ぱろる5号 1996/12/20
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創刊準備号で「これでいいのか子どもの本」という特集を掲げてスタートした『季刊・ぱろる』も五号目を迎えた。創刊以来、表紙に毎号「子どもの本はおもしろい」という文字を掲げている。それは、「子どもの本」の魅力を「おもしろい」という簡潔な言葉でとらえ、その世界の広がりを探っていこうという「こころざし」の表現であり、一種の「思想性」でもある。たかだか、子どもの本が「おもしろい」というだけで、それがこころざし」であったり「思想性」であるとは、ずいぶん大袈裟だと思われるかもしれない。ところが、日本の子どもの本は、この当たり前のような「おもしろさ」をめぐって、じつに屈折した歴史をたどってきているのである。 この号で、著者の了解のもとに全文掲載させてもらうことになった、山中恒の「課題図書の存立構造」(初出『教育労働研究2」 一九七三年 社会評論社。再録『児童読物よ、よみがえれ』 一九七八年 晶文社)は、課題図書という怪異なシステムを成立させつづけている日本の子どもの本の世界の拠って立つ基盤を歴史的にたどりながら、子どもの本にとって「おもしろさ」という当たり前のことが、いかに疎外されてきたかを詳細に論じたものである。すでに二十年以上前に書かれた文章であるが、今日でもその事情は大きく変わっていない。 よく知られているように、戦前に多くの子どもたちを魅了した、雑誌『少年倶楽部』のキャッチフレーズは、「面白くて為になる」だった。『少年倶楽部』は、一九一四年(大正三年)に大日本雄弁会(現在の講談社の前身)から創刊され、昭和十年前後には正月号で八十万部近くまで部数を伸ばしている。今日のようにマスコミが発達していない時代に、それは驚異的な数字であった。その『少年倶楽部』の編集方針として、発行人の野間清治は、次のような文章を創刊後まもなく雑誌に掲げる。 「今日の状況を見るに、学校において授ける事柄は、児童にとっては既に十分である。否児童の負担に堪え兼ねる位にも思われるのであります。故に学校を退いて家庭に帰り来ったところの児童に対して、雑誌が更に又学習に関するが如き事柄を授けるということになっては、児童は寧ろ食傷する位ではありますまいか。悪くいえばかくの如きことは却って人の子を賊うという虞れがあるのではあるまいか。(中略)若し出来るならば、今日学校において為そうとしても出来ないというような仕事があるとすれば、雑誌はそれらの仕事を引き受けてやるということで学校教育を補いたい。これが為めには、利益(ため)になるということは第二に来るべき問題であって、先ず以て面白いということに力を尽くさなければならない。そして面白いということの後に、知らず識らずに利益(ため)になるということが随いて来る。面白いという顔つきで利益(ため)になるという荷を背負って居るような材料を蒐集しなければならない。(以下略)」 この野間清治が掲げた編集方針を簡潔にしたものが「面白くて為になる」である。「おもしろい」ものは「ためにならない」というのが、日本の近代が構築してきた勤勉で禁欲的な根強い倫理観でもあったのだが、それに対して、「面白くて為になる」とアピールしたところに、『少年倶楽部』を成功に導いた野間清治の先見性があった。以後『少年倶楽部』のみならず、子ども向けの大衆雑誌は概ねこの路線を踏襲している。子どもの本にとっての「おもしろい」という一種の快感原則は、それを与える大人たちの教育的な価値感を逆撫でするのだろうか。戦後に至ってもなお、「おもしろい」ものイコール「俗悪」といった短絡が根強く生き続けて、逆に「ためになる」ことだけが前面に押し出されてきた。 戦後の子どもの本の流れを辿ってみると、子どもたちの未来に対する大人たちのひたむきな思いや使命感からか、「俗悪」の刻印のもとに「おもしろさ」をひたすら排除してきたように思えてならない。とりわけ子どもの文学は、戦後の文学教育や読書運動と結び付き、「おもしろさ」を「思想性」や「文学性」の対極に据えて排斥してきた。そこには、禁欲的な勤勉さが戦前戦中の軍国主義イデオロギーを補完してきたということの反省がまるでない。読者である子どもに対する理念ばかりが先行し、読者の欲求に応えようとしていないのだ。その間隙をぬって「おもしろさ」を追及し、子どもたちとの直取引で巨大に成長を遂げていったのが漫画(コミック)だったのだ。 しかし、改めて振り返って見たとき、戦後の子どもの文学に、「おもしろさ」に対置できるような「思想性」や「文学性」がはたして存在したのだろうか。 