『横谷輝児童文学論集2』(横谷輝 偕成社 1974.08.14)
児童文学とはなにか
――その一つの試み――
(1)
“児童文学とはなにか”という問いに答えることは、いうまでもなく、児童文学を児童文学たらしめている独自なものを、あきらかにすることである。その場合、対象となるものは、児童文学一般ではなく、あくまでも具体的な児童文学作品であって、その実際のあり方をとおして、児童文学がもっている本質なり、独自な性格、条件を抽出することでなければならない。
しかし、対象となる具体的な児童文学作品を、どのように分析しそこにある共通したものを析出したとしても、それがはたして本質的なものであるかどうかは、かならずしも保証されているとはいえない。そこでわたしの認識は、あくまでも相対的なものにすぎないのである。しかも、おそらくその抽出の結果が、客観的にある児童文学作品をとらえ、説明するうえに有効であるという確率は、きわめて低いものであるにちがいない。児童文学の現実のあり方は、しばしばそうした抽出からうみだされた定義や法則や共通点からはみだしているのがふつうである。もちろん児童文学を客観的、科学的にとらえることの可能性を否定しようというわけではない。ただ、児童文学も文学であるかぎり人間の感情や情緒に訴えていく性格をもち、微妙な感覚のなかに、より本質的な要素をひそめていることを考えるとき、法則的、科学的な把握は、きわめてむずかしいことだけは確認しておきたいと思うのである。
いずれにしても、“児童文学とはなにか”という問いに答えることは、いささか気の重い作業であることはたしかである。だが、同時にこうした根源的な作業は、現代の児童文学そのものが要求しているところのものだともいえるだろう。児童文学が児童文学としてより前進しようとする場合、この作業をさけてとおることはできない。一つの転換点にさしかかっている現代の児童文学は、“児童文学とはなにか”という問いを、自らにむかってなげかけることによって、より新しい進展の道をきりひらいていかなければならない状況におかれているのである。一見、非生産的にみえるこの作業を回避して、真の発展はないといっていい。その意味では、この問いはいつの時代においても、くり返し発せられなければならないものであろう。
ところで、“児童文学とはなにか”を追求する方法としては、さまざまなアプローチが考えられる。
たとえば、児童文学がなぜどのようにしてうまれてきたかという発生の観点から、あるいは、児童文学をうみだす作家の資質や条件の視点から、また、おとなの文学と児童文学との比較検討をとおして、いま一つは、名作といわれる児童文学作品を、文学史的に検討することをとおして、さらには、子どもにとって児童文学とはなになのかという、読者の立場からの分析をとおしてなど、いくつかの道すじが予想される。
もっとも、これらの観点については、すでにいくつかのアプローチがこころみられており、すぐれたものが提示されている。だが、それらをみても、なるほど、児童文学というものはそういうものかと、はっきりと納得のいくものは必ずしも多くはない。なにかモヤモヤとして、すっきりしない感じなのである。文学の定義などというものは、もともとそうした性格のものであるのにちがいない。しかし、疑問や納得のいかない面は、できるだけ明確にするにこしたことはない。そこで、まず一つの手がかりとして、もっとも日常的に感じたり、考えたりしている身近なものをとりあげ追求してみようと思う。
わたしたちは、日ごろいろいろな児童文学作品に接して、これは児童文学作品であると直観的に判断をしたり、はたしてこの作品は児童文学だろうかと疑問に思ったりしている場合がしばしばある。その場合に、判断の規準になっているものはなになのだろうか。それは、その作品が読者である子どもに理解できるかどうか、あるいはそのテーマなり、構成なり、表現なりが、子どもにふさわしく、おもしろいものであるかどうかという点にかかわっているといっていいだろう。
