あとがき大全26

【児童文学評論】 No.67    2003.07.25日号

           
         
         
         
         
         
         
    
1 翻訳家の位置
 図書館や文庫の関係でたまに講演に呼ばれることがある。よく翻訳家なんぞ、呼んでくださるものだと、半ば感謝しつつ半ば驚いている。ぼくなら翻訳家の講演なんかまず行かない。好きな詩人や作家の講演なら飛んでいくけど(というのも嘘で、好きな詩人や作家の詩や小説を家で読んでいたほうがいいような気がする)。そして好きな詩人や作家なら、どんなにつまらない内容であっても許せる(というのも、ちょっと嘘かもしれないような気がするけど)。
「あのこないだロスにいったんですけど、そしたらやっぱり……というわけで、ビバリーヒルズの超一流の美容整形医とエステを予約して……いえ、美容整形といっても、顔を直すわけじゃないんです。いまロスで話題になっているのは、ほら、あの、ナントカ菌を注射して皺を消すやつ……同行の女性編集者は、八00ドル出してさっそくやってもらって……」
 というふうなことを、林真理子が話したとする(『美女入門PART3』の文章を適当にアレンジ)。林真理子の作品が好きで、講演をききにいった人はそれでいいんだろうと思う(ぼくは、好きじゃないからいかないけど。ちなみに「ナントカ菌」は「ポツリヌス菌」らしい。興味のある方は陶智子の『不美人論』〈平凡社新書〉を)
 あるいは、井伏鱒二が「いやあ、昨日静岡からいいお茶を送ってもらって……その、いいお茶というのは……」と具合に延々と話しても、井伏ファンにとっては、それでいいんだと思う。あるいはメダカを釣る釣り竿をどうやって作るかとかでもいいんだと思う。
 詩人や作家を、アイドルとかスターとか有名スポーツ選手に置き換えれば、もっとよくわかる。あこがれの人が、演壇に立っている、目の届くところにいる、ただただそれだけでいいのだ。必ずしも司馬遼太郎のような内容のある話をしなくてもOKなのだ。
 ところが、翻訳家が演壇に立つ場合、聞きに来た人々の目はかなり冷めている……ような気がする。「加賀の棒茶は、茎の部分を使った最高のほうじ茶で、これがとても甘い香りがして、これを焙じているとミツバチが寄ってくるとか……」というふうな話でもしようものなら、「あんたがどんなお茶を飲んでようが、あたしの知ったことじゃないわよ。もっと実のある話をしなさい」という冷ややかな反応が返ってきそうな、そんな雰囲気が会場に充満している……ような気がするのだ。
 だからぼくなんかは、本好きの人々の集いの場に招待されて、そこでなにか話をする、というだけで、百二十%緊張してしまうのだ。そして、なにかおもしろいことを、なにか楽しいことを、なにか印象に残ることを、なにかあとで話のネタになりそうなことを話さなくてはという強迫観念に襲われてしまう。といって話せることといえば、当然のことながら翻訳のことしかない。
 そしてあれこれ徹夜で考えて、九十分の講演を終えたあげく、「なんか、一生懸命なのはわかったけど、はっきりいって、つまんなかったぁ。だって、翻訳の話ばーっかりなんだもん」という反応がもどってきたりする。
 翻訳家はなぜかA型が圧倒的に多い。「気遣いと気配りと思いやり」のA型である。JRの改札を出る十分前には切符を確認して、しっかり利き手に握るA型である(改札にたどり着く頃には切符は汗でふにゃふにゃになっている) 律儀でまじめで、おもしろみのないA型としては、一生懸命、自分の仕事を語るしかないのだ。SF作家と東大の理IIIにA型が圧倒的に少ないという噂も、十分にうなずける。たしか、多いのは(A型の天敵の)B型だっけ。
 それでなにがいいたいのかというと、やっぱり、翻訳家の講演はおしなべてつまらないだろうということだ。
