『横谷輝児童文学論集2』(横谷輝 偕成社 1974.08.14)
児童文学における「性」の神話の克服 ―児童文学にタブーはない―
(1)
日本の児童文学において、「性」の問題が「禁忌」であることは、いまさら指摘するまでもないほど、明白な事実である。だが、「性」がタブーであるということは、児童文学にとってけっしてのぞましいことではない。原理的にいっても、それはおかしいことである。この問題にたいする、わたしの基本的な考えを、ごく単純にいってしまえば、児童文学にはいかなる「禁忌」もないし、またあってはならないということにつきる。しかし、こうした結論をかりに提出したとしても、それで「性」の問題が解決するとは考えられない。児童文学における「性」の問題が内包していることがらは、きわめて複雑でかつ本質的なものである。
ところで、まず考えなければならないことは、児童文学において「性」の問題が,なぜタブーとなってしまったのかということであろう。その要因についてはいくつかのことがあげられるが、なかでも大きいのは、「性」についての社会的な通念であり、いま一つは児童文学の本質的な条件にかかわるものである。
日本の社会にあっては、「性」というものは「恥かしいこと」「けがらわしいこと」というのが一般の通念である。したがって「性」の問題については、できるだけ隠蔽し、アイマイに偽善的に回避しようとする。「さわらぬ神にたたりなし」として、「禁忌」にまつりあげることが、より人間的である良識的なことであるという態度が、なんとなく固定化してしまっているのである。この「禁忌」を侵そうとする動きにたいしては、鋭敏に反応し法律によって禁圧しようとするわけである。
たとえば、谷崎潤一郎の『鍵』という作品をめぐっての、さまざまな反響や、伊藤整の『チャ
タレー夫人の恋人』にたいする裁判事件を思いうかべるだけでも、そのことは首肯できるにちがいない。
このような社会通念の根強く存在している社会において、「性」の問題を真正面からとりあげることはきわめて困難なことである。児童文学の世界において、「性」が真剣な追究の対象になりえなかったもっとも根源的な理由の一つはここにあるというべきであろう。
いま一つは、なんといっても、児童文学が子どもを読者にして存立しているという条件にかかわっている。さきにのべた社会通念は、子どもという存在のまえではいっそう神経質になり、特に鋭い拒絶反応をおこしがちなことは、われわれもしばしば経験するところの現象である。 その事例として、『子ども白書』(1968年版)ではつぎのようなことが報告されている。「ある市場の午後三時の風景でした。母親の買いものを待っているひとりの男の子が、たのしそうに胸をはって歌いだしたのが『おらは死んじまっただ』の歌でした。すると後をむいてぼんやりたっていた女の子がこっちをむいて、にこにこして、調子をあわせてうたいだしました。(中略)そのうち、歌が進行して『天国よいとこ、酒はうまいし、ねえちゃんはきれいだ』というところへきたら、俄然、おかあさんたちがざわめき、この子どもたちの母がとびだしてきて、ひどく叱りました。それよりおどろいたことに、いままで無関心だったまわりの女の人がくすくす笑うのです」
こうした状況のなかで、児童文学が「性」の問題を真正面からとりあげようとすれば、おそらく激しい拒否と批判を覚悟しなければならないと思う。
このほかにも、「性」をタブーとした要因をあげることはできるが、さしあたり考察してきた二つの要素をとりだしてみただけでも、たしかに児童文学において「性」の問題が「禁忌」にならざるをえなかった、やむをえぬ事情といったものはわかる。
だが、そこにどのような原因や制約があろうとも、「性」の問題がタブーにされてきたという事実は、けっして安易に見すごすことはできないとわたしは考えている。
なぜなら、そのことは、とりもなおさず、児童文学のあり方についての、根源的な発送の停滞ないし欠如を物語っているからにほかならないからである。
わたしの判断では、児童文学における「性」の問題を追究することは、そのまま「児童文学とはなにか」という本質への解明に結びついていくはずである。したがって、日本の児童文学が「性」の問題に積極的な取組みをせず、逆に逃避的なかまえが濃厚であったということは、不でありこそすれ幸福なことではなかったと思う。
もっとも、児童文学における「性」が、現在においても全くとりあげあれていないといっては事実の無視になるだろう。現象的にはすこしずつ変化してきているのが実情である。
