「内なる子とも」をめぐって
「留学」の体験の後遺症


斎藤次郎

ぱろる8号 1997/12/25


           
         
         
         
         
         
         
         
    
 二年前、青森の小学校に「留学」してから、子どもの本についての見方というか、センスのようなものが少し変わってきたような気がしてなりません。その変化は、「内なる子ども」とでもいうべき、ここ数年来のぼくの気がかりともつながりがあるようなのです。 児童文学の作家たちは、それぞれに「内なる子ども」を心に飼っているに違いない、とぼくは思っています。「内なる読者」としてという意味でもそうですが、もっと創作の秘密に深くかかわる存在として、「内なる子ども」は重要なはずです。
 絵本作家モーリス・センダックは「私は子どもたちがどう感じるか、その感じ方を、というより、私が想像する子どもたちの感じ方を絵にあらわそうと努めているのです。それはまちがいなく、私自身子どもの時に感じた感じ方です」と語り、彼の「内なる子ども」について、こうつづけます。「実をいうと、私は、ある意味で、信じてはいないのです。かつての子どもが大きくなってこの私になったなんて。あの子どもはどこかにいるのです。まさに目に見え、手にふれられるような具体的なかたちで。彼はまるで、どこかに引っ越していってしまったみたいに思えるのです。私は彼のことがひどく気がかりですし、彼は大きな関心をもっています。私は、いつも彼と連絡をとって、いや少なくともとろうとしています。私が一番恐れていることの一つは、彼との接触を失ってしまうことです。」(ナット・へントフ「かいじゅうたちにかこまれて」)
 しかし、こういう心の動きは作家に限られるものでもないでしょう。児童文学のおとなの読者もまた「内なる子ども」を心の底に隠し持っているはずです。そしてそれは、作家の例と同じく読者自身の子ども時代の記憶と結んでいるに違いありません。内なる子どもへの回帰とでもいうべき心理作用をとおしてのみ、子どもの物語は受容が可能なのではないかとさえ思えるほどです。
 それが、「留学」を期にちょっと変調を来したのです。最初の自覚症状はこんな感じでした。ひこ・田中の『ごめん』を読んでいるときユウキやモリタケのことを何度も思い浮かべずにはいられなくなり、岡田淳の『選ばなかった冒険』のときは、ユウタやミサトの面影が主人公に重なってしまったのです。
 児童文学を読みながら顔見知りの子どものことを思い浮かべるのは、別にめずらしいことでもないでしょう。地域文庫をやっている人たちの話では、選書の段階であの子に読ませたい、あの子が喜ぶだろうと胸をワクワクさせるとのことです。でもぼくの経験は、そういう媒介者的な配慮とはちょっと違うのです。
 むしろ作品のリアリティを量るような気分で、ユウキでもそう思うだろうかと主人公の決断の早さを疑ったり、ミサトならこうは言わないなと思いめぐらしたりするのでした。それからまた逆に、主人公の内的世界を読み進むうち、ふいにかってのクラスメイトの不可解だった仕草や表情を、「ああ、そういうことだったのか」と思い出すこともありました。
 もう少し詳しく書けば、そのクラスメイトを呼び出しているのは、おとなのぼくなのではなく、ぼくの「内なる子ども」だったように思えてならないのです。
 あの「留学」体験は、ぼくにとって一種の物語体験のようなものでした。三沢空港かJR三沢駅から百石に向かうタクシーの中で、ぼくはビニールのカバーがついた百石小学校の名札をセーターの胸につけるのですが、この名札は一種のマジカル・アイテムで、タクシーがさくら旅館に着く頃、ぼくは十歳の少年に変身しはじめているのでした。
 あの百石での気配が、本の中から漂ってくると、ぼくはごく自然にクラスメイトと主人公たちを混同しはじめ、奇妙な酩酊感を味わうことができたのでした。