 橋本治がかつて「若者」を「立場なき人々」とくくったように、翻訳家というのも「立場なき人々」なのだから。ある意味、ヤドリギかコバンザメのようなものかもしれない。当然ながら、いつまでたっても独り立ちできない人々なのである。
 もちろん、常盤新平や田中小実昌(肝不全で亡くなったらしい)みたいに、編集や翻訳をやっていて、やがて作家やエッセイストになる人もいないことはない。あるいは作家がアルバイトとして翻訳をする場合もある。福永武彦はポーの詩を訳す一方で、日本の古典を現代語に訳しているし、もちろん川端康成も日本の古典を訳しているし、菊池寛もキプリングの作品を訳しているし、芥川龍之介もそうだし(たとえば、芥川が訳し始めて途中で自殺して、そのあとを菊池寛が受け継いだ翻訳物に『不思議の国のアリス』がある。ついでにいうと、三島由紀夫も『アリス』の子ども向けの抄訳をやっていて、あかね書房から出ている。ちょうど短編「真夏の死」を書いていた頃だ)大佛次郎も大岡昇平も、田村隆一も灰谷健次郎も、いやいや、森?外も(『マクベス』『即興詩人』)……とにかくたくさんの作家が翻訳に手を染めている。
 しかし翻訳一本でやっている人々もいるわけで、こちらはどうかというと、どうしたって、原作者あっての翻訳者、作品あっての翻訳なのだ。そして原作者と作品の持つ力はとてもとても強い。
 たとえば、日本でベストセラーになった翻訳物を読んでみたら、ずいぶん日本語がひどかった……という経験をした方は少なくないと思う。しかし、原作の持つ力が大きければ、少々、日本語がひどくても、つたなくても、その魅力は十分に読者に伝わるのだ。小説というのは、そういうものなのだ。やっぱり、「圧倒的な力」があるかどうかにつきるのだ。そういう作品の力は驚くほど強くて、少々の翻訳のつなたさくらいは、難なく超越してしまう。ぼくなんか、翻訳をやっていて、何度、その「力」を痛感させられたことか。
 と、以上のことをまとめれば、原作が圧倒的な力を持っている場合には、少々翻訳がまずくても、その魅力は十分に読者に伝わるということであり、また、翻訳家がいくらうまくても、もともとの作品がつまらなければ、どうしようもないということにつきると思う。
 考えてみれば、翻訳がひどいけどベストセラーになった本はずいぶんあるけど、原作がひどいけど翻訳がすばらしいのでベストセラーになった本は一冊もない。
 江國香織の書いた本はすべて知ってる人はいるけど、金原の訳した本をすべて知っている人はいない。他方、村上春樹訳の本は読んでいる人はかなり多い。
 その意味で、翻訳家は影の演出家なのだ。といっても芝居の演出家なんかとはまったく違う。たとえば「蜷川演出の『オイディプス王』」というのは宣伝文句になるけど、「金原翻訳の『オイディプス王』」では宣伝にならない。「村上春樹翻訳の『オイディプス王』」は十分に宣伝になる。そういえば、『ライ麦畑でつかまえて』が村上春樹の新訳で出た。
 とまあ、以上のようなわけで、あたりまえのことだが、翻訳家というのは際だった存在ではないのだ。といってこれは愚痴ではない。ぼくの場合、そういう立場がかなり快くて、だからこそもう二十年近く翻訳を続けているらしい。

2 翻訳家を志す人々に
 翻訳家になるには……という質問をよく受けることがあり、また、娘が(息子がという例はいまだかつて一度もない)将来翻訳をしたいといっているのだが、大学はどういうところにいけばいいのか……という質問を受けることもある。そこでいくつかアドバイスを。
 まず翻訳で食べていくのはかなり厳しい。たとえば、原稿用紙300枚くらいの小説を訳すとする。本の定価が1200円で、初版部数が5000部、印税率が6%とすると(児童書の場合6%くらいが多く、一般書の場合は8%くらいが多い)、訳者に入ってくるのは36万円。
