横谷輝児童文学論集1』(横谷輝 偕成社 1974.08.14

<第三章 児童文学の歴史>

第一節 大正期の児童文学の問題点

 日本の児童文学の流れを、明治、大正、昭和という天皇年号によって区分し概括しようとするのは、あくまでも便宜的なものにすぎない。しかし、同時にその時代でなければみられない文学的特質が、そこにあらわれていることも否定することができない。
 そこで、ここでいう大正期児童文学は、明治四十三年(一九一〇年)から、昭和四年(一九二九年)にいたる期間のものとして、一応おさえたいと思う。この明治四十三年には、日本の近代児童文学のさきがけとなった小川未明が、その最初の創作童話集『赤い船』を、『お伽噺集』と銘うって出版している。昭和四年といえば、大正期児童文学の実質をかたちづくってきた「赤い鳥」(第一次)や「金の星」が休刊、あるいは廃刊になった年である。これは大正期児童文学の退潮を象徴するできごとであるといっていいだろう。
 だがこうした時代区分も、どこまでも「一応の」という限定づきのうえで成立する。大正期の児童文学が、明治期や昭和期の児童文学と明瞭に区分されるような特色を、もっともあざやかにしめしたのはごく短い期間であり、わたしの判断では、大正七年(一九一八年)の「赤い鳥」創刊から、関東大震災がおきた大正十二年(一九二三年)までの、およそ五年間たらずにすぎない。
 その前と後の時期は、おなじ大正期児童文学とよぶにしても、その質はかなり異なっていて、前期においては半封建的な思潮を核とする教訓説話文学としての「お伽話」が、後期においては新興のプロレタリア児童文学がからみ、微妙にいりくんでいるのが実状である。そして、ある意味では、「赤い鳥」創刊までの大正期児童文学の準備期は別にしても、関東大震災以後の大正期児童文学はつけたりであり、プロレタリア児童文学に代表される昭和前期の児童文学の胎動期としてみるほうがより妥当である。つまり、大正期児童文学は、関東大震災とともにその活動をおえたといっていえなくないのである。
 いずれにしろ。大正期の児童文学はあわただしくすぎさったという感じがつよい。だがそのあわただしさのなかでもたらされた成果は、早熟な完成度をもち、日本の近代児童文学の歩みのうえで、画期的なものであったことは認めないわけにはいかない。もちろんそこには、いくつかの問題ないし限界を内包していたこともたしかであるが、この時期にもっとも実のある作品がかかれてきたことは事実である。

1 説話性の問題

 いつの時代においても、新しい文学の出現は、先行する文学を否定し、それとたたかうことによってはたされる。だがそのたたかいは先行の文学からなんらの影響もうけず、すこしの養分も吸収しないということではない。むしろ、たたかうことそれ自体が、相手から多くのものを学び、強い影響をうけることを意味する。どのような新しい文学でも、先行する文学をふまえてしか、一歩をふみだすことはできないのである。
 大正期児童文学の特質について、鳥越信は「一口にいって、おとぎ話の時代から童話の時代へと変質してゆく過程」(『現代児童文学事典』大正)といっているが、大正期前半の児童文学においては、明治期の「お伽噺集」の思潮が、その文学の素地として色濃くうけつがれているといっていい。
 それはたとえば、さきにものべた小川未明の処女創作集『赤い鳥』が、芸術主義的な新しい童話を志向しながらも、『お伽噺集』とうたわなければならなかったことに、象徴的にあらわれている。
