『横谷輝児童文学論集1』(横谷輝 偕成社 1974.08.14)
第二節 プロレタリア児童文学からうけつぐもの
――その評価をめぐって――
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戦後、プロレタリア文学についてはさまざまな角度から評価や再検討が論議され、さらにその姿勢をめぐって、批判がおこなわれたりした。だが、それにくらべてプロレタリア児童文学においては、そうした評価や再検討がまともにとりあげられた事例はきわめて数少なく、否定にしろ肯定にしろそれらを論議の対象にしようとする問題意識自体が希薄であったという実状がある。このような現象は、かつて菅忠道がつぎのような指摘をおこなって以来今日まで、そう大きくは変化していないのである。
「戦後に、民主主義運動との関係でプロレタリア文学の再検討がはじめられたときも、プロレタリア児童文学については手がつけられなかった。近年の、国民文学論の契機としてのプロレタリア文学運動の再評価においても、児童文学の分野は空白のままにおかれた。児童文学の分野を大きく脱落させているプロレタリア文学史は、もとより不完全なものといわなければならない。
それには、つねに児童文学を文壇の片隅の問題とみてきた一貫した文学史観がからんでいるともいえよう。(中略)ところで、プロレタリア児童文学の再検討が、まったくといっていいほど手がつけられていないことについては、われわれ児童文学関係者の怠慢が、なにより責められねばならぬことである」(『プロレタリア児童文学について』「文学」一九五四年十二月)。
もちろん、プロレタリア児童文学についてなんらの言及もおこなわれなかったというのではない。
なによりもまず、菅忠道がみずからそれをおこなってきた。つまり『日本児童文学大系』第三巻・『プロレタリア童話から生活童話へ』(三一書房、一九五五年六月)の「解説」や『日本の児童文学』(大月書店、一九五六年四月、のち一九六六年五月増補改訂版)のなかの『プロレタリア児童文学運動の展開』、あるいは『新選日本児童文学』昭和編(小峰書店、一九六三年十二月)の付録としてかかれた『昭和期児童文学とその背景』などにおいて、プロレタリア児童文学運動の実態を意欲的にとりあげ、その運動が果たしてきた役割と欠陥をきめこまかく分析、整理した。
今日プロレタリア児童文学運動の輪郭が、わたしたち若い世代にもほぼあらまし把握できるようになったのは、これら菅忠道の労作に負うところが大きい。
しかし、この菅忠道の仕事をのぞいては、まことに微々たるものにとどまっている。わずかに、『童話と大人たち――槙本楠郎の理論をめぐって――』(木島始・「文学」・一九五八年十一月)、『プロレタリア児童文学――それへの一視点』(国分一太郎・『新選日本児童文学』、昭和編、小峰書店)、『「少年戦旗」の思い出』(猪野省三、同上)、『プロレタリア児童文学運動』(猪野省三・『親と教師のための児童文化講座』二巻・子どもの芸術と文学』弘文堂、一九六一年五月)などが、プロレタリア児童文学自体をとりあげて論じており、この他『現代児童文学辞典』(「解釈と鑑賞」・一九六二年十一月)の『児童文学史概説・昭和戦前』(関英雄)、『児童文学概論』(牧書店、一九六三年一月)、『昭和期――戦前・戦中』(鳥越信)、『日本児童文学案内』(鳥越信・理論社、一九六三年八月)、『昭和文学十四講』(右文書院、一九六六年一月)の『昭和の児童文学』(古田足日)等において、文学史的事実としてごく簡略にふれられているていどにすぎないのである。
もっとも、こうした事実はかつての「まったくといっていいほど手がつけられていない」状態に比較すれば、すこしずつ前進しているという評価もなりたつ。児童文学全体にたいする研究の不足や立ちおくれという事態を考慮すれば、プロレタリア児童文学運動の検討のみが特に欠乏しているのではないという判断も可能である。まして、この時期の資料収集の困難さや、理論・作品の蓄積のたりなさを考えるとき、なおさらその作業のむずかしさが推察される。
にもかかわらず、わたしには、プロレタリア児童文学へのアプローチが、決定的に不足しているという感じを打ち消すことができない。そして、こうしたわたしの思いは、プロレタリア児童文学にたいして、戦後なんとなくいきわたっている否定的なムードやその評価のありかたと結びついている。
つまりプロレタリア児童文学運動は、今日にのこる作品も理論も創造しえなかった。それはもはや文学的事実としては存在しえても、現在に継承しうるものはなにもないという評価や見解が、すでに十分検討ずみのこととして承認され、定説化しようとしているのである。たとえば、国分一太郎は前述した論文でつぎのようにいう。