 訳す速さは人によってそれぞれだが、工程はだいたい同じだ。つまり原書を読む、ざっと訳す、原文とつきあわせて抜けや誤訳がないかチェックする、最初から読み直して訳文(日本語)をチェックする、編集に渡す、編集・校閲からチェックされた箇所を直す、あとがきを書く、印刷屋からきたゲラをみる(初校)、また印刷屋からきたゲラをみる(再校)……とまあ、これが一般的な工程。まず二ヶ月はかかるだろう。ということは、年収は216万。もちろん、本が売れて増刷になった場合には、増収になる。が、あまりあてにしないほうがいい。ぼくの場合、訳した本のうち三分の二以上は初版でとまっている。それも、時間のかかった力作のほうが初版で終わる可能性が高い。その代表的な例が『満たされぬ道』。そういえば、こないだ訳した、やけに手間と時間のかかった『神の創り忘れたビースト』も、その道をたどりそうな気がする。
 この収入では生活はかなり苦しいものにならざるをえない。そのうえ、翻訳というのは、翻訳さえやっていればいいというものではない。出版社から、次々にリーディングを頼まれる。つまり原書を読んで、その要約をまとめ、感想をそえるという作業だ。そしていい本にあたって、編集部が出版を決めれば、たいがいその翻訳を頼まれることになる(が、これにも例外があって、自分が要約をまとめたにもかかわらず他の訳者に回ることがないわけではない。ぼくも何度かそういう目にあっている。まあしょうがない)。そのリーディングという作業に対しては、一冊1万円から3万円くらいのリーディング料が支払われる(出版社によってまちまち)。翻訳よりもさらに分の悪い仕事である(たとえば、原書一冊リーディングして図書券5000円分とか、数十頁の挿絵入りの本のラフな翻訳をやって1000円とか)。難しい英語で書かれた分厚い本がきたりすると、一週間から二週間くらいかかることもあるかもしれない。それでリーディング料が2万円くらいだったりすると、マックドナルドのバイトの時給どころではない。
 そのうえ、翻訳者の場合、会社につとめているわけではないから、様々な手当てが出ないし、保険も国民保険、万が一病気やけがで倒れたら、そのまま収入は0。もちろん、失業保険は出ない。
 というふうなことを考えれば、翻訳一本で暮らしていくというのがいかに大変かがわかってもらえると思う。実際、ぼくが教えていた翻訳講座から育った翻訳家のなかで、翻訳一本で食べていっているのは、数えるほどしかいない。ほとんどは主婦の方か、家事見習いの方だ。そして圧倒的に女性が多い。
 となると、翻訳家を志す場合の選択肢は限られてくる。
・まず経済的に安定する道を探し(暇で楽で高給の会社に勤めるとか、高収入の配偶者を得るとか、お金持ちの養子になるとか)、そのうえで翻訳をする。
・極貧にたえる覚悟で、ひたすら翻訳道を突き進む。
・文学翻訳はやめて、ビジネス翻訳や技術翻訳の道を進む(こちらは、かなりの収入が保証されていて、身を粉にして働けば年収1000万以上も夢ではない……らしい)
 ともあれ、「お金は二の次です」というスタンスが必要なことはいうまでもない。
 ここで作家と比較してみよう。一般に作家は翻訳家よりも収入が多いのか? どうもそうではないらしい。かつてある作家に「いわゆる自称作家の年収の平均は250万いかない」といわれたことがある。一方、「翻訳の世界」の特集で「いわゆる自称翻訳家の平均年収は320万くらい(おそらく技術翻訳などもふくめて)」という記事があったような記憶がある。ちなみに、うちの創作ゼミのOBで現在、電撃文庫で活躍中の古橋秀之(『ブラックロッド』で電撃大賞受賞)と秋山瑞人(『猫の地球儀』がこのところのヒット)のふたりは、年収300万〜350万くらいだと思う。
