横谷輝児童文学論集1』(横谷輝 偕成社 1974.08.14

第三節 童話とその文学的風土

(1)
 ここでは童話とはなにかについて、その概念を規定することがねらいではなく、童話の成立にかかわる文学的・自然的風土の条件と、そこからくる特質について、ごくかんたんな素描をこころみるのが目的である。
 一口に“童話”といっても、その様相はかなり複雑多岐であり、その意味するものも必ずしも明確ではない。そのうえに、今日の児童文学にみられるさまざまな進展、分化、あるいは屈折や変形は、表面的な流れにしろ、いわゆる“童話”的風土に微妙な影響をあたえてきている。しかし、巨視的な観点にたって、日本の現代児童文学をみるとき、その根底においてなお“童話”的風土が、かわることなく継承されており、依然として支配的な力をもっていることは否定することのできない事実である。もちろん、そのことのプラス、マイナスは、にわかに裁断することはさけなければならない。ただ、その“童話”的風土が、日本の近代児童文学にとってなにを得、なにをうしなったかを、はっきりと検討してみることは必要な作業である。これからの児童文学のあり方をさぐるうえからも、その実体をみきわめることは、かかすことのできない仕事であるといえるだろう。そして、その作業は、“童話”というものがもっている可能性をさぐることでもあるだろう。
 そのためには、なによりもまず、童話とはなにかについてあきらかにし、ついで、その童話が日本の児童文学作家にとって、なにであったかを分析してみなければならない。だが、いまここで、そのすべてにわたってふりかえってみる余裕はない。ごく限られた範囲のなかで---つまり、日本の近代児童文学が発生した時期に焦点をあてながら、一つの手がかりをさぐることにとどめたいと思う。


 ところで、ヨーロッパのナチュラリズムが、日本の近代文学の形成のうえに、大きな影響をあたえたことはよく知られている。しかし、日本の近代文学の主流をなした、自然主義文学とその後の私小説の定着が、本来のナチュラリズムの志向するものと比して、根本的な差異をもったものであったことは、これまたほとんど文学史上の常識となっている。たとえば、そのことについて、中村光夫は次のような指摘をおこなっている。
「ゾラやフロオベルの『自然』や『真実』はまず何より彼らの懐抱する思想であり、したがってその一般性(科学性)はいやでも『他人』(すなわち社会)の上に立証されねばならず、彼等の創作はその立証のための実践であったのです。彼等が人間を動物的な『生物学的』な側面から強く捕えたのは、これによって統一的な人間観を得るためであり、社会の『法則と機構』はたえず彼等の脳裏をはなれませんでした。したがってリアリズムは彼等にとってまず何より『他人』を描くための技術であり、『どうも<真に迫る>度数が足りない』などという呑気なことを言う余裕は始めからなかったのです。実証主義の非情な結論はすでに作家たる以前に彼等の『自我』を殺していたのです。ところが、こうした彼等の根本思想とは無関係に、いわば作品の表面だけから彼等のリアリズムを受取った花袋にとって、『自然』は『自我』の代名詞であったので、更に適切に言えば彼はロマンチックな『自我』の主張のために、『自然』という概念を絶好の口実として役立てただけなのです」(『風俗小説論』)。
 こうした「自然」というものの、ヨーロッパと日本における受容の差異は、もちろん、個人の能力の問題をこえて、日本の時代思潮や文学的、社会的風土のちがいに、その原因があったことはいうまでもない。
 これと似た事情は、おそらく“童話”についてもいえるのではないかというのが、いまのわたしの判断である。今日童話という言葉がさししめしているのは、年齢の比較的低い子どもを対象とした、しかも空想的、幻想的な要素の濃い文学作品であることは、ほぼ常識になっている。このような通念が、いつごろから形づくられるようになったのかはよくわからないが、ただそれほど古いものでないことはたしかである。すくなくとも、“童話”という言葉が社会的に定着したと考えられる大正時代においては、今日の児童文学とおなじく、子どもの文学全体におよぶ呼称であって、けっして限定されたものではなかったはずである。それはまた、明治時代における“おとぎばなし”からの変遷でもあるが、こうした“童話”という言葉のうつりかわりや、現在にみられるような“童話”という言葉の適用範囲の変化は、そのまま“童話”というものの位置の微妙な転位をものがたっているといえるだろう。