「わたしたちはプロレタリア児童文学という文学現象が文学史の上に存在したことを当然認めることができる。しかしその一方では、この運動が、一般文学史におけるプロレタリア文学運動ほどには、大きな文学史的意味または問題をはらんでいなかったことを、いつも感じないではいられない。それといっしょに、その運動の成果と欠陥についての論議は別としても、おとなのプロレタリア文学運動が残した作品のなかには、いちおうその時代に創造された作品として、今日もなお読むにたえるものが幾つかあるのに対して、プロレタリア児童文学作品の場合には、運動の歴史的研究の資料としてならともかく、作品そのものとしては、今日鑑賞にたえるようなものが、きわめて少ないことに失望を禁じないではいられない」。
ここではプロレタリア児童文学がプロレタリア文学との比較において否定され、わずかに「歴史的研究の資料」としての意味だけが認められるという評価に重点が置かれている。このような評価のありかたは、多かれ少なかれ戦後にあらわれたプロレタリア児童文学評価にみられる共通のパターンであったと思う。
つまり、プロレタリア児童文学に関する論議には、その論点や観点のおかれかたに微妙な差異があり変化もあるが、全体的な傾向としては否定面を強調することに重点がおかれ、清算主義的な立場に傾斜していく危険を内包していたのである。そして、これらのプロレタリア児童文学にたいする否定的批判が、プロレタリア児童文学の存在をなんとなく色あせたものとして印象づけるうえに力をかし、たいした深い論究もおこなわれないまま、プロレタリア児童文学はつまらないものだという先入観を植えつけ、否定的評価をステロタイプ化する役割を果たしたことは見のがすことができない。
たしかに、プロレタリア児童文学運動は、たとえばプロレタリア文学における小林多喜二や宮本百合子のような作家や作品を生みだすことはできなかった。しかもプロレタリア児童文学がプロレタリア文学運動の一環として位置づけられ発展したことを考えるとき、その比較において検討されることもやむをえないことである。またプロレタリア児童文学運動が生みだした作品が、今日の時点からみると大きな欠陥をもっていることも否定できない事実である。
だが、はたして戦後おこなわれてきたプロレタリア児童文学にたいする評価のすべてが、正当な角度からなされてきたといえるかどうか。今日鑑賞にたえる作品をもちえなかったということだけにこだわって、プロレタリア児童文学運動全体のもつ意味までも、性急に否定しようとする傾向がなかったかどうか。
菅忠道は、この点についてもすぐれた指摘をおこなっている。
「だが、それにしても、プロレタリア児童文学が果してきた歴史的役割は、不当に低く評価されているようだ。概念的、公式的、非芸術的……などのレッテルが、こびりつきすぎている。逆説的にいえば、その程度の作品や理論なりにも、日本の児童文学に社会性を開いた面を見おとすことは、明らかにまちがっている」(『プロレタリア児童文学について』同上)。
わたしは、プロレタリア児童文学運動が提起した問題は、きわめて大きな分野にわたっていると考えている。けっして単純な論理で否定しきることができない質をもっているとも思う。
それにたいして、冒頭にものべたようにまだほとんどの分野に手がつけられず、未開拓のままのこされているのが実状である。今日の段階ではその運動のあらましが、やっとおぼろげな輪郭をもって浮かびあがってきたていどにすぎない。いままでの発言は、そうした基盤のうえにたってこころみられた、あくまでも「一つの視点」にすぎないのである。けっして展望のいきとどいた、全面的な知識や論理のうえにたった評価ではないといっていい。
わたしたちは、まずこのことを確認しなければならないと思う。この確認のうえにたって、主観的・独断的な批判ではなく、客観的・科学的な姿勢でもって、未開拓の分野をすこしずつ切り開いていかなければならない。たとえば、作品論、作家論ひとつとっても、それはほとんど手がつけられていないのである。それがたとえ現在の目からみて読むにたえぬ作品であったとしても、きめこまかく分析してみる努力がおこなわれなければならないと考える。また理論、児童文学理論をはじめ、文学本質論とかかわらせてプロレタリア児童文学が提起した問題を論究することもかかすことのできない作業である。あるいは、革命運動史や、社会主義思想史との関連のなかで、その意義や位置づけがおこなわれることも必要であろう。このように考えるとき、そのとりあげなければならぬ問題はあまりにもの多いといわなければならない。
いずれにしても、わたしたちはまず、プロレタリア児童文学を全体としてうけとめることが前提条件である。
宮本顕治は『プロレタリア文学評価の前提』という文章のなかで、「この文学運動が日本文学と社会の進歩の発展の方向に新しく加えたものは何かということを先ず全体的につかむ」(「多喜二と百合子」二号・一九五四年二月)ことを強調したが、プロレタリア児童文学の評価においても、事情はまったく同じことである。
いまひとつ確認しておかなければならないことは、今日プロレタリア児童文学を再検討することは、どのような意味があるのかをしっかりと問いなおしてみるということである。現在の時点で、プロレタリア児童文学を論じることは、けっして文学史的研究のためだけではない。むしろ今日の児童文学状況のなかで、プロレタリア児童文学を正しくとりあげることによって、児童文学全体を国民的に、いいかえれば子どもにむかって解放していく道を発見することにある。
