横谷輝児童文学論集1』(横谷輝 偕成社 1974.08.14

第四章 児童文学の方法

第一節 児童文学で「現代」をとらえるということ

           (1)

われわれはなぜ児童文学をかくのか? という問いについては、さまざまに答えることはできるだろう。わたしはその答えの第一として、児童文学で現代をとらえたいからという理由をあげたいと思う。
この答えはいささか突飛な感じをあたえないこともない。だが、おそらくいまの日本の児童文学がかかえている、もっとも根本的な課題のひとつは、この現代をどうとらえるかということであるとわたしは考えている。

今日という時代を誠実に生き、よりよき児童文学を創造しようと願う作家ほど、この課題をさけてとおることは許されないはずである。なぜなら、児童文学作品をかくという行為は、本質的には自分の内部あるいは外部から、現代というものをなんとかしてとらえたいという衝動のようなものがあって、はじめて可能になるにちがいないと考えるからである。
もちろん、そんな衝動によって、児童文学作品をかいているのではないという人もあるだろう。しかしその人は、現代という時代に生きるむずかしさを、ほんとうに自覚していないのだとわたしは思う。
わたしには、現代というものをとらえることの、絶望的ともいえる困難さに直面していない人を信用することはできない。まして、そうした現代というものを、どのようなかたちにしろ、あるいは方法にしろ、なんとかしてとらえたいという姿勢や内的衝迫をもたない作家の作品には、ほとんど興味がない。
といっても、これはわたしだけの、ひとりよがりな揚言としてひびくおそれは多分にある。
児童文学で現代をとらえるという問題が、今日の児童文学のもっとも大きな課題であるという考えに、基本的に疑念をさしはさむ人が、すくなくないことをわたしも知っている。
たとえば、つぎのような文章のなかに、それが端的にしめされている。
「時代によって価値のかわるイデオロギーは――例えば日本では、プロレタリア児童文学などというジャンルも、ある時代に生まれましたが――それをテーマにとりあげること自体、作品の古典的価値(時代の変遷にかかわらぬ価値)をそこなうと同時に、人生経験の浅い子どもたちにとって意味のないことです」。
これは『子どもと文学』(石井桃子他)のなかの『子どもの文学で重要な点は何か?』の項で「素材とテーマ」について述べられた一節である。
つまり、ここにあらわれている見解は、わたし流にいいなおせばつぎのようなことである。
児童文学というものは、なにも現代というものだけとらえ、それを表現することがすべてではない。むしろ、子どもに読ませる児童文学は、移りすぎていくところの時代の現象を表現するよりも、もっと時代や社会の枠をこえたところで、なお価値をうしなわない永遠の真実こそ、とらえて表現すべきであるという主張である。
児童文学の作品が、時代によって価値のかわるものをとりあげることはナンセンスであり、もっと「時代の変遷にかかわらず、かわらぬ価値」や、人間にとってつねに真実であるところの「理想的な人生哲学」を表現することのほうが、より重要であるという主張には、わたしもけっして反対ではない。そのことの必要性は十分に認めるものである。
だが、しかし、このような見解から児童文学作品が時代にかかわることがまったく不必要だという結論をひきだすことはできない。もしそうであればわたしは承服することはできない。
もちろん前述の引用文でも、石井桃子らは現代をとらえたり、それにかかわったりすることは無意味であるといった表現をしているわけではない。しかし「イデオロギー」の否定をつきつめていくと、児童文学にとって現代をとらえることは必要でないし、児童文学としての価値をそこなうものだという結論に達せざるをえないのである。
はたして、現代というものをとらえることは、児童文学にとって必要ではないのか、それは意味のないものとして否定すべきことなのか。
たしかに、理性の発達の未熟な子どもを対象とする児童文学は、現実社会とのかかわりよりもより本質的にはファンタジーの要素の方が大きいものであることは事実である。ここから、なにがなんでも、児童文学は現代をとらえ、現実社会を批判的にリアリズムの方法で表現しなければならないというきめつけは、あきらかにまちがっている。だが、同時に、児童文学になんらかの現実社会の反映があることも、ファンタジーも現実社会を基底とすることなしに成立しえないことも、打ち消すことのできない真実である。
さきほどものべたように、すぐれた「古典的価値」を志向することは、児童文学にとってきわめて大切な要素であることはいうまでもないが、だがその「古典的価値」はいつの時代にも通用しうるものとして、けっしてアプリオリに存在するものではない。もし存在するとすれば、それは「古典的価値」というよりも、むしろ教条的な教訓によりふさわしいものであるといわなければならないだろう。
きわめて常識的なことであるが、ひと口に「古典的価値」といっても、それは歴史的な過程において、さまざまな試行錯誤のうえにつくりあげられてきたものであり、どのような「古典的価値」でも「理想的な人生哲学」あるいは「普遍的真実」であっても、それの絶対性が生きて存在しうるのは、あくまでも相対性との緊張関係のなかにおいてのみである。この絶対性と相対性との切り結ぶ接点でこそ、「古典的価値」もそれにふさわしい価値の力を発揮することが可能なのである。
このことを考えるとき、児童文学が現代にかかわり、それをとらえようとすることと、児童文学作品に「古典的価値」をもたらすことは、けっして抵触することではなく、むしろ、現実社会との主体的なかかわりのなかでこそ、「古典的価値」を見いだすよう努力しなければならないのではないか。
つまり、ここでは文学は永遠的・普遍的なものと、歴史的・社会的なものとの統一によって成立しうるものであるという、ありふれた定義をあらためて確信することによって、ことがすむのである。