こうした判断の規準は、いわば常識的で健全なものであるが、それだけに児童文学を考えるうえで、無視することのできないポイントになっている。それに、この判断の規準は、世界の児童文学の規準である――おもしろく、はっきり、わかりやすい――ということとつながっており、それを基盤として導きだされている。いうまでもなく、この世界の児童文学の規準を、日本の児童文学の世界に定着させたのは、『子どもと文学』(石井桃子他)の仕事であるが、これらの規準が、児童文学を児童文学たらしめている本質的な条件であることは否定することができない。
また、わたしたちは、日常において、人から児童文学とは一口にいってなになのかときかれて、どのような答えを用意することができるだろうか。なかなか簡単に答えることはむずかしいが、ふつうでてくる答えは、「おとなが、子どもを読者対象にしてかいた文学である」ということである。
このような児童文学の“定義”は、すでに「児童文学とは、おとなが、子ども(児童)のためにということを意識して創造した文学である」(国分一太郎)とか、「児童文学とは児童のための文学であります。(中略)すなわち、おとなが制作して、児童に与える童話や童謡のことを、児童文学と言うのであります」(坪田譲治)といったかたちでおこなわれているが、児童文学の創造のさいのことを考察すれば、これらの答えにまちがいはない。これも常識的であるといえば常識的であるが、児童文学についての一つのポイントをついていることはたしかである。そして、これらの“定義”によって、児童文学というものをとらえても、日常的にはことたりるし、特に不便であるということはない。また、児童文学を創造するうえにおいても、格別に不都合なことはないはずである。
しかし、この日常的におこなわれている、児童文学についての思考や認識や判断を、一歩つっこんで考えようとするとき、そこにはいろいろな不明確な面や疑問点が生じてくる。
たとえば、おとなが子どもを意識してかくということは、具体的にはどういうことなのか。ただ、子どものことを意識にとどめるだけで、児童文学というものが創造できるのかどうか。児童文学は子どものためにかくといわれるが、その子どものためということは、おとなである作者の意識のはたらきとどのようにかかわり、どのような位置づけをもっているものなのか。それと関連して、児童文学は、人生におけるどういう力のあらわれとしてうみだされて、かつどういう必然性があって創造されるのか。また、それは時代や社会というものとどうかかわっているのか。作家に即していえば、児童文学というものを、どのような方法でもってかこうとしているのか。そのなかに、なにを表現しようと願っているのか。そして、それはどのようなしくみをもってうまれてくるのか。
これらのことをいいかえれば、児童文学は子どものためにかかれるとはいえ、それは作者の人生の重要な問題と、なんらかのかたちで深くつながってかかれるものであり、そのつながりの実体はどのようなものであるかということである。
このほか、おもしろく、はっきり、わかりやすくということにかかわっていえば、子ども読者にとって、児童文学をよんでおもしろいということはどういうことなのか。それが作者の思想や方法とそう結びついているのか。あるいは、児童文学作品をよんで感動するということは、子どもの生活や心理や認識とどうかかわって生じてくる作用なのか、といった疑問にぶつかるのである。
これらの疑問をあきらかにすることは、正直にいってきわめて困難な作業である。しかし、これをあるていど明確にさせないかぎり、児童文学とはなにかという問いに答えたことにはならないだろう。ただ、ここではキメこまかな分析は別なところにゆずって、一つのアウトラインを提示するにとどめたいと思う。
そこで、これらの問題を追求するために、わたしはつぎのような三つの視点を設定し、その角度にそってとらえてみたいと考えている。つまり、
(1)なぜ児童文学をかくのか――人生のどのような力のあらわれとして、児童文学というものがうまれてくるのかという問題。
(2)どういうしくみで児童文学はうまれてくるのか――作家はなにをどういう方法でかこうとしているのかをとおして、児童文学固有の方法をあきらかにする問題。
(3)子どもにとって児童文学のおもしろさとはなにか――児童文学をよんで、おもしろいと思ったり、感動したりするのはどういうことなのかという問題。