いうならば、プロレタリア児童文学の再検討は、今日の児童文学状況そのものが、読者である子ども自体が要求していると同時に、もっとつきつめていえば、自分自身につきつけられた要求そのものであるのだ。したがって、その作業は、今日の児童文学状況と自己との緊張関係をよびおこすことなしには、おし進めることは不可能である。
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今日わたしたちが、もっとも精力的にとりくまなければならない問題は、民主主義の流れにたつ児童文学をどのようにして発展させていくかということである。
だが、いまの児童文学をとりまく状況は、あまりにも混沌としていて、ともすればその方向が見失われがちである。作品においても論理においても、その方向を前進させていく手ごたえをもってつかむことができないでいる。事実昨今出版される児童文学作品の多くは、主観的な立場からの実験的な手さぐりから生みだされており、リアリズムの立場にたつものは、その量においても質においても圧倒的に不足しているというのが実状である。
わたしたちは、このような状況をうちやぶっていくためにも、プロレタリア児童文学運動が日本の児童文学のうえに新しくもたらしたものを、正当に検討しそれをどう継承していくかということからはじめなければならない。とくにそれは理論面においておこなわれる必要がある。
ところでプロレタリア児童文学運動が、日本の児童文学のうえに新しくつけくわえたもっとも大きなことは、なんといっても子どもの存在を階級的社会的なものとして把握する観点を獲得したことであろう。
「子供たちの世界――いわゆる童話の国にも今や一つの大きな亀裂線が入った。童話の世界もキッカリ二つに分かれた。その一つは<向う側>のブルジョアの世界、即ち支配階級の世界であり、<こちら側>はプロレタリアの世界即ち被支配階級、被搾取階級のそれである」。
「元来児童の心、児童の世界は天真爛漫、純真無垢、恰も白紙の如く、無階級、超階級的のものと看倣されていた。しかしそれは甚だ概念的な、そしてあまりに詩的空想化、宗教的偶像化、無智による迷信的神聖化に過ぎなかった。尠くも現在の如くクッキリと<大人の世界>が階級的対立を示し、刻々にその闘争の尖鋭化し白熱化しつつある場合には」。
「児童もいずれかの階級に属せずには生きて行けない。いずれかの母(階級人)の乳を飲まずには成長は出来ないのだ、即ち児童の生活、児童の心の国にも階級的相違のある所以であり、また児童そのものに階級の有る所以である。而して彼等児童も今やその父母同胞と共に力を合して闘いつつあるのだ」(原文のママ)。
これはプロレタリア児童文学運動の理論的指導者であった槙本楠郎が一九二八年六月に執筆し、「文芸道」(八月号)という雑誌に発表した『プロレタリア児童文学の提唱』という論文の一節である。
この論文が執筆された時期とほとんど同じころ、つまりこの年の三月に、全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成され、五月にはプロレタリア文学運動の創作方法を方向づけたといわれている蔵原惟人の『プロレタリアレアリズムへの道』が「戦旗」に発表されている。これら前後の動向を関連させて考えるとき、「プロレタリア児童文学の提唱」がプロレタリア文学運動の大きな流れのなかで、さまざまに影響され、かつそこから養分を吸収しながらおこなわれたことは十分推察することができる。
その影響のされかたや吸収のしかたには、のちにふれるようなかなり大きい弱点を内包していたとはいえ、児童文学運動というものがプロレタリア文学運動の一環として明確に位置し、いわばおとなの文学と肩をならべてともに進もうとしたことは、興味深いことだし評価されていいことである。このことについて菅忠道は「未分化であったからといえば、それにちがいないけれど、一貫した運動意識で結ばれていたことの積極的意義は絶対に見落せない。『文芸戦線』、『前衛』、『戦旗』などという、そのころ文壇的にも無視できぬ有力な文芸雑誌上に、児童文学作品が堂々と掲載された事実は、やはり特記すべきことであろう」(『昭和期児童文学とその背景』同前)といっているが、同感である。今日のように一般の文学の動きと、児童文学の方向があまりにも背離している情勢のなかでは、なおさらその印象が強いのである。
そして、こうしたプロレタリア児童文学とプロレタリア文学の共通した歩調を可能にした要因は、それが成立してきた事情のなかにひそんでおり、その背景をきりはなしては考えることができない。
プロレタリア児童文学運動がおこってきた背景の事情については、たとえば猪野省三の『「少年戦旗」の思い出』(『物語プロレタリア文学運動』上、新日本出版社)という回想風の文章などに描かれている。そのところを少しばかり長く引用するとこうである。