                 (2)

ところで、児童文学で現代をとらえるとはどういうことなのだろうか。あるいは児童文学で現代をとらえるためには、なにが必要であり、どうすれば可能なのか。
考えてみれば、この問題はあまりにも大きすぎて、漠然としている。どこからどうきりこんでいけばいいのか、まるで雲をつかむようなたよりなさを感じさせないでもない。
いうまでもなく、現代の世界は大きな激動期にある。たとえばベトナム戦争に象徴されるように、アジア・アフリカ諸民族のたくましい成長が大きな流れとして進行している。あるいは中ソ論争にみられるような社会主義国間の矛盾という新しい事態がひきおこされている。また原子力の出現による人間の意識の変革がおこなわれており、科学のめざましい進展による宇宙開発の拡大が急テンポで進展しつつある。
われわれのまわりに、いまおこりつつあることがらは、いままでの人間の思考や現実に対する意識、あるいは歴史に対する意識を根底からゆさぶり、新しい事象に対応しうる人間のありかた、意識の変革がもとめられている。
いわばわれわれにとって、もっとも緊急な課題は新しい世界像の形成にあるといっても、けっして過言ではないだろう。
だが、このような激動期にある現代世界を、児童文学として包括的にとらえ、そこに新しい世界像を形成して提出することはきわめて困難というよりも、ある意味でほとんど不可能に近いことである。
第一に思考の未発達な子どもに、この複雑な世界の動きを十分理解しうるように表現し、しかもそこに文学的感銘をあたえることなどまず予想することができない。
たとえば、一九世紀文学のなしえたように、自分を神のような位置におき、その視点から、世界全体を見まわしその目にうつったものを表現することが、そのまま世界全体をとらえたことになるというような幸福な時代は、もはやとおりすぎてしまっている。
そうした一九世紀的ないわばバルザック流の文学方法が成立しうるためには、まずなによりもそこに共通の場や共通の論理が必要であるが、今日ではそうした共通の理解が成立しうるような場はどこにも見いだすことはできないのである。立場をかえれば、目にうつる姿も、論理も倫理も価値もまったく相対立するような今日の状況のなかで、ただパノラマ式にこの世界の状況をとらえるということは、ほとんどなにものもとらえないことと同義である。
かつて大江健三郎は、自己の文学の方法について、正確なことばはわすれたが、小さな穴から世界をのぞきみることによって、現代にアプローチしたいという意味のことを語ったことがあった。つまり「性」によって人間全体を同時にその世界をとらえようとする試みである。
たしかに、あるひとつの視点から世界をみることが、今日における現代へのアプローチの可能的な方法であることは考えることができる。
だが、あるひとつの視点が固定され、そこにだけよりかかって現代をとらえようとするとき、必然的に他の部分との有機的な連関がたちきれてしまい、主体的な陰影をうしなってしまわないかという危惧はのこる。
もし、立体的な把握が不可能になったときには、そこに真の世界をとらえることはできないはずである。なぜなら立体感をもたない人間は真の人間ではなく、それは一種の影の存在にすぎないからである。そうしたことは現代という複雑なものをとらえようとするとき、決定的な弱点となってしまうことはあまりにもあきらかなことである。
このように考えてくるとき、児童文学で現代をとらえるということは、いかに困難な仕事であるかがわかる。その壁の厚さのために、子どもを読者とする児童文学には一般の文学にいわれるような「全体小説」などはありえないし、また必要もないという主張もおこなわれることになる。
わたしも、前述したように世界をパノラマ式に見まわすような形のものは児童文学として困難であるし、そうした作品は必要でないという説にはけっして反対ではないが、だからといって、現代をとらえることは児童文学には必要でないという判断にまで、そこからひきずっていくことには賛成できない。
むしろ、わたしはこの現代を児童文学でとらえることの困難さに、どこまでも挑戦してみたいという思いにかられている。そのためにはどのような可能性がのこされているだろうか、それをつきつめてみなければなるまい。

