『横谷輝児童文学論集2』(横谷輝 偕成社 1974.08.14)
プロレタリア児童文学運動とはなにか
−その成果と欠陥−
(1)
プロレタリア児童文学運動は、日本の児童文学の歴史のうえで、どのような意義をもっているのか。その運動が提起した問題とはなにか。それは文学運動として、どのような成果と欠陥をもっていたのか。あるいは、この運動が日本の児童文学につけ加えたものはなにであったのか。これらの問題については、すでにいくつかの見解や評価がだされている。ただ、それらはいまのところ、仮説の域をでていないのが実情で、プロレタリア児童文学運動はほとんどみるべき成果を、うみだすことができなかったという説から、この運動が提起した問題をぬきにして、今日の児童文学もとらえることができないという主張まで、さまざまな手さぐりがおこなわれている段階である。したがって、その本格的な追求検討は、今後にゆだねられている。
こうしたプロレタリア児童文学運動にたいする、研究、分析のたちおくれには、たとえば、運動に関する資料の不足や不整備、あるいは、多くの人びとに親しまれるような作家や作品のとぼしさ、それに関連しての関心の低さ、また、運動の内部にみられたはげしい分裂と統一のくりかえしが、なにかとりつきにくい複雑さを印象づけていることなど、いくつかの要因のからまりをあげることができる。
しかし、だからといって、プロレタリア児童文学運動が提起した問題を、軽くうけとめたり無視していいということではない。さいわい、その空白の部分にクワを入れようとする動きが、最近になってあらわれはじめており、一九七〇年九月、子どもの文化研究所内に「プロレタリア児童文学研究会」が発足して、毎月一回定例の研究会がつみかさねられている。その結成趣意書には、「プロレタリア児童文学運動の評価いかんにかかわらず、この問題をさけてとおることは、日本の児童文学史を正しく把握することにならず、今日の児童文学の問題をとらえることができないといっていいでしょう」とうたわれているが、たしかに、わたしたちは、プロレタリア児童文学運動やそこにふくまれている問題を、このむとこのまざるとにかかわらず、拒否したり回避したりすることは許されないのではないかと思う。なぜなら、プロレタリア児童文学運動は、一口にいって、日本の児童文学が近代化し民主化していく過程であり、どうしても一度はくぐらなければならない性格のものであったと考えられるからである。
(2)
ところで、プロレタリア児童文学運動は、大正十五年六月当時の大衆的政治新聞であった「無産者新聞」に、「コドモのせかい」欄が設けられた時をもってはじまったというのがいまのところほぼ通説になっている。槙本楠郎は『日本プロレタリア児童文学の発達』(『プロレタリア児童文学の諸問題』所収)において、その時期の区分をおこない、「第一期前期−自一九二六年六月至七年十一月。(日本プロレタリア芸術連盟員によって『無産者新聞』に童話が書かれた時に始まり、二七年六月同連盟の分裂、労農芸術家連盟の創立、同年十一月同連盟の分裂まで)」と記述している。
つまり、大正十五年六月十二日の発行の「無産者新聞」(第三十二号)において新設された「コドモのせかい」欄に、日本プロレタリア芸術連盟に参加していた若き作家の、鹿地亘、久板栄二郎、小野宮吉らが、無署名でもって「我国最初のプロレタリア児童を対象とする新作童話を掲載した」(同上)のである。そして、その新設の動機について槙本楠郎は、「ヨリ大衆化を具体化するため」という鹿地亘の言葉を引用するとともに、「当時わが国プロレタリアートの全視聴を集めていた新潟県木崎村の農民小学校新設問題が、相当これに刺激をあたえたものと観られる」と分析している。