「『少年戦旗』の<付録>として創刊されたのは、一九二九(昭和四)年五月だった。いうまでもなく労農少年少女に与える読み物がほしい、という要求のたかまりに答えるために創刊されたのであった。少年少女のための読み物がほしいという要求のきっかけをつくったのは、このときには四年前の一九二五年におきた新潟県木崎村の小作争議だったように思う。この争議に東京帝大の<新人会>のメンバーが参加して、小作人側の子どものために無産小学校を開いた。そのとき、大変教材に苦労したという経験が、労農少年少女のために、よい読み物をつくりだそうという運動をもりあげたのだった。その直後、一九二六年六月から『無産者新聞』が<子どもらん>を設け、小野宮吉や鹿地亘など、とくに木崎村の小作争議に参加したメンバーが、童話を書きはじめた。一九二七年に発刊された『文芸戦線』にも『小さな同志』という子どもらんが設けられた。その翌(一九二八)年の正月、野田醤油でストライキがおこり、労働者の学童は同盟休校して、労農少年軍をつくって父兄とともにたたかった。そうして、全国でおきた小作争議や工場ストライキで、子どもたちの活動がさかんになり、闘争のなかから子どもの組織がつくりだされるようになった。その年の三月に創立されたナップのなかから、子ども雑誌を出そうという要望がでてきたのも当然のことであろう」。
あらためて指摘するまでもなく、プロレタリア児童文学運動は労働者農民の解放運動と密接にかかわった地点で生まれてきたのである。そこでは子どもをプロレタリアとして教化しようとする意識が濃厚に働いていた。この成立の要因そのものからいっても必然的に文学運動をとおして社会変革をめざすプロレタリア文学運動のなかに位置づけられるべき性格のものであった。いずれにしても、プロレタリア文学、プロレタリア児童文学は労農運動、革命運動を基盤として、その必要に応じて分化した二つの流れである。そして「プロレタリア児童文学の提唱」は、階級的児童文学理論の確立とそれにもとづく作品の創造をめざして発せられた宣言であった。
もっとも、それは文学理論としてみた場合あまりにも荒けずりなのもので、さまざまな未熟さや誤りもあったが、それまでの超階級的、超社会的な児童主義文学のもっていた児童観を、根本的に変革する道を開いた意義は大きいものがあった。
今日わたしたちがもっている児童観の基本的な骨格は、いうまでもなくここにおいて形成されたものであった。
この児童観の根本的な転換は、必然に児童文学観の変革に結びついていく。
『プロレタリア児童文学の提唱』よりちょうど一年後にかかれた『プロレタリア児童文学の理論と実際』(一九二九年六月五日・『プロレタリア芸術教程』第二輯所収)において、槙本楠郎はその理論を深化させて、つぎのような児童文学観をのべている。
「児童文学は、原則的には児童にのみ属すべき文学である。その謂は、児童の心理と理解力とを無視しては、絶対に成立しないという事である。即ち児童は感覚によって生ずる所の認識である知覚が、一般的に大人より貧弱で不確実で、全体的に精細味を欠いている。それ故、ややもすれば空想に走り、現実を脱却して仮象の世界に没入し、而してその世界を真実であると思い込む心的様態を多分に持っている。それ故に児童の生活内容、生活感情は大人のそれと相違する。従って喜怒哀楽の<内容>、価値、意義の<標準>――即ち真・善・美に対する<観念>の相違を持つ。而してこの観念の相違を表現するのが<児童文学の本質>であり、その相違を大人の観念まで導くのが<児童文学の使命>であり、更にその観念をプロレタリアートの持つべき観念へまで導くのが、<プロレタリア児童文学>の使命であらねばならぬ」。
また『童話に於ける「現実」、「非現実」の問題』(尋一の教育)一九二九年七月)ではつぎのようにもいっている。
「児童の表現様式が観念的、空想的を脱し、現実的に向ふといふそれ自体のうちには、斯る観念が消失したといふよりも、それ以上に現実的実在が奇怪であり神秘である事を漸次彼等の心に映じて来る為めで、それにヨリ好奇心を惹かれ、そしてそれを意欲的に究明しようといふ心掛となる事が、ヨリ多分に含まれているといふ事を忘れてはならない。(そしてこの虚に乗ずるといふ事こそ、児童文学の教化的使命は活されてい、またその目的は可能とされ得るのである。)昼間は彼等は大人に近い、また大人の模倣の生活をしようとするが、夜乃至闇の中や、自分ひとりぽっちになれば、彼等はやっぱり<彼等本来の生活しか出来ないのである。そこでやっぱり現実的な事も非現実的な事も無頓着にごっちゃにして、そしてまた四つ足動物が人間のやうに話をし、人間がまた飛び、道具が自分で動き廻ると空想する>のである故に児童作家たる者は、かかる内面的児童生活を無視してただ昼間の、そして大人たちの世界に引っぱり出された時ばかりの、所謂現実的な児童生活の一面をのみ看取し、それをもって新童話の本領かの如く誤信してはならないのである。否寧ろ、かかる所謂非現実的空想的世界を根帯として、それを大人の世界、大人の認識、大人の生活へまで指導し発展せしめる事こそ童話の使命であり、また童話作家に課せられたる任務と自覚すべきである」。
