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内なる役割意識から自由になるために 1.はじめに この作品はドイツの女性作家イリーナ・コルシュノフによるヤングアダルト( 中・高生向き)小説である。ヤングアダルトというのは、いわゆる子供向け図書ではなく、大人の世界へ踏み込みつつある人たちを対象としたもので、現代の社会状況を反映したもの−−必然的に女性問題を扱ったものも多く、その中でも特にフェミニズムの要素が強いということでこの作品を選んでみた。 物語は17才の少女ザビーネが、初めてのボーイフレンドであるゼバスチアンとの関係の中で、男女関係における女の立場をとらえなおし、それと同時に、父と母の関係の中で母の生き方を批判しながら、自分自身の生き方をも考え直していくという2つのテーマにそって展開する。 コルシュノフは「日本の読者のみなさんへ」という巻末の一文で次のように書いている。 「私の息子が、初めてのガールフレンドを家 につれてきました。大学生であった彼女が次第に自主性を失っていき、お母さんやおばあ さんのころの女性の役割にもどっていくのをみて、私は驚きました。それが、この物語を書くヒントになりました。」 伝統的な女性役割を否定し、主体的であろうとする女性も、対関係や家族関係の中では、いつのまにかその役割を生きてしまっていることが多いが、無意識のうちの役割の内面化には母親が大きな影響力をもっているのだろうか。 ここで「娘と母の関係」というフェミニズムにとっての課題が浮上してくる。この問題を私自身に照らし合わせてみれば、30代半ばを過ぎ、子を生み育てている私は、生物学的にも社会的にもまぎれもない「母」なのであるが、この作品を読むうえでも、どちらかというと17才の少女の立場にたってしまうという「娘」としての部分をかなりもっている。それは私が「未成熟な母」であるということかもしれないが、「娘」としての自分をいつまでもひきずりながら「母」を生きるということは、どちらの立場をも肯定しつつ、両者のもつ独善性やエゴイズムが見えるという位置にある。ここではそういう矛盾を孕んだ存在であるゆえの視点から「母と娘の関係」を、今の私につながるものを探ってみたいと思う。 2.ザビーネとゼバスチアン ヴァイオリンを自分の人生で一番大切なものと考えるゼバスチアンと、ザビーネとのケンカ別れのシーンから物語は始まる。 ザビーネはゼバスチアンと出会うことで大きく変わった。死について、政治について真剣に語り合えたのは彼が初めてだったし、今までの自分の価値観を問い直すようにもなった。ゼバスチアンは「ザビーネにとって必要なものの、たくさんの閉ざされた扉を開いてくれた。」けれど、その一方でまた別の種類の変化が、ザビーネの中で起こっていた。彼女は11才の頃から化学に興味を持ち始め、卒業後は大学で化学を専攻したいと考えていた。ゼバスチアンと出会う前のザビーネは、天然物質から毒性のない防虫剤を作るという化学実験のアイデアを実行に移し始めていた。それなのに、彼との関係が深まるにつれて、化学実験のことも、大学も、いつのまにか彼女の中から消えてしまっていた。そしてついには、自分がギムナジウムを卒業すれば銀行に就職してゼバスチアンと暮らし、彼の世話をし、彼がヴァイオリニストになる手助けをする、それ以外はどうでもいいと思うようになっていった。 自分の世界を失いつつあることに無自覚なまま、どんどんゼバスチアンに傾斜していくザビーネと、彼女との関係が大きな位置を占めることによって、自分がヴァイオリンを2番目の位置に下げ始めたことを自覚していたゼバスチアンとの関係は、その頃から微妙に変化し始める。冒頭のケンカシーンで、ゼバスチアンはザビーネに言う。 「君は君のやりたい事をして、ぼくはぼくの やりたい事をする。