 しかし作家はいいのだ。作品そのものが自己表現でもあるのだから。評価されれば、それは自分の実力なのだ。翻訳家は、その訳書が評価されても、それはもとの作品に対する評価であって、訳者の評価にはつながらない。
 いってみれば、翻訳というのはある意味で技術職なのだと思う。ところが一般の技術職とちがうのは、技術があがっても、収入はあがらないということだ。たとえば、漆塗りの職人さんがうまくなれば、それに応じて、漆器の値段もあがる。つまり腕をみがくことが収入の増加につながり、余裕ができて、さらにいい仕事ができるようになる。ところが、翻訳の場合はそうではない。たとえば、「金原さん、最近ずいぶん翻訳うまくなったよね。だから今までは印税率8%だったけど、次からは10%にしてあげよう」という出版社は皆無である。たしかにある程度やっていると、翻訳をする速度はあがっていくが、それも限度がある。いや、いろいろわかってくると、かえって翻訳とか日本語とかについて考えるようになって、速度が落ちてくることもある。
 以上のようなことを考えてくると、とりあえずはまだ男性社会である日本において、好きで翻訳のやれる人間はほとんどが女性であるということになる。げんに、二年間ほど、タトルの翻訳講座で教えてきたが、のべ二十名弱の受講者の全員が女性だった。一クラス八人くらいの少人数制で、半年に一度広く募集して選抜試験をするのだが、のべ100人以上の応募者のうち男性は一名のみ(残念ながら、あまり点数がよくなかったので、涙をのんで落とさせていただいた)。理由は説明するまでもないだろう。
 現在、日本の翻訳業界はほとんどを女性が占めているし、この傾向は年々強くなってきている。新刊の翻訳書の訳者をみてほしい。ほとんどが女性である。男だって女だっていいじゃないかという人もいるだろうが、原作者は男性の作家のほうがまだ多いのだ。このほとんどを女性の翻訳家が訳しているというのは、やっぱり変だ。だいいちバランスが悪い。もちろん、男性作家の訳したものを女性の訳者が訳すのがすべてよくないといっているわけではないし、相性というものもあるから、ケースバイケースであることはいうまでもない。が、やっぱり、これは男に訳してもらいたいという本はある。それが無理なら、せめて男の文体で訳せる女の訳者に訳してもらいたい。ときどき、ハードボイルドのミステリーやホラーを読んでいて、吹き出しそうになってしまうことがある。ひどい誤訳だったり(日本語を読むだけで誤訳とわかる誤訳もかなりある)、すごみのある科白にまったくすごみがなくて、ただただおかしな科白になっていたり(とくに、'fuck(ing)' を片っ端から「くそ」と訳すのは勘弁してほしい。「そのくそ拳銃で、てめえのくそ尻をぶち抜くのがおちだぜ」とか)。
 なんだかんだいって、まだまだ日本は男性社会なのだ。これは男性にとっても不幸なことである。男女雇用均等法が厳しく守られるようになって、早く男女平等の社会になってほしい。そうなったら、男性の翻訳家も増えてくるはずだ。
 それにしても、だれが禁止したわけでもないのに、これほど男性が寄ってこない職業というのも、珍しいかもしれない。現在、若手の男の翻訳家は非常に少ない。保父さんのような存在といっていいかもしれない。

 ここで、翻訳家を志す方に簡単なアドバイスを。
 まず、高校生の場合。当然ながら、大学は文学部の外国文学科か外大系にいくのがいいと思う。もちろん、社会学部や国際なんとか学部出身の翻訳者がいないわけではないが、翻訳をやりたいとはっきり決めているなら、英文、仏文あるいは外国語学科に入るのが妥当だろう。
