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 大友克洋AKIRA(講談社、一二00円)が、先頃、全六巻をもって完結した。「ヤングマガジン」誌上の連載は、一九八二年一二月より九0年六月まで、その終了からこの六巻が出るまでに、二年九か月の時間が経過している。いやー待たされたものだ。
 マンガの世界では、八年程度の連載期間というのは、決して珍しいことではなく、短編連作や、あっちこっちにエピソードを飛ばしながら、この倍以上も連載を続けているマンガは数多い。だが、それらの作品と『AKIRA』が決定的に違うのは、広大な作品世界の絵柄も物語も、そのフレーミングからディテールに至るまでも完璧さへの欲求に従って圧倒的な筆力で埋め尽くしている点にほかならない。書き下ろしでなく、雑誌連載の形で発表しようとすれば、作品それ自体の完成度もさることながら、往々にして一回一回のヤマ場も何らかの形で要求されるものだが、この『AKIRA』の場合、連載時の読者をあらかじめ無視したしまったかのように、一個の作品としての完成度のみを追求した感がある。
 内容はといえば、今後、様々な場で様々な人によって読み解かれていくことと思うが、私としては、一九八八年八月の〈ユリイカ〉臨時増刊〈大友克洋特集〉の中で大塚英志の指摘した、「手塚治虫に始まった戦後まんが史の極めて出きの良いーというよりは完璧なシミュレーション」として『AKIRA』は存在しており、「この美しい〈手塚的なるもの〉のシミュラクルは、その中に補填すべき〈意味〉をそれ自体としては持っていない」というものに強く心引かれる。『AKIRA』はそれ自身で強い〈意味〉を持っていないがゆえに、そこに向けられる深遠なる解釈を、おそらく、受容してしまえるのだ。
 とはいえ、三四三ページに始まる、物語全体に逆ベクトルを考えたようなフラッシュバックは圧巻であり、ここに『AKIRA』全巻を通しての真骨頂があるといっても過言ではない(一巻から共通する、前後見返しのデザインは、実はこのシーンのためにあらかじめ用意されていたのではないかと、勘ぐりたくなる程だ)。そして、このフラッシュバックの中で行われるのは、「友だち」「仲間」というキーワードの横行するコミュニケートへの回帰である。これをどう見るかによって、ラストシーンの解釈のされ方も変わってくるのだろう。
 さて、今回はもう一冊、待たされた本の話をしたい。三部作だと思われていた、あの『ゲド戦記』の四巻目、最後の書帰還(ル=グウィン作、清水真砂子訳、岩波書店、一八五0円)が十六年ぶりに出たのである。
 第一巻『影との戦い』が自己との出会いを、第二巻『こわれた腕輪』は他者との出会いを、そして、第三巻『さいはての島へ』は社会との出会いを描いたこのシリーズだが、第四巻『帰還』では、第二巻で充分に描けなかったテーマ、異性との出会いを物語る。その基調には、十六年間で成熟した、作者ル=グウィンのフェミニズム思想が流れており、社会における女たちの置かれた場所、ジェンダーロールとしての男のあり方と女のあり方の違い、女と男が一緒に生きるということなどを、主人公テナーの生活を通して描いていく。人はまず、ありのままの自分としてあり、その上で男であり、女であるのだという、自然な主張がとても心地よい。
 エピック・ファンタジーとしての「ゲド戦記」のファンには、すべての魔法を使い切って附抜けたおじさんになってしまったゲドの姿や、また、中年のおばさんになったテナーとベッドを共にするシーンは耐えられないかもしれないが、しかし、最古の竜カレシンのカッコ良さに免じて、ぜひ読んでみてほしいものだ。そして、娘、妻、母である前に、〈私〉であることを切望している、現代を生きる女性には、必ず読んでほしい一冊である。(甲木善久)

読書人 1993/04/12

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