横谷輝児童文学論集2』(横谷輝 偕成社 1974.08.14

日本児童文学者協会の運動この十年
―個人的な視点をふまえて―

(1)
 この十年のあいだに、日本児童文学者協会は、どのような児童文学運動を展開してきたのか。それは、日本の児童文学運動のなかで、どのような位置をしめ、どのような意義をもっているのか。という問題をあきらかにするのが、ここでのわたしの課題です。
 しかし、正直いっていまのわたしには、この仕事は重荷です。それに適任でもないと考えています。その一つの理由は、ここ十年のうち八年近くにわたって、わたしは日本児童文学者協会の事務局にいながら、運動の実際面にタッチしてきた人間だからです。その運動を客観的にとらえて評価するには、あまりにもつきすぎている感じがします。ある意味で、日本児童文学者協会がおこなってきた運動そのものを、もっとも強く膚で感じとってきた一人でもあるわけですが、それだけに、運動そのものを客観的にとらえることは困難で、どうしても、そこに個人の心情や主観が、はいりこんでくる気がします。
 いま一つは、日本児童文学者協会の運動にかかわってきた自分というものを、十分に整理してとらえるだけの気持のゆとりがないからです。極端にいえば、ここ十年の日本児童文学者協会の運動を考えることは、いまのわたしには、自分自身を問うことを意味しています。ところが、いまはそのようなことにふれたくない気持のほうが強いのです。いってしまえば、一種のいらだちといった思いがからまっているのです。この八年近い年月を、自分はいったいなにをやってきたのか。けっして全力投球したとはいえないにしろ、わたしなりのエネルギーをもってかかわってきたものか、はたしてどのような成果を生んだのか。チリンとでも鈴がなったのか。という思いが、心の底のどこかにひっかかっているわけです。
 もちろん、これはあくまでも、わたし個人の心情です。そのような一個の主観とは別個に、日本児童文学者協会がここ十年のあいだにおこなってきた運動は、客観的に存在しています。そして、その運動が、それなりの成果を生みだしていることも、否定することのできない事実です。わたし自身も、その成果に多くささえられてきました。わたしが今日まで、まがりなりにも児童文学評論の仕事をやってこられたのも、児童文学者協会の運動があったからこそだと思います。私の児童文学についての基本的な考え方は、日本児童文学者協会の運動のなかで学び、つちかってきたものだといっていいのです。そのプラス・マイナスについては考えないわけではありませんが、わたしに関する限り、日本児童文学者協会の運動なしには、その仕事もありえなかったといえます。
 にもかかわらず、いまのわたしには、いらだちの思いを全く排除したところで、日本児童文学者協会の運動を語る自信はありません。この問題を考えるうえで、わたしが不適任である理由がここにあります。
 ある一つの運動の意義を問い、それを明確に位置づけるためには、運動のあれこれを事象的に羅列するだけでなく、当然にふくまれているさまざまな成果と欠陥を、のぞましい運動のあり方に照らしてきびしく分析し、問題点をあきらかにしながら、今後の展望をおこなうという作業が必要です。しかし、いまのわたしにはそれをおこなうだけの資格がありません。そこでできるだけ客観的な資料にもとづきながら、ここ十年の日本児童文学者協会の運動を、それもごく概略にたどってみることで、その責めを果たしたいと思います。それでも、なお、私というフィルターをとおすことによって、かたよりが生じる危険は多分にあります。その点あらかじめ諒解していただきたいと思います。

(2)
ところで、日本児童文学者協会がおこなってきた児童文学運動をとらえる場合、それは、創造活動の問題、批評活動の問題、普及活動の問題、組織活動の問題、社会活動の問題といったそれぞれの視点から、きめこまかくアプローチしていかなければ、その全体の姿をあきらかにしていくことはできないといえるでしょう。だが、いまその一つ一つをとりあげ、十年の運動の成果をくわしくみていくだけの余裕はありません。もし、それをもっとも集約的に反映しているところのものを求めるとすれば、それはなんといっても、機関誌「日本児童文学」の存在だと思います。
