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デビュー作『やまんば山のモッコたち』(福音館書店/一九八六年)以来、富安陽子は目が離せない作家である。この作家の書くものには、「日本」がある。八百萬の神々の気配の宿る風土を-文字通り、風や土や水や木々の中に気配を漂わせながら、物語の背景として軽やかに描き出してゆくのだ。 こうしたことは、直接的な説明を重ねれば書けるというたぐいのものではない。欧米の児童文学作品の影響下にある我が国のファンタジー作品の多くは、ことさらに細部の描写を積み重ねて「不思議」を成り立たせようとする意識が強いのだが、実は、そうした手法では「気配」を描き出すことは難しい。なぜならば、欧米風の細部を積み重ねる描写を支えるのは「自然を対象化していく」視線だからである。それは、自然を畏怖し、鎮め折り合おうとする日本的自然観とはおよそ対極にあるものだといっていい。だから当然無理なのだ。 したがって、森羅万象に神々を感じさせる物語を書こうと思ったら、まず世界と向き合う姿勢そのものを「日本的」にするしかないのである。頭で考えるだけではない、ものごとに触れるときの手つきといった感覚的なところを自然体に開き、そこからおのずと選び取られてくる言葉に従っていく。すると、動詞、形容詞、助詞、助動詞などの微細な表現が共鳴を起こし、単に名詞レべルでの日本的要素(例えば、やまんば)を並べただけでは決して出て来ない「気配」が漂い始めるのだ。富安陽子が魅力的なのは、実に、この点である。 さて、そんな富安の新作『ぼっこ』であるが、この作品もまた日本的気配を存分に楽しませてくれる物語であることは、もちろん、いうまでもない。 祖母の葬式で父の実家に行った繁は、その座敷で、家の守り神である「ぼっこ」と出会う。ぼっこは、やがて繁がそこに住むことになるという。予言の通り、父の転勤でそこに引っ越した繁だが、慣れない田舎暮らしに戸惑うことばかり。けれど、そのたびに現れて手を貸してくれるのは、ぼっこである。そのおかげで、繁はだんだんと田舎の暮らしに慣れていく。この物語が描くのは、そうした繁の一年だ。 と、あらすじを書いてしまえば、淡々としたストーリーに見えるかもしれない。ウン、確かに、都会の少年が父親の田舎に行き、その土地の神々と交流を描くエピソードだけで比較すれば、以前富安の書いた『キツネ山の夏休み』(あかね書房一九九四年)の方が起伏のある筋立てであることは間違いない、が、実は、そうした淡々としたストーリーではありながら、この 『ぼっこ』という作品、非常に興味深く、エキサィティングな物語なのである。 「家には、家の力かあるんやでおまえの住んでる、あの稲生の家みたいな古い家には、とくに強い力があって、人間をしばりつけようとするんや。人が住まんようになったら家はおしまいやろ? だから家は、住んどる人間を引っぱって、どこにも行かさんとこうとするんや。ここにいろ、どこにも行くな。ってな。死んだおじいちゃんがいってた。」というのは、一七八ぺージでいとこの昌一から繁に対して語られるセリフだが、これはそのまま『ぼっこ』のテーマであるといっていい。 家が人間をしばりつける-このモチーフは、明治以来の我が国の近代文学が描き続け、その呪縛をいかにして超克するか苦悩し統けた問題ではなかったか? 夏目漱石も森鴎外も島崎藤村も志賀直哉も、近代個人主義を阻害するものとして「家」や「血」を作品に描き込んだはずなのだ。 それを『ぼっこ』では、個人のアイデンティティに必要なものとして描き出す。しかも、その描き出し方は、全面肯定といってよいほどなのである。 エンディング近くで父が繁に語る「父さんが東京の大学に行くのをゆるしてくれたんは、おじいちゃんやった。そんとき、おじいちゃんは、こういったんや。〃どこに行こうと、どこに住もうと、おまえが松居の家の子やということには変わりがない。おまえは、今でも、これからもずうっと父さんの子供や。それだけは忘れたらあかんぞ。っていったんや。きっとそれが、本当の家の力やないかな。」(二一九、二二○ページ)などというセリフも、その証拠として挙げることができる。また、構造の上でも、繁が田舎に住み続けることからも明らかである。 この点についてもう少し詳しく説明すれば、前述の『キツネ川』の構造と比較するのが分かりやすい。『キツネ山』の主人公・弥は、『ぼっこ』の繁と同等の経験を父の田舎でするのだが、しかしラストでは都会に戻っていく。都会とはもちろん個人主義によって成り立つ空間であり、したがって、「自分→父親→祖母→氏神の稲荷」という家」や「血脈」に触れるアイデンティティの確認も、都会に戻った弥の生活の中では単なる挿話程度の扱いしか受けられないものとなる。が、繁の場合は違うのだ。都会を離れ、田舎に留まる以上ぼっこによって確認された「松居の家の子」というアイデンティティはずっしりと肩に掛かり、それを生活の基盤として生きていかざるを得なくなる。旅人として田舎に触れた弥が結局のところ一人として人間の友達を得られなかったのに対し、そこでのしがらみも引っくるめて地域社会の一員となった繁に多くの友達ができたことは実に対照的である。 こうした『ぼっこ』のテーマを、逆行・反動と切り捨てるのはたやすい。しかし、個人主義を掲げ、都会的生括を目標として邁進し続けた戦後日本がどのようなってしまったか? それは日々のニュースを見聞きすれば嫌でも分かるだろう。そうした現実から目を逸らさず、なおかつ乗り越えようとして、富安は『ぼっこ』を描いたのではなかろうか。八百萬の神々の気配を愛する作家の静かなる野心作として、この作品を評価する。(甲木善久)
ぱろる9号 1998/09/03
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