たとえば「少女フレンド」に連載された『あした真奈は』(吉田とし)では、ドッジボールの最中に、小学五年生になる真奈が、初潮をむかえるできごとをトップシーンにおいて描き、思春期にある少女の生理と心理をとりあげて正面から書いている。さらに少年少女週刊誌においては「性」の問題がもっと露骨にかつ刺激的にとりあげられていて、子どもたちの性的興味をかきたてている。もちろん、この週刊誌における「性」は、ほとんどが風化してしまっていて、もはや一個の模様に堕してしまっているが、このようなかたちにしろ、児童文学、児童文化の世界において「性」の問題が微妙にかわりつうつあることは否定することができない。
だが、これらの変化はいまのところ、ごく限られた部分に生じている現象であって、児童文学にとって「性」はタブーであるという社会的・児童文学的条件は依然としてのこっている。つまり「禁忌」をささえている構造そのものは、なんら変化していないのである。児童文学における「性」の問題を追及していく場合、この構造そのものを視野に入れて問題にしていかなければならない。
(2)
さて、児童文学にとって「性」とはなにであるのだろうか。
「性」というものを、どうとらえるかについては、さまざまな見解があるにちがいない。哲学的な考察から、下世話なとらえ方まで、あるいは、「性」を明るいものとするものから、暗く忌まわしいものと考えるものまで、多様な解答が生まれてくることは容易に予想することができる。だが、わたしにはその予想される解答のおよそについても、眼くばりするだけの知識もないし能力もない。ただ、ここでさしあたって必要なことは、「性」について難解な哲学的追究をおこなうことでも、PTA的な良識によって無理な道徳的裁断をおこなうことでもない。どうしてもかかすことのできないことは、「性」というものが、人間にとって大きな問題であることを、素直に認識することなのだ。「性」をいたずらに必要悪として暗くみたり、必要以上に誇張や露出をしたりするのではなく、きわめて単純なところから発想することが重要なのである。いずれにしろ、「性」は人間の存在と切りはなしては考えることができないものである。そして、このことは子どもにとってもなんらかわるところがない。
ところが、子どもと性の問題をめぐっては、ともすればこの素朴な事実認識を無視したり、故意にゆがめたりしがちであった。
子どもにとって、「性」の問題がいかに深い関心事であるかは、現代の子どもにみられる性知識や性意識の実態をしらべなくても、たとえば、つぎのような"子どもの詩"からも推測することが可能である。
ぼくはよるおゆにいった。
百しずんだ。
あらわったと思ったら
かっちゃんが
「手にせっけんつけて
ちんぼうをぐりぐりやると
ちんぼうがのびるぞ」
といった。
かっちゃんがやったら
ほんとうにのびた。
ぼくもやったら
ちいっとばかりのびてきた。
「あ とうちゃんがきた」
といって、ちんぼうのところに
水をかけたら
ちぢかまってしまった。(小ニ 男)
ここには子どもたちの、性器への興味と関心が端的にしめされている。性器に対する関心は幼児期ほど深い事例もあげられており、小児性欲の存在も科学的に立証されている。
しかも、こうした性欲とか月経、あるいは子どもが生れるという事実や異性への関心というものは、人間の存在に必然的につきまとっているだけでなく、社会的・文化的な環境とのかかわりのなかで、成長し形成される性質のものである。「性」とは個人的なものであると同時に、社会的な産物でもあるわかである。
にもかかわらず、これまでは「性」は子どもにとって関係のないこととして、そのかかわりをつとめて切断することに気をくばってきた。子どもと性を断絶させ孤立させることが、子どもにとって望ましいことであり、より教育的・人間的な配慮であると考えられてきたふしがあるのである。ここには、「性」の問題を、ありのままに把握しようとする単純な発想はもちろん、科学的な態度が無残にも欠落しているといわなければならない。
児童文学にとって「性」とはとはなにかという問いに対する一つの答えは、「性」というものは、子どもをふくめた人間をとらえる重要な鍵であるということである。別の言葉でいえば、児童文学にとって「性」とは、子どもを認識するための、もっとも根底的な方法の一つであるということになる。だから、「性」に眼をふさぐことは、子どもをとらえることを、自らの手で放棄することにほかならない。