このような見解は、菅忠道の『プロレタリア児童文学運動の展開』(『日本の児童文学』所収)においても採用されており、“プロレタリア児童文学の成立”の項では木崎村の小作争議からかきおこされている。ここで菅忠道は「この小作争議では、八百の農民子弟が小学校を同盟休校して争議に参加した。争議団では自主的な農民学校を開き、ブルジョア的教化を拒否するという戦術に出た。(中略)そこでは、なによりもプロレタリア教化に役立つ教材の必要が痛感された。そういう必要にこたえる意味もあって」「コドモのせかい」欄が設けられたと、その考えをのべている。
いま、これらの通説の適否を判断するための準備も力も、わたしにはないが、ここで留意しなければならないと思うことは、この出発点において、プロレタリア児童文学運動がもっていた基本的な構造の一部が、はっきりとあらわれているということである。それは、プロレタリア児童文学が、プロレタリア児童の教化の必要性から、プロレタリア文学にたずさわる作家によって、かかれてきたという事実にしめされていた。プロレタリア児童文学が、「なによりもプロレタリア教化に役立つ教材の必要」から、農民闘争のなかでうみだされたことは、当然の成行きであると同時に、プロレタリア児童文学運動の性格を、その発生において規定する作用をも、もたらしたといっていい。ただ、そうしたある意味での性急さが、プロレタリア児童文学にとって、マイナスの効果をうんだことは、否定することのできない事実である。
たとえば、それは「コドモのせかい」欄に発表された作品を批判した、槙本楠郎の文章にもうかがうことができる。
「この全作品を通じて言い得られる事は当時此等の作家が殆ど階級的児童文学理論を持たず、従って何等の用意も準備も無く、イージーなる態度で従来の童話形式を踏襲し、僅かにプロレタリア的、又は唯物史観的観方を表現しようとし、且つ発表したに過ぎぬと言う事である」(『日本プロレタリア児童文学の発達』)
いずれにしても、プロレタリア児童文学がその発生において、児童文学そのものの内的、主体的な成熟をまたずに、うまれてきたところに、この運動の大きな特質の一つがあったとわたしは判断している。
いま一つの特質は、プロレタリア児童文学が、児童文学作家ではなく、プロレタリア文学の作家によってかかれたことにもみられるように、それはプロレタリア文学の一環として、幅広い流れのなかに位置づけられたことである。もっとも、その背景にはもっと大きな大正デモクラシーの流れがあり、その時代思潮のなかで大正八年には、堺利彦、山川均らが「新社会」において、マルクス主義の旗印を公然とかかげ、大正十年に創刊された「種蒔く人」では、意識的なプロレタリア文学の確立がめざされ、翌十一年には、日本共産党が非合法のうちに結成されるなど、政治、思想、文学の領域において、しだいにマルクス主義が浸透していくという動きがあった。こうした動きの一環として、プロレタリア児童文学運動が生じたことはいうまでもない。それだけに、プロレタリア児童文学が、その出発当初からせまい特殊性のワクにとじこめられず、広い視野がひらかれていた意義は、けっして小さくないといわなければならないだろう。だが、時代の流れと、児童文学の内的な発展のスキ間にひきおこされた不均衡は、逆な側面でのせまさを、プロレタリア児童文学にみちびきいれる結果になったことも考えておかなければならないと思う。
以来、プロレタリア児童文学運動のあゆみは、この不均衡をどう克服して、階級的児童文学理論と、プロレタリア児童文学にふさわしい創造活動を確立していくかをめざす、くるしいたたかいの過程であったといえる。
昭和二年六月号の「文芸戦線」に設けられた「小さい同志」欄、翌三年一月に創刊された前衛芸術家連盟の機関誌「前衛」の「コドモノページ」欄、あるいは、日本プロレタリア芸術連盟の機関誌「プロレタリア芸術」などは、プロレタリア児童文学の育成の場となり、それらを舞台にして、意識的な追求がおこなわれた。たとえば、昭和二年八月にプロレタリア芸術連盟に加入した猪野省三は、「プロレタリア芸術」に、“ドンドン焼き”“ハクション婆さん”“にぎりめし”を発表し、同年十月労農芸術家連盟に参加した槙本楠郎は、“メーデーごっこ”(文芸戦線)や“手まり唄”“飛びっこの唄”(前衛)などの童謡を中心にした作品活動をおこなった。ここにおいて、いわゆるプロレタリア児童文学の専門作家が登場し、その活動がようやくみられるようになったのである。
