『横谷輝児童文学論集2』(横谷輝 偕成社 1974.08.14)
政治と児童文学
―子どもも現実社会に生きる―
文学と政治のかかわりは、古くて新しい問題である。いままでに、さまざまなかたちで論じられてきたし、おそらくこれからも論じられていく問題であろう。ところが、児童文学と政治のかかわりになると、それほど真正面からとりあげて、論じられてはこなかったと思う。もちろん、そこになんらの問題がなかったからではない。その底には、文学と政治の問題と本質的に同じものが、ひそんでいるはずであった。にもかかわらず、それがあまり問題意識にのぼってこなかったのには、それだけの理由がなければならない。その理由には、いろいろな要素がからまっているにちがいないが、もっとも大きな要因は、子どもの存在にたいする考え方と、それに結びついた児童文学観にかかわっている。
従来の児童文学観が示すもの
つまり、子どもというものは「この空間と、時間の概念に支配されず、貧富の差別によって、階級などの考えを全く頭に持たない」存在であって、本来的に政治などとかかわらないところで生きているという考え方が根強くあり、ここから子どものための文学は、なによりもまず、子どもたちが求めている、永続的な真実や価値をこそとらえて表現しなければならない。いたずらに政治や時代によって価値がかわるイデオロギーにかかわっていては、すぐれた古典的作品を生みだすことはできないという児童文学観がみちびきだされてくる。こうした考えが、児童文学と政治のかかわりの問題を低次元のものにしている有力な原因である。
たとえば、つぎのような文章に、そうした背景が端的にうかがわれる。
「児童文学の短い歴史をみると、それぞれの時代の子どもの本に、その時代のもっとも悪い特徴が強く出ていることがわかる。私たちは、時代的な関心をもたれたあることがらが非常に支配的になって、どんな本を子どもに与えるかということにまで影響を与えた例を知っている。たとえば、清教徒時代には、子どもたちのために、ひねこびた善良さや病的な信仰やひどい感傷をもりこんだ『信心深いご本』が書かれた。また現代では、人種的偏見にたいする関心がめざめ、社会不正に気づいた結果、アン・カロル・ムアが『背景が多すぎ、問題が多すぎて、生命を失った物語』と呼んだもので、子どもの本をいっぱいにしがちである。しかも、こういう本が、おとなの側からは喝采されがちである。それは、その本のテーマが子ども本来の興味をひくというよりも、社会問題にたいするおとなの真剣な関心を反映しているからである。それにまた、そういう本の文学としての永続的な真価も、注意深く吟味されていない」(L・H・スミス)
ここにみられる考えかたを、やや機械的に現代日本文学の児童文学状況に適用するとき、たとえば最近出版された炭鉱のストライキや羽田闘争までも盛り込んだ『道子の朝』(砂田弘)や、原爆の問題と部落差別の問題をからませて、一少女の目から追求した『ヒロシマの少女』(大野允子)などは、「背景が多すぎ、問題が多すぎて、生命を失った物語」ということになるのだろうか。もちろん、これらの作品が、<社会問題にたいするおとなの真剣な関心を反映している>ことはいうまでもない。だが、そのために、これらの作品が、永続的な真価をもたず、そのテーマが子ども本来の興味をひかず、ましておとなの側から喝采されるとは、かならずしも断言することはできない。
短絡はさけるべきだが
たしかに、ある時期において、その時代的政治的関心が支配的になり、児童文学のうえに一つの傾向を生みだし、それが児童文学本来のあり方から考えて、あまりのぞましくないといったできごとがおこるかもしれない。しかし、その場合、生みだされてきた作品の質の問題と、作家がその時代の社会的、政治的問題にたいして、真剣な関心を反映させることは、切りはなせないまでも、短絡することはさけなければならない。L・H・スミスは、別のところで、「子どものために二流の物語を書く作家たちは、社会改良のテーマを選ぶことが多すぎる」ともいっているが、ことがらの本質は、社会改良のテーマを選んだから作品が二流になるのではなく、作家が二流であったにすぎないというにつきている。
いうまでもなく、文学というものは永遠の時間というものを対象とし、政治は現在だけの時間を相手にする。文学には文学独自の論理があり、政治には政治独自の論理がある。いずれも、一方によって他方を律することはできない。その意味では、それぞれに自律し独立している。そして、文学の意義は、永遠の時間を対象とするところに存在する。児童文学においては、特にその傾向が濃厚であるといわなければならないであろう。このことは幼児のための文学を考えれば、よりはっきりする。
子供と大人は異質でない
だが、このことは、児童文学が政治や社会と全く断絶したところで成立することを意味しない。あたりまえのことである。児童文学の対象である子どもは、おとなの世界とは別次元の、一つの別世界に生きていると同時に、おとなとおなじ現実社会に生きている。成長発達していくにつれて、その別世界は現実の世界とより深くかかわっていき、おとなの世界の影響をうけるのである。子どもをおとなの小型と考えることは正しくないが、子どもをおとなと全く異質なものとして切りはなしてしまうこともまちがいである。ある意味で子どもはすこしでも早く成長しおとなになろうと願っている。おとなの世界に強烈な興味と関心をいだいているのである。児童文学というものが、子どものせまい人生経験をよりゆたかなものにし、新しい世界につれだすことに、その本来の機能があるとするならば、作品のうえに時代的、社会的、政治的な関心がダイナミックなかたちで反映することは、むしろのぞましいことであり、必要なことである。ことに現代のような激動の時代においては、なおさらのことであろう。
もちろん、こうした作者の関心や願望をべつにしても、その創作過程のなかで否応なく現実や政治はかかわってこざるをえないのである。題材一つをとってみても、それは作者の主観によってどうにでもなるものではなく、その客観性によって、作品の構成や質が左右されるのである。また、社会や政治のかかわりは創作過程ばかりではなく、享受過程のうえにもあらわれる。たとえば『シナの五人きょうだい』や『ちびくろ さんぼ』をめぐる評価の対立は、そうした一つのあらわれである。
だからといって、児童文学と政治のかかわりが、いわゆる題材主義や単純な政治の優位性に還元されてはならないことはいうまでもない。児童文学には、児童文学独自の政治とのかかわりかたがあり、あくまでも真実や永続的なねうちを追求するなかで、政治の問題も考えられなければならない。その批評・評価も、”なにを”、”いかに”が統一されたところでなされなければならない。ただ、今日の時点でいえば、児童文学と政治のかかわりを理論的に云々するよりも、ほんとうの意味でのかかわりをもった児童文学作品の数少ないことのほうが、より重要な問題であるような気がしている。
(「読書人」昭和四十四年七月二十八日掲載)
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