の三つである。
(2)
まず、はじめにあきらかにしなければならないことは、おとなである作者が、なぜ子どものための文学というものにかかわるのかという問題である。この問題を巨視的に考えれば、児童文学というものがなぜ存在するのかということにまでひろがり、児童文学の発生、児童文学の発想、子ども観、児童文学作家の資質などをふくむことになるだろう。そして、これらの問題については、すでにすぐれた見解がだされている。
たとえば、児童文学の発生に関しては、関英雄はつぎのようにいっている。
「資本主義制度の進展と個人の自由の発見、個人の発見の一部としての児童の人格の発見という経過をへて、はじめて近代文学の一翼としての『児童文学』が登場したのだ。それは封建時代の『上から』『おとなから』与えられた物語や歌ではなくて、児童自身の自己解放の欲求に立ってあらわれた文学である。児童文学の心性を内部から掴みうる文学者が、代弁者として、児童にかわって児童の真実を表現したものである。おとなはもはや児童の支配者でなく、教師兼友人となった。ここに発生にからむ児童文学の本質的な性格の一つがある」
この指摘は、児童文学がなぜ存在するかという理由についても説明しているが、この本質的な性格が、時代や社会と深く結びついていることがわかる。
また、児童文学の発想や作家の資質については、古田足日はつぎのように指摘する。
「児童文学をその主要なモティーフによって分類すれば、およそ次の四つに分けられよう。(1)人間の根本的エネルギーに対する関心から生まれたもので『宝島』や『ジャングル・ブック』『十五少年漂流記』などに代表される。(2)子どもという人間存在に対する関心から生まれたもので、『次郎物語』。(3)子どもに話したい、伝えておきたいという気持ちから生まれたもので、『君たちはどう生きるか』。(4)資質から生まれたもので、未明、広介。この四つのモティーフはそれぞれからまりあい、たとえば『トム・ソーヤーの冒険』は(1)と(2)の合したものと考えられる。またファンタジーは(1)と(4)とによっているものと思う」
ここでは、おとなである作者が、なぜ子どものための文学にかかわるのかという発想の根源がよく整理されている。
これらの見解が、児童文学の本質的な性格をあきらかにするうえに有益であることはいうまでもない。その意味では、この面でのさらに深い体系的な分析作業がのぞまれる。
ところで、人生におけるどのような力のあらわれとして、児童文学というものが生まれるのかということを考えるとき、そのもっとも根底をなしているものの一つは、作者の幼少時代の体験であろう。作者の児童文学的資質や気質も、その育ちかたや生活環境と深くかかわっているはずである。幼少年時代における生活体験のゆたかさが、児童文学をうみだすたしかな基盤であることは、日本の近代児童文学の多くの作品が立証している。
「この世で、ねこにもならず、ねずみにもならず、人間として七十九年も生きられたというのは、なんというしあわせなことだったでしょう。そのしあわせの七十九年のうちでも、わたしがいちばんしあわせと思うのは、ということになると、やはり子どもの時代です。そしてわたしが、この七十九年間でいまでもいちばんよくおぼえているのは、その子どものときのことです。七つぐらいから十四、五まで、故郷の村でせみやふなをとってくらした七、八年のあいだの生活です」
これは坪田譲治の最新作『かっぱとドンコツ』の一節であるが、ここには児童文学の創造の秘密のようなものが語られている。このことは、ケストナーが「私の少年小説が世界中の子どもによろこばれているとしたら、それは私が子どものころのことをよくおぼえているからだ」といったことと共通している。この共通性は、児童文学の作者にとって、幼・少年時代がいかに大きな意味をもっているかをしめしている。
