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あまり乗り気ではなかったのだが、子ども向けに書かれた話題の本だというので、発売後まもなく『少年H』の上下を購入し、パラパラと目を通してみた。なんだか出来過ぎた話で、どうも先へ進めなかった。ポツダム宣言の受諾前に、日本の敗戦を知っていた中学生がいたというのも驚きだが、主人公の少年Hは、敗戦と同時に「平和の明るさを実感した」というのだからびっくりした。ちょっと眉唾っぽい感じで、なんとも馴染めなかった。 ところがここの本は、あれよあれよと言ううちにベストセラーになり、ついに百万部を突破してしまう。そして、新聞雑誌はこぞって大絶賛し、ついに二百万部近くの超ミリオンセラーとなった。ここ数年、出版不況だといわれ、とりわけ書籍の売り上げが激減しているというのに、数少ない話題の本に読者が集中し、百万部を超えるミリオンセラーが目立つ。話題が話題を呼ぶと言うよりも、高度情報化社会特有のメディアの増幅効果に宣伝やパブリシティーをうまく重ねて、売れる本を更に売ると言う戦略が見事に功を奏したのだろう。ちなみに、ミリオンセラーを送り出す出版社はこのところほぼ固定しているのを見ると、仕掛けによるベストセラー化がすっかり定着したとも言えようか。 妹尾河童の『少年H』も、最初から立花隆、澤地久枝、椎名誠という幅広い層に信頼の厚いノンフィクション作家らの推薦文を帯に載せ、テレビの「徹子の部屋」で取り上げるなどの他、テーマがテーマだけには話題にことかかなかった。そこにたちまち何刷り何十万部突破という新聞広告が追い討ちをかける。こういった集中の仕方には、何となく胡散臭さを感じてしまうのだ。 この超ベストセラーとなった『少年H』が、間違いだらけだと言うのだから穏やかではない。作者の妹尻河童が「書いたことはすべて記憶に基づいており、真実である」と語り、それをセールスポイントにしているにも関わらず、夥しい数の歴史的な齟齬と事実誤認があると、著者の山中恒はいうのだ。『少年H』の発行元でもある講談社の野間児童文学賞最終審査会で、審査委員でもある著者はそれを指摘し、当該編集部に問題箇所に付箋を付けてその旨を伝えたが全く黙殺されたのだそうだ。今日では全く信じられないような戦争中の出来事を、五十年以上過ぎて子どもたちに伝えようと言うのだから、できるだけ正確に伝えて欲しいし、そうでなければ意味がない。戦時下の「少国民に押しつけられた、狂気の天皇教的皇国民練成の実態についても、くわしくは書かれていないので、まさしく世間一般の大人が『少年H』の両親にくらべて、はるかに無分別で愚かしい戦争協力者に見えてしまう」と著者はいう。 驚くべき労作である。『少年H』の総ページが上下合わせて七百ページちょっとなのだが、『間違いだらけの少年H』は、上巻の間違いの指摘だけで八百五十ページ弱になる。しかも間違いと指摘されている部分の多くは、作品の根幹に関わるものが少なくない。主人公の少年Hの素朴な疑問に父親が答えるところは、現在の子ども読者への解説ともなっているわけだから、そこに嘘が入ってしまうと、この物語のねらいが全く崩れてしまう。たとえば、帝国議会での斉藤隆夫の反軍演説である。その演説内容については、戦後斉藤が亡くなった後に始めて明らかにされたにもかかわらず、作中ではHの父親の盛夫が知っていて、それをHに説明している。独ソ不可侵条約でポ−ランド分割占領の秘密議定書も、つい最近になってわかったことなのに、何故か隆夫は知っていて、それを聞いたHは、「ドイツは狡い!」と作中で述べる。間違いの多くは、『昭和二万日の全記録5巻・一億の「新体制」』(講談社)の記述に促した所が目立つという。戦後になって判明したことでも、こういった本では記述されているから、当時の了解事項との間に当然違いが出てくる。それに気づかずに参考にしたところが間 違いのもとになっているのだが、各種の年表の記述間違いも多いので、年表を参考にして描かれたところは、間違いをそのまま映し出している。 回覧版はいつから使われたか、片仮名英語の追放はいつからか、警防団と自警団はどう違うか、徴用とは、隣組とは等々、副題に「銃後生活史の研究と手引き」とあるように、まるで推理小説の謎を解明する手口で『少年H』の間違いを指摘しながら、戦時下生活の色々が解説されていて飽きさせない。山中恒と山中典子は、『少年H』という間違いと矛盾の多い自伝的小説をテキストに、銃後生活の矛盾と妖しさをも炙り出して見せた。そしてこの膨大な資料をもとにした検証のエネルギーは、あの戦時下に国民の大部分が何故熱狂的な天皇主義者に仕立てられたのか、皇国民練成の名のもとに天皇制国家を疑うことのない少国民に育成されたのかという、半生を賭けてあの時代を執拗に検証した「ボクラ少国民」シリーズの作者ならではのこだわりだったのではないか。少年Hのような子どもが、あの時代に存在したこと自体が、どうしても了解できないのだ。そしてまた、社説や「天声人語」でまで絶賛した朝日新聞を始めとして、矛盾と間違いの多い作品を賞揚したメディアに、大政翼賛会的な戦時下のマスコミの在り方を幻視したのかもしれない。これは、急速に右傾化を進めている世紀末の日本へ の警告の書でもある。(野上暁)
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