 昭和三十年八月に、第三次「日本児童文学」として復刊され、現在まで一五〇号もつづけられているこの雑誌は、ある意味で、日本児童文学者協会の運動を基本的にささえてきた、もっとも大きな柱であったといわなければなりません。日本児童文学者協会は、機関誌「日本児童文学」を発行しているだけでも、その運動体としての意味をもっているといわれるのも、このことをいいあらわしています。事実、日本児童文学者協会がそのエネルギーをもっとも集中してそそぎ、多くの犠牲をはらってきたのも、この機関誌の発行についてです。第三次復刊以降も、いくどかその発行をめぐる深刻な危機に見まわれました。たとえば、昭和三十八年八月から翌年の三月まで、発行元のさくた教材が倒産し、新しい発行元もみつからないまま、第三種郵便物の認可を取り消されないための方策として、わずか八頁だてのパンフレットを自主発行していたこともあります。そうした危機のたびに、協会はいわば総力を結集しそれぞれの出版社の協力のもとに危機の克服のために努力してきたのです。このことは、日本の児童文学運動のうえからいっても大きなプラスの側面として十分に高く評価されていいものだとわたしは思います。
 もちろん、「日本児童文学」がすべて理想的に発行されてきたということはできないでしょう。そこにはさまざまな問題を内包していて、けっして単純ではありません。「日本児童文学」が、日本の社会全体に潜在している児童文学へのエネルギーはもちろんのこと、会員、会友のエネルギーをどれだけほりおこし、反映させていったか、またその力を発展の方向へどう結集していったかという問題一つとっても、そこには大きな弱点やいたらなさがあったことは認めなければならないでしょう。
 しかし、それにもかかわらず、「日本児童文学」が、日本の児童文学運動全体において果たした役割は、あるいは現に果たしつつある役割は、わたしたちが想像する以上に大きいものがあるといってもいいと思います。「日本児童文学」にあらわれた、創作・批評・研究やさまざまな問題提起は、実に多様でありゆたかであって、ここ十年の内容をとってみても、かなりつまったものであるといえます、おそらく、現在の時点からそれらをふりかえってみても、そこから多くのことを学びとることが可能であり、新しい問題意識を発見するにちがいないのです。それは、たとえばつぎのような主な特集内容の一覧をみても、推察することが可能です。
 「子どもの歌声運動」(昭和三十年八月)、「民話について」(昭和三十年十一月)、「槙本楠郎特集」(昭和三十一年十二月)、「新人特集」(昭和三十二年二・三月)、「民話とメルヘン」(昭和三十三年七・八月)、「マスコミと児童文学」(昭和三十四年三月)、「作文による文学教育」(昭和三十四年五月)、「幼年文学特集」(昭和三十五年三月)、「メルヘン特集」(昭和三十六年三月)、「地方の児童文学」(昭和三十六年四・五月)、「小川未明追悼特集」(昭和三十六年十月)、「児童文学と映画」(昭和三十六年十一月)、「絵本」(昭和三十六年十二月)、「同人雑誌作家特集」(昭和三十七年二月)、「童謡、詩編特集」(昭和三十七年四月)、「児童文学運動の今日的課題」(昭和三十七年五月)、「児童文学と文学教育」(昭和三十七年六・七月)、「伝記文学」(昭和三十七年八月)、「世界の子どもの本」(昭和三十七年九月)、「秋田雨雀追悼特集」(昭和三十七年十月)、「児童文学と児童演劇」(昭和三十八年三・四月)、「伝記論特集」(昭和三十九年五月)、「児童マンガと児童雑誌」(昭和三十九年六月)、「岡本良雄追悼特集」(昭和三十九年七月)、「戦争と児童文学」(昭和三十九年八月)、「幼年童話入選作品特集」(昭和三十九年十月)、「同人雑誌推薦創作特集」(昭和四十年一月)、「詩と童謡について」(昭和四十年三月)、「八月十五日をむかえて」(昭和四十年八月)、「創作特集」(昭和四十一年一月)、「塚原健二郎追悼特集」(昭和四十一年二月)、「女性と児童文学」(昭和四十一年三月)、「評論特集」(昭和四十一年五月)、「世界の新しい作品小アジア編」(昭和四十一年九月)、「同人雑誌特集」(昭和四十一年十二月)、「壷井栄追悼特集」(昭和四十二年九月)、「現在の児童文学」(昭和四十二年十月)、「ブックリスト」(昭和四十二年十一月)、「民話と児童文学」(昭和四十三年一月)、「宮沢賢治の童話文学」(昭和四十三年二月)、「SF児童文学」(昭和四十三年三月)、「児童文学におけるリアリズム」(昭和四十三年四月)、「児童文学と教育」(昭和四十三年五月)、「絵本」(昭和四十三年六月)、「ベトナム・沖縄問題と日本の児童文学者」(昭和四十三年七月)、「イギリス児童文学」(昭和四十三年八月)、「新見南吉」(昭和四十三年十月)、「児童図書集監修者」(昭和四十三年十一月)、「幼児教育と幼児文学」(昭和四十三年十二月)、「日本の神話」(昭和四十四年一月)、「動物文学」(昭和四十四年二月)、「詩と童謡」(昭和四十四年三月)、「ジュニアのための文学」(昭和四十四年四月)、「変貌する社会と児童文学」(昭和四十四年五月)、「現代作家論T」(昭和四十四年六月)。
 あえてながい紹介をしましたが、これらの特集のうちに、日本児童文学者協会がそれぞれの時点においていだいてきた問題意識が反映されているし、すすめてきた運動のなかみが、それなりに象徴されていると思ったからです。