 また、明治四十五年(一八一二年)に、竹貫佳水、芦谷盧村、鹿島鳴秋、山内秋生など、主として厳谷小波の門下を中心にして結成された「少年文学研究会」が、会員の作品集として『お伽の森』(大正二年)、『お伽舟』(大正二年)、『お伽学校』(大正五年)を出版したということ、あるいは、大正初期の児童雑誌として大きな影響力をもっていた「少年世界」、「日本少年」、「少年」などに、厳谷小波の新作お伽話や有本芳水の少年詩が発表され、子どもたちに好評を博していたという事実は、そのことを端的に物語っている。これらのことについて、関英雄は「大正初期の数年は、他に有力な児童文学団体も結社もなく、明治三十年代に覇権を確立した小波のお伽話と博文館の時代がなお続いていたわけである」といい、「小波のお伽話や、四十七版を重ねて天下の少年たちを熱狂させたという『芳水詩集』(大正三年)の読者が、のちに「赤い鳥」の童謡童話運動が持った読者よりはるかに多いことである。それは「赤い鳥」がその最盛期でも発行部数三万そこそこと思われるのに対して、『少年世界』や『日本少年』が、今のマス・コミ時代の有力な少年娯楽誌とは比較にならぬ部数だったとはいえ、当時の大衆誌として大部数を擁していたことにも原因があるだろう。が、やはり小波のお伽話の通俗的教訓性や、芳水の七五調の詩の同じく通俗的で懐古的な感傷性が、当時の少年少女大衆にわかりやすく親しみ深いものであったためといえよう」(『大正期の児童文学』<『新選日本児童文学・大正編』所収>)と解説している。
 これはなかなか示唆深い指摘である。そして、そのいいぶんは的を射ている。しかし、小波の新作お伽噺や芳水の少年詩が、当時の子どもたちに迎えられたことの意義は、今日の時点でわたしたちが考える以上に複雑なものをひめていたのではないだろうか。おそらく、それは内容が通俗的でわかりやすかったという要因のほかに、お伽噺という表現の形式がもっているしたしみやすさ、あるいは伝承的な説話のもっている珍奇な発想や起伏にとんだストーリイの展開、語り口のおもしろさなどの要素がはたらいていたのにちがいない。もちろん、どこの国の児童文学においても、伝承的な説話を子どもの読物として再話することから、創始しているという文学史的事実も見のがすことはできない。ペロー、グリム、ジェイコブス、アファナーシェフなどがおこなってきた仕事を、日本において巖谷小波がまずはたそうとしたわけである。もっとも巖谷小波の場合、独自のはっきりした思想をもたず、方法的にも江戸期の文学からぬけでることができなかったため、構造をもった物語として成立することはできず、ただ珍奇でおもしろいだけの、いわゆる「おとぎばなし」の域にとどまらざるをえなかった。
 にもかかわらず、巖谷小波によって確立されたお伽噺は、当時の日本の社会構造と密接にかかわったところに成立していたといわなければならない。有本芳水の七五調の少年詩が、子どもの心をとらえたことも、七五調の文体が当時の日本人の心情を表現するのによりふさわしいものであり、その形式によって人びとにいっそうつよい感動をあたえることができたからである。いわば小波のお伽噺や芳水の少年詩は、当時の社会の構造をもっとも端的に反映させることによって、子どもに迎えられたのである。
 このように、大正期前半の児童文学にみられるような特質は、それが多分に、「お伽噺」ないしは「説話的」な性格をおびているということにある。しかも、この特質は大正期児童文学の前半のみでなく「赤い鳥」お作品をふくめた大正期の児童文学の全体をつらぬいているところのものである。
 たとえば、この巻に収録されている『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)、『旅人と提灯』(秋田雨雀)、『蕗の下の神様』(宇野浩二)をあげてもいい。
「或日のことでございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました」(「蜘蛛の糸」)、
「むかし津軽という国と南部という国とが領分のことで長い間戦争していました」(『旅人と提灯』)、
「今は昔、もうずっと昔のことですが、北海道にコロボックンクルという、妙な神様が住んでおられました」(『蕗の下の神様』)、