子どもたちと子ども


 話が少しまわりくどくなるのですが、「留学」中、ぼくは友だちと児童文学や子どもの本について、ほとんど何も話さなかったのでした。学校でも、放課後も、そういう話題にぶつかることはありませんでした。それは別に百石の子どもたちが本を読まないという意味では全くありません。ぼくが関心を持たなかったからということになるのですが、これもことさらにそうしたということではなくて、ふつうの四年生として生きて(ふるまって)いると、児童文学はみんなで話すほどのテーマではないことが、ごく自然にうなずけるのです。
 例えば、おたのしみ会の出し物に紙芝居を選んだ班が図書室で原作をあさるとき、内容のおもしろさより紙芝居に作りかえゃすい (知名度が高いとか、絵のタッチが真似しやすいとか)ことの方が優先されます。制作の進行が遅れると、ぼくにまで「お絵描き」要員として声がかかります。絵のうまい、へたはもうどうでもよいらしく、背景をどんなふうに省略したらよいかなどと相談しても「ジロちゃんにまかせる。好きにやって」と相手にされませんでした。その原作を愛読していた子がいたら耐えがたい屈辱だったでしょうに、そういう文句はついぞ聞きませんでした。
 朝自習のとき、曜日によっては計算や漢字のドリルをやるかわりに、教室の隅にある本棚から勝手に選んで読書することになっていましたが、そんなときも、自分の読んでいる本のおもしろさを、となりの子に話して聞かせる人はいなかったし、休み時間まで本の内容を引きずる子もいませんでした。まして、放課後ぼくの旅館に遊びに来るとき、漫画やゲームボーイを持ってくる子はいても、本をもってくる子はひとりもいませんでした。こうしてぼくは「留学」中、児童文学の類を回し読みしたり、おしゃべりしたりするチャンスには、一度も恵まれなかったのです。
 にもかかわらず、四学年を「修了」し、もう学校には行けないということになったとき、児童文学を読んでいると、それがすぐれたものであればあるほど、かつてのクラスメイトが、物語世界のあちこちからわき出てくるようになり、頭の中は子どもでいっぱい状態になってしまったのです。
 これは、「子どもたち」と「子ども」の違いだと考えることもできます。「留学」中、ぼくが接し得たのは「子どもたち」、つまり子ども社会のうちに社会化された子ともたちだったのです。だって、「友だち」とは、まずそのようなものではありませんか。むろん、彼らはひとりひとりの「子ども」です。けれど、そのひとりひとりの「子ども」と出会うには、離れてみなければならなかったのでした。
 離れてみて、もう簡単には会えないという状態に陥ったとき、ぼくはかつての体験や光景を懐かしく思い出すというのとは別に、個々の友だちのことを考えるようになりました。「あいつ、いまごろ何をやってるのだろう」という単純な好奇心で始まった「もの思い」も、いつしかその子の社会化されない部分を探る方向で、深化していきました。
 記憶の中のごく微細な部分が、クローズ・アップされることもありました。あのとき、なぜ急にミズキは黙ってしまったのか、ケンタはどうして口を曲げて、いつもとは違う笑い方をしたのだろうか。そういう声や表情や気配のディテールは、ひとりの子どもの内奥に思いめぐらす手がかりでした。
 しかし、それはあまり頼りにならない手がかりです。なぜなら、そのときぼくは咄嗟にミズキからもケンタからも眼をそらしたからです。眼をそらすことが子ども社会の一員の仁義のように思えたのでした。

気配としての子ども


 児童文学は、「子どもたち」の文化ではないのではないか、とぼくは思います。子どもが子ども社会から解放されて、あるいは疎外されてひとりになったとき、ようやく子どもは文学と向かい合うことになるのです。この点ではおとなの読者と異なるところはないはずです。
 よく、前夜の人気テレビ番組を見ておかないと、翌日学校に行って話が合わなくて困ると、子どもたちは言います。確かに百石でも「マジカル頭脳パワー」の翌日は、朝からみんなで番組の真似をして遊びました。みんなが共通の経験と知識を持っていることが、子ども社会のコミュニケーションをなめらかにするのでした。
 本の場合は、こうはいきません。読んだのは自分だけです。得意になって吹聴したくなるような内容ならばいざ知らず、本のおもしろさとは、いつだっていわく言いがたいものです。社会化を断念せざるを得ない孤独な世界の存在を、子どもはかなり小さいときから知っているように、ぼくには思えます。児童文学は、その孤独の世界を確固たるものにつくり上げていく上で、いくらかは貢献してきたのかも知れません。
 けれども「読書感想文」といった悪習が、機械的な社会化を急がせるといった条件下で、社会化を断念せざるを得ないような思いの価値は、思いきり下落してしまったともいえます。社会化されないもの、おとなが評価できるようなはっきりした形で表現できないものは、無意味なのです。『ごめん』や『選ばなかった冒険』に限ったことではないのだけれど(翻訳ものを読んでいてさえ)、ぼくは「内なる子ども」をとおして、社会化されざる子どもとの密やかな呼応を意識せずにはいられませんでした。これも本当のところかなりきわどい話なのです。つまり「留学」中に接していたあの懐かしい面々は、ただ思い出している限りではいわば子どもという現象にすぎないのであって、文学空間を共に生きる朋友というわけにはいかないからです。単なる思い込みといってしまえばそれまでなのですが、読書体験の中に立ち現れる子どもは、まだ見たことのないユウキであり、ミサトなのです。
 彼らがそのような孤独をしっかり胸のうちに秘めていたことは、現実的に確認できるはずもないことなのに、間違いないことなのです。それは確認するものではなく、ただ「思う」だけのものだ、と言ってしまってもよいのではないでしょうか。
 一年間の「留学」がぼくにもたらしたのは、めくるめく十歳の体験だけではありませんでした。実は「留学」記を一冊分書きつづける間、ぼくは自分の体験が夢まぼろしにすぎなかったのではないか、と何度も疑わざるを得なかったのです。一年間百石に月数日ずつ通ったのはまぎれもない事実で、学習ノートやテスト用紙、写真や友だちからもらった手紙など「証拠」にはこと欠かないのです。にもかかわらず、何かが暖昧でした。
 ぼくは、子ども社会の中に相互にきちんと位置づきながら、あざやかに個性を発揮する子どもたちを、眩しく眺め、その網の目に自分がからめとられる快感に我を忘れるという状態でした。けれども、真のリアリティは、「我を忘れる」ような状態では掴みようもないのです。眩しく眺めていた子どもたちの、そのひとりひとりの内奥にそのときうごめいていた気配の方が、「留学」後のぼくの心に強く残っているのを発見したのは、本を一冊書き終えたあとでした。
 結局、「留学」をとおしてぼくは「子ども」という物語の入れ子細工ふうの二重構造にようやく気づいたのでした。子どもの実存は眼に見えないものだったのです。
「気配としての子ども」などといえば、レトリックが過ぎるでしょうが、そう呼ぶしかない魂の同伴者の存在を、ぼくは強く感じます。児童文学を読むたのしみは、ここ一年ほど、その感じを強めることにほかならなかったのです。