児童文学にとっての「性」の意味するものはこれにとどまるわけではない。その問いかけは、先述したように、より根源的な児童文学のあり方と結びついているのである。児童文学ないし子どもから、「性」のタブーを開放することは、おそらく児童文学そのものの構造と記述・表現の方法の両面において、基本的な変化をひきおこすにちがいないというのがわたしの判断である。いままで、児童文学における「性」の問題は、なんとなく表現技術ないし技巧の問題であると考えられてきた。しかし、「性」の問題は単なるテクニックだけで解決できるものではない。描写のしかたなどということは末端の問題にすぎない。それは、偽善的なヒューマニズムや偽りの社会
道徳にたいするきびしい抵抗あるいは抗議という、すぐれて思想的な問題なのである。このことの深い認識なしに、「性」の問題を技巧的に処理しようとするとき、それは必然的に通俗的なワイセツ感をともなう作品にならざるをえないである。
ところで、児童文学のあり方については、いろいろな議論があって、まだ統一的な見解といったものはない。だが、その論議はおよそ、つぎのような三つの流れに大別できるように思う。
つまり、その一つは児童文学は文学であって、それ以外のなにものでのないという見解で、児童文学と一般の文学のあいだに本質的な差異を認めない立場である。そのニは、児童文学は文学であることにちがいないが、それが子どものために書かれた文学である点において、なんらかの制約をもった文字であるという見解である。ここには「児童文学は、文学と非文字の中間物である」という考えもかくされていて、サルトルや志賀直哉の小説を「文学」だというほどには、堂堂と文学といえないのではないかというためらいがひそんでいる立場である。その三は、児童文学は児童文学であって、一般の文学とは同じではない。児童文学には児童文学独自の価値規準があって成立しているという見解であって、いわば児童文学の自立性を強調する立場である。
これらの三つの見解のうち、もっとも一般的にいきわたっているものは、児童文学を制約された文学だという立場のものである。そして、児童文学における「性」をタブーとする考えは、この見解と密接につながっていることはいうまでもない。児童文学を制約された文学であるとする場合、その制約のもっとも大きな対象になっているものは、おそらく「性」の問題であるだろう。それが、子どものために書かれるという名分によって正当化されているのである。だが、すでに不十分ながらみてきたとおり、こどものために書かれるということが、「性」を禁圧する要因になるということは、論理的な矛盾以外のなにものでもない。むしろ、"子どものために"を正しくとらえるならば、「性」の問題は当然追究の対象にならなければならないはずであった。
ここで考えなければならないことは、児童文学において、「性」の問題を正当な意味で対象とすることと、児童文学作品においてたとえばキスや性交の場面を具体的に写実の方法によって描くこととはけっしておなじではないということである。
いかに一般の文学が制約がないといっても、なんの目的も必要もなく、なんでもかんでも描写し叙述する権利はない。そこには、社会の良識といったものと妥協という意味ではなく、おのずから一種の"約束"といったものが存在する。それをあるいは人間の知恵といってもいいかもしれない。その意味では、一般の文学といえども、無制限な自由は許されていないのである。わたしは、児童文学において、もし制約があるとすれば、以上のような意味においてとらえたいと思う。したがって、児童文学における「性」の"制約"も、それは児童文学の本質に加えられた制約ではないとわたしは考えている。
(3)
児童文学はその本質において制約されたぶんがくではない。しかし、もし前述した意味における"制約"ということを考えるとすれば、児童文学の「理想主義」的な性格についてであろう。
児童文学の本質規定において、「児童文学は理想主義の文学」であるという主張が、多くの人たちによっておこなわれている。鳥越信もその一人であるが、彼は『児童文学の世界』(「現代日本文学の世界」)という論文のなかで、この「理想主義」と「性」のかかわりについて、興味深い説を展開しているので、いささか長くなるがその要点を参考までに紹介してみたいと思う。「児童文学でとりあつかうさまざまな素材の中で、従来、もっともむつかしいものとされ、ある場合にはタブー視されてきたものに『恋愛』や『性』の問題がある。しかし、だれでも経験しているように、子どもといえどもその子どもがおよそ健康な子どもであるかぎり、恋愛感情や性への目ざめをもつのは当然のことであり、また子どもであるほどその関心、興味のもち方は強いともいえる」
