横谷輝児童文学論集2』(横谷輝 偕成社 1974.08.14

戦後児童文学史論覚書
(1)
 戦後の児童文学は、二十年という時を経てもうそろそろ歴史的・包括的な視野から、その特質を明らかにしてもいい時期にきている。
 だが、戦後児童文学はある意味で現在進行中のものである。その過程で生起したさまざまな問題は、いまなお多くのものが未解決のまま残されており、また作家・作品についての評価も不安定かつ流動的である。
 しかも、この問題は戦後児童文学という限定された範囲内だけにとどまるという性質のものではなく、必然的に日本の児童文学史像をどう描くかという問題と関連して考えていかざるをえないであろう。
 すくなくとも、今日の時点で戦後児童文学史の問題を考えるためには、未解決のままに残された課題を厳密に追求し、さらに作家・作品についての緻密な鑑賞と分析をおこない、未来への展望をイメージとして描くことなしにはありえないことであると同時に、これら文学史像成立の試みは以上のようなきわめて困難で危険な作業をとおしてのみ可能なことなのである。
 いままでにも、このむずかしい課題に取り組んだ試みがいつくかすでに提出されている。
 たとえば、菅忠道の『戦後の児童文学』(『日本の児童文学』〈増補改訂版〉大月書店昭41)古田足日の『児童文学史概説−戦後』(『現代児童文学事典』至文堂昭38)鳥越信の『昭和期(後期)』(『日本児童文学案内』理論社昭38)神宮輝夫『日本児童文学の歴史−戦後』(『児童文学案内』牧書店昭38)などのほか、関英雄『現代の児童文学』(『現代児童文化講座』双竜社昭26)猪野省三『日本児童文学大系第五巻「解説」』(三一書房昭30)が思い浮かぶ。
 これらのアプローチは、もちろんそれぞれの意味で興味深い考察が示唆されていて有益であるが、にもかかわらずそこにみられる戦後児童文学の展望は、戦後児童文学史論の確立をふまえての通史というよりは、どちらかというとその多くは児童文学現象の追随的記述といわぬまでも、問題史的観点からの分類・整理の域にとどまっているものが多かったと思う。といってわたしはけっして前記の人びとをそのためにせめているのではない。むしろさまざまな制約のなかで果してきた、戦後児童文学とはなにかへのそれなりの努力を評価したいのである。
 これらの人たちがになわなければならなかった制約は、日本の近代児童文学の通史すらが前述の『日本の児童文学』(菅忠道)『日本児童文学案内』(鳥越信)のほか『児童文芸史』(西原慶一)『日本児童文学史概論』(福田清人)といったものしかつけくわえることのできない現状のなかでは、あまりにも当然のことだという気がしてならない。
 しかも、これらの通史のなかで著者の児童文学史観がもっとも明確にあとづけられているといわれる『日本の児童文学』昭31版が、なお児童文学史の独自的な法則性よりも、どちらかというと児童文学の社会史という側面がより強いという状況のなかではなおさらのようにわたしには思われるのである。
 こうした状態のなかで、戦後児童文学史の問題を考察するということは、いうならば素手で密林のなかをわけ入ることを意味する。
 わたしは児童文学の歴史ないしは戦後児童文学のあゆみというジャングルのなかにもぐり込み、いろいろな問題と取り組むなかで、わたしなりの対象や範囲や方法を発見していくしか道はない。
 もちろん前述のいろいろな成果には数多く教えられ学びとるとしても、そこにはまだなんらの定説や類型もアプリオリには語りうる基盤はなにもないという地点から出発するほかないだろう。
 ただ、ここでは児童文学史のすべてのことがらについてふれるだけの余裕はない。したがって戦後の児童文学にあらわれた、一、二の問題点を象徴的にとりあげ、その問題を対象化する過程において、戦後児童文学史の基軸、方法、構想といったものを、わたしなりにノートしてみたいと思う。
(2)
 ところで、戦後児童文学史を考えるうえで、一つの大きな問題点となっていることがらは本格的な戦後の児童文学が、いつの時期にはじまったかという、時期区分にもかかわる評価の視点の問題であろう。
 この問題をごくかいつまんで素描してみればほぼつぎのようなことになる。
 たとえば、鳥越信は戦後児童文学を二期に区分して敗戦から昭和三十三年までを第一期とし、第二期を昭和三十四年以降とする。(『日本児童文学の戦後二十年』−「週刊読書人」昭和四十年五月三日号)
 こうした時期区分をささえている背後には、真の意味での戦後児童文学は昭和三十四年からはじまっており、その時期にあらわれた「(戦後の問題的作品にアウトサイダーの作家のものが多かったこと。今日の活動的な作家のほとんどが、不振・停滞時に同人雑誌運動をつづけていた若い世代であること、作品においては短編中心から長編中心の移行やファンタジーの創造などの)現象の背後にひそむ本質的な児童文学観の変化」(同上)を重視したいという戦後児童文学史観がある。これとにた発想に古田足日・神宮輝夫があり、古田は『児童文学史概説・戦後』では時期区分を三期にわけることで鳥越と異なりながら、昭和三十四年八月を第三期のはじまりとし、『だれも知らない小さな国』『谷間の底から』『木かげの家の小人たち』『荒野の魂』などの出現をもとにして「ここからはじめて戦争体験が考えられようとし、児童文学の戦後がはじまる」と規定している。