おとなは、だれでもその内部に子どもを持っている。子ども時代をくぐって成長しているところでは当然のことである。しかし、その子どもが、つねに新鮮さを保持している人間は数多くない。まして、それを一つの経験として明確にとらえ、表現できる人はすくない。その場合、かかすことのできない条件は、子どもとともに、その子どもを意識するおとながすんでいることである。この条件がかけるとき、そこにもたらされるものは、いわゆる「子どもおとな」的なアイマイさである。もちろん、こうした自己の内部に子どもを確実に所有しているという感覚は、いわば天性的な資質によることが大きい。しかし、幼・少年時代の体験をもとにして、確実な世界としての経験を自分のものとする可能性は、だれにでも許されている。ただ問題は、その経験を明確なものにしていくことができるかどうかにかかっているのである。
いずれにしても、経験という確実さに基盤をおいた作品は、つよいリアリティをもち読者に深い感動をあたえる。それは経験にうらづけられない、抽象的な観念や言葉による作品よりも、はるかに迫真力をもっていることはたしかなことである。幼・少年時代の体験が一つの必然性をもって児童文学をうみだすことは確認しなければならない。だがここから、児童文学ののぞましいあり方は幼・少年時代の体験を、資質によって表現することにあるという結論をみちびきだすことはできない。
では、児童文学の作者たちは、なにをどのような方法でかこうとしているのだろうか。
文学というものが、作家の胸の底に沈んだものを語り表現することによってなりたつとすれば、児童文学にとってもその例外ではない。それが、わが子をふくめた子どもへの愛情とか、これから成長していく子どもへのはげましであるとか、子どものためを思っての伝達といったかたちをとるにしろ、その核をなしているものは、自己の胸の底に沈んだあるものであると思う。この核がぬけては、子どもへの愛情、はげまし、伝達も通俗的な教訓に堕落する。その意味では、児童文学は単純な伝達性の文学ではなく、それはつねにきびしい自己表現によってうらづけされていなければならないのである。そして、その核をなしているあるものは、その人間の生き方にかかわってさまざまであろう。人間存在の原型にたいする志向であったり、純粋なもの単純なものへの憧憬であったり、人生の真実の追求であったり、あるいは社会や現実を変革しようとするエネルギーであったり、人間や集団の理想的なあり方にたいする関心であったりするのにちがいない。
どのようなものであれ、それは作者の人生の重要問題と深く結びついたところで存在しているのである。その基底において、作者の生き方と密接につながっているのでなければ、おそらくそれは文学作品の核になることはできない。もちろん、それらがナマのかたちで、あるいは目につきやすいところで表現されていることがのぞましいというのではない。児童文学においては、テーマ、ストーリー、構成、文体、素材について、単純性、明快性、段階性といった配慮がのぞまれることは、いまさら指摘するまでもないことである。そこにおとなの文学との方法上のちがいがあり、児童文学固有の性格の一つがある。だがそのことは、おとなである作者の、人生の重要問題が児童文学作品に投影することを否定するものではない。むしろ、その投影の独自さのなかにこそ、児童文学の本質的な要素があるというべきであろう。その独自性とは、いうまでもなく、子ども独特の論理や認識のなかに、おとなである作者の人生の重要問題を反映させることにある。鳥越信が、「一般に、おとなの文学と子どもの文学を区別する基準は、人によってさまざまであるが、私の考えでは、その作品の論理が、子どもの論理かどうかの一点だと思っている」といい、関英雄が、「児童文学者はおとなの目と子どもの目の、二重のレンズをもっていて、この複眼に映るものを、〈子どもの目〉にまとめて表現する」といっているのも、このことをさしているのであろう。
たしかに、この子どもの論理は、それを無視しては児童文学として成立しないという意味において、児童文学の本質的性格をなしている。だが、それは本質的な性格の一つではあるが、きめてであるという結論にはならなかった。したがって、子どもの論理をもつことが、児童文学としての最終の目標であるということにもならなかった。
ところで、子どもは児童文学作品をよんで、どのようなところにおもしろさを感じ、感動したりするのだろうか。
