ひとりだけのコンサート

ペーター・ヘルトリング

上田真而子訳 偕成社 1989/1991

           
         
         
         
         
         
         
         
         
     
 家族にとって、「家」は必要不可欠なものである。主人公フレンツェ12歳。家族3人のための新しい家を買う夢の実現を前にして、父親の失業に出会うのだ。そのことを素直にいえないで悩む父ヨハネスは内向し、荒れすさんでいく。また、夫のふさぎの理由を何とか探りだし慰めようとする母マムスの語りかけは事態をより悪化させていく。父の変化に心痛めた娘の精一杯の努力もむなしく、一家は崩壊への一途をたどっていく。 1970年代以降、数多く出会った家庭崩壊の物語の中で、これほど、壊れゆく男と女のありようを描いて説得力のある作品はそう多くない。その意味で印象深かったのは、北欧のT・ハウゲン作「少年ヨアキム」の物語である。辛抱強く健全で努力家のママと精神の病的な弱さを抱えるパパ。そこに私がもうひとつみたものは、男性と女性のどうしようもない違いであった。このひとことは、世のフェミニストたちの顰蹙を買うかもしれないが、生物界には明らかに性差というものが存在する。しかし文化文明を身につけた人間だけが、この男女の共存共同の生活に幸せをみいだし、また悩みもかかえこむ。一般的に男性より適応力をもつといわれている女性の、近年の驚異的な変化。この作品のマムスも沈着冷静な仕事もちの女性である。比べて、フレンツェの男友達も羨ましがらせるほど素敵だった父は、不条理な解雇から受けたショックのために荒みきってしまう弱い男。酒におぼれ、妻にだけ収入があることにこだわり、やさしさを求めて他の女性に心をよせる。娘が苦しみの末に思いついた地下街でのバイオリン演奏をも、公衆の面前でおれをばかにしたと怒りを爆発させる。娘は、愛する父が、アゾと 呼ばれる反社会的な人間とみられたくない一心で、再起を願い、その荒廃の原因を失業以外のところにも探そうとする。
 そうなのだ。彼は失業が起爆剤となって、初めて既に起こっていた夫婦間の愛の亀裂を知ったに違いない。「恥ずかしがる必要なんかない」「あの人ひとりで生きているんじゃない」とマムスはいったけど、彼が素直に失業を語れないところにもう、二人の問題はあった筈。なのに、社会批判や真の人間愛を作品化してきたヘルトリングが、何故このような一面を強調してヨハネスの弱さを描いたのだろう。親友と共に創った会社は大会社にのみこまれ、自分は「必要欠くべからざる光」だと仕事のよろこびを語っていた彼が、友情、社会両面の非道から受けた傷は大きいのだ。したがって作者がもう少ししっかり、失業者続出の社会的背景を描き、ヨハネスの人格にいまひとつの角度からも光をあててくれたならば、妻のマムスも、ひょっとしたら自分こそ一人だけで生きていたのではないか、と考え直すことができたかもしれない。ならばフレンツェの悩みも行動も、よりよい結末へと向かうことができたのではないだろうか。
 しかし同じくドイツの、I・コルシュノフ作「ゼバスチァンからの電話」に描かれた父親像を思い返してみると、この国にはまだ、古い固定観念から脱却できないでいる男性の問題が、作品の重要な位置をしめる社会があるのかもしれない。構成も確かで、なかなか読ませる作品ではあったが、私はこうしてヨハネス像にこだわってしまった。 だがいずれにしても、家族とはを改めて考えさせられる作品であった。(持田まき子)
書き下ろし 98/01

テキストファイル化 林さかな