なものとの激しい相剋といったものは、比較的に希薄であった。わずかに小川未明にあって、この二つの要素の相剋がみられるだけである。未明の場合そのうえにさらに階級の観点の導入がはかられ三つの要素が複雑にからんでいたといえるだろう。
 小川未明の世界が、その底に暗くどろどろとした情念をよどませ、正体のつかみがたいカオスを感じさせるのも、こうしたことと深く関連しているのにちがいない。それにくらべて、「赤い鳥」の作品には、暗くどろどろとしたものは表面から消え去っている。それは、二つの要素の相剋を止揚することによってもたらされた結果ではなく、一方の要素を抑圧することによってあらわれたものである。「赤い鳥」の作品に、どこかコスモポリタニズムの匂いがするのもこのことに由来している。もちろん、「赤い鳥」がもたらした成果を、それによって相殺しようとするものでないことは、ここで強調しておかなければならない。
 小川未明や秋田雨雀によって児童文学に導入された階級の観点は、プロレタリア児童文学においてさらに明確な要素として確立されたが、階級と民族の結びつきは必ずしも問題意識として深められなかった。それ以後においても、民族的なものと近代的なものとの相剋は表面にはあらわれず、今日にまで至っている。個々の作家にそくして微細にみれば、その相剋が創造の契機になっているケースがないわけではないが、大局的には「近代主義」の傾向が支配的であるといっていいだろう。
しかし、二つの要素の相剋が表面化しないからといって、二つの相剋が止揚されたものでもなく、抑圧されたものが解決したわけでもない。それはつねに暗い底辺にあって、うごめいているのである。
 すでにしばしばふれてきているように、このいわば素朴なナショナリズムの心情をくみとらないところに、児童文学の根本的な解放はない。まったき人間性の回復もない。それを無視ないし否定することによって、現在の日本の児童文学作品は子どもたちからそっぽを向かれる場合が多いのである。
 ここにきて、わたしは明治維新を推進した知識人の苦悩を思いうかべる。そのもっとも大きな困難は、尊皇攘夷という目的と開国という現実とを、どう有機的に結びつけ調和させるかということであった。この明治維新の知識人をとらえた苦しみは、現在まで一貫しているところのものである。この苦悩は日本の文化を考えるうえでの原点にほかならない。児童文学の問題も、根源的にはつねにここにたちかえって追求していかなければならないとわたしは考えている。
 もちろん現代日本の児童文学がかかえている本質的な問題は、なおその前近代性を克服することにあるとわたしも判断している。したがって、当面は「子どもの解放」を目ざす児童文学をおし進めなければならない。このことを含まないで、ただちに国民(民族)連帯の児童文学を志向しても、大きな連帯性を期待することはできない。
 だが、日本の児童文学が日本人の心の表現に、全責任をもとうとする限り「子どもの解放」も「全体」の展望のもとに考える必要がある。そのためにも、わたしたちは児童文学における「近代主義」とのたたかいを、強力に展開しなければならないのである。

 (4)
 わたしはさきに、児童文学における「近代化」とは、児童文学本来のものを回復しようとする動きであり、それを象徴するできごとは、「童話」理念の崩壊であることを指摘した。つまり、それは児童文学の全体像をとりもどそうとする運動であって、そのためには童話の方法はもはや有効性をもたないことを立証するものであった。
 たしかに、日本の近代児童文学がもちつづけてきた「童話」の理念や方法は、日本の近代社会の構造的なゆがみを反映して、大きな欠落部分を内在させてきた。とくに子どもの認識や心理に適合しえない欠陥をもっていた。したがって、日本の「近代化」の過程のなかで、まがりなりにも子どもの存在が認められその輪郭が明確になるにつれて、「童話」の理念や方法の矛盾が拡大するのは必然のことであった。「童話」理念の崩壊は、当然のなりゆきであったわけである。
 このことは、いわばひとつの児童文学理念の終わりであると同時に、未明伝統が代表する戦前の児童文学の終わりをも意味するものであった。だが、ひとつの時代はたしかに終わりつつあるけれども、まだ完全には終わりきっていないというのが今日の状況である。しかも、いまから始まろうとする新しい時代は、どのようなものであるのか、そのイメージは明瞭ではないという不安定な段階にある。
 いま日本の児童文学は、このような過渡期現象のうずのなかにおかれているのである。一九六〇年代の日本の児童文学のすがたは、その過渡期にみられる転換の様相を如実にしめしているといってもいいだろう。
 戦後日本の児童文学においては、合理的・科学的な批判精神を根幹とした少年小説とファンタジーが二つの大きな流れとして、「童話」にかわって登場してきている。このことは、長編少年少女小説のさかんな出版とファンタジーへの試行に意欲的な作品の出現という現象が雄弁に物語っている。