 つまりこれら鳥越・古田・神宮といった若い世代に共通してみられることは、昭和三十四年における純粋戦後派の登場をもって、真の戦後児童文学の出発とする発想である。そして、その発想の基軸にあるものは、一つは「戦争体験の問題」であり、いま一つは短編から長編へという移行に端的にあらわれている「児童文学概念の変質の問題」である。
ところで、このような若い世代のパターンにたいして、古い世代といういいかたは必ずしも適切ではないが、菅忠道が先述の『日本の児童文学』(増補改訂版)において、つぎのようなアンチテーゼを提示している。すこし長くなるが引用してみよう。
「神宮・古田・鳥越たち若い世代の評論家の児童文学戦後史観には、昭和三十四年の戦後派の新人登場が本質的な意味をもって位置づけられていることで、共通のパターンがある。その意味は客観的にみても、たしかに重要である。しかし、その意味を重視して、そこから児童文学の戦後史が本格的にはじまるとみて、戦後の過程を大きく二つに区分することが妥当かどうか。文学史の過程はかならずしも政治史とは一致しないし、社会的文化的状況の変化に符節を合わせるように照応はしない。だが、作家も読者も一定の政治的社会的文化的状況のもとにあるわけなので、文学の自律的過程も、それらとの関連でとらえられねば、文学史としては一面的なものにとどまるのではないか。作家の自己表現だけでは成立しない児童文学としては、とくに全面的な配慮が必要である」
として、菅は戦後児童文学を三期にわけている。つまり、第一期は敗戦の日から、昭和二十七年四月の平和条約発効まで、第二期は講和発効から昭和三十五年五月の日米新安保条約の成立まで、第三期は新安保体制下の今日的状況の過程という区分である。これとにた発想には関英雄・猪野省三などをあげることができるだろう。
 この対立することがらはもちろん、戦後児童文学をどう区分するかといった単純な問題ではない。その底には児童文学における方法論の問題と、それにからむところの文学史、あるいは思想史などにもみられる世代の概念に密着した時代の精神構造の考え方といったきわめて本質的なことがらがひそんでいるように思われる。
 いまこの問題をわたしなりにここで心情的に処理するとすれば、若い世代に属するものの一人として、戦後児童文学が昭和三十四年にはじまったとする発想に賛同したいきもちがある。それに今後さらに長い展望のもとに、総括的な観点から、戦後の児童文学を考察しようとするとき、この程度の呼吸の長さが必要となりしかもそれは案外合理的な処理方法であるかもしれないと思う。だがこれはいまのところ一つの予言であってなんら科学的な根拠をもって実証されたところのものではない。
 この問題をさらに深めて、戦後児童文学史像を描くための方法的な手がかりを獲得するためには、いま少し問題を一般化して考えてみることが重要であろう。
(3)
 戦後児童文学といった狭い範囲のものに限らず一般に文学史あるいは思想史の考え方として、それが成立するためにはつぎのようなことがさしあたり考えられなければならないだろう。
 その一つは戦後児童文学史なら戦後児童文学史が成立しうるための、独自な法則性の発見が必要である。このこともつきつめれば、結局のところ戦後児童文学の系譜を追求することによって、戦後児童文学とはなにであったかを明確にすることである。
 そのことからひきだされてきた価値判断を基軸にして戦後児童文学のあゆみを整理・系統づけることによって、戦後児童文学史の成立ははじめて可能となるだろう。
 いま一つは、戦後児童文学史を成りたたせるために、戦後児童文学のなにを対象にしてどこにどう照明をあてていくかについても、十分な検討が必要であるということである。つまり常識的には児童文学史の対象となるものは作家であり、作品であり、あるいはまた読者である子どもである。しかしこの作家・作品・子どもという言葉が実質的に包含するものはけっして一義的な対応関係にだけあるのではない。そこには作家の世界観、作品に表現された思想、その機能、読者である子どものうけとる意味等等、さまざまなものが含まれ、しかもそれは相互に連関しあっている。
 いうならば、これらを一体どのように対象化すればいいのかということである。たとえばおなじ「作家の思想」といっても、どのレベルにおいて問題にするかによって、そこにうかびあがってくるイメージはかなりちがったものとなるはずである。
 かりに「作家の思想」というものを、つぎのような段階におさえて考えることもできるだろう。その頂点にもっとも高度に抽象化された体系的な理論をすえ、つづいて世界についてのイメージとか人生観をおき、さらにある具体的な問題にたいする態度や観念、いちばん下に生活の実感、感情といったもの、あるいは意識下のムードといった四ないし五のレベルを予想するとき、もし作家の抱く人生観でのレベルを対象として文学史像を考えた場合その児童文学史は多分に思想史的な色合いの濃いものにならざるをえないであろう。逆に思想史がその対象を生活実感にまで広げようとするとき、とりあげる素材はより多く芸術・文学に偏らざるをえないはずである。
