『横谷輝児童文学論集2』(横谷輝 偕成社 1974.08.14)
伊藤整理論を児童文学の立場から見る
現在の文壇におけるもっともユニークな存在のひとりは伊藤整氏であろうと思う。そしてぼくは伊藤整氏の文学理論にほれている。もちろんはっきりとした伊藤理論なるものの全貌を把握した上でのことではない。いわばなんとなく好きだといった程度の理解しか持っていないものである。したがって伊藤理論をしごく自己流に歪曲して解釈し、その理論を自分のかくものに援用することによって重味を持たせようとすることもしばしばで、その上に直接ヒントをも多く得さしてもらっている。いえばすこぶるけちくさく、ずるい伊藤理論の盗人利用者にすぎない。そうしたぼくが伊藤理論について批評がましい言を吐く資格は毛頭ないし、たてつく気持ちはさらにない。
ましてぼくにあたえられた、児童文学の立場から伊藤理論をどう見るかという、文学の本質的な問題をも含んだ大きな課題に答えることは、できない相談であると思っている。
ただ伊藤整氏の最近の著書『芸術は何のためにあるか』をよんで若干気のついたことを、感じたままにかいてみようと思う。
伊藤整氏は『創作と批評の論理』の中で次のようなことをいっている。
「文芸作品をもって教育、指導の具たらしめようとする愚劣な考え方についてであります。秩序を作る材料として芸術を利用するほど芸術の本来の性格に反したことはありません。芸術は、秩序に対立して人間性を主張する力の現われであり、常に被害者または被圧迫者または攻撃者、破壊者の立場をとるものです。」
また伊藤整氏によると、この「文芸作品は人間教育に役立つものである」という考え方は、「文芸作品は、主観的なまたは客観的な写生である」という考え方と共に、「社会的題材・政治的善意・リアリズムという三つの標識の中間に、よき芸術が生れる」という考え方の延長として生れてきたものであるといい、「今日職業人サークルに於ける綴方活動や中学校、高等学校、大学等に於て恥も気おくれもなく、近代文学や現代文学を教室で神聖なものであるかのように教えるという風潮がありますが、これは写実思想と政治道徳への援用思想のじかな現われであります。」とも説明している。
ぼくはこれらの文章に接して、意外な感じを抱くと共に深いとまどいを覚えた。おそらく教育あるいは児童文学に関係するものは、大なり小なり同じような感じを抱くのではないかと思われる。
なぜなら、この論に従うとすれば、文学教育は当然成り立たないし、「子どもの魂の成長」のために役立たせようとする児童文学にも抵触するものがあるからである。
いったいこうした伊藤整氏の考え方はどこから生まれてきたのだろうか、ぼくたちは伊藤整氏の言葉に反揆する前に、それが生じてきたところものを一度追求してみるのもむだでないように考えられる。
伊藤整氏には『小説の方法』以来『文学の認識』『文学入門』と一貫して追求し展開してきたテーマがある。それをぼく流に一口にいえば「秩序と生命の対立」ということになる。
それは伊藤整氏の次のことばがもっとも端的に表現しているようである。
「人間の欲求が人間存在の本質であって、我々が宗教、道徳、科学、法律等の名で呼んでいるところの文化体系の全体は、その人間の生活を、より安全に、より便利にするための手段に外ならない。(中略)それ等の手段に対して人間の生命の本来の力を主張するものが芸術である。」
つまり一方の極に秩序をおき、他の極に人間の生命をおいて、その矛盾、相剋によって芸術が生み出されるというのが、伊藤理論の底に流れる思想の図式なのだ。
これは、とりもなおさず、伊藤理論の根本思想であると同時に、芸術の本質規定であるといえる。
ところで、はたしてこのような「秩序の教訓は常に芸術と対立する」という根本思想や「秩序という枠に抵抗して、その中で人間の生命が圧迫されて、苦しむとき芸術が生れる」といった本質規定が、正しいかどうかがまず問題であるが、それは非常に困難な問題で、容易に解答を出すことはできない。だが少なくとも前に述べた文学教育を否定する考え方は、必然的にここからひきだされてくるのである。
秩序に対立し、時としてその被害者の立場をとる芸術をもって、逆に秩序を作ろうとするほど非論理的なことはないであろう。その限りにおいては、伊藤整氏の文章はすこぶる筋が通っているのである。がしかし、この場合注意すべきことは、伊藤整氏は、教育を秩序を作る側に立つものとして受け取っておられることである。
問題はここにある。