 問題はそのあとかな。暇で高給のもらえる会社に勤めて、そのかたわらに翻訳をするという手もあるし、理想の配偶者をさがすという手もある。もうひとつ、大学院に進むという手もある。修士二年、博士三年をやりながら論文を書き、そのかたわらで翻訳を勉強する。勉強の好きな人にはお勧めのコース。ただこれも時間とお金がかかる(もちろん、奨学金をもらうという手もあるが、これはあとで返済しなくてはいけない)。まあ、今時文学部の大学院を出て、その後数年ですんなり大学で専任になれるという例はかなり少ないが、ないわけではないし、専任になれなくても、非常勤で大学や高校で教えながら、翻訳をするという手がある。ちなみに非常勤講師の場合、東京の私立大ではひとコマ(90分授業)2万5千円(一ヶ月で)くらいが相場だろう。一週間に10コマ教えれば(週に三日か、せいぜい四日、教えにいく勘定になる)、単純計算で月収25万円。しかし大学の場合、一年間の約半分が休みである。ということは、一年に半年教えて300万という計算になる。あとの半年で3冊、訳書を出せば、約100万。合計で400万。悪くないと思う。ただし、大学院の五年間という先行投資をどう考えるかという問題は残る。また、週に10コマと簡単に書いたが、これは英語の教員の場合で、それ以外の外国語、つまりフランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、中国語、韓国語などの場合は非常勤のコマを確保するのは難しいかもしれない。また、英語にしても、この英会話ばやりのご時世だから、いつまでも日本人の英語教師が活躍できるとはかぎらない。げんに、ある東京のばかな私立大学の新設学部は、英語の授業をそのまま英会話学校にまかせてしまった。「うちの学部から大学院にいったり、英語の読み書きを必要とする会社に入ったりする学生はいないから、英語の授業はぜんぶ英会話でいいいのよ」といわんばかりのやり方だが、こういう大学が増えてくるかもしれない。
 しかし先のことを考えれば、翻訳だって同じこと。あと十年後くらいにはかなり優秀な英語の翻訳ソフトができて、翻訳家なんかいらなくなってしまうかもしれない。少なくとも、翻訳家の仕事の内容が変わってくるかもしれない。つまり、学習機能のある翻訳ソフトにいろんな情報をインプットして、技を覚えさせ、自分に使いやすいようにして、ざっと訳させる。それを原文とつきあわせて、チェックしていく……という作業が中心になるかもしれない。
 すでに翻訳マシンはかなり広く使われていて、技術翻訳ならほぼ85%以上、機械でだいじょうぶといわれていたのが10年前。現在、多くの企業や大学では、原書をコピーしてオートフィーダーで流し、それをOCRで読みとり、それを翻訳ソフトが日本語にしてプリントアウトするというシステムを導入している。人間が行うのは、原書をコピーして、それをそろえて読みとり機のフィーダーにまとめて入れるだけ。文学的なテキストの翻訳には向かないが、かなり精度がいいのは確かだ。それに速いし。
 将来、それも近い将来、翻訳はかなりの部分、機械にまかせられるようになると思う。そういうことを考えると、究極的には翻訳というものは機械で代替できるものなのかもしれない。それに対して、創作というものは究極的には機械には代行できないものだと思う。
 やがて翻訳も、「100%機械翻訳」「50%機械+50%人間翻訳」「100%手作りの翻訳」といった表示がされるようになるのかもしれない。そうなった場合、それを読み分けられる人がどのくらいいるだろう。たとえば、現在でも、純粋に手もみのお茶と、機械+手もみのお茶と、機械だけで処理したお茶を飲んで、その違いのわかる人はどのくらいいるんだろう。あるいは、生の演奏とCDの録音を聞き分けられる人はどのくらいいるんだろう。
 ぼくとしては機械翻訳OKである。機械というと「冷たい」イメージを持つ人が多いかもしれないが、機械は人間が作った物であり、人間が人間のために作った道具であり、いってみれば人間の手足のようなものだとぼくは思っている。