という前提のもとに、井上靖の小説『晩夏』と、ケストナー『エミールと探偵たち』やマーク・トウェーン『トム・ソーヤーの冒険』に描かれている「恋愛」の場面を比較検討している。『晩夏』という作品は、夏になると海水浴場になる漁村に住んでいる主人公の「私」という少年が、ある年の夏、別荘へ療養へやってきた砧きぬ子という十一、ニ歳の少女に異様な執着と思慕の情をもやす。部落のがき大将でもある少年は、海浜を散歩する少女に向って、子どもたちにかん声をあげさせ、「おい辰二郎、おまえ、きぬ子のやつをひとまわりしてこい」と次々に子分たちを走らせる。そして最後には「私はわっとありったけの声をはりあげてさけぶと、そのまま波うちぎわに突進し、波にからだをぶっつけて、潮の中に頭を先にしてもぐっていく」というものである。
この作品において、鳥越信はもしこの作品を少年時代に読んだら嫌悪感を覚えたにちがいないとして、その理由を次のように解説している。
「井上靖の描写も、決して事実そのままの描写ではない。そこには濾過された美しさがある。しかし、事実はもっとみにくい。日本の戦前の子どもがもっていた恋愛や性についての知識、イメージは、はるかに隠微で卑猥なものであった。子どもたち同士でかわされる会話は、はるかに露骨で醜悪であった。おそらく、それをそのまま忠実に写し出すことは、大人の小説でさえもできかねるほどのみにくさとけがらわしさをもっていた。それが当時の子どもの実情であり、子どもたちはそれ以外の表現方法を知らなかった。(中略)しかし、同時に、子どもたちはそれが決して理想的なものでないことも十分に知りつくしていたのである。そうした子どもにとって、たとえ濾過された美しさをもつものであっても、それが現実に近ければ近いほど、理想に遠ければ遠いほど、反発と嫌悪の感情は増加する一方である。所詮、井上靖の小説は、どんなに子どもの心理が克明に描かれようとも、大人のための創設にほかならないのはそのためである」
これに比較して、児童文学がその問題を処理してきた事例として『エミールと探偵たち』の中で、エミールのいとこのポニー・ヒューチェンが少年たちの前にあらわれ、まるで人気投票に当選した美人のように魅力をふりまくシーンや、『トム・ソーヤーの冒険』の中での、トムとベッキーの恋愛シーンをあげている。
「ポニーはエミールの肩をポンとたたいて、自転車にとびのると陽気にベルをならして、走っていってしまった。少年たちはしばらく、ものも言えないで、ポカンと立っていた。それからプロフェッサーくんが口をひらいて、『ちくしょう、いまいましい!』と、言った。ほかの連中は、プロフェッサーくんがそう言うのも、まったくむりはないと思った」
というぐあいである。
そして、これにたいしてはつぎのような見解をのべている。
「マーク・トェーンやケストナーの描いた世界も、事実そのままでは決してなかった。それは、一つの理想的な姿であった。現実を踏まえながら、現実を超えて作りだされた世界が描かれていた。それは真の意味での虚構であり、現実以上にリアリティをもつものだった」
いまここで、児童文学は理想主義の文学か否かという本質的な問題いまで立入っている余裕はないが、児童文学において、事実ありのままでなく、それを純粋化し理想化したかたちで処理することが、よりふさわしい方法であることはたしかなことであろう。そうした理想主義的な方向が、単純で健康な道義観を本能的にそなえている子どもの存在に合致し、幼い者の楽天的な気分の要求に適応することは否定することのできない事実である。
しかし、理想主義ということは、人間の暗い部分や社会の醜悪な部分を排除して、甘い偽善的な認識にとどまることではない。どのような悪や弱点をも、きびしく認識することによってのみ理想主義は理想主義として生きることができるのである。だが、児童文学における理想主義は、しばしば現実を超えたところで世界を構築するよりも、現実とふれあう一歩手前で足ぶみし、通俗的・観念的な現実をでっちあげることによって、現実となれあっていることが多いのである。
