気まぐれ図書室12
――竜頭蛇尾または雲散霧消の巻 ――


【児童文学評論】 No.67   2003.07.25日号

           
         
         
         
         
         
         
    

ザーザーという雨音を伴奏にこの原稿を書いている。それゆえ、話が湿っぽいのはご容赦のほどを。

春学期は複数の講座で英語圏のファンタジーをとりあげた。つい最近も某所では「一角獣」を、別のところでは「ドラゴン」の話をしたばかりだ。そこにいたる流れや比重のかけかたは変わっても、核となる作品は、毎年それほど代わり映えしない。
毎年決まって扱う作品の一つは、やはりJ・R・R・トールキンの『ホビットの冒険』だ。「ロード・オブ・ザ・リングス」つまり『指輪物語』の前段にあたるこの作品は、昔話的要素と古典的な龍退治をモチーフにもつ1930年代の代表作で、児童文学の定番となっている。そこでいっしょに紹介する絵本や作品で変化をつけるのだが、下手をするとこれもまた、去年と同じだったりする。さて今年は一箇所で『ドラゴンたちは今夜もうたう』(偕成社、1995)を、もう一箇所で『ドラゴン伝説 異国の竜の物語』(BL出版、2000)を「つけ合せ」にした。どちらも原書は1993年に出ている。また、上に示したように新刊ではないが、ついでに(失礼!)紹介してしまおう。

『ドラゴンたちは今夜もうたう』は、見開き頁ごとにジャック・プリラツキーの詩にピーター・シスの絵という構成である。全部で17篇の詩は、子どもの立場にたったものと、大小さまざまなドラゴンの立場のものとに分けられる。たとえばひとりの少年の自慢はメカドラゴンをつくったことだ。いっぽう別の少年は、自分のドラゴンが寝てばかりでおとなしすぎるので、もっとドラゴンらしいドラゴンが欲しいと願う。このとき少年が、とぐろを巻いたドラゴンの上に寝そべっているところが味噌である。他方、自分は「やさしいドラゴン」だから炎におののくことなく前を通ってごらん、と度胸試しをそそのかすドラゴンがいる。そうかと思うと、人間に飼いならされていることを哀れっぽく訴えるドラゴンや、身長がわずか1センチ半で、誰にも気づかれないと憤慨するドラゴンもいるのだ。
カバー袖にある訳者小野耕世の「格調高くしゃれたドラゴン・コレクション」という言葉に異論はないが、基調となっているのはドラゴンの衰退だろう。19世紀末イーディス・ネズビットはさまざまな短篇でドラゴンの弱体化を浮かびあがらせたが、あれから約100年たつ1993年出版のこの作品集もまた、現代に生き難いドラゴンの姿を描いていることになる。
この絵本から一編選べと言われれば(言わないって?)「もし きみが ドラゴンを 信じないなら」をあげたい。この絵本は見開きにすると、縦が約30センチ、横が45センチである。ただしほかの頁も同じだが周囲に2センチ幅の額縁がついている。さて、画面を横方向にひっぱる力は、背景となっている立派な石造りの町並みである。画面の上半分は星空だが、画面中央がほのかに明るいので、変化に富んだ建物の屋根の部分がはっきりわかる。右上すみには満月がのぼり、見るものにこれが夜の世界であることを印象づけている。背景の町並みは黒の濃淡で表現されているが、それでも3箇所にあかりがついているのがわかる。そして右下に黒い車が一台、右側の建物の上に彫像らしきもの(地球を担いだ巨人アトラスだろうか?)が見えているほかは、通りにも建物にも人の姿はない。
この黒っぽい色調の画面を背景とし、前景には少年とドラゴンとが、たがいに通りすぎてから振り返っている瞬間が置かれている。ピーター・シスは、赤のきかせかたがうまいアーチストで、この黒っぽい色調のなかで少年のかぶっている赤いキャップ(と黄色いジャケット)が明るく浮かびあがる。ただし少年の丈は画面上でわずか6センチ。対照的に右画面に立ち姿の大きなドラゴンがいて、その尻尾は左画面の少年の足元近くまで伸びている。ただしこのドラゴン、なんと後ろが透けてみえているではないか。細部を丹念に描くシスは、細い線をうまく使ってドラゴンをいかにも幽霊のように見せることに成功している。
ちなみに少年と、建物の明かりのついた窓ふたつとは小さな三角形を形作り、右画面のドラゴン自身がつくっている大きな三角形の(ただし半透明の)フォルムとバランスがとれている。また、少年の足元へ向かって数本のシャープな線がはいり、風の動きをあらわし、通りすがりという設定をよりリアルにしている。そしてこの頁の詩は、以下のとおり。