 特に創造・批評・研究の問題は、ここに集中的にあらわされているといっていいでしょう。創作はいうまでもなく、民話、メルヘン、リアリズム、詩・童謡、幼年童話、絵本、伝記、動物文学、神話、SF、ジュニ文学などの創造上の問題をはじめ、作家論、児童文化、マスコミ、マンガ、同人雑誌、地方における児童文学、教育、世界の児童文学、戦争児童文学、ベトナム・沖縄問題と児童文学者など、広範な分野とかかわったところで、多岐にわたる問題の提起なり、主張なり、批評・研究がおこなわれています。
 この「日本児童文学」一つをとってみても、ここ十年の日本児童文学者協会の運動のつみかさねは、かなりの重量感をもっているというのが、わたしの実感です。もっとも、「日本児童文学」でおこなわれた、アクチュアルな問題提起がどれほどの有効性をもち、日本の児童文学にどのような影響をあたえ、それがどのように持続的に追究されてきたかという点になると。いろいろな疑問がないわけではありません。否定的な見解があらわれることも予想されます。
 だが、相対的にいって、「日本児童文学」がここ十年の日本の児童文学をリードしたとはいえないまでも、それなりの成果を生んできていることはたしかなことです。この問題を実証的にやるためには十年間の「日本児童文学」の内容をこまかく検討してみなければなりませんが、ここでは残念ながらそのスペースはありません。わたしは、日本児童文学者協会がおしすすめてきた運動を、いわば「日本児童文学雑誌論」のかたちで、それをまるごととらえることによっても、十分にあきらかにすることができると考えています。そのプラス・マイナスは、むしろ「日本児童文学」のうえに、より明確にしめされているといっても、けっして過言ではないはずです。しかしここでやってみせることは不可能ですので、とりあげるにたる課題であることを指摘するにとどめたいと思います。
 創造の問題としては、このほかに昭和三十六年に制定された、日本児童文学者協会賞の役割もとりあげなければならないでしょう。これ以前にも、児童文学賞、児童文学新人賞があったことはいうまでもありませんが、ここ十年ということになると、それら二つの賞を廃止して、その前年に発表された創作児童文学作品のなかから、新人の秀作にたいして授賞するタテマエではじめられた、日本児童文学者協会賞が対象になります。もっとも現在では、日本児童文学者協会賞は新人の秀作というよりも、年間最優秀作に授賞するとその性格はかわっており、新人作品は日本児童文学者協会新人賞の対象になっています。ところで、日本児童文学者協会賞をうけた作品はつぎのとおりです。
 第一回『山が泣いている』(鈴木実他)、第二回『キューポラのある街』(早船ちよ)、第三回『あり子の記』(香山美子)、第四回『星の牧場』(庄野英二)・『世界児童文学案内』(神宮輝夫)、第五回『埋もれた日本』(たかしよいち)・『マアおばさんはネコがすき』(稲垣昌子)、最六回『肥後の石工』(今西祐行)・『シラカバと少女』(那須田稔)、第七回『宿題ひきうけ株式会社』(古田足日)、第八回『ヒョコタンの山羊』(長崎源之助)、第九回『くろ助』(来栖良夫)。
 これらの受賞作が、日本児童文学者協会の運動とかかわったところで、えらびだされてきていることは当然のことです。それだけに、この受賞作からも、日本児童文学者協会の運動の一端をうかがいしることができるわけですが、それが日本の児童文学の創造のうえにはたしてきた役割は、それなりに評価しなければならないと思います。と同時に、その受賞作が、現在の時点からみてどれほど妥当であったかが問われることも、またやむをえないことだと思います。いずれにしても、日本児童文学者協会の運動にとって、日本児童文学者協会賞は大きな意味をもっているといわなければならないと考えます。
 日本児童文学者協会は、その創立以来創造と普及を統一的にすすめてきたわけですが、ここ十年のあいだにおいても、普及活動はそれなりに努力されてきたといえます。特にここ二、三年において、ずいぶん普及活動はさかんになり、拡がりをもってきたといえるのではないでしょうか。