 だが、問題はこうした合理的・科学的な批判精神を根幹とした少年小説やファンタジーが、かつての「童話」のように、児童文学の理想像になり、共通の理念になりえているのかどうか、ということである。今日の段階では、少年小説やファンタジーは、ひとつの方法としての手がかりではあっても、けっして児童文学理念とはなりえていない。まして理想像といった感じではない。それは「あるもの」ではあっても、「あるべきもの」としての地位は保障されていないのである。
 ここに、現代日本の児童文学が当面している、深い混迷とひとつの大きな課題がある。
 つまり、新しい児童文学の理念を、どのようにして構築していくか、ということこそが問題なのだ。
 「童話」理念の崩壊はやむをえないことであったとはいえ、そのことが結果として、児童文学作家の内面に、児童文学そのものの理念の喪失を招来したのである。この理念の喪失は、必然的になぜ児童文学をかくのかという固有の必要性や、児童文学をかくという行為が作家の存在との間に本質的な関係を成立させることをアイマイにする。
 このような状況が、「近代主義」にとってもっとも都合の良い温床であることはいうまでもない。児童文学をかくということ行為に、自己をかりたてずにはおかない内的なものや理念のないところでは、外からもちこまれたものにすがりつくのは理にかなったことである。
 またここから、ニヒリズムや実存主義の傾向が生まれてくる。このヨーロッパ的な「個」の解体過程のなかに産みだされてきた思想は、擬似近代的な日本の社会においても、ある魅力をもっていることは事実であるが、「個」の確立の成熟のない日本では、しょせん借りものの観念であってリアリティーをもつことはできない。まして児童文学への導入や消化は、至難のことといわなければならない。
 現在日本の児童文学がおかれている状況は、別のことばで表現すれば「童話」の原理と「小説」の原理とが対抗することによって生じる、大きな潮流のなかに投げだされているといっていい。この混乱のなかから、やがて新しい原理があらわれ、その方向が定まっていくにちがいないが、まだしばらくは、一九六〇年代に続いて激しい混沌の状況がくりかえされていくようだ。
 そのひとつの大きな原因は、「童話」理念にかわってうちだされた「小説精神」が、すべての存在の意味や価値を、その根源において疑われ相対化されている現代世界のなかで、問いただされているからである。西欧近代の所産である合理精神によってささえられた「小説精神」そのものの基盤が、将来への明確な展望を見失い、その有効性の再検討を迫られているのである。「小説精神」が今日の児童文学の理想像になりえない理由がここにある。
 そこでは、「童話」理念が欠落していたものと、「童話」理念の崩壊によって欠損したものとは等質の関係にある。つまり、「童話」理念が欠落していた散文理性と、「童話」理念の否定によって見落とされた、日本的感性とは等価であるにすぎない。
 このことはなにを意味するのか。日本の児童文学の「近代化」のプロセスであると考えられてきた、童話から小説へ、象徴・観念からリアリズムへ、心情・感性から論理・理性への道程が、なにか空白の部分をのこしてきたということである。いいかえれば、総体的な人間像の喪失であり、二元論的な分裂である。
 新しい児童文学の理念とは、とりもなおさずこの全体的な人間像をどう回復するかということにほかならない。
 そのひとつの手がかりとして、児童文学をささえている基盤そのものに照明をあててみる必要がある。
 たとえばここにひとつの資料がある。第十四回小・中・高校生読書調査(昭和四十三年)の結果である。それによると、小学生にもっともよく読まれた本のベスト5はつぎのようになっている。
 @ピノキオ Aつるのおんがえし Bピーターパン C泣いた赤鬼 Dアンデルセン童話
 いまここで重要なことは、この順位についての分析ではなく、『泣いた赤鬼』が上位をしめているという事実である。もちろん、これには『泣いた赤鬼』が日本の名作として知名度が高く、子どもたちに親しまれているという要因が強く働いているからにちがいない。
 だが、おそらくそうした単純な理由だけでなく、もっと別な要素が、からまっているにちがいないということが予想されるのである。