 それはともかく、日本において“童話”という言葉がかなり古くからつかわれていることは、多くの人びとによって指摘されている。“童話”という言葉をはじめてつかったのは、天明の末か寛政の初期に、山東京伝によってかかれた『童話考』だともいわれ、山東京伝は『異制庭訓』にある『祖父祖母之物語』を、童の昔ばなしと呼び、それをちぢめて、“童話”とかいて、ドウワ、またはムカシバナシと読ませたということである。また、滝沢馬琴も、“童話”という言葉をつかって、これをワラベモノガタリと読んだという。
 いま、この山東京伝の『祖父祖母之物語』や滝沢馬琴の“童話”については、手許に資料もなく、その内容についてふれることはできないが、それらが、「むかしむかしぢぢとばばとありけり」という言葉ではじまる話であることからいっても、いわゆる“おとぎばなし”や“昔話”と似た性格のものであり、おとな相手の話から、しだいに子どもむきの話に変化してきたものであることはあきらかである。
 それと共に、“童話”という言葉を考える場合に、考慮しなければならないことは、それがしばしばドイツ語の「メルヘン」とおなじ意味においてつかわれているという事実である。この“童話”をメルヘンと呼ぶことが一般化しているという事実は、“童話”という言葉のもつ意味が、多分にメルヘンの概念によって影響され、慣用されていることをしめしている。今日、“童話”なる言葉が、わが国に古くからつかわれている“童話”の意味合いよりも、より多くメルヘンの概念によりかかって慣用されている事情については、外国文学の移植という特殊性などいくつかの事由があるにちがいないが、その一つの見解として、『グリム童話集』(岩波文庫)の序にのべられている金田鬼一の説を引用してみよう。
「ところで、ここに『おはなし』と称するものは、ドイツ語の『メールヒェン』を指すのであるが、訳者はこの同じメールヒェンなる語を本書の標題におけるごとく『童話』とも翻訳し、或いはまた序文のはじめにかかげた原書の逐語訳標題にみるごとく、これに『おとぎばなし』という訳語をもあてている。これはついては、一言説明しておく必要がある。元来『メールヒェン』というのは、『詩人の空想で作りだされた物語、殊に魔ものの世界の物語であって、現実生活の諸条件に拘束せられない驚異的な事件を語り、人は老若貴賎の別なく、それが信用のできない話とは知りつつも、おもしろがって聴くもの』であって、他の国語にはこれに該当する成語がなく、学術語としては各語ともこのドイツ原語をそのまま採用しているのであるが、『メールヒェン』を語源的に検討してみると、『かがやく』『知れわたりたる』という意味の形容詞から、『著名』→『うわさ』→『うわさの知らせ』という意味の名詞が転生し、それが『口誦、口演、ものがたり』となり、次に、『おおむね空想の産物たる作り話で、参会の人たちの娯楽のために語られる短い物語』というくらいの内容をもった『小噺』(こばなし)なる成語にたどりついたのであり、謂わば、輝くものはおのずから評判になって知れわたり、ひとびとの間にうわさの種をまいて、口から口へと次次に語りつたえられるうちに、なんらかの点でぐあいのわるいところは自然に淘汰せられて、ほぼ一定の型を採るにいたった『おはなし』ということになるところから、これを日本語で簡単に『おはなし』と名づけたのであり、また、こういうおはなしは、古今を通じ東西にわたって、ある人[個人または集団](王侯貴人、富豪、一般庶民すなわち牧者、農民、兵士、水夫、漁夫およびその他あらゆる階級職業のもの、老若男女)が、或は娯楽、ひまつぶしのために、或は夜間睡魔をふせぐためか、または心地よく華胥の国に遊ぶために、即ちこれをわが国の言葉でいえば、『おとぎ』のために語られるのであるから、これは日本語で『おとぎばなし』と称えてもさしつかえないと思う」。
 この見解は、“童話”ないし“おとぎばなし”という日本語が「メルヘン」と同義語につかわれるようになった理由を、あるていど説明しながら、メルヘンの語源にふれて、それが童話ないしおとぎばなしと、ほぼおなじ性格をもったものであることをあきらかにしている。
 このことは、童話というものを考えていくうえでの、基本的なことがらを示唆している。つまり、メルヘンも童話・おとぎばなしも、空想によってつくりだされた物語であること。特に現実生活の条件に拘束されない、魔ものの世界や驚異的な事件をとりあげていること。個人や集団が、娯楽・ひまつぶし、あるいはねむけさましのために、信用のできない話と知りながらもおもしろくきく“おはなし”であるということである。