 優秀な翻訳マシンは大歓迎である。たとえば、次の作品、ジェインの言葉は『細雪』の幸子の口調で、トムの口調は『強力伝』の石田の口調で、サムの口調は金原訳『神の創り忘れたビースト』のブラウン・ドッグの口調で……地の文体は金原訳『満たされぬ道』70%と三島由紀夫の『春の雪』30%の文体で……という指示を与えて、機械に訳させて、それをあとで好きなように料理する……というのは、楽しそうだ。いくらでもやり直しがきくし。
 そんなのはずっと先の先の話だ……と思っている人は多いだろうが、意外とその日は早いのではないかと踏んでいる。なにしろ、クローンなんてものができる時代なのだ。
 ともあれ、これから翻訳ソフトはどんどん優秀になっていくと思う。

3 村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
 あちこちで様々に取りざたされているが、以前の野崎訳とわざわざ細かく比較するまでのこともないと思う。「新しくなった」、この一言で十分ではないか。
 朝日新聞の読書欄では、次のような比較が載っている。
「奴さんは、いつものでんで、ひどくゆっくりと部屋の中を歩き出した」(野崎訳)
「彼は部屋の中をうろうろと歩きまわりはじめた」(村上訳)
 野崎訳は1964年。今時、こんな訳をする人はまずいない。それに対して、村上訳はいかにも、現代において無難な訳。普通の訳といってもいい。いま翻訳家といわれている人が訳せば、だいたいこんな感じになるって。「やれやれ」という村上ファンにはおなじみのフレーズも出てくるが、たいした効果はない。逆に古くさい感じがするくらいだ。これを「新訳が掘り起こす豊かで深い鉱脈」とか持ち上げるのは、贔屓の引き倒しに近い。
 そもそも四十年も前の訳と比較して云々すること自体、ばかばかしい。翻訳なんて、新しいものがいいに決まっているのだから。古い訳のほうが新訳よりいいなんて、よっぽど間抜けな人間が新訳をやっていないかぎり、まず考えられない。
 考えてみれば、翻訳というのは、あくまでも「間に合わせ」にすぎない。外国語のオリジナルがあって、それを現在の自国の状況と言葉で捉えて、その国のその時代の人びとに提供する一時的な「間に合わせ」なのだ。一時的に像を結んだヴァーチャルな時空間といってもいい。それを構成しているのは、訳した人の社会的・文化的・言語的・個人的なものが醸造したその人の言葉である。
 それに対して、オリジナルは強い。確固とした存在を誇っている。たとえば高校生の好きな小説ベスト10には、いまでも漱石の作品がいくつか登場する。しかし、当時の翻訳書は決して登場することはない。鴎外の『即興詩人』がいかに、原作を超える名作といわれようとも(だれが、そんなことをいったのかは知らないし、そもそもアンデルセンの原文と鴎外の訳文をどれくらい比較したのかもわからないけど)、国文科のごく限られた学生以外、読む人はいない。昔の翻訳書なんて、歴史的、学問的価値しかないのだ。いまどき、岩波文庫の『十五少年』(森田思軒訳)を読むのは、ずいぶんとマニアックな人間か、その手の研究をしている人以外にはいないだろう。ほとんどの人が新訳を読む。そしてご当地では、もちろん、原作は今でも広く読まれている。
 それはシェイクスピアでもまったく同じで、ご当地イギリスではエリザベス朝のあのオリジナルで芝居は演じられるし、読みたい人はオリジナルで読む(もちろん、子ども向けの再話はあるけど)。しかし日本では、新しい訳のほうがどうしても人気があるし、上演されるときも新訳が使われることが多い。坪内逍遙訳は出番がほとんどない。いままでシェイクスピアといえば、小田島雄志訳が主流だったが、この頃は松岡和子訳が増えてきた。
 つまり、翻訳はある意味、「間に合わせ」であり「その場しのぎ」なのだ。その時代と社会が仮想空間に投影したオリジナルの影にすぎない。オリジナルは、ギリシア哲学のイデアのようなものだと思えばわかりやすい。オリジナルと翻訳は、イデアと影の関係に等しい。
