「ビルマの竪琴」について

-児童文学における「戦後」の問題 -

上 野 瞭

『日本児童文学』6月号(第2巻第6号通巻101号 昭和40年6月1日
           
         
         
         
         
         
         
     
 エーリッヒ・ゲストナーの「わたしが子どもだったころ」によれば、「まえがき」のない本とは前庭のない家のようなものであり『いきなりドアごと家の中にとびこむようで感心しないと言うことである。そのため、ケストナーは、ときには二つの、あるいは三つの「まえがき」さえ本のために書いたということだが、事まえがきに関してだけ言えば、わたしもまた、私説・児童文学戦後史-このものものしい架空の書物のために、すでに二つの「まえがき」を書いたことになる。
 すなわち、一つは、フランス映画やドキュメンタリー・フィルムを手がかりに「山が泣いてる」 (もんぺの子同人) 「谷間の底から」 (柴田道子)を分析した四年前の一文がそれであり、(児童文学と映画の間で/一九六一年十一月号 日本児童文学)今一つは、「童話をどう考えるか」という質問にこたえて、ごく最近書いた一文がそれである。(なぜか/一九六五年二月号 日本児童文学)。わたしはそこで表題から横滑りして、「われわれにおける戦後とは何であったか。児童文学における戦後の再検討こそ必要なる主題ではなかったのか」ということを書き綴ったわけだが、そのことを今、この小論のはじめに持ち出す理由は次のとおりである。
 なぜ児童文学の「戦後」考察が必要であるのか-その動機とも言うべきことがらを、すでに、そこにおいて明示していること。そのため、ここでは、もう一度同じことを繰り返して、ケストナーの言う第三の「まえがき」にこの小論をしたくないということ-そのことが言いたいためである。いくら庭のない家が感心しないと言っても、庭ばかり前庭ばかりでは、それ以上に感心した話ではない。せめてポーチくらいには到達しなけれぱならない。
 だが、こんなふうに言えば、それでは竹山道雄の「ビルマの竪琴」は、戦後児童文学のポーチなのか-という反論を受けそうである。もし、この作品が「戦後」におけるポーチであるとするなら(いや、ポーチにしか過ぎないとするなら)当然、その背後には、壮大な児童文学の戦後家屋が想定されなけれぱならなかっただろう。そして、それらは、今日の時点においても、野間宏や椎名麟三の戦後文学が常に文学の問題として照応されるように、受けつぎ論じつがれていなければならなかったと思うのだが、その点はどうだろう。
 ケストナーは「まえがき」を好む理由として次のように書いている。
「それはたぶん、わたしがアパートで育ったせいだろう。豆前庭だって全然なかった。わたしの前庭は裏庭で、ジュウタンをほす鉄棒がわたしのボダイ樹だった」と。
 この考え方からすると、わたしが壮大な家屋を好み「せめてポーチにでも到達したい」と考える理由は、多分にわたしが庭ばかり、前庭ばかりで育ったせいになりそうである。しかし、わたしは、だからと言って「児童文学の戦後は庭ばかり、前庭ばかりだった」と言うつもりはない。たとえ誰かがそんなことを言ったとしても、かすかに眉をしかめるだけのことである。第一、「ノンちゃん雲に乗る」は、また「十五夜の月」は戦後児童文学ではなかったのか。
 「児童文学者自らが、人民革命の遂行者たる自覚を持たねばならぬ」 (児童文学者は何をなすべきか 一九四六年 日本児童文学)と言った関英雄は「三本のローソク」を書いた。小川未明は、「兄の声」を書き、岡本良雄は「動物列車」を、平塚武二は「太陽よりも月よりも」を書いた。多くの児童文学者が「戦後」をむかえて多くの作品を書いたのだ。どうしてジュウタンをほす鉄棒がボダイ樹であるはずがあろう。そんなことを言った者は一人も居ない。それらはまさに戦後に書かれた故にそのまま戦後児童文学なのである。
それ自体の「戦後性」をそれなりに所持していた。-いや、当然、所持していることによって、それまでの作品と区別されたと言えるだろう。
 それは何か。戦前・戦中の児童文学作品とそれらを区別する「戦後性」-それは作家自身の解放感なのか、虚脱感なのか、それとも思想か情熱か、あるいは作品内の子ども像なのか、組織活動なのか。-これは一つの問題である。そこで、わたしは、この小論を、まずそのこと-戦後に書かれた作品の「戦後」とはいかなるものであったか-を考えることから始め、次にそれらと「ビルマの竪琴」における「戦後性」の同質性あるいは異質性を検討し、多くの批評家が今日まで「ビルマの竪琴」に与えた評価を整理することにより、わたし自身の「ビルマの竪琴」に対する考えを記してみたいと思うのである。

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