二重の感じ方


はじめの方で引用したセンダックにもどります。絵本作家は、自己の内面の経過や現象のように「子ども」を語りました。あの子どもはセンダック自身であり、同時にたやすく一体化できないような他者なのだと思います。このような断続的関係こそが、自己というものの正体なのかも知れませんが、この関係は、決して単なる光景や体験の回想などでは維持できないはずです。もしそうできる程度のことであれば、「彼との接触を失ってしまうこと」を一番恐れる必要などありません。アルバム一冊でことはすむはずです。
 けれど、センダックが求めているのは思い出の子どもではなく、気配としての子どもなのです。「内なる子ども」とは、作家であれ読者であれ、実体的なものではあり得ません。「内なる子ども」がいるというより、自分の内面の説明のっかないある部分を、「子ども」ということはで掬ってみたにすぎないのですから。
 いや、センダックには別の考えがあるのかも知れません。彼はへントフのインタビューに答えて、三重の感じ方」について話しています。「私が大人として手にするさまざまな喜ぴは、私がそれらを同時に子どもとして体験するという事実によって、高められるのです」と。またその先をちょっと引用します。「ただ、こういう二重の感じ方ができなくなる時があります。そうなるのはたいてい仕事がうまくいっていない時です。そうなると私は、本というもの、とりわけ自分のものがいやになってしまいます。つぎには、自分がこの二重の感じ方に頼っていることが不愉快になってくる。そこで、それをやめてしまいます。すると、私はゆううつになります。ところが自分がとりかかっている仕事に対する興奮が戻ってくると、とたんに例の子どもも戻ってきます。私たちは再びしあわせな関係にかえります。」
 あまりにも率直な言い方なので、かえって比喩の微妙なところが疑わしくもあるのですが、百石の「留学」生活は正にこのようなものだった、といわずにはいられません。ぼくは「二重の感じ方」が得られるようなチューニングに毎日心を砕いていたのでした。子どもからおとなへ帰ってくるときの、覚醒というより喪失に近い感覚は、背筋が寒くなるほどでした。ついいましがたまでぼくを「子ども」に変えていた魔法が徐々に薄れていく気配を、ナルニア国の体験のようなリアリティで、教室の窓のあたり、黒板のあたりに、確かに感じたのです。
 けれど、よく考えてみると、この「二重の感じ方」の自覚は、「留学」ではじめて体験したことではないようなのです。
 一九八七年に創刊し、今年五○号を最終号として出して一区切りつけた個人誌を、ぼくは『三輪車疾走』と名付けたのでした。この誌名は一九八○年に創刊された『80年代』という雑誌のコラムに用いていたものの流用です。つまり、一九八○年に自分の立つべき場所のシンボル的な表現として、「三輪車疾走」ということばを思いついたのです。
 小さい子が三輪車に乗っているのを見ると、胸がときめきます。背中を丸め、忙しくぺダルを踏むときのもっともらしい横顔は、疾走中のライダーのようです。その子にとって、三輪車は白バイなのかも知れないのです。けれど実際は、おとなが追いかければすぐに捕まえられる程度の速さです。子どもの危険を防ぐために、視野の隅に現在地を常に確認できる程度のモビリティです。ぼくは、子どもの感じている疾走感と、視野の隅で見守るおとなの冷静さを、二重に感じていたい、と思ったのです。冷静さだけでは感じることができない疾走感に未練があり、しかしそこに全面的に同化するのもためらわれたのでした。
 ぼくはいまもこの方針を変えようとは思っていません。「留学」を期に、いっそう確信を深めたような気さえしています。この地点から見ると、児童文学にいちばん大切なのは「気配」なのではないだろうかと思えてもきます。その気配を感じることができるか否かを、当面児童文学への批評の軸にしてもいいのではないか、とも思うのです。

*引用したナット・へントフ「かいじゅうたちにかこまれて」は、『オンリー・コネクト』3(岩波書店)所収。清水真砂子訳。
**「留学」のあらましは『気分は小学生』(岩波書店)をご参照ください。