 これらのことを、前述した戦後児童文学史の問題点とかかわらせて考えるとき、つぎのようなことがいえないであろうか。
 菅忠道が、若い世代に対して反発しているところはおそらく二点ある。
 一点は「昭和三十年ごろに書かれた戦後児童文学の整理においては、昭和二十五年までを戦後第一期と位置づけ、以後に起こった芸術的児童文学の衰微(不振停滞状況)の原因を、主として朝鮮事変を契機とする反動化によるものとしたパターンが多かった。たしかに、こうした外部的要因はあった。しかし同時にむしろその原因の主側面は、作家の内部的要因に求められるべきだ」(鳥越信)といった見解にみられる生活実感の無視にたいする抗議であり、いま一点は、それらの見解とは裏腹の関係にある、作家の自己表現なり内部的要因にだけ固執した児童文学史の方法のあり方についての不信である。
 良心的な雑誌を、自らの手においても推進し、その努力の甲斐もなくつぶれざるをえなかったファクターを、ただ当時の作家の主体的弱さといった側面だけに原因をもとめる史観は、あまりにも主観的な独断であり事実無視として菅には映ったのにちがいない。
 たしかにわたしをも含めて若い世代の主張には、その歴史的な文脈とはあまり関係のないところで、児童文学を論じ、児童文学史と児童文学論とを混同していた面がないでもない。この点についてはわたしなどは素直に反省したいと思っている。児童文学史というかぎり当然のことながら史料的考証によってそれは厳密に制約されなければならないのである。
 しかし同時に考えなければならないことは児童文学史は必ずしも事実史とは同じではないということである。このことは菅忠道も前述の文章のなかで確認している。むしろわたしには児童文学史においては、作家・作品・読者をふくめたものにまつわるイメージそのものがもっと独立にとりあつかわれる、そのイメージのもつリアリティが重視させる必要があるのではないかと思われる。『日本の児童文学』は児童文学と社会的・政治的な状況との関連を総合的につかんだ貴重な労作にもかからわず、なお児童文学史として不満を感じるのはその点である。
(4)
 いずれにしても、日本の近代児童文学史像は昭和三十三年あたりを転機としてすこしずつ動いてきている。具体的には古田足日の『異質の児童文学』(「新日本文学」昭和三十三年二月号)や鳥越信『児童文学の概念を変えよ』(「日本児童文学」昭和三十三年一月号)にみられる「児童文学史の概念がえ」ないし「書きかえ」の提唱以来である。「子どもと文学」の仕事も文学史的にはこの系列につながるものであろう。
 それらの主張を一口にいってしまえば、「未明・譲治・広介・アンデルセンという系列に対してケストナー・ハンス・バウマン・千葉省三の系列を再評価せよ」という「児童文学の視野の拡大」でありいま一つは「子どもへの関心であり、子どもの立場からする児童文学の追求」である。
 これらの観点は、今日では鳥越、古田のいずれにも微妙なニュアンスの移動があるとはいえ、大筋のところでは、かわっていないだろう。そしてそれは今なお有効性をもっている。
 わたし自身も戦後児童文学のもっとも目立った特質を、子どもの存在への関心、確認であり、児童文学の視野あるいは社会性の拡大にあると考えている。
 だがいまごろになってわたしはこれらの観点にのみ立脚した戦後児童文学史像では、西欧的な近代的自我中心の「文学史」像にしかならないのではないかという危惧をいだいている。最近の児童文学作品にみられる、ひよわい子どもの個の発見と確立(それにだぶって大人の甘い自我が見えすいてみえる)という類型化がそのことをかなり雄弁に物語っていないだろうか。
 そこにはなにかがきりすてられてしまっているのである。このなにかをこそ、まずわたしたちは見すえてかからなければならない。そして子どもの発見が同時に民族の発見であり、現在社会とのかかわりがつねに子どもの上に追求されているような作品の上にこそ、これからの日本の児童文学史像は描かれねばならないと思う。いささかお先走りめいたことをいえばそのためには小波と未明をどう評価するかが鍵となるだろう。
 どうも舌足らずの感じで思ったことがもやもやしていて十分に表現できないもどかしさを覚えるがこうしたことを考えるとき、戦後児童文学史もふくめて日本の児童文学史像のすべてはこれからはじまるのだという感じがわたしには強い。
 わたしたちは、なによりもまず、戦後児童文学をふくめた児童文学の諸現象のなかにふみ入り、しかもその想像にとらわれることなく、それらの現象を生みだしているところの法則と力とを発見しなければならない。それは対象である児童文学の状況とそれにはたらきかける自己との弁証法的な緊張を通してのみ可能である。その意味からもこの児童文学史の問題は、すぐれて人間そのものの問題とかかわっているといえるだろう。
 わたしたちは、いまこそ日本の児童文学をそのもっとも深いところからとらえることのできる児童文学史を成立させるために、読者を中心とした児童文学史、あるいは児童図書出版を中心とした歴史、人物を中心とした児童文壇史などを含めて、さまざまな仮説を大胆率直に提示すべきときである。(「日本児童文学」昭和四十一年五月号掲載)
テキストファイル化飯村暢子