愛されることの困難
− リセットボタン−(2)

佐藤 重男
(UNIT評論98・論集)

           
         
         
         
         
         
         
     
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 ラスト、川辺に両親が現れたシーンを、和解の証としてしまうことは、あまりにも安易である。そういう生き方が正しいかったかどうか以前に、父親のそれまでの人生をどうでもよかったこととしてしまうことにならないか。父親が、そんなどうでもいい人生を送ってきたのだとしたら、そんな父親に認めてもらうことの意味、重さがあるだろうか。
 七年という年月は決して短くない。そして、その何倍も生きてきた父親にとって、和解は容易なことではないし、その七年のあいだに多くのことを学んだはずである佑一にとっても、安易な和解など陳腐に思えるはずである。わかってくれなくていい、しどろもどろでもいい、どうにか向き合って欲しい、それが佑一の思いではないのか。
 まず自分の生き方をそれぞれに問い直してみることだ。だからといって、どんな回答が見つかるかはわからない。にもかかわらず、向き合ってみること、そうしてはじめて、佑一と父親は、親子として「再会」できるのではないか。
 何しろ自分は、この七年、何も働きかけてこなかった。自分の本当の姿を見てもらってわずかの時間しかたってないのだから、わかってくれというのが無理である。父は父であっていい。必要なのは、見せかけの理解ではない。必要なのは時間なのだ。長い長い時間がかかるだろう。だが、そのことは、決して失望を意味しない。
 そういう思いが強ければ強いほど、川辺に立った父親は、佑一にとって、虚像でしかない。
 父親のかたわらに立つ母親もまた、佑一の同伴者たることを放棄したことはいうまでもない。「庭やフェンスをかざる植物を世話する」ことが「ただひとつの共通の趣味」という、この夫婦の関係は、維持されていくだろう。
 佑一にも、二人の表情は逆光になってわからなかったはずである。 愛されることの困難がここにある。

 
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 『超・ハーモニー』の父親は、ついに、自らの生き方を変えようとはしなかった。時代の要求にうまく応えられない愚直な父親なのだという見方もできないことはない。
 しかし、わたしは、そのようにこの父親を美化してしまうのに反対だ。むしろ、次のように考えるべきだと思う。
 佑一は、父親から十分に愛されているという実感を得られなかった。ついにリセットボタンは押されなかったのだ。
 もちろん、佑一には、別のつながりができている。そこでリセットボタンを押すことは十分可能である。
 だが、家族関係の中に組み込まれているリセットボタンを押すことができるのは、親子が向き合う中で、この人から十分に愛されていると確信したとき以外にない。それが果たせずに、親から十分に愛されることのないことを知った子どもにとって、その心の傷を治し、立ち直るのは容易なことではない(けれども、佑一は、両親にわかってもらえなかったという失望からやがては立ち直り、自立の道を歩いていくだろうと思う)。
 一方、リセットボタンを押してあげることができなかった親は、「異分子」を排除し家族の安泰を守ったつもりが、実は、家族の崩壊を招きそれを早めたのだということを知ることになるだろう。
 父親は、響きを「遺産相続人」として掌中にしたと思い込んでいるだろうが、しかし、早晩、響きは、両親のあいだの愛情がニセモノであること、そして、自分は誰からも愛されていないことを知るに違いない。
 父親は、家族を失うだけではない。「まじめであることが人生でいちばん、大事」だということの意味を問い返すせっかくのチャンスを、自らの手で潰してしまったのだ。
 母親もまた、自立のチャンスを逃した。もちろん、そのチャンスが再びめぐってくる可能性は残されている。夫の尻馬に乗ることをやめて、自分自身に合った趣味を見つけることからはじめるのもいいだろう。
 ある意味では、組み込まれているリセット装置のボタンを押してもいいのかもしれないと、子どもが確信するまでの長い道のりを共に歩き、そして、「育ちなおし」のためのリセットボタンを押すその瞬間に立ち会うことは、親自身が、自らのリセットボタンを押して、「生きなおす」ことだ、ということかもしれない。