 わたしは、この見解を支持したい。ここにしめされている性格は、おそらく“童話”本来のものであり、この基本的な性格を明確に認識することによってのみ、“童話”というものをその根底からとらえることが可能になるのにちがいない。
 もちろん、今日の“童話”にも、この基本的な性格は見うしなわれてはいない。当然のことながら、なんらかのかたちでそれは反映している。しかし、その大きな部分において変質がおこなわれていることも、見すごすことのできない事実である。たとえば、それは巌谷小波の“おとぎばなし”と、小川未明の“童話”とを比較検討してみるとき、はっきりとするはずである。

(2)
 巌谷小波の“おとぎばなし”が、多くの弱点を内包しながら、いわゆる“童話”本来の性格をあるていどそなえていたことは、その作品からはもちろん、つぎのような見解からも推察することができる。
 それは、武島羽衣が小波の“おとぎばなし”について、「○想像偏小にして、奇想天より落つる如きもの無き事。○消極的用意のみ駆られて、積極的有益の廉無き事。○小天地の面白み、小胸宇の可笑みに止まり、小なる小眼を惹けども、大に笑わしむる能わざる事。○大々的理想は根本的欠乏する処、到底特性の許さざる処なり。○積極的有益の物語は能わざるに非ず、為さざるの弊なり」といった点を批評したのにたいして答えた『メルヘンに就いて』のなかの文章である。
 つまり、小波のメルヘン観が、こうのべられている。
「メルヘンとしては、必ずしも道徳的倫理的の加味を要せず、寧ろ無意味非寓意の中に、更に大なる点可有之と存じ、所謂印象明瞭よりは、神韻朦朧たるを可とするが、申さば小生の主義に御座候、尤も当初は可成文意を寓し、理を説き『これだからこうするものですよ』『それだから斯うしては成りませんよ』と云うが如き、談義的筆法、教訓的趣向を用い候らえども、斯くては変化の自在を得ず、随而千万一律に流れ易きの憾有之候間、其後は勉めて寓意を排し、談理を避け、専ら無意味主義を執り居り候も、実は吾ながら、斯道に一歩を進めたるものと存じ候」。
 これをみると、小波はメルヘンの特色を「無意味非寓意」としてとらえ、その“無意味主義”をとることによって、“おとぎばなし”を一歩前進させることができたと、自信のほどをしめしている。このことは、いうまでもなく、小波がその“おとぎばなし”において、なによりもまず、メルヘン本来のおもしろさ、娯楽を重視していたことをあらわしている。
 この“おとぎばなし”の娯楽性についても「児童の娯楽というものは、殆んど其の生命とも言うべきもので、娯楽がなかったならば児童は迚も生きていられません。それだから児童には、能く其の娯楽の供給を注意してやらなければなら無いのであります。而かも其の娯楽の、児童に与える感化というものは、更に非情なものです。即ちお伽噺の如きものは、此の娯楽を供給するために、出て来たものであります。お伽噺は、児童に娯楽を与えるかたわら、自然に善良な方へ導いて行くというのが其の主意で、教師というよりは、児童の友達たらんとするものです」(『家庭の児童』)といい、児童には人情的なものよりも軍事談、冒険小説のほうが、よりのぞましいとつけくわえている。
 こうした巌谷小波の“おとぎばなし”の考え方が、“童話”本来の性格とかなり密着したものであることはいうまでもない。そして、そこから生みだされた作品が、子どもの興味をとらえ、よろこばせるに足るものとなったことは十分に首肯することができる。
 しかし、この小波の“おとぎばなし”は、社会的には必ずしも全面的な支持をえられなかった。特に教育界などからの非難がつよく、想像をのみ鼓舞して、他の心力の発達を妨げる。真面目な業を厭う。学校の課業やその教科書に対する趣味を失う。運動を怠って健康上の損耗を来す。特に視力を弱めるといった点での弊害が主張されたりした。もちろん“おとぎばなし”のもつ効用への賛同や、文学としての正当な批評がなかったわけではないが、その大勢は空想を虚偽とする単純な合理主義や娯楽を不道徳とする古い倫理観などによって支配されていたのである。
 このような状況のなかで、小波自身は“おとぎばなし”の必要性や「嘘の価値」を強調し、その重要さを論じながらその反面で社会の動きや批判にたいして、一種のあきらめと妥協をいだいていたふしがある。
 たとえば、つぎのような文章にそれをうかがうことができる。