こうした文章にあらわれた児童文学観の特色は、児童文学のもっている「階級性」、「社会性」を明確にしたうえにたって、児童文学そのものの持つ特殊性、おとなと子どもの「生活内容」の相違、子どもがもっている「非現実的」な要素を確認していることである。プロレタリア児童文学がいくら労働者・農民の解放運動から成立したとはいえ、それが子どもを対象とする文学である以上、その特殊性を正しく把握しようとすることは当然のことであった。そして、ここで不備な点が多々あるにしろ、児童文学が児童文学として自律しながら発展していくうえに、ひとつの寄与をおこなったことはたしかである。
児童の心性の特徴については、プロレタリア児童文学以前においても、さまざまに論じられてきた。
たとえば、「民俗学的及び民族心理学研究によって童話の発生と発展流動の諸相を知り、文芸的考察によって芸術としての童話の価値を窮め、児童心理学的研究によって児童と童話との生命的関係を掴み、文化研究によって広い意味に於ける童話の教育的効果を理解する」(『童話及児童の研究』松村武雄、一九二二年)というねらいをもっておこなわれた研究では、すでに児童心性の特徴と未開民族の心性との類似が解明されており、また童心主義文学においても、「子供の時の心程、自由に翼を伸ばすものは他にありません、また汚されていないものもありません」(『私が童話を書く時の心持』小川未明、一九二一年)とか、「児童には児童の世界があるといっしょに、大人の世界とのつながりがある。それから君たち児童もいまに大きくなって大人の世界にはいってゆく」(『児童自由詩集』北原白秋)といった指摘はおこなわれていた。だが、プロレタリア児童文学以前における、子どもの心の特殊性を重視する傾向は、多分に抽象的、主観的であり、子どもの存在をとりまくさまざまな条件を捨象したところで絶対化していく性質のものであった。
これにたいして、プロレタリア児童文学においては、社会的現実のなかにおける子どもを、社会的・階級的な観点から、具体的、全体的にとらえようとする志向がとられていた。それは超歴史的な児童中心主義の童心文学の方法にくらべて大きな前進であった。ただ残念なことには、その観点がスローガンの域にとどまり、創造過程のうえに十分に生かされることがなかったのである。
ところで、戦後の児童文学においても、子どもの心性の特殊性を重視する論調がさかんにおこなわれた。それは『子どもと文学』(石井桃子他、中央公論社、一九六〇年)などにおいて、もっとも顕著であったが、それらの動向に見られる大きな特色は、欧米児童文学の理念の影響のもとに、児童文学の世界的基準という広い視野にたっておこなわれたことである。いまひとつは、「児童文学とはなにか」という本質的な問いにこたえて、「おもしろさ、わかりやすさ」という要素を抽出し、子どもの存在や成長発展の段階性、児童の心理特異性などの重要さを説いたことである。
だが、ここでも「時代によって価値のわかるイデオロギー」を排除するというかたちで、作家や作品のもつ思想性を軽視し、かつての童心文学がもっていた超歴史的な児童中心主義が、裏返しになって顔をのぞかせている。
もっとも児童文学本質論にはいまなお未開拓な領域が多く、今日の時点でも不明確なことがらがすくなくない。それは今後の研究にまたなければならないが、すくなくとも子どもそのものをとらえる場合、いたずらにその存在や心性を絶対化して固定的にとらえるのではなく、社会的な関係のなかにおいて、複雑さもふくめて全体的に把握する立場が前提にならなければならないと思う。
こうしたことを考えるとき、プロレタリア児童文学が提起した児童文学観は、欠陥がすくなくないとはいえ、あらためて、まともにうけとめるかまえと努力がなされるべきであろう。
プロレタリア児童文学運動が新しくもたらしたいまひとつの重要な面は、プロレタリア児童文学を工場、農村における少年少女大衆と結びつけ、それをプロレタリア意識に教化し組織する関係のうえに位置づけたことである。
このように児童文学が読者である子どもとの結びつきを自覚的に推進し、その機能を階級社会の現実に即して積極的に規定しようとしたことは、プロレタリア児童文学においてはじめておこなわれたことである。また、児童文学が進歩的な教師たちによって推進されていたプロレタリア教育運動と結びついていたことも見落とされてはならないことであろう。
一九二九年二月に開かれた「日本プロレタリア作家同盟」の創立大会において、猪野省三がおこなった『童話についての報告』のなかで、「子供の感情を通して、労働者農民少年大衆をアヂ・プロ・オルガナイズするため、少年に愛されるため、対象の科学的認識、内容取材の現実的把握等により注視しなければならぬ」、「内容及び取材を広範にすること、ことに工場に取材を多くすること」などが、一九二九年の活動目標としてかかげられていることはそうした動向のあらわれである。
また槙本楠郎が、『プロレタリア児童文学運動の根本問題』(「新興教育」一九三〇年十一月)という論文において、プロレタリア児童文学の対象や題材についてつぎのように述べていることも、プロレタリア児童文学と労農少年大衆との結びつきにこたえようとするひとつの試みであろう。
