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「見なかったのに、何で屋根裏にいるなどとわかるのかね?」 ・・・コナン・ドイル「バスカビル家の犬」 岩瀬成子が新刊を出したことを知ったのは、今年の一月の半ばを過ぎてからだった。知人が「朝日新聞の新刊広告欄に最近載っていた」と教えてくれたのだ。ところが、その人はタイトルも出版社も忘れてしまっていた。「子ども向けではなかったと思う」手掛かりはそれだけだった。そこで、慌てて図書館に駆け込み、ほこり臭い書庫の中でここ二ヵ月分の新聞の広告欄をめくったが、私が見落としたのか知人の記憶違いか、その広告は見つけることができなかった。新刊案内の冊子は年末年始を挟んでいるために未だ発行されていず、書名も出版社も分からないまま市内の書店を直接捜し回ったが、児童書にも小説のコーナーにも見当たらず、店員に不審そうに首を傾げられるだけだった。結局、何の手掛かりも得られずに歩き疲れて家に帰ってきたところ、郵便受けに岩瀬さんからの書籍小包が届けられていた。岩瀬成子作品について本誌に書かせて頂くことを、近況報告と共に岩瀬さん宛ての年賀状に書いたことを私は思い出した。その返事と共に新作は送られて来たのだった。以上が、岩瀬成子『やわらかい扉』(ベネッセコーポレーション、一九九六年一月)を私が手にするまでの経緯になる。 作者本人から贈られた本というのは、不思議な距離感を持っている。それは、出版された物という、不特定多数の人物に向けて書かれた公的ものであると同時に、作者によって既に自分の<名>が記されてある個人的なものだ。そこに語られている言葉は、一冊の本という印刷物であると同時に、作者からの何らかの何らかのメッセージを含む<手紙>であるとも取れてしまう。もともと、<手紙>・・<letter>には、文字、文学という書かれたものとしての意味がある。もし、何らかのシグナルとして送られたものだとしたら、私はそれに応答するべきだろう。いや、かつて『あたしをさがして』を書いた岩瀬成子という作家からの新しい<挑戦状>かもしれない。そうだとしたら、私は受けて立たねばならない。 1 月曜日 『やわらかい扉』は作品の時間の大半が回想された時間であり、また、出来事の根拠に曖昧な点が多いため、「あらすじ」を紹介するのが難しい。以下に述べるのは、「あらすじ」の一つの例にすぎない。 OA機のショールームに勤務している<私(白木)>は、外科で高校時代のクラブの知人<千田さん>と偶然再会し、両親を亡くして姉弟の二人暮らしをしている千田家の一階の一室に間借りすることになる。『やわらかい扉』は人当たりのよい<千田さん>とその弟で高校生の<鉄男くん>、そして、<私(白木)>と猫の<ヨースケ>の日々が、<私(白木)>の一人称によって語られている。作品の軸になっているのは、何者かによって庭に時折投げ込まれる<生ゴミ>のことだ。作品はその真犯人を<私(白木)>が探すことを軸としながら、<千田家>に気儘に出入りする複数の女子中学生たちがその平行線上に語られる。<私(白木)>が当初、真犯人として容疑をかけていた少女<河野さん>は中絶後学校を休み続け、千田家に家出同然に転がり込み、屋根裏部屋に隠れて数日を過ごす。交際相手の高校生が<鉄男くん>であると思い込む母親は、家中を強引に捜索する。 母親が踏み込んできたその後<河野さん>は出て行き、<私(白木)>は千田家と中学生たち、そして隣家の庭との境界の間にけじめをつける決心をして庭木の剪定をする。 作品は<私(白木)>が<生ゴミ>の真犯人を探し始めてから、庭自体をきちんと手入れし始める日曜日までの一ヵ月ほどの間の出来事である。その間に<私(白木)>が反芻し続ける<貝原さん>の語る子どもの頃の話、同僚の女性<菅井さん>の入院の出来事、公募に手紙を出しつづける老女<津田キチ>、猫の<ヨースケ>の失踪、千田家に好感を持っていない隣家の老夫婦<山本さん>等、様々なエピソードが<私(白木)>の眼を通して、あるいは回想という形で交錯して語られている。 