 わたしは、その別な要素を日本的な心情としてとらえたいと考えている。赤鬼の善意が青鬼の自己犠牲的な行為によってむくわれるという、いわば義理人情を基底としたこの作品世界は、日本人の心情にぴったりと適合するのである。『泣いた赤鬼』が成立している基盤は、大衆のもっている心情や倫理にほかならない。日本人の心の奥底にひそんでいるものを、素朴にしかも善意につつんで表現したところに、『泣いた赤鬼』がいわゆる名作として、現代の子どもやおとなたちにもうけいれられている理由がある。そして、最近『巨人の星』とか『さいごの番長』といった、大衆的な児童文学作品が子どもたちによろこんで読まれている現象も、ここに通じている。これらの作品には、いわゆる芸術的な児童文学作品が論理によって批判し抑圧してきたものが、逆に表面に押しだされて表現の核になっているのである。その中心をなしているものは、ものいわぬ大衆の心情であり日本人の伝統的な美意識にほかならない。現代において、これら日本人のナショナルな心情や、伝統的な美意識は、微妙な屈折をしいられている。ところが児童文学においては、そうした屈折への気がねなしに、比較的のびのびと表現しうる余地がのこされているところがある。これらの作品が人気を博すいまひとつの素因は、おそらくこうしたところにかたちづくられている。
 ところで、人間はどのような論理でもってその身をよそおっても、自身の感受性をいつわることはできない。たとえば、童謡の『夕焼小焼』に共感を覚えるか、あるいは現代的なグループ・サウンズのリズムにより好感をよせるかは、理くつ以前の問題である。その感性の質は、論理によってある程度の屈折を強いることができても、そのすべてを変質させることは人間そのものをつくりかえない限り不可能である。そして、この感性の質は、ひとつの時代の意識の基底部を形成しており、時代の個性や構造と微妙に結びついている。芸術や文学や思想は、この基底部とどこかでつながっていない限り、リアリティーをもつことはできない。それがいかに独創的なものであっても然りである。
 その限りにおいて、つぎのような見解は妥当なものであろう。
「<狂気>はあらゆる人間の本質的な部分であり、ほんらい<理性>と適当な均衡を保って生きていなければならないのに、近代の合理主義は傲慢にも、いっさいの<狂気>を精神の陽のあたる場所から追放しようと試みた。しかし、<狂気>は人間の生命のリズムの一拍であり、人間が死に絶えないかぎり完全に追放することは不可能である」(山崎正和『観念の復権』「中央公論」一九六九年四月)。
 二〇世紀の芸術は、近代の合理主義によって、整合された壮大な世界を構築しようとつとめながら、一方において、「狂気」あるいは始源的な世界への衝動をつねに追い求めようとしてきた。それはいわば均衡をもたらすための本能的な動きでもあった。もっとつきつめていえば、始源的なるものへの復帰は、近代と合理性の名において俗化し失われた人間の生の意味を、ふたたび回復しようとする運動であったといっていい。人間が存在している基盤をたしかめ、人間を真に認識するための根源にたちかえることでもあった。したがって、それはたんなる過去の再現ではない。わたしたちの現代の生活のなかに、内的な体験としてあるものをたしかなものとしてとらえなおすことである。
 しかし、だからといって、『泣いた赤鬼』にたちかえっていえば、そこにある日本的な心情をそのまま肯定するということではない。たしかに、そこにある心情や倫理を無視したり、単純に否定することはまちがっている。どのような文学思想も、そこを出発点としないかぎり、説得的な力をもちえないとわたしは考えるからである。だが、それはあくまでも否定的媒介としての存在であり、止揚の対象となるべきものである。なぜなら、日本の児童文学は、それがどのようなゆがみをもっていようとも、近代の合理主義は一度はくぐり、その論理によってきたえぬかれてくる必要があるからである。そのことなしに、狂気や感性や情念をふりまわしても、結局子ども(人間)を、中世の暗黒の淵に追いやり、その泥沼にとどめることになってしまうにちがいない。
 人間の実存の問題は、近代の合理主義を越えた、より根源的なものをふくんでいることはまちがいのないことである。これを「理性」によって抑圧し追放することは、文明にとって必ずしもプラスをもたらさないことも事実である。同時に、実存主義や非合理主義によって、人間のすべての問題を一挙に根源から解決しようとすることも、けっしてプラスにはならない。自然や社会についての合理的な見かた、考えかたを無視して、人間の救いをもとめて、結果的には現代からの逃避に終わることがしばしばである。
 ところが、児童文学や児童文学の世界においては、この非合理や反理性の傾向が、きわめて通俗的なかたちで導入されてきている。たとえばスーパーマン的な人物や、超能力の持主が、なんの因果必然性もなしに登場し、すべての問題を解決してしまうマンガやテレビの作品に、それが象徴的にあらわれている。
 いうまでもなく、ここには人間の問題を歴史と社会の過程に結びつけて解決しようとする視点が欠落している。しかも、すべての問題を一挙に解決することが、「カッコよく」子どもの興味や心理に合致するものとして賛美され肯定されるのである。しかし、子どもの世界には子どもなりの因果必然性があり、問題が科学的合理的に解決されることを願っている側面も、きわめて強いことを忘れてはなるまい。