また、運動面、組織面では、めまぐるしいほどの分裂、統合をくりかえしながら、しだいに芸術戦線の統一がはかられるようになっていた。すなわち、昭和三年三月には、日本左翼文芸総連合が結成されて、反戦、反軍国主義を主題にした、作品集『戦争に対する戦争』を刊行し、小川未明の童話『野ばら』が掲載されている。また、同月には、日本プロレタリア芸術連盟と前衛芸術家同盟の合同がまとまり、全日本無産者芸術連盟(ナップ)が発足し、機関誌「戦旗」も創刊されて、プロレタリア児童文学に関心を持つ、多くの人たちがそこに結集した。
こうしたプロレタリア文学運動における、戦線統一の気運の高まりは、プロレタリア児童文学運動にも強い刺激をあたえ、昭和三年十月に、「日本の児童文学史上に画期的な意義をもつ」(菅忠道)新興童話作家連盟の創立をみたのである。それは、
「本来、児童文学作家の役割は、児童を一切の害悪より庇護し健康なる成長を遂げしむるにある。今やそれをなし得るものは我ら反資本主義児童文学作家のみである。ここに我らは、我らの役割をより強力ならしめんため、新興童話作家連盟を組織し、多彩にして芸術価値ある児童文学の制作普及に努力し、以て教化戦線の一端を受け持つものである」(声明書)
という目標のもとに、リベラリスト、アナーキスト、コミュニストをふくむ、反資本主義的立場にたつ、幅広い作家の結集体であった。このような児童文学作家の統一戦線体は、戦後まもなく結成された児童文学者協会のそれに匹敵するもので、その組織面での意義はたしかに大きいものがあったといわなければならない。そして、新興童話作家連盟は、昭和四年一月に機関誌「童話運動」を創刊し、作品の創造、評論、理論活動、運動、組織のあり方などをめぐって、意欲的な活動を展開していった。しかし活動が具体的な進展をみせるにともない、しだいに思想的な対立が表面化し、やがてコミュニストだけの集団に、実質的に形づくられていったのである。これらの事情を反映して、「童話運動」は十二号までで廃刊となり、それは昭和四年二月、旧ナップ文学部が日本プロレタリア作家同盟として再出発したのを契機に、「戦旗」や「少年戦旗」にひきつがれていくことになる。
ところで、こうした活動のなかで、今日まず検討しなければならない成果は、槙本楠郎の理論活動であるといっていいだろう。
(3)
槙本楠郎が、昭和三年、四年にわたっておこなった理論、評論活動の成果は、昭和五年に世界社から出版された評論集『プロレタリア児童文学の諸問題』にまとめられているが、そこでもっとも大きな関心がはらわれているのは、階級的な観点から、児童文学および児童を、どう把握するかという問題であった。
「元来児童の心、児童の世界は天真爛漫、純真無垢、恰も白紙の如く天使の如く、無階級、超階級的のものと看倣されていた。しかしそれは甚だ概念的な、そしてあまりに詩的空想化、宗教的偶像化、無智による迷信的神聖化に過ぎなかった。尠くも現在の如くクッキリと『大人の世界』が階級的対立を示し、刻々にその闘争の尖鋭化し白熱化しつつある場合には、児童もいづれかの階級に属せずには生きて行けない。いずれかの母(階級人)の乳を飲まずには成長は出来ないのだ。即ち児童の生活、児童の心の国にも階級的相違のある所以であり、また児童そのものに階級の有る所以である。而して彼等児童も今やその父母同胞と共に力を合して闘いつつあるのだ」(プロレタリア児童文学の提唱)