「日本でお伽噺の流行する様になったのは、つい近頃のことであり、また之に対する批評家もない位だから、まだ甚だ幼稚なる状態に在りと云うべしだ。一体お伽噺には二つの種類がある。即ち教訓を主として書いた物と、広い意味での文学を主として書いた物とである。西洋では此二種類が判然と分れ、両者共相並んで行われている。教訓として最も有名なお伽噺は、独逸のグリムの編纂したものや、仏蘭西のラーフホンテンの書いた物であるが、更に厳重な教訓の物は、イソップ物語である。又文学として有名なのは、丁抹のアンダーセンの書いた物であるが、之は寓意が頗る高尚であって、審ろ大人の読物となっている。日本でお伽譚といえば子供の読物に限られ、従って教訓の物のみ行わるるに過ぎない。高山林次郎君が嘗て余に、同じくお伽噺を書くならば、後世に伝る様な高尚な物を書いてはどうかと云ったから、日本の今日の程度及び社界の要求が、いまだそれ迄に進んではいないからし方がないと、斯様に談したこともあった」(『お伽噺作法』)。
 小波はここで、アンデルセンのような「高尚な読物」が生まれてこないのは日本社会の文化水準や読者の要求が低いためであるといっている。ききようによっては、自分の“おとぎばなし”が、高尚なものになることができないのは、社会の要求がそこまでいっていないからだともうけとれる。
 たしかに、“おとぎばなし”のあり方が、当時の日本社会のあり方に大きく影響されていることは事実である。だが同時に、“おとぎばなし”が「高尚な読物」になりえなかった理由の一つは、巌谷小波の生き方と思想にあったことは疑うことができない。時代や社会の動向に妥協し、ときには好戦的なおとぎばなしをかき、古い倫理観にあえて背馳しようとしなかった生き方は、小波の思想と結びついていた。このことが、小波の“おとぎばなし”にある限界をもたらしたことは、あらためて指摘するまでもないことである。
 だが、小波の“おとぎばなし”が以上のようなマイナス面や限界をもちながら、“童話”本来の姿をさぐろうとしたことは、平明な説話体をつくりだしたことともに十分に評価しなければならないし、その進歩的な役割は正しく確認しておく必要がある。
 いずれにしても、この小波の“おとぎばなし”が、多くの可能性をもちながら、それを十全に伸長させることができなかったことは、日本の児童文学にとって不運なことであったといわなければならない。
 このことは、自然主義文学の発生期における不運と、軌を一にしているところがある。
 たとえば、長谷川天溪は、先行する硯友社文学を批判して、「既往の芸術には幻像伴へり、幻像を喜ぶ時代の産物なれば、其の之に伴ふは敢て怪むに足らず。幻像とは何ぞや。遊芸的分子に外ならず。かの遊芸と呼ばれたる源より発したる芸術、即ち之れにして、これは幻像に迷へる過去の人々を喜ばしめたれど、決して芸術其の物の生命に非ず」といい、文学の創造にとってかかすことのできない想像力や文体の重要さを、“幻像”という言葉のもとに否定してしまったのである。ここから芸術と科学との素朴な混同が生まれ、日本の近代文学をせまい私小説の枠にとじこめる原因をつくりだしたことはいうまでもない。
 小波がその“おとぎばなし”において、空想や想像力のつくりだす「嘘の価値」を重んじ、おもしろさを大事にしようと志向しながら、それをささえてくれる社会的基盤の未成熟から、挫折せざるをえなかったことは不幸なことであった。この不運をもたらしたものについては、単純にいうことはできないが、日本の社会の後進性とともに、嘘や空想の価値をうけいれるだけのゆとりのなさや、日本人の感覚の好みといったものをあげなければならないだろう。

(3)
 小川未明は、明治四十三年に第一童話集『赤い船』を出版して、その児童文学的出発をおこなった。この明治の末年は、巌谷小波の“おとぎばなし”のもっとも盛んな時期にあたり、そうした社会の動向を配慮にいれて、『赤い船』に“お伽噺集”という名がつけられていた。しかし、未明はその児童文学的出発を、小波の“おとぎばなし”とは、まったく無縁のところからおこなったのである。
 ヨーロッパの近代文学の洗礼をうけて作家としての道をあるきはじめた未明にとって、勧善懲悪的な前近代性の色濃い小波の“おとぎばなし”などは、おそらくその関心の外にあったのであろう。いや、小波の“おとぎばなし”にたいして、いろいろな疑問や不満をいだいたにちがいないと推測されるのである。その疑問や不満がつよければつよいほど、意識的・無意識的に“おとぎばなし”を関心の外におこうとしたのではないだろうか。未明が“おとぎばなし”に全く無関心でありえなかったことは、さきにのべた『赤い船』に“お伽噺集”と題したことにもあらわれているが、この第一童話集に収載されている、十七編の童話と五編のわらべ唄のなかにメルヘン的な作品や伝承的なお伽噺風の作品あるいは冒険ものなどがふくまれていることによっても実証することができる。