 というかきだしをみただけでも、この説話的なフンイキにふれることができる。大正期児童文学にはこうした例にことかかない。「赤い鳥」、「金の船」などで活躍した文壇作家、江口渙、佐藤春夫、菊池寛、久米正雄、豊島与志雄、小島政二郎、吉田紘二郎たちの作品のほとんどはそうした説話的性格をもっているといってもいいほどである。
 しかし、おなじ説話的性格といっても、これら大正期児童文学後半のそれは巖谷小波のお伽噺とはあきらかにちがうものであったことはいうまでもない。そこには当然、説話の質的な発展、再創造がこころみられたのである。このこころみの質的内容こそ、明治期の児童文学とは異なる、大正期児童文学のひとつの特質をかたちづくるものである。吉田足日はこの点に関して、「大正期の児童文学は小波の江戸小説的なものをすてて、彼のしごとのやり直しという面を持っている」(『童心主義の諸問題』<『新選日本児童文学・大正編』所収>)といっているが、そのもっとも顕著な動向は、説話という伝承的な形式のなかに、内容として作家の独自な思想や人間、人生についての考えなどをもりこみ、それを新しい感覚と文章でもって表現したことにある。人間存在のみにくさを諦観的な立場から追求しようとした『蜘蛛の糸』や、クシベシという、なまけものでずるい人間の行きかたを描いた『蕗の下の神様』などは、その代表的な作品である。
 これら新しい説話の再創造は、明治期児童文学の儒教論理的な教訓という性格に比して、個人主義的な自我意識にもとづいているといえるだろう。だがその反面、文壇作家の作品に説話的な性格が色濃いのは、すぐれた子どものための創作をつくりだそうという情熱よりも、鈴木三重吉に依頼されたつきあい程度の意識でとりくんだ結果からひきだされてきたという実状も大きく作用していたと考えられる。「当時文壇における三重吉の名声は大きかったから、依頼に応じて名家は寄稿してはいるが、不安な気持ちで試作品を提供しているものが大部分である。名家たちの多くは三重吉ほど新生児童文学創造への情熱がなく、いわばお伽噺的意識しか持ち合わせていなかったのである。芥川の作品は数少ない成功の部類にはいるもののひとつであるが、『蜘蛛の糸』を書くとき、鈴木さんからお伽噺をたのまれたが、自信がないから、子ども向きな文章に加筆されてもいいという意味のことを小島政二郎宛の書信で述べているのである」(滑川道夫『「赤い鳥」の児童文学史的位置』<『赤い鳥研究』所収>)といった背景を考えるとき、大正期児童文学のもつ説話的性格もある程度なっとくできるものである。
 これらのことと関連して、大正期児童文学前半において記憶されなければならないことは、大正六年(一九一七年)に島崎藤村の『幼きものに』(実業日本社)が出版されたことであろう。これにさきだって、島崎藤村は大正二年(一九一三年)におなじ実業之日本社から出版された『愛子叢書』に、徳田秋声『めぐりあい』、田山花袋『小さな鳩』、与謝野晶子『八つの夜』、野上弥生子『人形の望』とともに『眼鏡』をかいているが、とりわけ『幼きものに』は明治期児童文学のお伽噺とは明確に一線を画した、新しい児童文学の出現を思わせるものがあった。この作品は、七十七の小品からなり、フランスに滞在中のできごとを、日本にのこしてきた子どもたちにおくりきかせるかたちをとっている。なお、この巻にのっている『鳥獣もお友達』が収録されている『ふるさと』(大正九年・実業之日本社)では、自分が少年時代をすごした信州での思い出や体験が語られている。それも「むかしある村に、貧乏な小商人がおりました」(『どろぼう』久米正雄)といった説話の語り口ではなく、「太郎もおいで、次郎もおいで。さあおとうさんはおまえたちのそばへかえってきましたよ」という、子どもにむかって直接語りかける形式でかかれている。この形式は、自己の体験とそこから生じた実感をもとにした内容と一致していて、きわだった新鮮さをかもしだしていた。わたしの感じでは、「赤い鳥」に発表された文壇作家の諸作品よりも、この『幼きもの』こそ、大正期児童文学の一面を代表するにふさわしいものであると思っている。