「吾々の児童文学の中心的目標――対象は、重要産業労働者の児童、及び農村の貧農の児童である。だから、彼等の為の文学たらんとするには、何よりも先づ彼等のヨリ関心する問題、及び真に彼等自身の問題たり得る問題――それを捉え来り、それを充分理解させ、それに熱情的な関心を持たせ、行動化へと導く――そこに吾々の文学に取扱はるべき題材が在る」。
「私案として次に掲げて見る。この骨格をなすものは、第一、ブルジョア教化に対する闘争、第二、宗教的観念に対する闘争、第三、国際プロレタリアートの組織的機構への関心の三つである。?学校闘争、?宗教否定、?帝国主義戦争反対、?犠牲者救援、?三・一五記念、?四・一六記念、?山宣遭難、?ロシア革命記念、?レーニン記念日、?カール・ローザ記念日、?メーデーの話、?パリー・コンミューンの話、?オリニナル(朝鮮子供デー)の話、?ピオニールに関するもの、?革命家、指導者に関する話、?その他」。
こうしたプロレタリア児童文学の、労農少年大衆との結びつきが一九三〇年六月にだされた、日本プロレタリア作家同盟中央委員会の『芸術大衆化に関する決議』をめぐる動きなどに大きく影響されたことは推察に難くないが、それがときにあまりにも性急なかたちでとなえられ、労農少年大衆の生活のなかから、児童文学の創造の源泉をくみとってくる努力も、必ずしも十分な成果をあげえなかった側面をもっていた。
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プロレタリア児童文学運動そのものが内包する問題は、もっときめこまかく多方面にわたって検討されなければならないが、さしあたってわたしは、超階級的・非社会的な児童観の打破、児童文学の階級的観点の確立、児童大衆との結びつきによる創造の進展と、階級的教化という目標の明確な規定といった点にプロレタリア児童文学運動がもたらした新しい成果を認めたいと思う。
しかし、いうまでもなく、このプロレタリア児童文学運動にも、いくつかの歴史的制約や未熟さや欠陥があった。それはいままでにもすこしずつふれてはきたが、運動全体のなかでひきおこさなければならなかったゆがみや偏向やいきすぎについては、あたらしくもたらされたものとの関連において、正しく指摘しておかなければならない、そのことは、プロレタリア児童文学が現代に継承されるのにどうしてもかかすことのできない作業である。
ところで、プロレタリア児童文学の未熟さの問題を考えるとき、わたしはまず蔵原惟人が村山籌子にあてた「獄中通信」を思い出さずにはいられない。
「(前略)プロレタリアの童話の理論は其の後発展していますか? この問題は重要ですからなるべく早く、しかも極めて慎重に我われの間で解決する必要があると思います。私の考えでは子供に初めから余り高い政治や経済のことをつめ込むことは禁物です。子供には子供に親しみやすく分り易いことから始めなければなりません。それはちょうど、我われが弁証法をもっていながら尚かつ初等教育では形式論理学を教えなければならないとレーニンがいったのと同じだろうと思います。このことを今までの我われの童話は忘れ勝ちではなかったでしょうか?」
「しかし同時に形式論理学を過去のままの姿で我々が教えるのではなくて、その弁証法への発展の見透しのもとに教えなければならないと同様に、我われの童話も昔のようなものであってはならないことは勿論です。殊にこのことは形式論理学よりももっと多くの有害な付加物があるのですから。しかしそれにも拘らず過去の童話から学んでそこから有益なものを汲み取ることが出来ると思います。私は童話のことはよくわかりませんが、それらのことを考えた上で、我われの童話理論を立てることはあなた達の重要な仕事であるように考えます(後略)」(『芸術書簡』一九三二年八月十一日)。
ここで蔵原惟人が述べている「童話について」の感想は、通信という形式もあってごく簡単な示唆にとどまっているが、そこでおこなわれている問題点の指摘はきわめて需要なものであった。
つまり、その一は、「子供に初めから余り高い政治や経済のことをつめ込むのは禁物です」として、性急なかたちでのプロレタリア教化やイデオロギーの押しつけを排除しようとしたことである。その二は、「子供には子供に親しみやすく分り易いことから」ということばからもわかるように、児童文学がその対象である子どもの成長・認識の発達段階を配慮し、それに適応したものでなければならないということである。第三は、いうまでもなく、「過去の童話から学ぶ」という遺産や伝統の摂取と継承の大切さについてである。