このことを、ジュニア文学における「性」の問題に即していえば、恋愛や性をとりあつかっている作品の多くは、愛とは理解することであり愛情を抱くことであって、その愛情に必然的にともなっているはずの性の衝動については、全く無縁のままふれられないでいる。つまり、愛を肉体のこととして考えることは恐ろしいことなのであり、タブーとしてさけてとおってしまっているのである。富島健夫といった作家の作品をとりだすまでもなく、それらはつねに「純愛小説」であって、ときに性の衝動が描かれることがあってもそれは単なる一つのポーズにすぎず、けっして「性」や「肉体」が正しい位置づけにおいてとらえられていないのである。
吉田としの最近作『愛のかたち』は、創造と典子という高校生の、青春前期におけるひとつの愛のかたちを追究した作品である。愛を「永遠に神秘なもの」とする作者は、多くの作品において、人生のなかにありうる真実の愛のあり方を求め描いている。その方法の特色は、理想的な人間像を創造し、精神の恋愛を根本的な要素として成りたっていることにある。この『愛のかたち』においても、創造の父の事業をめぐって敵対的な関係におかれている二人が、互いに理解しあい苦しみのなかに愛をきずいていく過程が描かれている。それは「清純な愛」といっていいものである。そしてこの清純さは、この時期の少年少女にとってある救いを与える効果をもっているだろうと思う。だが同時に、わたしはこの理想的な愛の形式に、ある種の偽善を感じる。ここでは人間の赤裸々な存在の姿よりも、よそゆきの礼節の形をとった人形を感じてしまうのである。この作品に社会の良識となっている道徳観との妥協を感じるといってはいいすぎになるだろうか。
少年少女たちは、苦悩のために悩んでいるかたまりのようなものであり、特に性の感情と想像に責めたてられて、混乱した精神を持っている存在である。にもかかわらず、人間とって性の謎は長い時間をかけなければ解きあかすことはできない。こうした少年少女に、性ものものを直裁に描いたとしてもどの過程に理解できるかどうかは甚だ疑問である。したがって、その一つの過程として理想的な愛のかたちを提示することには、それなりの意義があることを十分に認めないわけではない。しかし、こうした種類の作品は近代小説のなかでいくつも書かれてきた。したがって『愛のかたち』が、先行するそれらの作品に比して、なにをつけ加えたのかということが評価の一つのポイントであるだろう。その点についていえば、類型からそう遠く脱けだしていないいといわなければならない。このことは、この作品において、「愛」や「性」についての新しい観点からの認識や位置付けがおこなわれなかったことを意味する。
社会通念や社会の良識というものは、けっして絶対的なものでも不変のものでもない。それはすこしずつ変化していくべきものである。この作品においても「愛」や「性」についての、その変化を先取りするような、独自の見方や考え方を鮮明に描いてほしかったと思う。
そのためには、「性」を思想の問題として追いつめてみる必要がある。「性」を汚れたもの、醜悪なもの、罪あるものとして考えるよりも、「性」の本質に明るさを見出すことが大切なのである。先に引用した井上靖の『晩夏』と『エミールと探偵たち』との相違も表現上の処理もさることながら、そのもっとも根源的なことは「性」にたいする思想・態度の差異から生じてきたものであろう。
作家が意識するとしないにかかわらず、その作品は作家の生活意識や倫理観によって支配されている。そして、作家の体験や思想は、作家の内部においてイデーにまで純粋化され、技術をとおして表現されるのである。これは一つの仮説であるが、ある表現が大人の小説にあり、ある表現が児童文学になるのも、この作家の生活意識や倫理観によって、わかれてくるのではないかと推測される。
(4)
いずれにしても、われわれはまず児童文学の世界において、「性」をタブーとする"神話"を打ち破らなければならない。すべてはそこから出発すべきである。
「性」をタブーとする精神構造からは、児童文学のゆたかな進展を期待することはできない。「性」を人間生活にとってかかすことのできあに正当な部分として、正しい位置づけをおこない、真剣な追究の対象としてとりあつかうとき、そこには「性」についての新しい意義がおのずから発見されてくるのではないか。
いうまでもなく、児童文学の世界から「性」のタブーを追究するということは、けっして「性」を興味本位にあつかうことを意味しない。現在の少年少女週刊誌にみられる「性」の風化は、子どもを荒廃させこそすれ、新しい生を発見させることは不可能である。