2、童心主義の問題

 大正期児童文学の開花が、大正七年(一九一八年)に鈴木三重吉によって創刊された「赤い鳥」によって決定づけられたことは、あらためて指摘するまでもない。この「赤い鳥」につづいて創刊された「おとぎの世界」(大正八年)、「金の船」(大正八年)、「童話」(大正九年)などの活動とあいまって、日本の近代的な児童文学が成熟し、いわゆる童話童謡伝統なるものが形成されたのである。
 ここでまず問わなければならないことは、そのような成熟を可能にしたものはなんであったかということである。いうまでもなく、児童文学的には明治期児童文学を代表する巖谷小波のお伽噺のもっている半封建的な教訓説話性や、明治の国家主義論理と商業主義の癒着によってもたらされた通俗少年少女小説の隆盛に反抗して、新しい市民社会のもつ論理や生活感情を表現する、近代的な児童文学を創造しようとする意欲と情熱によって、うながされ生まれてきたのである。
 このことの事情は、「赤い鳥」創刊号の巻頭にかざられた「標榜語」に、あますところなくしめされている。
  ○現在世界に流行している子供の読物の最も多くは、その俗悪な表紙が多面的に象徴している如く、
 種々の意味に於いて、いかにも下劣極まるものである。こんなものが子供の神経を侵害しつつあるという
 ことは、単に思考するだけでも怖ろしい。
○西洋人と違って、われわれ日本人は、哀れにも殆未だ嘗て、子供のために綺麗な読物を投げる、新の芸術家の存在を誇りに得た例がない。
  ○「赤い鳥」は世俗的な下卑た子供の読みものを排除して、子供の純性を保全開発するために、現代第一流の芸術家の真摯なる努力を集め、兼て、若き子供のための創作家の出現を迎うる一大区画的運動の先駆である。
  ○「赤い鳥」は、只単に、話材の純清を誇らんとするのみならず、全誌面の表現そのものに於て、子供の文章の手本を授けんとする。
  ○今の子供の作文を見よ。少なくとも子供の作文の選択さる、標準を見よ。子供も大人も、甚だしく、現今の下等なる新聞雑誌記事の表現に毒されている。「赤い鳥」誌上鈴木三重吉選出の「募集作文」は、すべての子供と、子供の教養を引き受けている人々とその他のすべての国民とに向って、真個の作文の活動を教える機関である。
  ○「赤い鳥」の運動に賛同せる作家は、泉鏡花、小山内薫、徳田秋声、高浜虚子、野上豊一郎、野上弥生子、小宮豊隆、有島生馬、芥川龍之介、北原白秋、島崎藤村、森林太郎、森田草平、鈴木三重吉他十数名、現代の名作家の全部を網羅している。
 ところで、ひとつの文学運動が発生し、それが成熟した成果を生みだすためには、その運動をささえるところの社会的基盤がなければならない。そうした基盤のないところで、どのようにはげしい情熱や意欲を燃やそうとも、それは空転し失敗におわらざるをえないのである「赤い鳥」の運動をささえた基盤は、もうすでに多くの人びとがふれているように、日露戦争後において、いちじるしい進展をみせた日本資本主義の発達と、それにともなって形成されてきた近代的な市民層であった。そこでは一種の弛緩とでもいうべき相対的安定感が生じ、人間の独立と自由を保障する物質的な根拠と、自己の欲望なり要求なりを実現しうるだけの客観的な地盤がかたちづくられたのである。こうした安定期の反映が、「赤い鳥」をはじめとする大正期児童文学の開花と成熟をもたらした大きな素因である。このような社会的基盤から生じた思潮を、ふつう「大正デモクラシー」とよんでいるが、その中核となった大正期のヒューマニズム運動がおこってきた歴史的要因について、生田長江はつぎのようにのべている。