なによりもまず、そのおもしろさが子どもの論理と結びついたものであることはうたがうことができない。しかし、おそらくそれだけではないだろう。子どものもっている生活意識や発想や好みは、その時代や社会のあり方によって影響され、一定の傾向なり類型をもっている。その傾向なり類型をとらえることが、おもしろさを感じさせるうえで大きな条件になることは、いまさらいうまでもないだろう。また、伝統や気質や習慣によって形成された感覚や心情も、よむものにつよく訴えかける力をもっている。それと同時に、子どもという存在が本来もっている興味や関心があるはずである。つまり、子どもがおもしろく感じたり、感動するところのカンドコロというか急所のようなものがあるにちがいないと考えられるのである。
一般的には、人間の急所は性と名声欲と嫉妬心にあるといわれているが、子どもの場合は、子どものエゴを拡充してくれるもの、あるいは、子どもの生命が解放され、自由というものを味わわせてくれるものにたいして、もっとも大きなよろこびを感じるのではないだろうか。きわめて抽象的ないい方ではあるが、このことは冒険小説や骨格のたくましいファンタジーに、子どもの心がひきつけられることによっても証明されるように思う。成長の過程にある子どもは、その成長にプラスとなるところのものを、理くつではなく本能的にかぎあて、自分のうちにすいとっていく力をもっている。その力にどう対応し、カンドコロをどうおさえていくかは、児童文学の創作方法にとって重要なポイントである。こうした子どものもっている急所は、ときにはジャーナリズムの商業主義によって通俗的に先取りされ、創造上の圧力ともなるが、基本的には、子どものエゴを拡充し、その生命を自由にむかって解放することは、抑圧された民衆の生命を解放することにつながっていなければならないのである。したがって、これらは、善や理想やヒューマニズムと深くかかわっているが、甘い善意や常識的なヒューマニズムや単細胞的な理想主義とは無縁のものである。人間の急所といわれるものが、つねにみにくい面とうらはらのかたちで存在しているように、子どものエゴの拡充についても、人間の暗い部分、みにくい部分をともにあわせて吸収することによって、はじめて可能になるものである。人間の暗い部分や社会の悪の部分を、最初から排除したところになりたつ児童文学作品が、子どものエゴを拡充することは不可能である。子どものエゴの拡充は、ときには社会秩序や倫理にたいし抵抗し、そのゆがみを訂正するためにたたかうところまでいきつかなければならないのである。
児童文学の本質的な規定として、「児童文学は本来的に理想主義の文学である」とか、「向日性の文学である」とかいわれているが、理想主義、向日性という言葉の意味するものをアイマイにしたところでは、この規定をそのまま認めることはできない。だから、善や理想をえがくことが、児童文学にとって最上の道であるという結論も、にわかにひきだすことはできないと考えている。鳥越信は、理想主義について、「理想主義ということばは、本質的に秩序だったものであったり、必然的に人間の暗い部分、世の中の悪を排除するものではない。逆に、秩序を破壊し、人間の暗い部分をひきずり出して、それをよりよく変えていこうとする働きをもつもので、その意味では、理想主義はまさに〈変革の意志〉とつながる」といっているが、こうしたとらえ方であれば納得ができる。
いずれにしても、児童文学の作者は、子どもと結びつく場所で仕事をしなければならない。それは児童文学にとって基本的な執着である。本質的なものもそこにおのずから形成されることはいうまでもない。しかし、わたしはそれをきわめて消極的なかたちでしか提示することができなかった。このことは、わたしの現在の立場が、児童文学の独自性を強調するよりも、文学という大きなワクのなかでの共通性により大きな関心をおぼえていることに由因している。いまのところ、わたしは児童文学とはなにかを答えるためには、文学としての共通のものをしっかりとみきわめたうえで、あらためてその独自なものへアプローチしていく道をとりたいと考えている。
(「日本児童文学」昭和四十五年九月臨時増刊号〈児童文学読本〉掲載)
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