 ところで、小川未明がその作家としての出発にあたって、当時全盛を迎えていた自然主義文学に背をむけ、ひとりネオ・ロマンチシズムの旗をかかげたことはよく知られている。
 その立場を『新ロマンチシズムの転向』のなかで、つぎのようにのべている。
「ロマンチシズムの流れは不断の流れである。そして、生活が、芸術が、行詰まった時には、きっと起こるべき運動なのである。されば一脈の流れもその時代、時代に於て特質を新にし、また異にしている。(中略)客観的に対して、主観的であるということは、自己意識の強いということに他ならない。そして、常に、それは自然対自己の問題となるのを怪しまぬのである。ロマンチストは、自己を自然の一部なりと見るような場合があっても、それは、偶然に、そう感ずるまでであって、常に、自己を離れて自然はないというまでに、自己意識の上に立脚している。そして、自己の優越性を感ずることから、自分だけが、他のものより何ものかを特に感じているとさえ信ずるものだ。(中略)新ロマンチストはユニークな特異性を、表現を、感覚の上に、情緒の上に、神経の上に、求めんとしたのだ。(中略)単調平坦なる現実に、より一層の深刻味と多彩な色調を点綴したものこそ新ロマンチシズムであった。初期のロマンチシズムは、メールヘンの世界を自己の外部に求め、ただ、霊魂の自由を信じたものが、現実の断ち切れなきを感じて以来、自己の内部にメールヘンの世界を拓こうとしたのだ」。
 このような考えにたつ未明が、小波の“おとぎばなし”に、不満と疑問を感じたとしても当然のことであった。
 おそらくその不満と疑問は、“おとぎばなし”は、子どもをよろこばすことはできても、心から人を動かす力を持っていなかった。それは作家の自我の顔立ちがあまりにも不明瞭で、その生き方とどうつながり、どのような真実を追求しようとしているかがあいまいなためである。また、主観と客観のたたかいが通俗的で「主観の客観化」という観点がなく、自己の外部にメールヘンの世界を求めようとしたことにあったのではないだろうか。
 いずれにしても、未明は小波の“おとぎばなし”について、このような疑問や不満を表明しているわけではない。だが、『新ロマンチシズムの転向』は、そのまま“おとぎばなし”へのきびしい批判になっているといっていい。そして、この批判が“おとぎばなし”にたいして、ある有効性をもっていたこともたしかである。
 つまり、小波の“おとぎばなし”のおもしろさが、勧善懲悪的な古い倫理観によってささえられていたのに比して、未明の童話のおもしろさはあくまでも、子どもの人生のなかにひそむ、真実性のうえに求めようとしたのである。また、“おとぎばなし”の平明な説話体にたいして、未明の“童話”は詩的で繊細な表現を特色とし、ロマンチックな色合いをただよわせていた。
 ところで、未明が「主観の客観化」を志向するかぎり、空想や夢や憧憬や驚異を重視したことはいうまでもないが、それは小波の“おとぎばなし”がもっていた空想とは、おのずから質を異にしていた。小波は空想についてつぎのようにいう。
「幼時の事はわからないけれども、彼のコロンブスが亜米利加を発見したのも、或いは小さい時から、たとえば海の上を歩いて見たいとか、空を遠く飛んで見たいとか、又は自分の居処より、まだもっと広い処がありそうなものだとかいう、大きな空想をもっていたので、それが自然々々発達して行って、あのようになったのかも知れないのです。此の小さい時に起した大空想というものは、知らず知らずの間に脳髄に染み込んで、いついつまでも離れません。妄想だの迷想だのになりますと、誠に良くありませんが、空想は決して悪いものではないのであります」(『家庭と児童』)。
 未明の見解はこうである。
「自由な世界---創造の世界---神秘の世界---これが即ち童話であります。永遠に対する憧れと、はかない、しかし常に若やかな美と、この生活の慰藉とを、私は、自から童話の世界に於て求めるより他に途のないことを思います。さるにても、不思議なる一事は、空想の世界、連想、幻想の世界であります。ここに私は、自身の連想から、空想の眼に描かれる二つの風景をしるします。(中略)按摩の笛を聞くたびに、眼に浮んで来る。子供の時分に行った未開の温泉場の幽暗な景色であります。昼間でも行燈が室の中に置いてありました。知らぬ男が肌を脱いで将棋をさしていました。唄の声、笛の音が、私の心をこんなに遠いもはや其処にもない幽暗な世界に導き、うす青い幻想の世界に誘います」(『童話の詩的価値』)。