 「日露戦争の後、(一)日本の国際的地位がともかくも安固なものになって、半世紀に亘る憂国的緊張も幾分の緩みと疲労とを来した為め、(二)国家的興隆が必ずしも直に国民個々の福利を意味しないことを、余りにもむごたらしく、体験した為め、及び(三)産業界の近代的展開にもとづく自由競争と、生活不安から思い切った利己主義へ駆り立てられた為め、明治四十年頃からの日本人は一体に、それまでの国家主義的思想に対して反動的な思想を抱き、甚だしく個人主義自我主義的な考え方感じ方をするようになった。そして斬うした新しい見地は、従前と比較にもならないほど、実に自由な実に勇敢な、実に徹底的な態度で以て外来思想を迎え入れ、特に個人主義自我主義的近代思想へすっかり傾倒するに至らしめたのである」(『明治文学概説』)
 要するに「大正デモクラシー」といわれる民主主義運動は、明治十年代の「自由民権運動」につぐものであるが、その大きな特色は、日本資本主義が帝国主義へと転化した段階において、都市のブルジョワジーが指導層となり、小市民、労働者、農民を基盤として展開された運動であったということにある。そしてその結果は、ブルジョアジーは労働者、農民層のエネルギーを利用することによって、軍閥官僚による支配をはばみながら、一方においては、自分たちの地位を高めようと意図し、それがある程度達せられると逆に労働者、農民を圧殺する挙にでたのである。「大正デモクラシー」の運動が、その民主主義的な要求をつらぬきとおすことができず、天皇制権力をブルジョア社会に適応させる程度の部分的な修正をおこなうにとどまったのもそのためである。
 この「大正デモクラシー」のいわば挫折は、大正期児童文学の流れのうえに、微妙な影をおとしている。
 「赤い鳥」が大正期にあらわれた自由主義教育、芸術教育の思潮を背景とした都市の中の中産階級の子どもたちによって主としてささえられなければならなかったことも、そのひとつのあらわれである。
 大正期児童文学が生んだ作品は、表面的には多彩な様相を呈しているが、その根本にあるものは、安定したいわば温室のような社会条件のなかでおこなわれた自己認識ないし、自己解放とその表現であったこともそのひとつである。
 そして、その中心をなしたのは、童心、童心主義の理念であった。
 この童心、童心主義について、菅忠道はつぎのようにいう 「童話、童謡という言葉の歴史は古いが、大正時代には、新しい意味をこめて復活された。それは、この時期に芸術性をゆたかにした児童文学を、おとぎばなしや唱歌と区別するために、となえだされた
ものであった。その童話、童謡が童心の文学として主張されていたので、文芸精神や劇作の態度、方法を概括して、童心主義といい、その運動を童心文学運動と呼びならわすようになっている。童心とは、字義どおり子どもの心ではあるが、児童心理の特殊性だけを強調したものではなく、思想的文学的な立場の主張と結びついている。それだけに、説く人によってニュアンスもちがうので、簡単には律しきれない」(「日本の児童文学」)。
 たしかに、童心、童心主義ということばにはさまざまな色合いがからみついている。そこでは、当然、正の要素と負の要素をみきわめる努力がなされなければならない。いまここでそのことの追究を、きめこまかくやっていくだけの余裕はないが、まずははっきりといえることは、童心という理念は、児童文学のみでなく、それをもふくめた日本の文化全体の根底にひそむ観念であるということである。つまりおとなの世界は虚偽にみち汚れているが、子どもは天真で純純な存在であり、その考えは自然の理にかなっているという思想である。
 この考えは、たとえば北原白秋のつぎのことばなどに表現されている。
 「殊に成人としてのあらゆる酸苦、雑行、雑念を振り落して、真に永遠の児童にまで超越し得る時、その人は無自覚なる児童以上の児童性の法悦境に己れを見出すであろう」(「童謡私観」)。
 ここからひきだされてくるものは、芸術的童心という通念であり、子どもを理想的人間像としてとらえ、創作の指標とする考えである。