たしかに教育の大きな機能として、子どもたちに過去の文化遺産を継承させ、併せて現在の秩序によりよく適応して生きる能力を身につけさせることがある。しかし教育には、今一つの面があることを忘れてはならないはずである。つまり現在の秩序を批判し、それをよりよく変革していくところの新しい意識を、いいかえればいわゆる批判精神を、子どもの内部に深く養おうとする働きがそれである。特に現代の教育はこの面を重視しているといえる。
はたしてこのことを伊藤整氏は考慮されていただろうか。ただかつての、権力に盲従していたところの教育の上にのみ、目を注がれていたのではないだろうか。もしそうであれば、ぼくは、伊藤整氏が新しい教育の動きをも視野に入れて立論されなかったことを、遺憾に思わざるを得ないのである。
文学教育についても、ぼくたちが文学作品を重く見て、それを教室に持ち込み、子どもに読ませようとするのは、それをもとにしてある秩序を作るための材料に利用しようとする意図からは、けっしてないのだ。あるいは、なかには、文学作品を使って一つのモラルを押しつけようとする人がいるかも知れない。
しかしそんな人は論外である。少なくとも現在文学教育をこころざす多くの人々は、そうした安易なあるいは大それた考えからではなく、もっと素朴で純粋な動機から子どもたちにすぐれた文学作品を、あたえることによって、また選択さすことによって、感動を呼びおこし、自然や社会、人間生活について考えさせ、子どもたちの心に美しいもの、正しいもの、善なるものを、しっかりと把握する力を養い、それと共に、人間を抑圧し、社会を統制しているものに対する批判をも子どもの内部に蓄積していこうとしているのである。ぼくはそれを信じている。
このことは伊藤整氏が、「芸術は一つには生命の認識のために、もう一つには秩序を人間性に即して批判するために存在している」といっていることと、けっして矛盾していないのではないだろうか。むしろ同じ方向なのではないかと考えられるのである。
だがここでちょっと不審なことがある。というのは、伊藤整氏は、中学校・高等学校の文学教育、あるいは職場サークルに於ける綴方活動について云々しても、一度も小学校に於ける生活綴方運動、文学教育については言及していないことである。それと関連して、子どもに近代文学や現代文学をもって教育することに反対しているが、子どもの成長のためを意識してかかれた児童文学による文学教育については、なんらの意見も出されていないのである。それらは当然のこととして肯定されているのだろうか。その辺の真意はよくわからないが、これらの問題、特に児童文学に対する伊藤整氏の見解をききたいものだと思っている。
もし伊藤整氏の「芸術が、秩序に対して生命を主張し、生命によって政治を、教育を、革命そのものも批評するのでなければ、真の芸術はけっして出現しない」という考えが正しいとすれば、ゆたかで深い教育性の存在をその本質とする児童文学は、どこに芸術としての存在理由を、見出さねばならないのだろうか。児童文学は結局教育ではあり得ても、芸術にはなり得ない運命を持っているのであろうか。
もちろんぼくはそれを信じない。児童文学も文学である以上、人間を追求することにすべてがなければならないことはいうまでもない。ただそれがおとなの文学と違って「おとなである作者が、子どもの立場から子どもという人間を追求する」ところに、その特殊性があり、困難性があるのだ。そこにはけっして安易な教育性など入る余地はないはずである。生きている実感を作品から味わうことによる結果として、教育に役立つことはあり得ても、最初から教えるという立場の侵入を許した作品は、当然教育であっても芸術とはいえないであろう。
今まであまりにもこうした安易な教育性と妥協した作品が多かったことは事実なのだ。ぼくたちは、あくまでも、「秩序の側に立ち秩序の代弁者」となり下っている作品と、「秩序に対して生命を主張する」作品とを区別しなければならないのである。
伊藤整氏は「芸術は常に被害者、または被圧迫者の立場をとる」といっているが、子どももまた多く社会の被害者であり、被圧迫者なのだ。そしてその声を代弁する児童文学者は芸術を創作する資格はあるのだ。
こうした意味から考えると伊藤理論は児童文学の上に多くの示唆を投げかけ、ぼくたちが学び摂取しなければならぬ多くのものを示してくれているといえる。
たとえば伊藤整氏は、作家の創作活動をする動機について次のようにいっている。