これらの問題点は、今日の時点から考えるとき、ことさらに新しいものではない。ほとんど当然のこととして確認されていることがらである。だがプロレタリア児童文学運動がふくんでいた欠陥を、プロレタリア文学運動の指導者であった蔵原惟人が、当時こうしたかたちでいわば内部批判をおこなったことは注目すべきことであったといわなければならない、しかし、この「獄中通信」がかかれたころには、すでにプロレタリア文学への弾圧が激化し、プロレタリア児童文学運動の活動も沈滞が目だち、その批判を生かす余地はなかった。そして、こうした批判の観点がわずかでも具体化されるようになったのは、プロレタリア児童文学運動が解体したのちの「転向」期においてであったことは、歴史の皮肉でもあり、同時に児童文学の特殊性そのものにもとづくものであった。
ともあれ、蔵原惟人が指摘した欠陥は、プロレタリア児童文学運動が生みだしてきた作品に端的にしめされていた。
プロレタリア児童文学の発表舞台としては、一九二六年六月の「無産者新聞」にもうけられた「コドモのせかい」欄、一九二七年六月「文芸戦線」にできた「小さい同志」欄、同年七月に創刊された「プロレタリア芸術」、一九二八年一月に創刊された「前衛」の「コドモページ」、そして一九二九年五月に「戦旗」付録として創刊された「少年戦旗」(のち同年十月に独立)、一九二九年一月の「童話運動」などがあったが、初期の代表的な作品としては、『地獄』(鹿地亘・「プロレタリア芸術」一九二八年一月)、『ドンドン焼き』(猪野省三・「プロレタリア芸術」一九二八年二月)、『にぎりめし』(猪野省三・「プロレタリア芸術」一九二八年四月)、『文化村を襲った子供』(槙本楠郎・「戦旗」一九二八年十二月)、『メーデーごっこ』(槙本楠郎・「文芸戦線」一九二七年九月)をあげることができる。
これらの作品のひとつひとつについて、それがたとえ現在の時点からみてとるにたりぬ作品であったとしても深く分析し、それがふくんでいた可能性をふくめて検討してみる必要があるのだが、いまそれをおこなっているだけの余裕がない。そのためどうしても概括的な分析しかおこなえないのは残念であるが、これらの作品に共通している特色はやはり、プロレタリア・イデオロギーの概念的な表現である。たとえば、「我国に現れた最初のプロレタリア童謡である。単的な表現ながら相当纒っている」(槙本楠郎『日本プロレタリア児童文学の発達』<『プロレタリア児童文学の諸問題』所収>と作者自身が評価する『メーデーごっこ』という作品などにそれがよくあらわれている。
「一人来い 二人来い みんな来い 長屋の子供は みんな出ろ おいらは腹がへった 手をつなげ 町のまん中 ねり歩こう メーデーごっこだ 勢ぞろい 乱れな 前進だ」
たしかに「単的な表現」である。だがその端的さが概念の解説的な表現にとどまるとき、作品は硬直化して感動をよびおこさないことはいうまでもない。
こうしたプロレタリア・イデオロギーの観念的・概念的な表現は、童話作品においても目だった特徴であった、初期の作品のなかでも、比較的水準の高いといわれている猪野省三の『ドンドン焼き』、『にぎりめし』においても、階級意識の注入が先行していて表現との統一が十分おこなわれていない弱点をしめしている。
槙本楠郎はプロレタリア児童文学運動の初期の事情をくわしく展望した貴重な労作『プロレタリア児童文学の発達』(『国際文化』一九二九年)において、「コドモのせかい」欄に発表された作品をつぎのように評価している。
「この全作品を通じて云い得られる事は、当時此等の作家が殆んど階級的児童文学理論を持たず、従って何等の用意も準備も無く、イージーなる態度で従来の童話形式を踏襲し、僅かにプロレタリア的、又は唯物史観的観方を表現しようとし、且つ発表したに過ぎぬと云う事である」。
この指摘は、プロレタリア児童文学の作品が多かれ少なかれ妥当するものであった。つまり、いいかえればプロレタリア児童文学の独自な創作方法を確立することなく、ただ階級意識を伝統的な童話形式をかりて表現したにとどまったのである。そこでは子どもをとらえる方法が具体的に追求されなかっただけでなく、プロレタリア・イデオロギーという内容を現実との結びつきのなかで構成し、それをもるにふさわしい形式をつくりだす努力についてもいたらぬところが多かったのである。
では「階級的児童文学理論」は槙本楠郎において確立されただろうか。このことについて、菅忠道は『プロレタリア児童文学運動が果した役割と欠陥』(『日本の児童文学』所収)のなかで、つぎのような見解をしめしている。
「槙本楠郎に代表されるプロレタリア児童文学理論は、一般的に当時のプロレタリア文学運動の指導理論に立脚していた。全体としての主観主義、極左的偏向の影響が時代の制約として認められるとともに、児童文学の理論と作品活動には、蔵原惟人たちによって達成されていたマルクス主義文学論に照らしても、大きな立ちおくれがあったといえよう。それは特に創作理論においてみられる」。
この見解はあたっている。プロレタリア児童文学の場合、その特殊性をふくめたきめこまかな創作方法がなんとしてもうちたてられなければならなかったのである。
わたしはさきに、『プロレタリア児童文学の提唱』が蔵原惟人の『プロレタリア・レアリズムへの道』などの理論的業績に影響され、養分を吸収しておこなわれたにちがいないといった。