 「・・・・・少年時代の特有な夢幻な世界を現出してある物語を創作することによって、義と愁しみの雰囲気の裡に読者を恍惚ならしむる事が出来たならば、これが即ち私の求むる童話であります。何が善、何が悪かということを、純情な子供の良心によって裁判するのが、即ちこの芸術の有する倫理観に他ならないのです」(小川未明『私が童話を書くときの心持』)。
 「童話の中に現された思想とその世界は、大人の理想の世界であると見ることも出来ます。そしてその世界に於てのみ子供と大人が<一つのもの>になり得るのです。その時の大人の魂と子供の魂とは決して差別的ではなく、広い人類に見せるために創作さるべきものであるということを主張するようになった論拠も、またここから出ているのです」(秋田雨雀『芸術表現としての童謡』)。
 いずれにしろ、当時の作家が安心して心をよせることができた唯一のものがこの童心であった。そして、その積極的な側面としては作家は童心にかえることのよって、日本資本主義がつくりだしていた秩序と絶対主義天皇制権力に抵抗しながら、人間解放の意志をさししめしたことである。
 「子供の欲念、秘密、悲しみ、喜びを、子供と共にわかちたい」という願いをもってかかれた有島武郎の『一房の葡萄』や、小川未明の『赤い蝋燭と人魚』、『野ばら』などの作品は、そのような地点からうみだされてきたものといえるだろう。
 童心主義がもたらしたいまひとつの成果としては、北原白秋、西条八十、野口雨情たちによる童謡をあげなければならない。大正期の童謡には、本来の意味での童心がもっとも典型的に表現されており、子どもの生活や遊びやあるいは生活感情が、そのままの韻律をもって作品のなかに生かされている。白秋の『お祭』、『兎の電報』、八十の『お山の大将』、雨情の『十五夜のお月さん』などがその代表的な所産であろう。

 3 大正期児童文学の限界
 大正期の児童文学は、ある意味で童心の理念の普遍化、内容の鈍化とその弱点の露呈、行き詰まりの過程であったといえる。
 わたしは大正期児童文学のもっとも致命的な弱点は、それをささえている基盤が日本資本主義の発達であったという認識が、ほとんど欠落していたということにあると考えている。それをリアリズムへの欲求の希薄といってもおなじことである。
 たとえば、マルクスはその『経済学批判序説』のなかで、「おとなは、二度と子供になりえないか、または子供っぽくなるかである。だが、子供の無邪気さは、おとなをよろこばせないであろうか?おとなは、よりいっそう高い段階で、子供の真実さを再生産するために、みずからもう一度つとめてはならないであろうか?・・・・・・」といっているが、大正期の児童文学は、はたしてどれだけ「よりいっそう高い段階で、子供の真実さを再生産」することができたであろういか。
たしかに、先述したようにその童心文学には積極的な側面がないわけではなかった。「こうした童心主義を、歴史の流れのなかでみるとき、疑いもなく進歩の役割を果たしているといえる。子どもに人間性を認め、子どもの心に特殊性を認め、子どもの心に自由で創造的な成長を期待するというのは、封建的な児童観や古い教育観に対するアンチ・テーゼである」(菅忠道『日本の児童文学』)という評価も成り立つ。だが、同時に童心主義は、作家が現実社会の矛盾とどこまでも誠実にかかわり、人間解放の意志をつらぬきとおすかわりに、その挫折のかくれみのとしての役割もになってきているのである。
 大正期児童文学が発見した「童心」は、「他者」との対立をはじめから捨象し、直接的無媒介的に「子ども」一般、「人間」一般を主張することによって、理想的人間像となることができたのである。それは同時に、国家、社会を超越して、人類とつながりそれと調和しえたのである。
 童心はたしかに人類共通のものであり、普遍的な要素をもっているが、それが多分にコスモポリタニズムの色彩をもっているところに問題があった。