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 『超・ハーモニー』は、父親に愛されることの困難と同時に、愛することを知らない父親の「不幸」を描いてみせたのだと思う。このテーマは、もっともっと取り上げられ、そして深められていく必要があるように思う。
 だが、最近の児童文学作品を見ていると、首をかしげたくなる。なぜなら、その大半が、早々と父親に見切りをつけてしまっているからである。
 たとえば、『魔法使いのいた場所』で父親について触れられるのは、 『パパはまだ帰っていない。いつものようにふたりだけの夕食だ』たったのこれだけである。この父親は、たまの休みの日は、家でごろごろしているか、ゴルフにでも出かけて、娘とはほとんど会話もないのだろうし、家事・育児のすべてを母親に任せっぱなしなのだろう。「いつものようにふたりだけの夕食だ」は、そういう連想を呼び起こす。そういう意味では、このひとことは便利でもあり、危険でもある。
 『ポーラをさがして』の父親は、一見ものわかりのいい親のように見える。主人公・ショーコが私立の中学を受けることになつたのは、「お父さんが「受けるだけ受けてみたら」」といったからであり、誰かが、ショーコの勝ち気な性格を批判しようものなら、「そんなときお父さんは、笑って味方してくれ」「このぶんだと、ショーコはりっぱな自立した女性になれるよ。楽しみじゃないか」とまでいってくれる。
 しかし、そんな父さんは、肝心のポーラを探すことには何一つ手助けをしてくれないし、そもそも、ショーコは父親に助けを求めようとさえしない。ショーコにとって、父親は、現実に役立つ力ではないものとみなされる。
 そのほか、父親が都合よく病死してしまう『家族の告白』など、まだましなほうで、『さいなら天使』は、父親の「ち」も出てこない。物語にとって登場する必然性がないからだといえばそれまでであるが、母親が何度か顔を見せるのと比べると、完全黙殺である。


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 しかし、考えてみると、父親不在でも、あるいは父親の存在がどんなに希薄であっても、作品の中で家族として「成立」しまうなんて、こわいことではないか。
 そして、そういう作品が、おかしいともなんとも思われずに流通してしまっていることが、もっとこわい。
 なぜ、こんなことがまかり通っているのだろう。
 いうまでもなく、われわれが生きているこの社会は、効率優先の競争社会である。サラリーマンはもちろん、自営業、専業主婦だって、この資本主義の原理に縛られている。
 そして、この資本主義の原理は、家族という「運命共同体」の持つ理念とは相入れないことが多く、とりわけ子育てをめぐっては、効率と非効率がぶつかりあう。この現実からは、誰も逃れられない。ここにはどうすべきかのマニュアルなどはなく、その上、それは、それぞれの家族のいわば個人の問題として扱われる。なんとも厄介なことである。しかも、この矛盾は、働き手の大半を占める父親が持ち込んでくるのだが、被害を受けるのは、それを持ち込んだ父親ではなく、母親や子どもたちである。
 こうして、家族の問題は母親と子どもの問題へとすり替えられ、一方で、父親の存在はいよいよ非日常性を帯び、ますます見えなくなっていく。
 この問題を書き手の上にずらして重ねてみると、それならいっそのこと、父親なしで家族を切盛りしたほうが楽だということになっているように見える。そしてそのことを、現実を無視しろというつもりはない、文学作品なのだから何も現実をそのまま持ち込む必要はないのでは、といわれれば、たしかにそうなのだが、わたしは、書き手たちの、作品の中で人間関係を再構築していく力、あるいは、効率優先の競争社会の矛盾がどこに集中しているのか、それを見抜くが弱くなっているからではないかという気がしてならない。
 このすり換えのおこるところから、父親の存在、役割を逆照射していく、見えなくなりがちなものをあえて引きずり出す、児童文学はそのことに果敢に挑むべきではないか。
 たしかに、資本主義の原理がどうのこうのというのは面倒だし、下部構造がどうのこうのという理屈を持ち込むのは文学の世界を狭くするという論議もないではない。
 そういう面倒とは関わりたくないし、そんな政治・経済の本から引き写してきたようなものを読みたいと思う人などいないだろう。
 だが、どうして?どうして?とたぐっていけば、それだってこれだって、結局、資本主義の原理がどうたらこたらということにたどりつくのだ。だが、その枠におさまらない部分が人間にはあって、どこかで狂いが生じたり、気がついたら脱線していた、ということが起きるのだ。
 たとえていうならば、人々は、四角ばった経済学者が、飲み会の二次会で行ったカラオケで、なぜか若い女性とデュエットばかりを歌いたがるといった、生身の姿を見てみたいのだ。
 「まじめであることが人生でいちばん、大事」といっている父親が、ゴルフに行くといって出かけたのに、実は、まっぴるまから、「ノーパンしゃぶしゃぶ」にいたということがあったっていい。
 どこか妙にねじれているその部分を、あるいは、はみ出た部分を拡大して見せるのが、文学の仕事の一つなのだと思う。
 閑話休題。

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