そして、暇な時間がうまくかさなったら、会えばいいさ」 「ひとりの女の子のために、ぼくのヴァイオ リンを投げ出すことはできないんだ」 自分の世界をゼバスチアンでいっぱいにしてしまったザビーネは、無意識のうちに彼にもそれを要求していた。私はあなたのことを最優先しているのに、あなたには私よりもヴァイオリンの方が大切なんだ。あなたに合わせるのはもうたくさん、という不満をぶつけることで、ザビーネは新しくやり直せることを、ゼバスチアンが変わってくれることを期待していた。けれど彼の反応は彼女の予想しないものだった。 「じゃあ、どうして調子を合わせてきたんだよ。つき合い始めたころは、きみいつだってやることがあったじゃないか。きみの化学の実験とかさ。なんであれ、やめちゃったんだよ」 「きみにとって大切なものを、またさがせよ、ぼく以外に」 ゼバスチアンの言葉は、女の読み手には一瞬男のエゴを感じさせるがそうではない。対関係の中では、女性には自分の世界を捨てて男性に合わせるように期待されることが多いが、ゼバスチアンは、お互いに自分の世界を大切にしつつ2人の関係を築いていきたいと考えている。だから初めは自分の世界をもっていた、ゼバスチアンいわく「君ならわかってくれると思っていた」ザビーネが、彼との関係にのめり込んで主体性を失ってしまったことに彼はいらだっている。 この作品に登場するゼバスチアンは、ザビーネの回想の中で、彼女のフィルターをとおして語られているだけなので、その実像ははっきりとはつかめないのだが、ここではどうやら問題はゼバスチアンではなくザビーネの方にあるらしい。「あなたがすべて」の献身的な女のパターンにはまってしまったザビーネ。では、いったい何故? ザビーネは気づく。「ゼバスチアンに会ってからというもの、私までが突然、母と同じ考え方をするようになってしまった・・・そして、そのことに私も、母と同じように気づいていなかった。いや、そうじゃない。私は気づいた。でも遅すぎた。気づいた時には、もうその考えから抜け出せなくなっていた・・・・母のようにはなりたくない」 母のようにはなりたくないと思いながら、いつのまにか、母とおなじような態度をとっていたザビーネ。だが、賢明なザビーネは自分のあやまちに気づいた。ゼバスチアンとの日々をふり返りながら、自分のとった態度のどこに問題があったのか、また、なぜそうなったのかを追究していく。そんな中で登場してくるのが次にあげる3人の母たちである。 3.サビーネと3人の母たち <ザビーネの母> ザビーネの家は、サラリーマンの父、専業主婦の母、ザビーネと弟という典型的な核家族である。父は表向きは民主的で、何かを決める前には必ず話し合うが「しんぼう強く母の意見をきいてから、結局は自分が正しいと思うことをする」。「パパが一番よくわかってるわ」というのが母の口ぐせで、いつも父をたて、父の意見に従ってきた。 ザビーネがゼバスチアンとケンカ別れして間もなく、父が独断で家を買い引っ越しを決めてしまう。2人の子供たちは猛反対し、さすがの母もささやかな抵抗を試みるが、結局は「パパがとても引っ越したがっていた」ということで自分を納得させる。一家は田舎に自分たちの家を持つことになったが、それを契機に父と母の関係が、家族の様相が変わっていく。 駅前のスーパーまで自転車で4キロという不便な土地で、ローンに追われみじめな思いをしていた母、無理に自分を押さえつけ納得させていた母の内部で、おさえきれなくなったものが噴出する。母あてにおばから送られたお金を、当然家の費用にあてるものと考えていた父に対して、母は初めての自己主張をする。「このお金は私のもの、それで運転免許をとり、パートの仕事を探します」と。そんな母に激怒する父。 「18年間、私はあなたの望むことだけをしてきたわ・・・それなのに、あなたは、私がただの一度だけ自分のしたいことをしようとすると、それがものすごい犯罪行為であるみたいにどなり散らすんだわ。