 もし真に「子供の真実を再生産」しようとするならば、必然的に日本の現実と対立し、そのたたかいのなかに子どもの存在を追求しなければならなかったはずである。
 だが、大正期児童文学がおこなったものは、創作、再話をとおして、ゆたかな物語と思想性の深さをもちえたほかは、わずかに郷愁、思い出のなかに、自己の幼少年時代の体験をさぐるという方法において、あるいは伝承的な説話、わらべ歌の発想を生かすというかたちにおいて、日本の社会現実とふれあうことができたにすぎない。他の多くは、主観のなかで空想的ロマンティシズムやセンチメンタリズムをうたいあげることにおわっているのである。前者の成果としては、さきにもあげた島崎藤村の作品、有島武郎の『一房の葡萄』のほかに千葉省三の『虎ちゃんの日記』などがある。これらの作品に共通するものは、いずれも自己の少年時代の体験を作品化した点であり、リアリズムへの可能性を内包するものであった。
 だが、やがて日本の児童文学の主流は詩的で象徴的なメルヘンに移っていくことになる。「他者」との対立を捨象した童心が、作家の自己表現と結びついて鈍化していくとき、それが詩的で象徴的色合いをおびてくることは必然のなりゆきである。そこでもっとも大切なことは気分の表現である。ある物をとおしてフィクションの世界を造型するという文学本来の姿はほとんど否定されてしまっている。そこでは、子どもの空想と説話がとけあっている豊島与志雄の『天狗笑』などのもっている作品世界をつくりあげる余裕すら見失われてしまっている。もちろん、宮沢賢治の世界なども無縁の存在でしかない。
 大正期の児童文学は一面において、児童文学をできるかぎり純粋なものに、あるいは詩的なものに近づける動きであったと考えられるが、この動きは大正末期に結成された「新興童話連盟」(大正十四年)による若い世代やプロレタリア児童文学の道にすすんだ人びとによって批判され、児童文学の社会性が追求されるようになる。つまり、児童文学の散文化、社会化への動きが、昭和期にはいって急速にすすむのである。これは戦後
児童文学を通して現在にまで続いているが、今日この児童文学の散文化が詩の喪失をもたらしはじめていることを考えるとき、あらためて大正期児童文学の可能性を検討してみる時期につきあたっているともいえる。
 ところで、童心文学とはまったくかけはなれたところで子どもたちの興味と関心をがっちりつかんでいた大正期の大衆児童文学は、「少年倶楽部」(大正三年)、「少年少女譚海」(大正九年)、「少女倶楽部」(大正十二年)、「幼年倶楽部」(大正十五年)などの雑誌によって発表されてきたが、大衆児童文学の有力なにない手のひとりである吉屋信子の『花物語』が連載されたのは、大正五年(一九一六年)のことであり、少女小説はこの作品によって市民権をえ、その位置を定着させることができたのである。
 しかし、大正期の大衆児童文学が活発な動きをしめしだしたのは、関東大震災を転機にして飛躍的な進展をとげた少年少女雑誌においてであり、その中心となったのは「少年倶楽部」であった。ここには『龍神丸』(高垣眸・大正十四年)や『神州天馬侠』(吉川英治・大正十四年)などが登場し、少年少女の読者を魅惑した。
 いずれにしろ、大正期児童文学は日本の近代児童文学史のうえで、童話・童謡の黄金時代をきずいたといわれている。たしかに明治期のそれに比して、多彩な作品が生みだされてきたことはたしかである。だが、この大正期児童文学がプラスであったかマイナスであったかはさらに検討に価するテーマである。ただいえることは、大正期児童文学は、あまりにも芸術や童心にたいする関心だけが深く、民族や社会にたいする責任の姿勢がとぼしかったということである。わたしたちは、子どもの責任をもつという立場から、大正期児童文学をいま一度とらえなおしてみる必要があるように思う。
(『作品による日本児童文学史』第一巻・昭和四十三年十二月所収)
テキスト化山本実千代