 ここで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』にもどろう。村上訳で、「おや?」と思ったのは、'you' である。いうまでもなく、これはホールデン少年が語る物語。つまり一人称の小説で、こういう作品の場合ほとんどがそうであるように、'I' が 'you' に語りかける形になっている。英語の場合、'I' も 'you' も、どちらも個性がなく、ただ単に自分のことをさし、相手のことをさしているにすぎない。従って、'I' は「ぼくは」じゃなくて「おれは」であってもいい。そして 'you' というのは、「あなた」かもしれず「あんた」かもしれず「おじさん」かもしれない。そういう英語の特質をふまえて考えれば、'I' という主語は省き、そして 'you' という二人称も省いて訳す、という訳し方が最も原文に近いといえる。が、それはかなりしんどい(金原・橋本訳『ジャックと離婚』〈東京創元社〉を参照のこと)。そして今回、村上訳は「ぼく」と「きみ」を採用した。野崎訳では、「ぼく」は同じだが、「きみ」という呼びかけはない。
 これに関して、「出版ダイジェスト」の柴田元幸との対談で、村上春樹は次のようにいっている。
「僕はそれとは逆に、この小説におけるyouという架空の「語りかけられる手」は、作品にとって意外に大きな意味を持っているんじゃないかなと、テキストを読んでみてあらためて感じたんです。じゃあこの『君』っていったい誰なんだ、というのも小説のひとつの仕掛けになっている部分もあるし」
「ひとつの考え方としては、『君』というのが自分自身の純粋な投影であってもおかしくないということです。それがオルターエゴ(もうひとつの自我)的なものであってもおかしくない。そうじゃないかもしれないけど、いずれにせよ、そのへんの感触は大事なんじゃないかと」
 そうそう、これはとても大きなテーマで、大学生の書く卒論では、「この作品における 'you' はだれか」というタイトルは少なくない。
 これはごく普通に読めば、一般人称の 'you' であって、主人公が語りかけているのは読者……しかし作者にとっての読者というのは自分自身でもあるから、もちろん「もうひとりの自分」というふうにとるのが無難なところ。というわけで、野崎訳では、この 'you' は「きみ」でもなく「あなた」でもなく、ほとんどがあっさり削られている。この手の一人称の作品を訳すときの常套手段といっていい。
 しかし村上春樹はこれを「きみ」と訳してしまった。同年代の仲間か、ガールフレンドか、もうひとりの自分か……そのあたりに限定されてしまったわけだ。これで、カウンセラーを相手にしゃべっているという可能性はなくなってしまったし、宇宙人に話しているという可能性もほとんどなくなった(と書くと、ばかばかしいと思われるかもしれないが、英語ではその可能性もないことはない)
 だからもし、サリンジャーがある日ひょっこり姿を現して、「あの作品は、おじいちゃんに語りかけているつもりで書いたんだよ」といったら、その時点で、村上訳は少しその価値が下がってしまう。というか、新しい訳の生まれる可能性がぐんと大きくなるはずだ。
 というふうに、やはり翻訳はあくまでも「間に合わせ」であり「その場しのぎ」にすぎない。そもそも、あと二十年たったら、村上訳だって、古くて読めなくなるにきまってる。そのころの若者たちは「やれやれ」とか「抜け作」とかいう訳語と読むと、「なんだ、これ?」と思うにちがいない(このあたりは、月刊〈PEN〉に載っていた花崎真也の書評を参考に)