「児童文学も大人の階級文学同様(無論両者の表現形式、内容、等々の相違は認められるが)結局芸術特有の機能に依る階級的役割−『階級的生活感情の組織化』の任務を使命付けられ、果さざるを得なくなるのである。即ち支配階級的奴隷的観方、考え方、感じ方を断然排撃し、吾々無産階級の真に『正しき世界観』へと導く−その事は『正しき行動』へと導く事以外では無いのだから。これこそプロレタリア児童文学−児童を対象とするプロレタリア文学の一分化−の最初にして最後の任務であり、使命であり、また目的であり、更に又これ故に存在意義を主張し得られる所以でもあらねばならぬ」(プロレタリア児童文学の理論と実際)
これらの文章には、槙本楠郎の当時における児童観なり児童文学観が、それなりによくあらわれており、必ずしも具体性にとんでいるとはいえないにしても、階級的な観点は明確にうちだされている。特に、大正期の児童文学にみられた「子どもは天使である」といった、超階級的な児童観や、童心芸術論にたいしてきびしい批判を加え、児童文学の階級制、社会性を、原則的に解明したことは、プロレタリア児童文学運動の成果の一つとして評価しなければならないと思う。
言葉をかえていえば、大正期の児童文学は、子どもを孤立した個人としてとらえようとするものであり、プロレタリア児童文学は社会関係のなかで子どもを追求しようとするものであった。
槙本楠郎の理論活動の、いま一つの特徴として、見のがしてならないことは、児童文学と政治との関係を原則的に規定しようと努力したことである。そこでの公式的、画一的なかかわりを拒否し、より本質的なあり方を求めようと努力したといっていい。それはたとえば、つぎのような文章からも推測することができる。
「レーニンは吾々の芸術に対して、飽まで革命のスローガンを大衆化することこそ真の役目である事を教えている。然しこれは断じて『公式的』に考えられてはならぬ。即ち児童を対象としての形象的表現を生命とする芸術は、露骨な左翼的スローガンなどを露出することによって、ヨリ積極的、ヨリ効果的作品であり運動であるなどと考えられてはならぬ。問題はもっと根本的な教化(煽動、宣伝、組織)を意味する」(プロレタリア童話運動に就ての走り書)
また、児童心性の特殊性や児童文学の特殊性を、特に重要視しようとしたことも、そうした姿勢から必然的に導きだされたものにほかならない。
「一般的にいって、児童は感覚によって生ずる所の認識である知覚が、大人よりも貧弱で不確実で、全体的に精細味を欠いている。それ故ややもすれば空想に走り、現実を脱却して仮象の世界に没入し、而してその世界を真実であると思い込む心的様態を多分に持っている。(中略)プロレタリア児童芸術運動上のリアリズムを協調し、もし一切の児童芸術中から『空想性』乃至『非現実性』を追放せんとする者あらば、これ正に角を矯めて牛を殺すの愚を犯すものである。のみならず、前述の児童の心性(空想性、非現実性)を無視して、どこにリアリズムが有り、またどこに児童芸術の対象を求め得られるというのだ」(同上)
これらの主張は、今日でもその妥当性を失ってはいない。しかし、問題はこれらの理論を、どのような方法によって実作のうえに実現させていくかであった。上述の文章には、たしかにリアリズムについての認識の深化はみられるが、創作方法としてのリアリズムの検討は、あまり深められることはなかったのである。それは、「児童に知覚認識せしむべき事物、現象等は余りに急速度、急角度の展開又は方向転換をしてはならない。また事件の変化が余りに単調であったり、理解を困惑せしめるほど頻繁であってはならない」といったごく初歩的な表現技術上の指摘にとどまり、創造主体の自己変革や、先行する文学遺産の継承をもふくめた、本格的な方法の追求は、ほとんどなされなかったといえる。そこでは理論と実作のあいだに、大きな距離が生じるのはやむをえないことであった。さきにもあげたような、「文芸戦線」「前衛」「プロレタリア芸術」「少年戦旗」「童話運動」に発表された作品群が、テーマの積極性や大衆的な形式においてそれなりの達成をみせながら、作品そのものが生硬な観念や主観の表出、おしつけにとどまらざるをえなかったのは、表現や方法に成熟したものをもつことができなかったからである。そして、さらにわるいことは、そうしたプロレタリア児童文学のもつ創作方法論−リアリズム−のひよわさは、露骨なスローガンの公式的な表現を排除しようとする正当な意図にもかかわらず、結果においては、創造面、理論面で、イデオロギーの教条的な摘要をふせぐことができなかった。これは槙本楠郎が、昭和五年にかいた『プロレタリア児童文学の根本問題』のなかの、つぎのような文章にみることができる。