                 (3)

児童文学で現代をとらえることの可能な方法として、わたしはまずさしあたって二つの道を考えてみたいと思っている。
それを結論的にいってしまえば、つぎのようなことにある。
そのひとつは、現実をできるかぎり総合的にかつ構造的にとらえるために、複合的な視野と多元的な視点のうえにたって、現代の複雑な様相に迫ろうとする試みである。
いまひとつは、これとウラハラな関係にあるとも考えられるもので、現代というきわめて漠然たるものをとらえるために、あるひとつの動かない座標のようなものをもとめ、それをささえとして現代を逆にみつめていこうとする方法である。
もちろん、このいずれの方法もけっして口でいうほどやさしいことではない。きわめてむずかしい作業だといってもいいだろう。それにこうした方法が、ただ機械的に適用され、駆使されるとき、そこに生まれてくる作品はなんということもない平板で図式的なものにおちいる危険性を多分にもっていることは、あらかじめ十分に認識しておく必要がある。このことは方法が現実をどうみるかにおいてのみ、その有効性をもちうることを、はっきりと物語っている。
ところで、現実を複合的な広い視野のもとに、多元的な視点からとらえようとした作品に、いぬいとみこの『うみねこの空』がある。
この作品が示唆するところのものについては、すでに別なところでふれたこともあり、ここではあまりくわしくふれる余裕はないが、ここには日本の現実がもっている矛盾を、構造的にとらえようとする、きわめて積極的な意図があり、それがこの作品の大きな特色となっている。
つまり作者は青森県八戸の蕪島にすむうみねこと、そのうみねこによって田畑をあらされる農民、そのうみねこを主題にして版画集を作ろうとする中学生、その中学生を指導する教師などのいくつかの視点を設定し、そのそれぞれの観点から、海上自衛隊の基地であり、新産業都市として資本主義社会のなかで適応するために、変貌していこうとしている地域社会の矛盾をうかびあがらせようとしている。
またそうした地域社会の様相とともに、自分たちの生活を守るために、身の危険をもかえりみず、安全操業のおきてをやぶってコンブ漁にでていかざるをえない漁師の生活実態や、勤評による民主的・創造的な教育の圧迫にもめげず、子どもたちの自主的な美術クラブ活動を伸ばそうと努力しながら、結果的には左遷されざるをえなかった教師のすがたなどをからませ、いまの日本の現実社会にどこでもおこっていることがらを、広い社会的展望のもとに照明をあてようとしている。

