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これほど、言葉のもつ力、言葉の美しさを真正面からとらえた作品があっただろうか。パトリシア・マクラクランといえば、『のっぽのサラ』に代表されるような、色彩豊かで美しい詩のような言葉遣いが印象的だが、本書では言葉そのものがテーマになっている。 夏が終わり、最後のフェリーが夏の避暑客たちを運びさった後、潮風のおくりもののように赤んぼうのソフィーがやってきた。ラーキン一家をみこんで、一時的にソフィーの母親がおいていったのだ。一家はソフィーを預かることにする。ラーキンの家族は、パパとママとおばあちゃんとラーキン。生まれてまもない弟を亡くしたばかりで、家族はまだその痛手から立ち直れず、ラーキンは話したいのだが、パパとママはそのことにふれようとはしない。 ソフィーは弟の生まれ変りではない、いつかは行ってしまうのだと分かっているが、ラーキンたちは家族みんなでソフィーに愛情を注ぐ。ソフィーがここを出ていくとき、愛された思い出をもっていけるようにと。 新しい学年が始まり、ラーキンは授業で言葉のもつ力について学ぶ。春になりソフィーの母親がソフィーを連れ帰った日、ラーキンは家族で死んだ弟のことを話し合う。十年後の夏、ソフィーがラーキンたちに会いにやってくる。 以上の筋の中で、言葉に関しては、三つの構成要素からなっている。学校で習う言葉のもつ力と、死んだ弟のことを言葉に出すことで悲しみを癒すことと、ソフィーが言葉を話し始めることとである。 最初の学校で習う言葉のもつ力とは、学校といってもかたくるしい授業のことではなく、図書室のミニフレッドさんが、言葉について詩について自分の体験を話すのである。十二歳のとき兄さんが死んでどうしてもその死を受け入れられずにいたとき、兄さんの大事にしていた詩をみつけ、それに慰められたというものである。その詩とは、マクラクランが作品の冒頭に掲げているエドナ・セント・ヴィンセント・ミレーの『曲のない挽歌』でわたしは口をとざして、あきらめてしまうつもりはない、やさしい心をもった者たちがかたい土の下にとじこめられてしまうのを。…で始まる言葉のもつ力そのものともいえる詩である。 ミニフレッドさんの話に深く心を動かされたラーキンは、家にあるパパの本の中にもこの詩をみつける。そしてこの詩をママに見せて弟のことを言葉にしてママにうったえるーー「あたしは、赤ちゃんを一度も見せてもらえなかった、それに、ママたちは名前もつけてやらなかった」と。パパはこの詩からラーキンに消えるまえに空中を伝わっていく言葉の命について話す。『曲のない挽歌』は第二の互いに言葉に出すことで弟の死の悲しみを乗り越える要素につながっているのである。 最後のソフィーには、ラーキンの一家がソフィーに愛情を注ぐことで心が和み弟の死を言葉にする力をもてたという役割の他に、ソフィーは言葉に関して人が言葉を獲得していく仕方を見せてくれる。ラーキンの家族が言葉のもとになる基礎を与えたのである。パパはソフィーとじゃんけんやダンスをし、おばあちゃんは片端から自分の知っている歌や詩をソフィーに聞かせる。愛情のこもった言葉の源からは暖い言葉が生まれてくる。物語の所々に思い出として語られるソフィーの言葉は暖い。「風がすきで、音楽がすきだった。…夢にあらわれる、沼地の草をふきわたる風の音。それに、歌。かすかにきこえてくる歌。でも、目がさめたときにはもうおぼえていない」 潮風のおくりもののようにさわやかな物語。日本語の乱れが言われて久しい今日、本書を読んで「命をもった言葉」にふれてみるのはいかがだろうか。(森恵子)
図書新聞 1995年11月18日
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