わたしはこうしたスーパーマン的な物語やセンチメンタルなメロドラマは、「童話」の形式の悪しき利用にすぎないと考えている。わたしたちは、さきに「童話」理念の崩壊を見てきたが、その形式は今日でもいたるところに生きているのである。もちろん、わたしたちが見てきた「童話」形式の崩壊は、日本的なそれであって、童話の世界そのものが解消されてしまったわけではない。いや現代の文明が、未開にひそむ始源的なリアリティーとの緊張関係によって、はじめてその真の意味があきらかになることを考えるとき、童話の世界はわたしたちの内部においても生き続けているのである。
 日本の児童文学がかかえている空白の部分を埋めるためにも、児童文学の世界を広げていくためにも、いま一度童話とはなにかを、あらためて問うてみる必要があるのではないか。
 ただ、いまのわたしには、この問題にたいして十分にこたえるだけの準備もないし、その能力もない。したがって、ここでは限られた範囲での問題提起にとどめたい。

(5)
 日本の児童文学にたいする、いまここでのわたしの問題意識は、すでに述べてきた見解からもわかるとおり、児童文学において「まったき人間像」をいかにして回復し、そのための児童文学の思想をどう定着させるかにある。
 そのことがとりもなおさず、児童文学の理念を新しく確立し、児童文学を国民的に解放することに結びついていくと考える。
 その核にすえるべきものは、それがどのように相対化され不安定にみえようとも、科学的合理的な批判精神である。そのことをはずして、人間と理性の再生力はないと信じる。だが、わたしたちは論理や合理主義の追求によって生じる、不合理の側面に目をふさいではならない。たとえば、核エネルギーの開発が、つねに人類の滅亡という危険をはらんでいることを無視することはできない。
 だから欧米の文明によってもたらされた、合理性=普遍性という価値は、それを絶対普遍のものとして固定するのではなく、それにたいする根源的な問いかけを忘れてはならないのである。そこでは、直観に重きをおく東洋的な思考が、ときには有効性をもっている。合理はいつも非合理なものを包容するところで定立するように、つとめるべきなのだ。
 ところが、ヨーロッパ文明にたいする抵抗は、いままでとかく情緒的・非合理な精神主義に偏向しがちであった。どのように心情や情念が重要だからといって、わたしたちは単純に未開の生活にかえることはできない。原始生活への回帰によって、問題が解決されるほど、現代の状況はなまやさしくはない。
 この問題を、児童文学の世界にひきつけて考えるとき、童話の存在は、興味ある示唆をわたしたちにあたえてくれるように思う。
 もちろん、わたしはここで安易な童話の復権を志向しているのではない。まして、かつての日本の児童文学を支配したような、情緒的・抽象的な「童話」の概念は、はっきりと否定しておかなければならない。
 いまわたしが志向している童話は、かんたんにいってしまえば、文学的表現の根源としての童話であり、現実を関係づけるひとつの原型としての童話である。
 今日、童話の世界――この場合、民話、神話、伝説、童話をふくめる――についての見解は学問的にもさまざまである。人類学・民族学・宗教史学・文芸学・心理学・教育学の対象となってそれぞれの観点からの所説が提出されている。
「いまも、メルヘンの起源、歴史、伝播といった問題については各人各説、あらゆる見解が開陳され、論駁、否定され、特に重要な問題については仮説と仮説とが相対立しているあり様である。一例をあげると、あるメルヘンが数千年の昔に成立したものか、それとも近々二、三百年以来のものかといった問題でさえ未決定なのである。このようにメルヘン学は長足の進歩をとげたとはいえ、その反面、研究者の立場によっては、どんな学説も可能であるというような心もとない神秘性をもっているのである」(相沢博『メルヘンの世界』)
 といった文章が、それをよく説明している。このような、童話の世界についての見解の多様さは、童話の世界そのものの多様性の反映であり、ひいては自然と人間の世界の無限の多様性と対応しているといっていい。自然と人間の創造をはじめとする、さまざまなテーマをもった話が、すでに文化の高度に発達した民族はいうまでもなく、未開の民族のあいだにも、幅広くゆきわたっている状態のなかでは当然のことでもある。
 いずれにしても、童話の世界というものが発生するまでには、相当長い期間にわたっての混沌状態というものが存在したことは、たしかなことであると思われる。そして、現実というものを原型にしながら、それを認識し表現するという関係が無数の型において存在したことが予想される。それが長い時間のあいだに、重なりあって、ある一つのパターンができあがる。このパターンが童話の世界をかたちづくる骨格である。したがって、この童話の世界がもっているパターンは、人間が現実を関係づけるひとつの原型の役割にもなっているのだ。それは同時に、表現の原型にもなっているのである。