私は二階の日溜まりの中にいる。 南向き一面が窓になっていて、陽射しは透明なガラス越しに廊下の奥まで差し込んできている。十時を過ぎたばかりなのに、気温はかなり上がっていた廊下と呼ぶには広すぎる。サンルームのような場所だ。 私は窓のそばの椅子で、日焼け止めのクリームを塗り、サングラスをかけて、朝からずっと通りを見張っているのだ。 上に挙げたのは作品の冒頭部である。<私は二階の日溜まりの中にいる>という、一行から始まっているが、この書き方はこれまで岩瀬成子の一人称作品と質を異にしている。 これまで、岩瀬成子の作品の冒頭は、その主語を誰なのかを不明にしたまま始めることによって読者と語り手の意識の境を曖昧にし、読者を作品世界に引き込んでゆく傾向が強かった。例えば、一九八九年六月に出版された『日曜日の手品師』には、子どもの<あたし>によって語られた一人称形式の短編が三編収められているが、その中の「だれか、ともだち」の主語が示されるのは作品が始まって二ページ目のことだ。(注1) <わたしはデパートの前に立っていた。> 「旅」(『アイスクリーム・ドリーム』理論社、一九九一年二月) <まきは、一人で朝食を食べていた。> 「台風がきている」(『新潮現代童話館2』今江祥智・灰谷健次郎編 新潮文庫、一九九二年一月) <るいは、横断歩道をわたり終えた。> 『「うそじゃないよ」と谷川くんはいった』(PHP研究所、一九九一年十二月) 右は主語が冒頭から明示されている場合を並べてみたものだが、常にそれらは現在既に起こっていること、もしくは過去の時制を伴って語られている。<私は二階の日溜まりの中にいる>という時制で語り始めることは、岩瀬成子の作品において極めて珍しい。 また、これまで三人称で語られている作品においても、主人公の意識に語り手が密着しているために、主人公の姿は外から見えにくいという傾向があった。例えば、『額の中の街』(理論社、一九八四年三月)の<尚子>の行動や容姿について、読者は他の人物から<尚子>に語られた言葉によってしか知ることが出来ない。また、『ステゴザウルス』(マガジンハウス、一九九四年三月)においては、主人公が眼鏡をかけていることを知るのは、作品が始まって五〇頁を過ぎてからのことだ。それが、今回は<私は窓のそばの椅子で、日焼け止めのクリームを塗り、サングラスをかけて>いることが明記されている。作品は語り手の姿と、語り手が見ている対象を同時に視野に入れることが出来る<隙間>のような位置に読者を立たせている。この距離感も、読者と語り手を密着させ、語り手の視点で作品世界を展開し続けてきた岩瀬成子作品には珍しい。 ・・・今回は様子が何か違っている。冒頭部を読んだ瞬間、それは直感された。しかし、それが何を意味するものなのかがつかめないまま、数日後、私は『やわらかい扉』を読み終えた。その夜、私はなぜか眠ることができなかった。私の中で何かがひっかかっているのだ。本を閉じて余韻にひたるとか、読み終えた充実感で眠れないのでははなく、漠然とした疑問が残っていた。冒頭は<私(白木)>が<生ゴミ>を投入する犯人をつきとめようとする場面から始まっているが、作品はその真犯人を明かさないまま終わっている。だからといって、単に「犯人が曖昧な結末」で終わっているとは信じ難かった。作品を読んで吐くようなことはなかったし、むしろ、語られている千田家の空間に不思議な居心地の良ささえ感じたくらいだった。そして、そのことがよけい変だと感じさせていた。この作品には何か隠されていることがあるような気がしてならなかった。それは、月曜日の深夜のことで、厳密に言えば火曜日はもう始まっていた。 |
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