上野瞭は、野間宏や椎名鱗三の作品が内包していた文学の「戦後性」は、そのまま等質に児童文学の「戦後性」とは重ならなかったといい、児童文学の「戦後性」は「戦後現象」で代置されたのではないかと疑問を投げかけた。(『戦後児童文学論』 一九六七年 理論社) そして、「結局は、従来の童心主義と等質の表現方法で、みずからを縛りあげ、新しい戦後のフィールドを開き得なかったのではないか。」と述べる。つまり、戦中をくぐり抜けたことによって獲得した戦後精神のきらめきが、その文学性にも思想性にも感じられないというのだ。 今からほぼ二十年前の論文だから、ここでは戦後二十年を経た当時の児重文学の現状について語っているのだが、日本の児童文学が「戦後」の再検討をあいまいに欠落させたままやり過ごして来たという上野瞭の問題意識を引き受けて、ぼくは同人誌『極光』 一号(一九八一年)から五号(一九八三年)に「〃戦後〃児童文学論再考」を連載した。そこではまず、戦後まもなく創刊された雑誌『近代文学』の、本多秋五、荒正人、平野謙ら同人たちの発言と、関英雄ら児童文学者たちの当時の発言を照らし合わせ、戦後の出発点において児童文学者が総体としてたどった没主体的な戦後現象への便乗的な姿勢を明らかにした。そっしてあぶり出されてきたのは、戦中の作家主体としての自己検証に目をつぶり、戦前からの童話伝統を戦後理念に接ぎ木して居直ったとも見える、当時の児童文学者たちの非文学性と無思想ぶりである。 童話伝統については後に、早大童話会のメンバーなどから批判されることになるのだが、現在から見るとそれも多分に不徹底であったといえる。童話伝統を支えてきた子どもの本の存立構造や、その思想性に踏み込んでいない。『赤い鳥』の文学性とプロレタリア児童文学の思想性といふ、芸術的伝統と革命的伝統を接ぎ木した戦後児童文学の立脚点を、児童文学伝統総体に対する批判として穿つには、当時の児童文学界内部のイデオロギーと党派性が邪魔をしていたのであろう。 日本の子どもの文学は、五十年代末からにわかに活況を呈してくる。それまで年間に数点しか刊行されなかった創作の新刊も、一九五九年には十点を超え、佐藤暁、いぬいとみこ、松谷みよ子、山中恒らの新人作家が、長編作品を伴って次々と登場する。とりわけ山中恒は、一九六○年の一年間に『とべたら本こ』『赤毛のポチ』『サムライの子』の三冊の長編を出版し話題になる。それは、敗戦による荒廃から立ち直った日本経済が高度成長期に向かい、大衆消費社会が到来し、テレビの急速な普及に伴いマスコミ時代・情報社会に移行する時期と重なるものであった。消費化社会、情報化社会は、新たな子ども商品市場を急激に拡大していく。子どもの文学も、それまでの同人誌的な閉鎖性から脱却して、にわかに市場価値を持つようになる。質的に大きな転換点を迎えた時期が、市場の急速な拡大と重なって、六十年代の日本の子どもの文学の隆盛期がやってくるのだ。 一九六○年四月、石井桃子、いぬいとみこ、鈴水晋一、瀬川貞二、松居直、渡辺茂男の共同研究による『子どもと文学』が中央公論社(後に福音館で再刊)から刊行される。海外の子どもの本に通ずる著者たちが、小川末明、浜田広介、坪田譲治、宮澤賢治、千葉省三、新美南吉など日本の子どもの本の作家と作品を詳細に検討し、それらが読者である子どもたちとどう関わるか、子どもの文学にとって大切なものは何かなどを明らかにする。そして、「世界の児童文学のなかで、日本の児童文学は、まったく独特、異質なものです。世界的な児童文学の基準-子どもの文学はおもしろく、はっきりわかりやすくということは、ここでは通用しません」と述べている。 子どもの文学はおもしろく、はっきりわかりやすくという、まったく当たり前のことが通用しないとは、どういうことなのだろうか。当時の子どもの文学は、それとは違った価値観で成立していたということなのだ。それまでの子どもの本では、読者である子どもへの訓育性や、その時々の皮相的なイデオロギーやテーマ主義が大手を振ってきた。そこに新しい作家たちが登場し、欧米の児童文学作品やその考え方が紹介されだし、おもしろさや、わかりやすさや、物語性が脚光を浴びるようになるとともに、子どもの本の市場が拡大していった。 山中恒は、「課題図書の存立構造」の中で次のように言っている。 「一九六〇年前半、日本の児童文学が質的転換を果たしつつあり、児童文学の「おもしろさ」の問題が、理論ではなく作品で競合しようとしたのが、「おもしろさ」だけではだめだと言われだしたとき、課題図書が猛威を振るい始めた。」 