ドラゴンが いるなんて 信じないんだって?
そりゃ、ぐうぜんだねえ。
いないはずの ドラゴンのほうも
きみが いるなんて 信じちゃいないんだって

余談になるが、『季刊ぱろる4号』(パロル舎、1996年9月)にドラゴンをめぐる物語の変容を「ドラゴンのいる風景」として載せたことがある(連載評論『指輪からはじまる物語』第3回)。このときわたしはリューリィ・グレイ『ファルコンの卵』(1995)という未訳の本をひいて、「都会にはドラゴンが似合わない」と書いた。原稿を準備していた頃、オタワと妖精たちの異界とがオーバーラップするというチャールズ・デ・リントの『ジャッキー、巨人を退治する』(原1987年、創元推理文庫1995年12月)を読んだ。この本は都会に妖精を出現させた「ちからわざ」だったと記憶している。でも都会にも存在できるのは相手が妖精だからであって、ドラゴンには似つかわしくない、と思った。あれこれ考えているうちに、人間に敵対し人間に恐怖感を抱かせる伝統的なドラゴンにたいし、子ども向けの物語に大量にみられる、子どもが怖がらないようなドラゴンを「ナースリー・ドラゴン」と命名するに至った。あたかも子ども部屋におけるナニーのように、子どもの遊び相手やお守をするドラゴン、非力な子どもにやすやすと飼いならされるドラゴンたち、という意味で。
『ドラゴンたちは今夜もうたう』が描いているのもこうした弱いドラゴンの姿である。だがこの絵本を好ましく思う一方で、「ドラゴン」に迫力があってこそ、伝承素材を用いた意味があるだろうという気持ちもあるのだ。

このあたりでディヴィッド・パーシィズ作、ウエイン・アンダースン絵の『ドラゴン伝説 異国の竜の物語』(岡田淳訳)に話を変えよう。アンダースンは『ドラゴン』という仔ドラゴンと少年の交流を扱った絵本で、北国のドラゴンたちを幻想的に美しく描いた。この『ドラゴン伝説』でも、鋭いかぎ爪や牙も恐ろしげな迫力あるドラゴンから尻尾の長い「長虫」系のドラゴンまで、世界各地のさまざまなドラゴン像を示している。絵本とあって、各ドラゴンの記述は2ページから3ページどまりだが、伝統的なドラゴンの多彩な姿を知ることができる。
西洋一辺倒ではなく、東洋のドラゴン──つまり龍──についても紹介してあるのが嬉しい。20年以上前に出たフランシス・ハックスリー(中野美代子訳)の『龍とドラゴン』(原1979、平凡社、イメージの博物誌13、1982)はこうした東洋の龍やインドの幻獣なども詳しく紹介していたが、現在では入手が難しそうだ。そこで見やすさと記述のわかりやすさを考えると、アンダースンとパーシィズの絵本は、誰にでも手ごろな一冊だと思う。
北欧の神話には「ヨルムンガンド」といって、ミ(ッ)ドガルドをひと巻きするとほうもなく大きな世界竜がいるが、パーシィズがとりあげている中国の龍は話のスケールが大きい。卵がかえるのに1000年、「ひととおり成長するのに1500年」、「角がのびるのにその後500年」、「翼が完全になるにはさらに1000年」もかかるというのだ。また同書中の「カオリャンの橋」は、竜が治水と降雨に関わっていることや自在に変身できることを教えてくれる。これを読んであれば、中国からの移民を祖父母・親にもち、白人文化と異なる中国文化を龍に表象させているアメリカ人作家ローレンス・イェップが『竜の王女シマー』(三辺律子訳、早川書房、2003)で、湖を失い、仲間に追放された竜の王女の物語を書いたのも理解できる。もっとも、イエップのこの作品は、ハリウッド映画中の日本がそうであるように、どことなくアメリカ風な気がする。