 その結果はかならずしも十分に成功しているとはいえないにしても、すくなくとも、児童文学によって現代をとらえることの可能性のひとつがここに明示されているといってもいいだろう。
 この作品にみられる志向は、あるひとつのせまい穴から世界をのぞきみようとする傾向とは、相対立するところのものである。そして、わたしがこのような現実社会を複合的な視野のもとにその複雑な様相そのものをとらえようとする試みに、大きな可能性を見いだすのも、現代という時代の本質は、まず全体的な視野を自分のものとしないかぎり、けっしてその輪郭を鮮明にあらわすことがないと考えるからである。
 つまり、現代のごく一部分をとりあげて追究するにしても、それが的を射たとらえかたとなるためには、なによりもまず、他のさまざまなものとの関連のなかで、追究していくことによってのみそれは可能となるからである。複合的な視野を前提として出発した場合と、そうでない場合とでは、そこにおのずから質的な差違が生じてくることはあまりにもあきらかなことだといわなければならない。
 ところが『うみねこの空』においては、他のさまざまなものとの関連はかならずしもうまく処理されていない。この作品のなかでもっとも視点の鮮明なものは、うみねこと、冬子を中心にした中学生たちであるが、そこには複合的な場は設定されていても、複合的な論理や倫理のかかわりは深くつっこんでとらえられていない。これらのものがもっと有機的にくみあわされておればこの作品はよりほりの深いものになっていたにちがいない。
日本の現実社会の矛盾をとらえようとしたいまひとつの作品に『水つき学校』(加藤明治)がある。
この作品は、テンリュウ川の下流につくられたダムのために、すこし雨がふるたびに川がハンランし、大きな被害を部落にあたえている。この水害をなくするためにダム撤去の運動に立ちあがる農民のたたかいを、庄一という子どもの目をとおして描いたものである。
この『水つき学校』に描かれている、ダムによる被害は、水害のみでなく水温低下によるものなどを加えれば日本のいくつかの地方でもひきおこされている問題だと考えてもいいだろう。
このダムと農民のあいだに生じた矛盾も、さきにあげた『うみねこの空』にみられた矛盾と同じように、日本の資本主義社会に根ざしたところのものであって、現代の問題をとらえようとする意図、志向において、この二つの作品は共通したものをもっている。
しかし、日本の現代の本質に迫ろうとする方法は、かなりちがったものである。そのもっともはっきりとした相違点は、『うみねこの空』がまがりなりにも、複合的な視野のもとに、多元的な視点からとらえようとしたのにたいして、この『水つき学校』は、庄一というひとりの子どもの視点をとおして、複雑な現実をとらえようとしていることである。
いまここで、一般的なかたちで、この二つの方法の優劣を論じるつもりはない。なぜなら、これらの方法はその作家の主体、思想のありかたによっては、すぐれたものにもなり、つまらぬ平板なものにもなりうるものだからである。
したがって、この『水つき学校』に即していうならば、作者は庄一という子どもを、かなりうまく処理することによって、一応は破綻なく作品をまとめることに成功しているが、同時に子どもの視点に限定したために、現実の複雑な面についてのつっこみが、かなりひよわいものになってしまっている欠点が目につく。またこの作品にとかく教育的な匂いが鼻につくのも、作者が中学校長であるという要因もさることながら、ただひとりの子どもの視点に固定した方法上の弱点からくる影響も大きいのではなかろうか。
この作品については、ダム撤去などという児童文学では処理しえない問題をとりあげたところに無理があったという批判がおこなわれたりしているが、もしこれが庄一という子どもの視点のみでなく、もっと別な視点の設定によるからみあいという方法がとられていれば、あるいはより児童文学にふさわしい解決がありえたのではないかとも考えられるのである。その場合またいまほどの作品世界の統一が保ちえたかどうかという疑問がわくとしてもである。
ともあれ、この『水つき学校』では『うみねこの空』とは反対に、ひとつの視点からのアプローチが、現代をとらえるためにはけっして有効ではなく、そのために無理が生じる結果になったということが指摘できるだろう。
以上わたしは、現実批判的な作品をとりあげて、児童文学によって現代をとらえることの可能性の問題のごくひとつの側面を考えてみたが、ここで誤解のないようにいいそえておけば、児童文学で現代をとらえた作品が、なにもリアリズムによる現実批判の作品のみを予想しているのではないということである。
最近では古田足日の『宿題ひきうけ株式会社』も、あるいは、小沢正の『目をさませトラゴロウ』も現代をとらえている作品であることにかわりはない。それはファンタジックな方法による作品でも同じことである。