 この二つの文章を読み比べることによっても、その異質はあまりにも明確である。小波のいう空想は、あくまでも子どもの心理に即したあかるく健康な空想であり、未明のそれは空想というよりも、幻想に近いものであって、暗い感じがただよっている。
 したがって、それを表現する方法も、小波は「自分が子供になることである。観察も言葉も材料も、全く自分を忘れて、子供になって仕舞わねばならん」(『お伽噺作法』)といい、未明は、「私達が、何等かの幻想や、連想によって、既に少年の時代に失われた世界をもう一度取り返すことが出来たら、どんなに仕合せでありましょう。而して、もし其れによって、更に少年を楽しませることが出来たらどんなに私達は、芸術の誇りを感ずるでしょう」(『童話の詩的価値』)という。いうまでもなく、小波のそれは子どもそのものに自己を同化させることによって、未明は自己の内部に子ども時代をとりもどすことによって表現しようとするのである。
 このいずれもが、児童文学の方法として弱点をもっていることはいうまでもない。前者は、おとなが子どもに同化することはありえない点で、後者は現実の子どもを無視しがちな点で、十分だということはできないのである。そして、未明の場合、その方法があまりにも内部偏重でありすぎたため、文学が文学である限りもっているはずの仮構性を、必ずしも保障することができなかったところに問題があった。未明の童話には、作者の「主観的感慨」の執拗なまでの吐露はあっても、他人の登場をゆるす余地はなかったのである。それは本質的に、作者のモノローグでしかなかったといえる。
 未明の童話が、感覚、情緒、神経のうえに表現をもとめ、「主観的な感慨」の吐露につとめたことは、その色合いを多分に詩的、情緒的なものにしたことは必然のことであった。だがそれが小波自身も「詩的お伽噺とか情緒的お伽噺とかいうのが進んだ少年文学であろう」と認めたように、童話のうえに新風をおくりおんだことも事実であった。“おとぎばなし”のもつ、古いモラルが新鮮な感覚・情緒によってとってかわられたのである。
 この未明の童話を頂点として以後日本において童話といえば、詩的、情緒的、象徴的な性格のものであるという伝統がかたちづくられていき、“童話”本来のもっていた性格はしだいに変質していくことになる。この一種のゆがみは、とりもなおさず、日本の社会のゆがみでもあるが、こうした詩的で情緒的な童話が大きな流れをつくっていく背景には、それを受容するだけの社会的基盤があったためといわなければならない。
 その一つの要因は、おそらく日本人の感受性であろう。児童文学なり童話を勉強しはじめた人びとの作品をよむとき、そこに必ずあらわれてくるのは、ほとんど例外なく四季の感覚であり、自然の光景である。そして、ときには、人間よりも自然そのものや四季のうつりかわりが主人公になっている例もある。この事例は、日本人の感受性が、いかに季節感と密接に結びついているかを物語っている。古来から、雲や雪や月や花、あるいは鳥や風に人間の心情をたくすことにすぐれている日本人の能力は、モンスーン地帯に属し、四季のうつりかわりを微妙に味わうことのできるめぐまれた自然的条件をはずしては考えることができない。
 いま一つは、日本文学的風土が心情と共感によってなりたっていることであろう。日本人は概論的、総括的、論理的にものごとを考えたり把握したりすることは不得手であるが、感性的、心情的にものごとをとらえることに、たいへんすぐれているといわれている。したがって、論理的なものにたいしてより、情緒的、心情的なものに共感を覚えることが多いのである。これらの要因が、日本童話の性格をかたちづくるうえに、有形無形の影響をおよぼしたことは十分に推察することができる。
 この感性の論理こそ、日本の童話に貫かれている、もっとも大きなすじみちである。それが一応の成熟をみたのは大正期であるが、明治期における小波の“おとぎばなし”と、未明の“童話”が内包していたゆがみと欠点は、そのままもちこされており、それはいつかは修正されなければならないことであった。
(「日本児童文学別冊児童文学読本」昭和四十五年八月掲載)

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