でも私は免許をとります」という母の言葉がそれまでの彼らの関係を如実に物語っている。 父に対する母の態度にいつもいらだちを感じていたザビーネは、そんな母の変化を「とてもいい」と思い、父とのいさかいにめげそうになる母を励ます。けれども、長い間自分を押さえることで家族との関係を作ってきた母にとって、自己主張する自分を肯定することは容易ではなかった。運転免許の件から間もなく、弟が敗血症で入院することになり「まるで私が罰を受けているような気がして」と自分を責める母。 ザビーネは、母に女同士としていろんなこと─ゼバスチアンのことや、避妊のことを相談したいと思っていたが、母はザビーネのことをまだ子供扱いしていたので、話すことができなかった。でも、自分の意思を父に示しだした母は、「母」と「娘」という枠からぬけでて、自分の思いをザビーネに語り始める。 <おばあちゃん──母の母> 母の父に対する態度はおばあちゃんから学んだものだとザビーネは考える。おばあちゃんは近所に住んでいて、ザビーネが子供の頃から1日に1回必ず家に立ち寄り、母の手伝いをしていた。そんな時には、母はザビーネの母からおばあちゃんの娘へと変わっていく。おばあちゃんは、母に対してもザビーネに対してもいろんなことに口出しし、母はおばあちゃんの言いなりで、まるで奴隷のようだ。 ザビーネが「学者になりたい」というと「なにばかなこと言ってるんだい。結婚するんだよ」と言い、仕事で成功した女の人の話をきくと、「いったいだれがだんなさんの世話をするんだい?」ときく。そんな価値観のおばあちゃんに母は育てられ、大人になってもその支配から逃れられなかった。 そのおばあちゃんも、ザビーネたちの引っ越しが決まってまもなく(そのショックも原因と考えられるが)亡くなってしまった。おばあちゃんの死によって、ザビーネの母を縛るものが一つ消え、それが父と向き合えるようになった一因であったとも考えられる。 <ゼバスチアンの母> もう一人、ザビーネとゼバスチアンの関係に大きな影響を与えたと思われるのが、ゼバスチアンの母である。ゼバスチアンは一人っ子で、彼の母は学校の先生である。ザビーネは自分の職業、友人、銀行口座をもっていて、服装や雰囲気も素敵なゼバスチアンのお母さんに好感をもっていた。夫をおいて旅行にでかけるなんてザビーネの母には考えられなかったし、ゼバスチアンとの付き合いにも理解を示してくれた。「母さんは、夫からは自立しているかもしれない。でも、ぼくの前じゃあ、まるで卵を抱えているめんどりみたいだよ」と息子のゼバスチアンはそんな母を冷静にみていたが、ザビーネは彼女のそんな面に気づかなかった。彼女はザビーネのことを「自分の役割をひきついでくれる人間」だと考えているのだということに。 「あの子には、自分のことに気をくばってく れる、こういう日常的なことを代わってしてくれる人がいなくてはだめなの。」 「あなたがいてくれてよかったわ、ザビーネあなた、あの子の面倒をみてくれるわね」 ゼバスチアンは世話やきの母をからかい、ザビーネに世話をやいてくれることを望んだことなどなかったのに、彼のお母さんの言葉で彼女はすっかりその気になってしまった。 3人の母たちは、それぞれタイプもザビーネとの接し方も異なっているが、彼女に三者三様の影響を与えていると思われる。 ザビーネの母は、直接彼女に女性役割をおしつけるような言動はとっていないが、相手を気持ちよくするために、自分の気持ちをおさえる──夫に対しても、おばあちゃんに対しても──ことで、自分も満足しようとした。その母の姿勢がいつのまにかザビーネの態度にあらわれている。 気分が悪く「もう歩きたくない」というザビーネをつれて歩き続け、道に迷ったゼバスチアン。彼が後悔しあやまると、腹を立てていたにもかかわらず、逆に彼を慰めるザビーネ。