『プロレタリア・レアリズムへの道』においては、「我々にとって重要なのは、現実を我々の主観によってゆがめたり粉飾したりすることではなくて、我々の主観――プロレタリアートの階級的主観――に相応するものを現実の中に発見することにあるのだ――かくしてのみ初めて我我の文学をして真実にプロレタリアートの階級闘争に役立たせうる。すなわち、第一に、プロレタリア前衛の<眼をもって>世界を見ること、第二に、厳正なるレアリストの態度をもってそれを描くこと――これがプロレタリア・レアリズムへの唯一の道である」ことが主張され確認されていた。「現実にたいする客観的な態度」こそ、プロレタリア文学の基本姿勢であり、創作方法の基盤であった。
ところが、プロレタリア児童文学においてはこの基本的なかまえが、きびしく確認されないまま、きわめてアイマイに放置されたと思われるふしがある。たしかにすでにみてきたように、児童文学における階級観点の獲得や児童文学の特殊性については明確にされてきた。だがなによりも重要な、現実の子どもをどうみ、どう考え、どうとらえるかについては、わずかに「一般的に云うなら子供は大人と比較して、その生活内容も程度も、従って生活感情も生活態度も大いに異る。然しそれは子供が<神の子>や<大人の父>であるが為では断じてない」、といったていどの抽象的なとらえかたにとどまっていたのである。
おそらくプロレタリア児童文学においても、「現実にたいする客観的態度」が無視されたはずはない。だがそれはすでにわかりきった前提として、その意味するものを深く追究することなく通ってしまったのではないだろうか。そして結果において片隅におしやるか、流してしまったように思う。
プロレタリア文学の理論が、かなり安易な態度でプロレタリア児童文学に機械的に適用されるという欠陥も、このような基本姿勢の弱さから生じてきたにちがいない。
たとえば、このことは菅忠道も指摘しているが、『プロレタリア児童文学の根本問題』において、槙本楠郎が「プロレタリア児童文学の内容とするイデオロギー」を、「革命的プロレタリア児童のイデオロギーである」と規定し、「大人達の、即ち――国際プロレタリアートの世界的な、単一の、有機的な機構に自らを結び付け、広汎な農民を自身の同盟者とし、プロレタリアートの革命を目標として進みつつある、その大人の、革命的プロレタリアートのイデオロギーへと急速に生長発展しつつある革命的プロレタリア児童のイデオロギーである」と解説して、あまりにも機械的に「芸術大衆化に関する決議」を適用したことに、その弱点が象徴されている。「革命的プロレタリア児童のイデオロギー」という内容が、きわめて抽象的、観念的で、主観のなかでだけつくりあげられた実体の不明確なものであるということは、子どもの実体をすこしでも「客観的態度」でみつめればはっきりとわかることである。
児童文学において、『現実にたいする客観的態度』とは、なによりもまず現実の諸関係のなかで子どもの具体的な生活なり行動、心理をいきいきと把握することでなければならない。このことがきわめて抽象的、主観的にしか理解されていなかったところに、プロレタリア児童文学の貧困さを生んだもっとも根源的な原因がある。もちろん、政治とのきびしい闘いや激しい弾圧といった外的制約も大きな要因として考えなければならないが、プロレタリア文学のすぐれた達成を思うとき、そこにだけプロレタリア児童文学のゆがみや挫折の原因を押しつけることはできない。
プロレタリア児童文学がもたなければならなかったさまざまなマイナス面は、児童文学が本来あるべき姿の追求から、あるいは近代日本の児童文学の流れが形成してきたゆがみとの関連において、さらにまた教育との側面などからアプローチしてみる必要がある。そうしたより広い視野からの分析によってプロレタリア児童文学がもつ問題のゆたかさをほりおこすことは、児童文学だけでなく日本の児童文化のありかたにとっても意義深い仕事であるが、ここでは他日を期するしかない。
いま日本の児童文学におけるリアリズムは、その深化と発展をめざしていろいろと試行模索が重ねられているが、現代の複雑な状況のなかで必ずしも実り多い成果があげられているとはいえない。むしろ階級的観点をアイマイにすることによって、リアリズムの質が低下している面もすくなくない現象があらわれている。
わたしたちは、プロレタリア児童文学がもつリアリズムをのりこえて、新しいリアリズムを獲得しなければならないことはいうまでもない。だがそのためにプロレタリア児童文学のリアリズムのすべてを清算したところで生みだそうとすることは不毛な努力である。まずなによりもこのことは前提として確認しておきたい。新しいリアリズムは少なくとも、プロレタリア児童文学が確立した明確な階級的観点のうえにうちたてられるべきものであり、プロレタリア児童文学の継承は、まずこの点においておこなわれるべきである。そのことを確認するためにも、プロレタリア児童文学の再検討はより積極的に進められる必要があろう。
(「文化評論」昭和四十三年五月号掲載)
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