横谷輝児童文学論集1』(横谷輝 偕成社 1974.08.14

付・横谷輝年譜/著作目録
略年譜 渋谷 清視
年 主要なことがら(職業・研究活動・著書など)
一九二九(昭和4)
●兵庫県三木町(現在三木市)大塚に生まれる。
一九三五(  10)
●三木市内にある三樹小学校へ入学する。
一九四三(  18)
●神戸市にある兵庫県立湊川中学校(夜間)へ編入入学する。
一九四六(  21)
●湊川中学校を卒業し、その後は家業(刃物鍛冶)に従う。
一九五〇(  25)
●四月から兵庫県美のう郡志染(しじみ)小学校に就職する。
一九五一(  26)
●戦後復興期にあった生活綴方教育とその運動に関心をもち、兵庫県内で活動する作文教師たちとともに、“兵庫作文の会”の結成とその運営に参加し、機関誌「作文運動」に実践報告や指導作品を発表する。
一九五二(  27)
●兵庫作文の会主催の第二回作文教育研究集会が、当時の勤務校であった志染小学校で開催され、その設営準備と運営にあたる。
●日本作文の会・新潮社共催の第二回全国文集コンクールにおいて、自作の学級文集『かえるの子』が優秀賞のひとつとして入選する。
一九五三(  28)
●九月一日から、一九五六年四月一日まで休職(胸をわずらい療養生活)する。
一九五四(  29)
●“文学と教育研究はくぼくの会”が発足し、会誌「はくぼく」を創刊したが、これに同人として参加し、文学教育の研究論文や文学教材論を精力的に執筆する。これいらい亡くなるまで、日本文学教育連盟の諸行事や編著書などを通して、文学教育研究運動にも、積極的に関係した。
一九五五(  30)
●一九五四年に創刊した同人誌「小さい仲間」に参加し、児童文学の評論活動を始める。
一九五六(  31)
●文学と教育研究はくぼくの会編『文学教育の探究』(三一書房)の執筆に参加し、『児童文学と教育の諸問題』と題する論文を発表する。このころ日本児童文学者協会に入会した。 
一九五七(  32)
●兵庫県下の教師による児童文学研究者集団として、“チョークの会”が発足し、会誌「茶のチョーク」を創刊したが、これに参加する。
●この年の四月から兵庫県美のう郡(現三木市)平田小学校へ転任する。
一九五八(  33)
●五月十五日に兵庫県公立学校教員の職をはなれて東京に移り、出版社・団体事務所などに勤務する。
●木南冨美さんと結婚する。
一九五九(  34)
●日本児童文学者協会に事務局職員として勤務する。その後約八ヵ年間にわたり同会の専任事務局長をつとめる。なお事務局長退職後、亡くなるまで同会の理事・常任理事として、児童文学運動推進のために活躍した。
一九六四(  39)
●世界名作童話全集47『ふしぎの国のアリス』(編著)ポプラ社
一九六六(  41)
●イソップ童話絵本6『くまとたびびと』(横谷文・川本哲夫画)ポプラ社
●このころから亡くなるまで、『毎日新聞』の家庭らんにある“子どもの本”(書評)のレギュラー執筆者のひとりであった。
一九六七(  42)
●日本子どもの本研究会の創設に参加する。
一九六八(  43)
●『現代の児童文化』(共著)啓隆閣
●子ども伝記全集20『ベートーベン』国土社
●日本児童文学者協会編/日本ユーモア文学全集(全10巻・ポプラ社)の編集委員をつとめ、その第三巻『ライオン先生とプレゼント』(童話編)の解説を担当。
●少年の科学シリーズ『地下鉄とモノレール』(共著)鹿島出版会
一九六九(  44)
●『児童文学の思想と方法』啓隆閣
●『椋鳩十全集』全12巻(10月から刊行開始・ポプラ社)の刊行に共編者として協力する。
●東京教育専修学校に講師として勤務し、児童文学の講座を担当する。
●『文学教育の構想と展開』(共編)啓隆閣
一九七〇(  45)
●日本子どもの本研究会会長に就任する。
●『子どもと文学』(共著)鳩の森書房
●『やがて大人になる君たちに』牧書店
●『読書相談の理論と実際』(共著)金の星社
一九七一(  46)
●『児童文学同人誌シリーズ』全八巻(一月から刊行開始・牧書店)の責任編集を担当する。
●しゃかいの絵本『ぼくのおうち』(市川禎男画)/『のうかのくらし』(箕田源二郎画)ポプラ社
●一九七一年度の東京都教職員組合主催東京都教育研究集会および、おなじく日本教職員組合ほか主
催の“全国教育研究集会のマスコミ文化と教育”分科会に、それぞれ講師団として参加する。
一九七二(  47)
●日本子どもの本研究会会長に再任される。
●しゃかいの絵本『山のおまつり』(北島新平画)ポプラ社
●幼年伝記ものがたり『リンカーン』小峰書店
一九七三(  48)
●『児童文学の思想と方法−増補版』(原版は一九六九年刊)啓隆閣
●しゃかいの絵本『水のたび』(高橋透画)ポプラ社
●三月末から、東京千駄ヶ谷の代々木病院に入院。五月上旬に手術したが、胃がんのために、その後の経過よくなく、八月十四日午後六時四十八分に死去。享年四十四歳。遺族は、埼玉県所沢市林五一〇番地に、妻横谷冨美さんと、中学二年生のゆかりさん、小学校四年生の礎(いしずえ)くんがいる。
《注》この年譜作成にあたっては、鎌谷嘉道氏(兵庫県姫路市教育委員会)と、森崎震二氏(国立国会図書館目録課)のお二人から、お力ぞえを得ましたことを付記しておきます。

テキスト化南村利子