さて中国から今度は日本のファンタジーに移ろう。日本的なファンタジーを得意としている作家富安陽子による『チビ竜と魔法の実』(偕成社、2003年7月)である。今回まず驚くのが、主人公の信田(しのだ)一家のママがキツネ、パパが人間という設定である。なんて大胆なのだろう!とはいえ、昔話にはこうした異類婚がある。(たとえば『鶴女房』のように)。ただ、それが現代家庭に起きているところが味噌だ。……と、ここまで書いているうちに、似たような話があったことに気づいた。その昔のアメリカのホームドラマ『奥さまは魔女』である。魔女(サマンサ)と人間(ダーリン)はカップルだが、夫は周囲の人間に妻の正体がばれないようにと苦心する。でもこの結婚に反対している妻側の親戚がなにかとちょっかいをだしてきて、トラブルが絶えない、というコメディだ。
信田家も、ママの正体を家族全員が隠している。ただし、魔女を妻にもったばかりに懊悩し、いつも額にしわを寄せていたダーリンとちがって、植物学者のパパはもう少しのんきだ。
『チビ竜と魔法の実』はママの父親の鬼丸おじいちゃんがもたらした騒動を描いている。鬼丸おじいちゃんはテレビの時代劇が見たくなると、キツネの姿のまま、好き勝手に出入りする。ママはマンションほかの住人の目を気にし、そんなおじいちゃんに小言を言う。腹を立てたおじいちゃんは、もう二度と遊びにこないと、捨て台詞をはいてそのまま姿を消す。ところが、故意か偶然か、おじいちゃんにくっついてきていた竜が、信田家のお風呂場にとり残されたのである。
ママによるとこの竜は、ふだん雨雲の中に住んでいる雲竜の子どもだという。そのため、お風呂場の水蒸気が気に入り、力づくで追い出そうという試みは失敗する。それどころか、水蒸気を集めてちゃっかり巣をつくっている。

天じょうのすみにたまっていたうす黒い雨雲も、いつしか竜のうごきにつれて、ゆぶねの上でうずをまきはじめた。竜は、その雲の波間を楽しげに泳ぎまわっている。雲のあいだにしずめていた体をおどらせて、竜が光のなかにあらわれると、全身をおおうウロコがキラキラと光って、小さな竜はまるで、宝石でつくられたオモチャのように見えた。(60)

こんなチビ竜といっしょなら、お風呂もさぞかし楽しいだろう。そして、団地サイズのチビ竜が、湯船に浮かべるビニール製のアヒルの同類に思え、風呂場に居着いたって、ちっともかまわないじゃないかとまで思う。タクミをはじめ、信田家の子どもたちも同じ気持ちになったはずだ。ところが、ママによると、これから夏までに大きくなり、大地に実りをもたらすための精霊として、大地にくだるのが雲竜の定めだという。そのためにも、いつまでもチビ竜を置くことはできない。
物語はこの竜をどうやって、マンションから出すか、キツネ族の厄介者の親戚のもちこむ騒動をどうやって切り抜けるか、という一家のてんやわんやぶりが、コミカルに展開していく。蛇騒動はちょっと薄気味悪いし、ドタバタ部分はエネルギーが少ないときに読むとぐったりするが、全体としてとても楽しめる、お奨めの作品である。
さて、読み終えてから、巻末の奥付を見て、目が点になった! 書名が『シノダ! チビ竜と魔法の実』とあったからだ。「シノダ」は信田、主人公一家の苗字である。どうやらこれはシリーズ化が予定されているらしく、『シノダ!』を共通頭文字として、後ろに入る書名が巻ごとに変わるのだろう(あくまで推測だが)。ところが、うっかりもののわたしは、クリーム色のカバー地にカラフルに描かれた書名――「チビ」が焦げ茶、「竜」が薄茶、「魔法」が緑、「の」が黒、「実」が小豆色、数箇所に水色の雲が散っているという、凝ったもの――に目を奪われ、その左側にある部分をただの模様だと思いこんでいた。この部分は、薄茶色で描かれた丸のなかに、茶色のキツネと白抜きの「シノダ!」の文字が入っていたのだ。どうやら、イラストをつけた大庭賢哉に「化かされ」たらしい。ついでに言うと、カバーをはずしたあとの本体も、キツネをあしらった地模様のデザインである。
物語の結末を明かすと、読み手の楽しみが半減するので触れないが、チビ竜がいなくなり、夏が到来するという季節感のある結末である。・・・というわけで、竜頭蛇尾、または雲散霧消の閉幕である。(西村醇子)
2003.07.01記