デートの時、機嫌が悪くてあまり口もきいてくれないゼバスチアンに、思いきりどなってやりたいと思いながらも黙っているザビーネ。 おばあちゃんは、伝統的な性別役割主義者でザビーネはそんなおばあちゃんのいいなりにはならなかったが、「結婚して夫の世話をする」ということを女の生き方と考えるおばあちゃんと「ゼバスチアンと暮らして、彼がヴァイオリニストになるための世話をする」というザビーネの考えにどれほどの差があるのだろうか。 ザビーネの母とは対照的に、経済的にも夫からも自立したゼバスチアンの母。けれども皮肉なことに彼女が一番直接的にザビーネに女役割をおしつけ、ザビーネはその期待にこたえようとした。 そして3人の母たちとの関わりの中で、ザビーネはすっかり伝統的役割を生きる女になってしまった。 4.おわりに 自分の人生の目標をもち、伝統的な女性役割にも批判的であったザビーネは、自分が不満に思っていたはずの、母やおばあちゃんの生き方をなぞってしまった。「母」から「娘」へと再生産される性意識。それは、社会的には自立しているかと思われるゼバスチアンの母のような女性でさえも、私的な部分ではぬけきれていないほど根強いものである。 かつて「娘」であった私もザビーネと同じような思いを「母」に対して抱いていたが、最近自分が批判してきた「母」の姿と、自分の姿が重なっていることに気づくことがある。そしてそれがまた自分の娘に受け継がれていき、「女から女へ」の悪循環が繰り返されるのかと思うと暗澹たる思いになる。けれど、その悪循環からぬけだすヒントがこの物語にはある。それは自分が伝統的役割意識を内面化してしまっていることに気づくこと、気づくことから変わり始めるのだということである。 ケンカ別れしながらも、ザビーネはゼバスチアンからの仲直りの電話を待っていた。彼から電話があったと母に告げられたザビーネは、ゼバスチアンに電話したものの、前と同じことの繰り返しになるのではないかという迷いのなかで何も言えずに電話をきってしまう。けれど自分が母と同じ罠にはまってしまったことに気づき、それまでの自分からぬけだしたザビーネは、やはりゼバスチアンが必要だと感じて、もう一度やりなおすために彼に電話をかける。そのシーンでこの物語は終わる。 ザビーネの母も遅ればせながら気づき、動き始めた。そのことに気づいた「母」と「娘」は、今度は互いに抑圧されていた思いをわかち合い、そこからぬけだすために協力しあうことになる。 「母」と「娘」の関係は、それぞれが「個」としての自分を生きようとした時「女同士」という関係に変わり、マイナスからプラスの方向に働くことになる。 「娘」の立場で「母」を批判することはたやすいし、「母」の二の舞をふまないような、従来の性役割意識を超えた対関係のモデルも登場しつつある。それにくらべて、「母」の立場で性的対象プラス子どもへの役割意識を変えていくこと、自分を抑圧せず、自分の世界を失わずに「母」として生きることは、予想以上に困難である。「母」の自己主張は家庭崩壊の原因と考えられているし(実際今の家族のシステムはそうなっている)、「母」自身も「妻」役割意識からは自由になっても、「母」役割意識からはなかなか解放されない。 「娘」の立場からはそういう「母」の葛藤は理解しにくいだろうが、「母」が一人の女として生きる姿を示し、その試行錯誤の中に「娘」をもまきこみ(そこでは両者共にまた新たな葛藤がおこるのだろうが)、それを両者が受入れ、相対化できたときに、新しい関係性を持つことができるようになるのではないだろうか。 私も自分自身を問い続けながら、そろそろ思春期にさしかかろうとする娘と女同士の良い関係をもてるようになることを願いつつ、「母」役割からぬけだすことを試みている。(赤崎久美)
女性学年報 1992/10/20
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