「プロレタリア児童文学の内容とするイデオロギーは、如何なるものでなければならないか? それは『革命的プロレタリア児童のイデオロギー』である−と答えられる。更により正確に答えるなら、『大人達の、即ち−国際プロレタリアートの世界的な、単一の、有機的な機構に自らを結び附け、広汎な農民を自身の同盟者とし、プロレタリアートの革命を目標として進みつつある、その大人の、その革命的プロレタリアートのイデオロギーへと、急速に成長発展しつつある、革命的プロレタリア児童のイデオロギー』である−と言える」(「新興教育」昭和五年十一月号)
ここには、槙本楠郎が批判したはずの、露骨なイデオロギーが、プロレタリア児童文学の内容として臆面もなく顔をだしているのである。そこでは現実の子どもを客観的にとらえようとする視点や姿勢が、全くといっていいほどみられない。ただあるのは、性急な教化意識だけである。こうした主張は、ある意味で槙本理論の矛盾といってもいいが、そこにはそうなるだけの要因がかくされていた。つまり、それは昭和五年六月に、日本プロレタリア作家同盟がおこなった「芸術大衆化に関する決議」を、そのまま機械的に児童文学にも適用しようとしたところに生じた矛盾であった。ここにも、児童文学独自の理論追求のよわさと共に、政治の大きな状況のなかでともすれば足をすくわれ、なかなか文学的な成熟をはたしえないむずかしさがみられるのである。
ここで考えてみなければならないことは、プロレタリア児童文学運動を形成していた、コムミュニズム系とアナーキズム系の二つの運動のうち、後者のプロレタリア童話運動の主張についてであろう。
アナーキズム系のプロレタリア童話運動は、昭和四年十二月、さきに新興童話作家連盟を脱退した小川未明を擁して、自由芸術家連盟が結成されたときから、はっきりとしたかたちをとるようになった。この組織は翌年三月に、機関誌「童話の社会」を創刊し、「功利と強権の具より芸術を解放し、芸術独自の、機能を発揮して、社会と人心を向上し、純化せしめん為めに我等此処に、童話と童謡の革新を期し、自由芸術家連盟を成立せり」という宣言のもとに、その活動を開始したのである。このアナーキズム系の立場は、次の小川未明の文章にもよくあらわれている。
「すべて強圧から解放して、性情を擁護し、その発達を遂げしむるところに、新興童話の任務があり、存在の意義がある。この理由からして、童話は、独り、児童のための文学ではないだろう。また、成人の読むべき文学でもあるという主張は、成立するのだ。(中略)かのボルシェヴィズムを信ずる一派が、新興童話の名の下に、児童等を階級闘争の戦士たらしめんとする。闘士たることの悪いというのではない。それが、自からの意志であり、自由に選ばれたる確信であるなら、真に、それを革新の熱火と見做すことができる。しかし、それが強制であり、目的意識のために、認識なき者への指導であったなら、資本主義的暴力の児童を毒すことを憎む我等は、同じく、これをも否とし戦わなければならぬ」(『新興童話の強圧と解放』昭和四年八月)