「性」を人間の生活のなかに正しく位置づけるということは、とりもなおさず、人間というもの存在を全面的に回復することにほかならない。児童文学における「性」のタブー視は、現代の資本主義社会の下での、人間疎外の一つのあらわれにすぎないのである。それが社会の良識という名において、合理化されているのが今日の状況である。
児童文学の世界において、「性」の問題を対象にするということは、読者である子どもに、性知識をあたえ、性の意識にめざめさすことを目的とするものではない。いうならば人間の尊厳について自覚させることである。あるいは性の感情や性の想像に、煮えたつような混乱した精神をもっている少年少女に、ある一つの方向をさししめすことである。いいかえれば、人生の問題に苦しみ、考えあぐねている子どもたちに、性の問題も大切であり、真剣に追究するだけの価値あるものだということを語り、安心感をあたえることである。
児童文学はそのために、「性」の問題をとおして、新しい生の秩序を創造することをめざさなければならない。だが、日本の児童文学の現状は、この方面においてもっともひどくたちおくれている。
日本の児童文学は、戦後においてさまざまなジャンルの進展をみたが、この「性」の問題にたいする取り組みについては、ほとんどといっていいぐらい問題意識がとどいていないのである。
このことは、すぐれたジュニア文学がいまなお出現していないことによっても象徴されている。
この分野での発展を期するためには、「性」についての思想的・文学的な遺産について貪欲なぐらいに学ばなければならない。
「性」についての統一のある思想のないところに、すぐれた「性」の文学的表現もありえないはずである。
そこでは、「人間の歴史は抑圧の歴史である。文明は人間の本能を永久に抑圧することであるとして、人間は無意識の領域まで性によって支配されており、芸術の大部分は性的な欲望が昇華されることによってつくりだされたものである、ヒステリー・神経病も性の抑圧から生じるといった学説を主張したフロイトの思想や、このフロイトの学説を積極的にうけとめ、性を人格構成の根本的な要素であるとして、性による人間と人間の連帯の道を模索し、近代人のエゴイズムから人間を解放しようとしたD・H・ローレンスの思想などが、深い示唆を与えてくれるにちがいないと思う。
文学でいえば、「性」をどのようなかたひにしろあつかった古典的作品は数少なくない。しかし、その場合児童文学にとってより有益なのは、「性」を人生にとってやむをえない悪や汚れとしてとらえ、露骨に写実した作品よりも、たとえば「デカメロン」の系列のように、「性」をおもしろく、たのしく、あかるく、滑稽なものとしながらかつ真剣にとりあげた作品であろう。
児童文学の古典的作品においても「性」はいろいろな角度からとりあげられている。アンデルセン童話の『しっかり者の錫の兵隊』『羊飼いの娘と煙突掃除人』『薔薇の妖精』などの作品においては、愛の問題が暗い色調のなかで描かれており、グリム童話にあっては、『いばら姫』や『蛙の王さま』など、魔法にとらえられた人間が、人間に復活するきっかけとして「性」が重要な役割をはたしたりすることが多く、恋愛や結婚を中心にした作品もけっして少なくない。だが、そこでの「性」の場面は、具体的な事実ではなく象徴的なかたちとして昇華されてしまっている
のである。このような古典的作品にみられる方法からも、われわれは養分を吸収しなければならない。あるいはまた現代文学としては、大江健三郎の作品にみられる作品全体のテーマをうきぼりにするための有効な方法として「性的イメージ」がつかわれていることも参考になるにちがいない。そこでは「性」は「美しい花」ではなく、「花として美しい」というかたちでとらえられている。
しかし、もっとも重要なことは、児童文学における「性」をゆたかに描くために、みせかけの社会秩序や良識とたたかい抵抗しうるかどうかである。人間を疎外している現代社会の問題を無視して、人間の心のなかだけで完全な愛も性も実現されることはない。労働と遊び、働くことと愛や性のよろこびが合致するような社会をつくるためには、現代の社会構造の根本的な変革によってのみ可能である。このことの根源的な認識なしに、児童文学における「性」の進展も期待することは不可能であろう。 (「日本児童文学」昭和44年4月号掲載)
テキスト化秋山ゆり