 つまり、子どもが童話の世界にふれるということは、そのパターンによって、現実世界を解釈するひとつの原型をもったということを意味している。子どもが成長していくということは、ある意味でこうした原型をいくつか自分のものとして定着させ、それによって現実を関係づけていく過程であるといっていえなくはないのである。このことは、子どもにとって童話がいかに大きな意義をもっているかを示している。
 もちろん、童話の重要さは、子どもの経験拡大に役立つという教育的な意義だけにあるのではない。より大切なのは、そうした童話の原型が、民族の心を表現する根源になっているということである。さらにいうならば、童話のもっているパターンは、その性格として超個性的な特色をもっており、インターナショナルなものに通じる要素をそなえていることである。
 童話の成立過程からいえば、その世界は時のうつりかわりによっても風化しない高度の抽象部分に、その時代時代によって、新しいものがつけ加えられる部分とから、かたちづくられているものであり、超人の存在を許す非合理的な要素を内包しながら、きわめて普遍的なものであるという特性をもっている。
 童話がいわば古典的な価値をになって今日まで生きつづけているのも、おそらくこうした特性にもとづいている。
 一九世紀後半から、欧米において発展したファンタジーが、古典的な作品を数多く生んでいるのも、その世界が合理的・論理的なものを核にしながら、同時に「下降」、「上昇」という神話的・童話的観念をともなったところで成立しているからである。
 かつて、現代小説が古典になりうるかどうかをめぐって論議されたことがあった。現代の児童文学が古典になりうる可能性が、どれぐらいあるのかどうかはしらない。しかし、現代の児童文学が、古典的な骨格のたくましさを持とうと努力することは否定すべきことではない。その意味からも、わたしたちは童話から学ぶことは多いはずである。
 なお、ついでにいっておけば、ある時代の文学や芸術が、その表現形式や思想においてマナリズムにおちいり停滞したとき、それをうちやぶる有力な手がかりは、現実のもっている事実性を記録するという方法である。
「小説芸術があまり模様化したときには、それをもう一度原質的なものに置きなおす必要がある。その意味で記録文学は、散文芸術の出発点にあるものとして重要視されなければならない」(伊藤整『文学入門』)。
 現代日本の児童文学が、この「散文芸術の出発点」にたちかえることも、けっして意味のないことではない。
 すでにしばしばふれてきたように、現代日本の児童文学は大きな過渡期にさしかかっている。しかもその流動は、かなりの期間にわたって連続する気配が強い。そこではともすれば、激しい動きに目をうばわれて、真にたたかうべき「敵」を見失いがちだ。
 いまこそ、わたしたちは石川啄木が告発した「時代閉塞の現状」を透察する目をもたなければならない。
「欺くて今や我々青年は、此自滅の状態から脱出する為に其<敵>の存在を意識しなければならぬ時期に、到達しているのである。それは我々の希望や乃至其他の理由によるのではない。実に必死である。我々は一斉に起って先ず此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである」。
 たたかいのないところに真の文化もない。現代日本の児童文学が当面している「敵」とのたたかいは、つまるところ「近代主義」とのたたかいにほかならない。すなわち「近代主義」によって疎外されている子どもと民族を、どう回復していくかということである。
 わたしたちは、この問題の解決をともすると作家主体の確立にもとめがちである。だがおそらく、作家の主体だけによってこの問題を解くことは困難であろう。主体的とはいうまでもなく、主観的ということではない。主観主義と客観主義の統一にこそ、真の「主体的」があることを考えるとき、歴史と社会との結びつきにおいて問題をとらえなければならない。また民族と階級をどう結びつけるか、民族感情と階級意識を、児童文学的にどう統一して表現していくかが真剣に追究される必要がある。
 戦後になって、児童文学を世界の児童文学の基準によって評価しようとする気運がおこり、国際的に視野が拡大されてきたことは歓迎すべきであるが、インターナショナリズムは、ナショナリズムの成熟があってはじめて可能であるとわたしは考えている。
 これからの児童文学は、新しい共同体をつくりあげていくための原点にならなければならない。人間連帯の基盤を形成するための価値観を、児童文学作品として創造していくことこそ、この過渡期を生きぬいていく児童文学者の資格である。
テキスト化山口雅子