これだけでは何のことかよく判らないが、それに続く文章を読めば、概ね言わんとすることの趣旨は理解できるはずだ。しかし、もっと明快に山中の真意を伝えるために、以下の文章を紹介しておこう。 「創作児童文学はこの[課題図書]が猛威をふるい始めたときから、テーマ主義的傾向を示し始めた。そして、子どもの本の仲介者である、親たち、教師たちに通りのよいテーマのものが好意をもって迎えられ、仲介者の中でも読書運動家と目されるあたりが、本の批評を始め、本の善し悪しを作家の傾向(思想性もふくめた上で)で判断する風潮が出て来た。(『月刊東風』 一九七五年二月号所収、「児童文学は、いま・・・・・・」より) 山中恒は、七十年代半ばに課題図書について随所で書き続けている。それは、膨大な資料を駆使して取り掛かった『ボクラ少国民』シリーズの執筆と重なる時期である。巧妙に皇国民の練成を果たした戦時下教育の実態を迫及する中で、止むに止まれぬ熱情と怒りが、課題図書と児童文学という現代のシステムの批判に向かわせたのだろう。 「ここ数年来、児童文学界は、組織的に極めて政治色濃厚な一党支配状況が確立しつつある。現在、日本の児童文学系団体で、最大規模を持つのが[日本児童文学者協会]である。いわゆる「民主主義的児童文学の創造と普及」を目的とするこの団体は政治的には、日本共産党の系列に属する文化団体で、同じ政党系列に属する[日本子どもを守る会]や、これまた同系列の全国的規模をもつ読書運動団体[日本子どもの本研究会]などと、密接な連携のもとに、普及面で確実な成果をあげてきた。(中略)子どもをとりまく、すべての状況は確実に悪化しつつある。にもかかわらず、児童文学界で[子ども離れ]を評価する発言さえあらわれ始めている。かつてこの国の児童文学の優れた先達たちは、己の内なる心象としての童心に憧憬的に真善美の殿堂をうち建て、現実の子どもを拒否して、なおかつその殿堂を[童話]乃至は[児童文学]と名づけた。その伝統はいまなお、脈々として誇り高くうけつがれているのである。」(『文芸年鑑』一九七七年度版所収、「児童文学l976年」より)後半はなかば自棄っぱち気味の皮肉であるが、「本の善し悪しを作家の傾向(その思想性をふくめた上で)で判断する風潮」とは、こ の文章の前半の党派性に関わることであった。 六十年代を迎え、日本の子どもの本が「おもしろさ」を見出だし、正当に評価が始まろうとした矢先に、「おもしろさ」だけではだめだといわれ出し、課題図書が猛威を抵るいだしたと山中は言う。と同時に、テーマ主義的傾向を示し姑めたとも。 つまり、「おもしろさ」という読者に開かれた本の価値が、進展する消費化社会の中で市場価値を持ち始めたとき、読書運動の一環として教育界を巻き込んだ、読書感想文コンクールの課題図書という怪しげなシステムにより、それが後退していった。しかもその課題図書なるものが、どのようなプロセスで誰によって選ばれるかも不透明なまま、小学生対象のものだと二十万部も三十万部も売れるのだから、その影響力たるやたいへんなものである。出版社や編集者は、いきおい顔の見えない課題図書の選定者の意向を気にせざるをえない。その間の事情については、「課題図書の存立構造」で詳しく紹介されているので、ここでは敢えて触れないが、総じて規模の小さい児童図書の専門出版社にとっては、課題図書に選定されるかどうかは、まさに死活問題だったのである。それは現在も変わらない。 課題図書の成立事情についても、「課題図書の存立構造」を読めば判るが、読書感想文コンクールの応募点数は、一九六四年に一○○万編を突破し、七十年には二○○万編、七六年には三○○万編を超え、以後更に増え続け、今日では四○○万編に迫ろうとしている。この数字を見る限りでは、依然として課題図書の威力は衰えていないと言えよう。 課題図書というシステムは、あらゆる商品が持つ市場価値とは違った構造によって、相変わらず子どもの本の市場で一定のシェアーを確保している。それが多分に作為的であり、恣意的であるということが、子どもの本の現在を呪縛し統けているのだ。これを視野におさめることなくして、子どもと本の現在を穿つことはできない。その意味でも、三十年以上前に書かれたものだが、「課題図書の存立構造」の今日的意義はまだまだ大きい。子どもの本の現在を語るのに、相変わらず課題図書を問題にしていかなければならないというのは、寂しく悲しいことでもあるのだが。(野上暁)季刊ぱろる5号 1996/12/20 |
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