これらの主張や発想にみられる特色の一つは、強圧という言葉にもあらわれているように、政治の優位性にたいする根強い反撥である。いま一つは、文芸の独自の形態として“童話”を考え、児童文学を一般の文学にまで発展させるところに、新興童話の存在意義を認めていること。もう一つは、新興童話にふさわしい、童話そのものの革新をめざそうとすることにあった。しかし、そのなかでももっとも重点がおかれていたのは、政治の優先にたいする批判抵抗であったことはいうまでもない。性急なイデオロギーの注入にたいして、それを批判し抵抗することは、今日ではごくあたりまえのことにすぎないが、ただ当時の状況のなかで、そうした言動が実質的に、芸術至上主義への逃避に傾斜していくことは避けることができなかった。そして、ここでの運動でも、児童文学独自の理論や方法はほとんど深められず、作品は観念的、理想的なさけびだけに終ってしまっている。むしろ、逆にマイナスをもたらし、児童文学と一般の文学の差異を無視して教化意識を警戒するあまりに、かえってその独自性をアイマイにする結果になったのは皮肉なことであった。だが、コムミュニズム系の運動が、プロレタリア児童への教化を露骨に志向したのにたいして、アナーキズム系の運動は、すべての子どもを対象に創造活動をしようとしたことは、理想的すぎる面があるにしても、その妥当性は評価していいと思う。だからといってプロレタリア児童文学運動におけるこれら創作方法のさまざまな弱点を、運動内部にだけ原因を求めることは正当ではない。そうしたゆとりが許されないほど時代の動きが激しく、政治との対決がきびしかったという外的条件も、十分に考慮していく必要があるだろう。
(4)
プロレタリア児童文学運動の成果と欠陥を、一、二の側面にふれて考えてきた。このほかにも労農少年運動や教育運動との結びつき、運動論や児童文学における統一戦線の問題、あるいは具体的な作品論へのアプローチなど検討しなければならないものは、数多くのこされている。そうした作業なしにプロレタリア児童文学運動をトータルにおいてとらえることはできないが、その仕事は後日にゆずるしかない。だが、上述した面からだけいっても、プロレタリア児童文学が、日本の児童文学につけ加えたものは、けっして小さいものでなかったことは理解されると思う。
ここでいま一度、プロレタリア児童文学運動が果した役割とその欠陥を、かんたんに整理してみると、
(1) 児童文学および子どもという存在の、階級性、社会性をあきらかにしたこと。
(2) 児童文学と政治の関係の原則を規定したが、児童文学の主体的な条件が成熟しないところでは、性急なイデオロギーの先行が目立ったこと。
(3) 児童文学および児童心性の特殊性が重視されたことは成果であるが、創作方法論が深められなかったため、実作のうえにそれが反映しなかったこと。特に子どもをふくめた社会を追求するリアリズムの検討が不足していた。
(4) 児童文学における教化意識や主題の積極性が重要視されたが、結果的には観念のさけびにおわり、十分な文学的表現があたえられなかった。
(5) 子どもの生活や子ども大衆との結びつきが強調されたが、その具体的な方法は見出すことができなかった。
(6) 創造主体の自己変革と、プロレタリア児童文学運動との統一を明確にすることができなかったこと。
(7) 文学遺産の検討、継承が十分でなかったこと。
(8) 児童文学における統一戦線が結成されたことは画期的なことであったが、同時にセクト主義による分裂がみられたこと。
細密にみていけばまだいくつかのことが指摘できると思うが、これらの多くは、今日なお解明されなければならない問題でもある。その意味では、今日の児童文学はプロレタリア児童文学が提起した問題の延長戦上におかれているのである。現代の児童文学が、子どもをどう解放していくことが可能かという基本的な課題をつきつめるためにも、わたしたちはプロレタリア児童文学運動がもたらした成果を、批判的に継承し、いっそう成熟したかたちで発展させていかなければならないと思う。
(「日本児童文学」昭和四十六年十一月号掲載)
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