 こういうふうに考えてくると、やはり翻訳というのは新しいほうがいいのだ。よっぽど下手な人間が訳せば別だろうけど、新しいに限る。もちろん、それは年代によってちがうのはいうまでもない。村岡花子の『アン』で育った人にとって、『アン』はあの文体がしっくりくるだろうし、石井桃子の『麦と王様』で育った人にとっては、あの文体がしっくりくるはずだ。しかし、それを若い世代に押しつけないでほしい。あくまでも、それは古い自分が読んで共感した古い翻訳なのだから。新しい世代には新しい世代の翻訳が望ましいと思う。そういう意味では、一般書で古典が新訳で出るようになったのは、とてもうれしい。
 ところが、児童書の場合、なぜか古い物がいつまでも残ってしまう傾向が強い。自分が幼い頃に読んで感動した訳本をそのまま子どもに与えたいと思う人が多いせいだろう。「やっぱり、ファージョンは石井桃子の訳でなくちゃね」とか。しかしあの「こてこての日本語」は、ぼくなんかにはある意味快いけど、今の子どもにはそろそろ合わなくなってきていると思う。『アリス』の翻訳もいろいろあるけど、今時、山の手言葉でしゃべるアリスは、やっぱり変でしょう。子どもは引くと思う。いや、ぼくでも引いてしまう。その点で、北村太郎訳の『アリス』は花丸である。とてもいい。
 とくに子どもの場合、自分で本を選ぶ自由が制限されていることが多いわけで、親の好みを押しつけると、子どもは引いてしまう。もし子どもに本を薦めたいなら、少しは子どもの立場に立って考えてみてほしい。自分が昔夢中になって読んだから子どもにも読ませたいという気持ちはわかるが、子どもにとってはいい迷惑だろう。
 それをいえば、いわゆる世界の古典も新訳で読みたい。岩波文庫も少しずつ訳し直しが行われているが、まだまだ古い物が多すぎる。いや、それはほかの文庫でもいえるかもしれない。たとえば、最近『めぐりあう時間たち』が原作、映画ともに評判になり、これに関連してヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』が文庫で復刊されたが、角川文庫のほうは読みづらい。まあ日本での封切りに合わせて新訳をというと時間的に無理があるのはわかるものの、もったいない。
 今まで翻訳をやってきた経験からいうと、翻訳の寿命は長くて二十年。これを過ぎたものは、新しい人が訳し直す方がいい。最近、つくづくそう思う。「スクラップ・アンド・ビルド」はまさに翻訳本のためにある言葉といっていいだろう。
 翻訳は、ただ単に新しいというだけで、十分にその価値があるのだ。

4 HP開設(http://www.kanehara.jp/
 というわけで、ホームページ開設です。といっても、ぼくが作ったり管理しているわけではなく、翻訳をやっている宮坂さんを中心に、あと田中さんと森さんが担当してくれてます。金原は何もしてません。ただせっせと材料を提供しているだけです。
 今のところ、中身はちっとも充実してませんが、それはまだ材料がそろっていないからで、おいおい楽しい物になっていく予定です。なかでも目玉は、出版社用に要約は作ったものの、まだどこの出版社にも売れていない作品の要約です。自分のものだけでなく、バベルやタトルの翻訳講座を受講した人たちのものも載せる予定です。100〜200くらいの作品の要約がずらっと並ぶことになります。
 ところが、この要約、著作権の侵害にあたるのかあたらないのか、微妙なところがあって、現在、その関係の弁護士事務所に問い合わせているところです。海外の本を翻訳するための宣伝でもあるので、クレームがつくことはないと思うのですが、念には念を入れて、ただいま調査中というところ。しばらくお待ちください。
 そんなわけで、まだ内容は充実していませんが、少しずついろんなものを放り込んでいきますので、ぜひ、お立ち寄りください。つい先週、ギャラリー担当の森さんが奮闘してくれて、テキサスで撮った写真が見られるようになっています。

 今回、あとがきはありません。期待していた方、ごめんなさい。(金原瑞人)