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本の帯の「百四歳の少年」という言葉が示すように『時をさまようタック』は、永遠の命、それも永遠の命の重荷をテーマにした作品だ。際限なく続く生の重荷というと、手塚治虫の『火の鳥』、荻原規子の『空色勾玉』で死を授かる稚羽矢、トールキンの「指輪物語」で指輪に命をひきのばされるビルボやフロド、デ・ラ・メアの「アリスの名づけ親」の三百五十歳になるおばあさんなどが思いうかぶ。ただとても重いテーマなので、それを児童文学でどう扱うか、作者の力量が問われるところだ。本書はアメリカの児童文学作家ナタリー・バビットの作品で、現代の古典となっている。 フォスター家の一人娘ウィニーは十歳。家出はあきらめたが、ウィニーは、明け方、領地内にある森へこっそり行ってみることにする。森でウィニーは美しい少年ジェシィ・タックに出会う。少年は泉の水を飲んでいた。驚いたことに、ウィニーが泉の水を飲もうとするとジェシィは絶対にだめだという。八月の暑い日なのにである。ウィニーがわけをたずねているところに、突然ジェシィの母のメイと兄のマイルズが姿を現す。あっという間に、ウィニーは馬に乗せられ三人に連れ去られる。 最初ウィニーはひどくこわがるが、三人に明日は帰してあげるからとなぐさめられしだいに落ち着く。メイはウィニーをさらってきたわけを説明する--あの泉の水は飲むものに永遠の命をあたえること、そして泉の秘密は絶対に守られなければならないと。夕方、一行はタックの家につく。きちんと整理されたウィニーの家にくらべ、タックの家は雑然としていたが居心地がよかった。ウィニーは親切なタックの家族に愛情を感じる。とくに十七歳のままのジェシィと農夫らしい素朴で温かみのある父のタックに。タックはウィニーに死ぬことのできない苦しみを語り、秘密を守ることの重要さを訴える。 この後、物語は思いがけない方向へ展開する。泉の秘密を探りあて金儲けをたくらむ黄色い服の男が、タックの家に現れる。男はウィニーを連れもどすことを条件にフォスター家から森を手にいれる約束なのだ。ウィニーを連れていこうとする男を、メイは銃でなぐり殺してしまう。メイは逮捕され絞首刑に決まる。絞首刑にされてもメイは死ねないのだから、泉の秘密が知られてしまう。愛するタック一家のためウィニーはメイの身代わりを申し出てメイの脱獄を助ける。何十年もの後、タックとメイとマイルズが、ウィニーの村を訪れる。村は変わり森も泉ごと火事でなくなっていた。タックたちはそこにウィニーのお墓をみつける。ウィニーはジェシィのたっての願いをきかず泉の水を飲まなかったのだ。 たった四日の間に次々とおこる誘拐、殺人、脱獄の大事件。このドラマチックな物語の展開を可能にしたのは、不死の重荷というメインテーマに組み合わされた愛とケイオス(無秩序)という二つのサブテーマだ。愛はウィニーのタック一家への愛であり、ケイオスは黄色い服の男が引き起こそうとする災いだ。バビットによれば、黄色い服の男に名前がないのは災いの大きさを暗示しているのだそうだ。三つのテーマは物語の出だしに語られる三つの出来事--メイが息子に会いにでかけること、ウィニーが家出を考えること、黄色い服の旅人が現れること--に、巧みに示されている。 さらに小道具の使い方も超自然的な雰囲気をもりあげている。メイのオルゴールの音は小さな妖精たちを思わせ、泉のある森やウィニーの目の前に何回も現れるヒキガエルは象徴として魔法に関係がある。 サブテーマも大事だが、中心となるのはあくまで不死の重荷だ。銃でなぐられて倒れた黄色い服の男をうらやましそうに見つめるタックの姿など、泉の水を飲んだときのまま生き続けなければならないタック一家の苦悩が胸をさす。「…死ぬことは、生まれたとたんに約束された車輪の一部なんだよ。…神さまのお恵みだといってもいいな。…わしらのように死をもたないで、ただ生きるだけというのは価値のないことだ。まったく意味のないことだ…」 タックのこの言葉に、死ぬこともふくめて生きることの素晴らしさをあらためて考えてみようではないか。 (森恵子)
図書新聞 1990年4月14日
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