「創作衝動の力の構造を抽象的に把握しようとすれば、それは原型として、立身出世的エゴイズムと真実を追求しかつ善をなそうとするヒューマニズムとの戦いであるでしょう。(中略)リアリズムなどというものは存在しないも同様です。秩序に抵抗する人間の我欲と、よりよき秩序への願いとの、絶えず動揺している戦いなしには、どんなシーンも描くことはできません。」(創作と批評の論理)
ここで伊藤整氏は、「立身出世的エゴイズム」と「ヒューマニズム」の二つの力を対置させている。そして作家は、この芸人としての「自己の拡大欲を根本に持つことなしには存在し得ない。」といっているのである。
ではこのようなふたつの力は、児童文学作家の内部ではどのように働いているのだろうか。もちろん児童文学作家も人間である限り「立身出世的エゴイズム」は人並あるいはそれ以上にあるにちがいないと思われる。
だが児童文学の場合、その対象が子どもであるため、ともすれば甘い郷愁に流され、美しいもの清らかなもののみが眼について、「人間はエゴイストで、助平で、見栄坊である」という事実を忘れがちに、あるいはそれに気がついても、故意に黙殺しようとしがちになるのではないだろうか。そしてただ「真実を追求し、かつ善をなそうとするヒューマニズム」を重視するあまり、とかく自己の内部に巣喰う、エゴイズムが無視されているのではないかと推察されるのである。そこには当然表面だけの善や美に流れる危険性がひそんでいるのだ。芸術として、文学として、児童文学がつまらない作品を多く生み、人から軽く見られる原因も、このようなところに一因があるのではないだろうか。
このことは、現在多くの児童文学作品が、主体性のない、作者の自我の存在を感じさせない作品であることを考えるとき、どこかで符牒が合いそうである。
だからといって、なにも作者である大人のエゴをそのまま、児童文学作品の上に投影さすべきだというのではない。高く評価されている児童文学作品の多くが、子どもよりも大人の読物に適していることを思うとき、子どもという読者を犠牲にして児童文学はあり得ないことを特に留意しなければならないことはあたりまえのことである。
一般文学の場合、伊藤整氏はこうしたところから、私小説的方向が、日本においては今なお真実を述べる最も大きな方法ではないかといい、「政治的善意・社会的題材・リアリズム」をもってその中間に良い芸術を作ろうとするとき日本ではほとんど失敗している事実を指摘し、外国の方法をそのまま日本の現実に適用することの愚劣さを説き、創作の実体とは、「自分の持っている最もよい技巧が、役に立ち、効果を発揮するような物語りをかくことにある」と主張するのである。
最近児童文学においても創作方法が云々されているとき、このような伊藤整氏の主張は、謙虚に耳を傾けるべきであると思う。無論創作方法を考える場合、児童文学と一般文学とを同一に論じることは不可能である。殊に児童文学にあっては、大人である作者のエゴをどのようにして、作品の上に投影するべきかという問題は、けっしてやさしいことではない。
だが文学の魅力が、作者の自我の存在と、現実社会との戦いの中にこそ成立するものである限り、またそうした人間のあり方がぎりぎりのところまで追求されている文学によってのみ、正しく人間を認識することが可能であるならば児童文学作家は、自己の内部にひそむエゴをどのように処理し、その力をどのように作品に生かすべきかをまず考えるべきではないかと信じるのである。
強力な自我の存在なしに、現実に対する、また対象に対する厳しい批判もなく、そこにはリアリズムもないのである。ぼくたちは先ずなによりも言いふるされた言葉であるが、主体性を確立しなければならないのではないだろうか。
其他にもぼくたちが参考にし、それをもとにして更に追求してみなければならぬ問題が多くあるが、別の機会にゆずりたい。
ただ最後に、伊藤理論の根本思想が生れてきた一つの原因について、伊藤整氏自身が語っている言葉を引用しておこう。
「私が秩序と生命の抵抗という形で芸術を規定したかったことは、マルクス主義芸術の迫力を是認し、社会正義感の芸術効果の問題を自分流にナットクする理論としたいからであった。即ち正義はいかなる形で芸術と関連するかを私は理論上分りたいと思い、その点でこれを強調しすぎたかも知れないのである。しかしこの理論によって、私には芸術にたずさわる上の、根本的な心の安らかさを得た。」
(「日本児童文学」昭和三十二年七月号掲載)
テキスト化四村記久子