 ここ十年ということでいえば、昭和三十四年八月に、第一回全国児童文学研究会が明治大学において開かれています。児童文学に関心のある母親・教師・学生・一般の人びとを全国的によびかけ、研究会形式の普及活動をおこなったのは、おそらくこれが最初だったと思います。また、昭和四十年一月には、第一回の新日本童話教室が、びわの実文庫で開かれました。これは普及活動というよりも、新人作家の発掘・養成という意味あいのものですが、すでに九期までつづいています。それから、昭和四十一年五月には、日本児童文学者協会創立二十周年を記念して、明治大学において児童文学討論会が開催されています。ここ二、三年についていえば、なんといっても昭和四十二年八月から毎年夏に開かれるようになった、言語教育と幼児童話講習会をあげなくてはならないでしょう。幼稚園・保育園の教師を主な対象としたこの講習会は四百名近くをあつめ、児童文学への関心を高めるうえに大きな影響をあたえたことは、それまでの普及活動を幅広くしたことと共に特筆していいことだと思います。このほか、昭和四十二年、昭和四十三年と開催した児童文学セミナーも、普及活動の前進として評価していいものです。また日本児童文学者協会支部との協力による、地方における児童文学講座や研究会の開催も、一定の普及活動の役割をはたしてきたことはいうまでもありません。これに、日本児童文学者協会の企画編集によるいろいろな出版物をも、一つの普及活動としてふくむとき、けっして十分とはいえないにしても、普及活動のうえにおいて十年のつみかさねをしてきたといってもいいと思います。
 しかし、日本児童文学者協会がおこなってきた普及活動に、いくつかの問題がはらんでいることは否定することのできない事実です。それを象徴するできごとが、選択図書活動のゆきづまりでしょう。もともと創造団体としての主性格をもっている日本児童文学者協会が、選択図書活動をおこなうこと自体に、矛盾する要素がふくまれているわけですが、それ以上に多面化している現実の動きに、その普及活動が十分対応しえないところに、ゆきづまりの大きな要因があります。このいわば弾力性、行動性のなさが、日本児童文学者協会の普及活動がかかえている深刻な問題ではないかともわたしは考えています。
 組織活動の面では、まず昭和三十八年九月に日本児童文学者協会が社団法人として発足したことがあげられます。だが、それはいわば形式上の変化であって、組織活動の実績をかたちづくっている、会員の結集の問題、地方支部との交流の問題、「日本児童文学」とも関連しての、会友読者とのつながりの問題、外国との交流、他団体との交流の問題等々については、あまりにも多くのことがらを内包しながら、かならずしもつきつめて考えてはこなかったという感じです。
 社会活動については、昭和三十四年十二月に、日本児童文学者協会は、新安保条約に反対の声明をだしました。昭和三十五年七月号の「日本児童文学」においては、「児童文学者は安保条約に反対する」記事をのせ、社会にたいして、日本児童文学者協会の立場を明確にうちだしています。こうした政治・社会の動きにたいしては、その都度発言をおこない、子どもを守る児童文学者としての立場をはっきりさせてきたことは、日本児童文学者協会の運動がいわゆるせまい文学運動にとどまっていない証左として、一つの特色となっていることはあらためて指摘するまでもないことです。だが、ここでも問題意識の希薄さや、政治・社会への無関心さがみえはじめていることは、無視することはできないと思います。

(3)
 日本児童文学者協会の運動の十年を展望するには、あまりにも粗略にすぎる叙述しかできなかったのですが、以上みてきたように、その成果と欠陥をふくみながら、全体的には前進してきたといえると思います。だが、同時に停滞の要因もかなりあらわになってきているというのがわたしの判断です。
 この十年は、いうまでもなく、日本の児童文学にとって大きな転期でした。そのなかで日本児童文学者協会の運動は、もちろんプラスの役割をはたしてきたことはたしかなことですが、けっしてその全体をリードしてきたとはいえない気がします。そこに昭和二十年代とここ十年のあいだにおける日本児童文学者協会の位置の微妙な変化をみることができます。それはいわば、指導する立場から、日本の児童文学の基盤をささえる役割への転化といっていいかとも思います。このことを、どう考え評価するかはむずかしい問題です。日本児童文学者協会の運動の外側から、すぐれた成果が生みだされることは、日本の児童文学全体にとっては歓迎すべきことです。それが日本児童文学者協会の運動の位置づけを、相対的に低下させるとしてもです。だがその相対的低下をもって、そのまま日本児童文学者協会の運動の無力と結びつけることには反対です。ここから日本児童文学者協会を運動団体ではなく、児童文学者の権益をヨウゴする団体にすべきだという発想も生れてくることになります。
 しかし、日本児童文学者協会の運動が、真に日本の児童文学の基盤をささえるうえに役立つとすれば、その存在の意味は十分にあります。今日という時代は、文学運動にとってきわめて困難な季節です。この困難をのりきるために、いまわたしたちはなにをすべきかを、互いに初心にかえって考えてみるべき時だと思います。
(「日本児童文学」昭和四十四年七月号掲載)
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