ひこ・田中は、デビュー作『お引越し』(福武書店/一九九○年)で、父母の別居に遭遇した娘の心持ちを鮮やかに描いてみせました。その中に、母と娘が二人の生活のための契約書を交わすところが出てくるのですが、これがみごとに、親と子の目線のズレを描いてみせるのです。それは、何を引用せずとも、二人の書いた契約書のタイトルだけ見れば分かります。日く、「2のための契約書」、「3ひく1のためのけいやくしょ」。どちらがどちらのものかは、もちろん、そこに使用される文字をご覧になれば言わずもがなでありますが、二人になった生活をダイレクトに「2」と捉える目線と、それを「3ひく1」と捉えなければならなかった目線は、『ごきげんなすてご』で説明した構図とまったく同じです。このような目線のズレに対する配慮は、『お引越し』の全編を通して貫かれ、ゆえに、この作品では、これまでの離婚物語には見られない、「子どもは離婚(あるいは別居)の当事者ではないが、その生活において紛れもなく関係者なのだ」という主題を描き得たのだと思います。もちろん、このことだけがこの作品の主題だと 言っているわけではありません。ひこ・田中という作家は、大変コンセプチュアルに作品を作リますから、この『お引越し』の場合は、十中八九、今江祥智の『優しさごっこ』(理論社/一九七七年)が意識されているでしょうし、『お引越し』を『優しさごっこ』への批評として捉えると、また別の面白い読み方ができます。

 前述の「日本児童文学」七月号には、本年度の日本児童文学者協会新人賞の選考報告が掲載されています。そこには、第二次候補作品としてノミネートされた『カレンダー』に対して、「いわば流行語をふんだんに使っていくことが新しいという錯覚がありはしないか、文学はあくまで文章で人を動かすことなのだから現代の感覚を描くにしても文章をないがしろにしてはいけないという否定的な意見」があったということが、新冬二氏によって報告されています。この意見それ自体は、「流行語をふんだんに使っていくこと」と、「文章をないがしろに」するということを混同した(あるいは意識的に論理のすリ替えを行なった)、それこそ〈文章をないがしろにした見本〉のような強引なもので、取る
に足るようなものではありません。が、しかし、この手の「文学」の二文字を水戸黄門の印寵のように振りかざすやり方が大嫌いなので、一言二言皮肉をいわせていただくと、この言に従えば、サリンジャーもナット・へントフも、ロバート・コーミアも、ヒントンも、すべて「文章をないがしろにし」たものということになり、ひいてはそれが、「文章で人を動かす」「文学」としての位置を脅かすということになるはずです。また、この意見を述べられた方は、このようなことをおっしゃっている以上、「文学」も「文章で人を動かすこと」も、「文章をないがしろにし」ないことも、全部分かっていらっしゃるのでしょうから、この一文をその見本として意地悪く読み解かせていただくと、つまりは「文学」における「文章をないがしろにし」ないこととは、とリあえずレトリックにくるみ込んで強引に押し切ってしまえという凄まじいものになります。とすれば、レトリックによって「人を動かす」アジテーションの巧さこそ「文学」の価値なのでしょうか。任意団体の新人賞とはいえ、まがりなりにも何ほどかの作品を選び、評価を与えるのですから、このていたらく、以後心していただきたいと思い ます。
 それはさておき。
 この意見で注目すべきは、『カレンダー』が〈流行語〉を使うことを新しさだと思って書かれた作品であると、それこそ「錯覚」されている点です。これは、非常に興味深いことであるように思います。また、これは特に『カレンダー』についてのみの指摘ではありませんが、「今回もやたらに流行語を使った作品がいくつか見られた。それも会話にではなく、地の文にである。流行語を使うことは、最も古いやりかただということを、新人たちは肝に銘じてほしい」なる鳥越信氏の選考評も見受けられ、まあ、幾分は『カレンダー』に対しても、この言が及んでいると考えることができます。
 〈流行語〉の使用については意見の分かれるところでしょうが、僕個人としては、それを悪いことだとは思いません。もちろん、〈流行語〉を使用しただけの、ほとんど露悪的ともいえる駄作がこの世に渦を巻いて存在することは認めます。悪例として取りあげるのは気が引けますが、たとえば、『新潮現代童話館l』(新潮社/一九九二年)の中に納められた、落合恵子の「バンビーな夜」のように(タイトルからして「バンビー」を使用)、「チーム」などの〈流行語〉を使用しつつも、しかし、物語の時代を七○〜八○年代に置いて「チーム」を「暴走族」に書き換えたところで、一向に物語が変質しないような場合、その〈流行語〉の使用を非難されてもいたしかたないと思います。けれども、それはあくまで、文章という、話言葉とは明らかに違う言葉の体系の中に、手入れすることなく異物を放り込む言語感覚が問題なのであって、作品の質的低下は〈流行語〉の使用それ自体が招いた結果ではないはずです。
 では、ひこ・田中の言語感覚はどうでしょうか。先程、『お引越し』の契約書を例に取りましたが、その記述に対してさらに詳しく説明すると、その契約書は手書きの文字が使用されています。また、この物語のヤマ場である、主人公・漣子が母と自分、父と自分との関係-つまりは、「家」というものについて逡巡する大事なシーンでも、やはり同様に、書き文字を使用しています。この書き文字、漣子と母親のものは筆跡が異なり、文字表現における効果を熟知した上で行なわれているのです。まず、このことから、ひこ・田中が書き言葉と話言葉を混同するような感覚を持つていないことが分かります。つぎに、『カレンダー』では、主人公・翼の一人称の語りによる地の文、さらに、二十歳の自分に向かってテープレコーダーに日記を吹き込む(!?)翼のモノローグ、祖母・文字暁子のまさに文字による日記、山上海の目から見た地の文、翼から海への手紙、海から翼への手紙、文字暁子が仲間たちと一緒に作った雑誌「女声」に書かれた暁子(らによる)創刊の言葉など、明らかに語りのシステムの異なった言葉たちが意識的に使用されています。これによって、一つの物事に対して、モノラルではない 、複眼的な視点を与え、翼の周りに流れる時間を重層的に表現することに成功したのです。そして、このことから分かるのは、ひこ・田中が文章表現による語りの言葉に対しても、大変に鋭敏な感覚を持っているということです。彼は、話言葉を書き言葉(文章)に定着させる時、細心の注意をもって行なっています。物語の冒頭、八ぺージの
「あんたねー助ける気がないのなら心配なんかしないで助けられないのなら声なんかかけないでわかった?」
『、』も『。』もなしに一息で、女がしゃべった。

というような、表記を見てもそのことがよく分かリます。それは「『、』も『。』もなしに一息で」しゃべるという、その場の緊迫感を表現するという感覚であると同時に、(今この場で皆さんにもこの文を音読していただければよく分かると思いますが)「助ける気がないのなら」「助けられないのなら」という、しゃべり言葉としては比較的いい難く、本来であれば「助ける気がないンなら」のように撥音便化するであろうところを「の」のままで表現するような、書き言葉(黙読する)という言語の体系の違いに対応できる感覚です。したがって、『カレンダー』の表現については、〈流行語〉を使用することを新しさだと思っているような薄っぺらさはどこにもなく、むしろ、それらの言葉の与える違和感をすら、作者なりの計算に基づいて行なわれていると見る方が妥当であるように思います。

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