                 (4)

児童文学で現代をとらえるいまひとつの方法として、わたしは現代をとらえるなんらかのメドのようなものを設定し、それをテコとして現代に迫ることを考えているが、その場合、ひとつのイメージとしてうかんでくるものに「戦争体験」の問題がある。
この「戦争体験」を動かない座標軸として、戦争体験をとらえるということは、現代をとらえるひとつの有効な方法として考えることができるだろう、そのような作品のひとつとして、乙骨淑子の『ぴいちゃあしゃん』などをあげることができる。しかし、ただ戦争体験だけをひとつの視点として、そのせまい穴だけをほじくることは、かならずしも現代をとらえることにはならないと考える。体験の固執は結局さきにものべた大江健三郎のせまい穴から世界をのぞくことと同質で、他とのもろもろの関係をたちきることであって、真の世界をうきあがらせることはできない。
いままでにも、戦争体験にもとづいたいくつかの作品がかかれているが、それらの多くは戦争の悲惨さ、あるいは戦争の愚劣さを子どもに伝達するうえにおいては、ある有効性をもちえても、それ以上でもなく、それ以下でもないところに、わたしなどは一種のものたりなさを感じていた。
そのものたりなさをいまにして考えれば、そこに現代をとらえる目がないというもどかしさであった。
もちろん、現代をとらえるということは、現象や風俗をすくいあげることではなく、大きくは、歴史の流れをとらえることである。そのためになによりも要求されることは、現実をドラマティックに、弁証法的に把握することである。
このことを、戦争体験の問題に関連していえば、戦争体験をいたずらに絶対化することではなく、戦争という客観的事実をふくめて、さらにわれわれの祖先がすでにおかしてしまった罪をも主体にうけとめて、現代というものを認識するということである。
このことについて、木下順二は、藤島宇内の説だとして日本には「三つの原罪」があり、それは朝鮮人問題、部落問題、沖縄問題である、このもはやどうしても自分たちのうちから消すことのできない原罪意識をもって現代をとらえてみたらどうだろう、自分はそうした軸をもって『沖縄』という作品をかいてみたという意味のことをいっている(『日本が日本であるためには』)。
現在の日本の児童文学には、このような深くかつ広い座標軸をもった作品は、ほとんどかかれていない。せいぜい自己の体験のまわりをぐるぐるまわるか、視野のとどく範囲のなかでの、どうにか問題を処理しているていどでお茶をにごしてしまっているにすぎないのである。

わたしは、さきにひとつの軸として「戦争体験」をあげたが、このような軸はそれぞれの生きかたに応じてもっと考えなければならないと思う。
そして、それらの軸をささえとして、日本の現代をまるごととらえていくような作品が、数多くかかれる必要があるのではなかろうか。
最近の児童文学には、ほんとうに心底からゆりうごかされるような作品がないとよくいわれる。このことも、おそらく日本の現実社会を包括的に把握しようとする、児童文学作家の姿勢と深いところでつながっている問題にちがいない。
つまり、自分の全存在をかけてどうしてもかかずにはおれないような、モチーフのもとに創造活動がなされていないのである。モチーフとはけっして、たんなる創作のきっかけといったものではない。その作家が生きてきた全体験と、これからの生き方のなかからえらびだされ、生まれてくるところのものでなければならない。
現代の児童文学の大きな流れは、そうしたモチーフのもとに、日本の現実社会と全存在をかけて対決するところから生まれる作品によって、形成されていかなければならないと、わたしは痛切に考えている。(「童話」昭和四十一年七月号掲載)

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