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 七月末に出た『季刊「パロル」創刊準備号』(パロル舎、六〇〇円)を読んだとき、媒介者がすべておとなという、子どもの本のもつ特殊性が、もう一度問いなおされている気がした。準備号では通常の紙面とせず、子どもの本にたいする九九人の発言を並べた構成にしている。だから極端なことを言えば、寄稿者の数だけ子ども及び子どもの本に対する見解がある。ただし、甲木善久氏が編集長で、五十音順に木村裕一、神宮輝夫野上暁舟崎克彦、八木一樹の各氏が編集委員に名を連ねているとなれば、彼らが目論んでいるのが、面白い子どもの本作りであることは、推測できる。寄稿者は有名な人ばかりではない。でも、その肩書きーー学生、母親、編集者、作家などーーを見れば、各自の拠って立つ地点が明快で、読んでいて興味深か った。おとな及びおとなの本が一様でないように、子ども及び子どもの本も多様なのが当然だ。また、両者の本が境界を越えて行き交うことにも賛成である。ただし、最終的には子どもに読んでもらえないことにはお話にならない。その意味では、嶋田のぞみ氏(児童文学研究者)の「子どもにも読める書評を」という提言はわたしにはいささか耳の痛い発言であった。創刊一号は九月二五日に一二〇〇円で発売され、特集が「はじまりの物語」になるという。この準備号にもまして、新鮮でどきどきする雑誌になってくれればいいと思う。
さて、新鮮といえば、片山健(絵)が杉山亮(文)とコンビをくんだぼくにきづいたひ』(理論社、九八〇円)もそうだった。片山の絵というと、カーニバル風というか、混沌とした色使いと、油絵のような水彩の筆遣い、そして画面のもつエネルギーや濃厚さがしだいに爽快感に変わる印象がある。代表作は『おやすみなさい コッコさん』や、『どんどん どんどん』などだろう。ところが今回は表紙と標題紙のあとに読者の目に飛び込んでくるのは、「いわさきちひろ」風の輪郭のぼやけた白黒の絵である。「ぼく」は父親と外出するたびに、父親の趣味仲間とのお寺めぐりに連れていかれ、辟易している。きょうもひとり遅れがちで歩いた。お寺でもみんなとお墓を見にゆかず、縁側に残った。ところが待ちくたびれ、退屈したぼくは、あたりの木や風といったものに目をとめ、自分についても考え始める・・。片山は主人公が心の目で見だした頁で初めて色を使う。その色は、画面いっぱいに太陽が照っている頁まで続き、帰りはふたたび白黒になる。ただし、冒頭とちがい、おじいさんたちの顔には目 鼻が描かれている。これは老人集団ではなく、「個」として認識した結果を示すものだ。主人公の心象風景と色の使い方をシンクロさせる手法自体は、目新しいものではないが、モノトーンに託した表現が加わっていることが面白い。そして読者も主人公とともに、おのれが世界を発見する喜びをいっしょに味わえる。
文字の説明はなく、ひたすら画面から画面へレンズが近づく「ズーム・イン」と、遠ざかる「ズーム・アウト」を繰り返しているイシュトバン・バンニャイ『ズーム』(翔泳社、一二〇〇円)はユニークな絵本だ。平面と立体の間の約束ごとを無視した、ミクロからマクロへの事物の連鎖が読者にめまいを起こさせる。左頁は黒(暗幕の代用)で、明るい右頁と対照をなす。たむらしげる『クジラの跳躍』(リブロポート、一八五四円)も、映画の手法を取り入れた不思議なファンタジー。こちらはグリーンと黒の対照で迫っている。 なお岡田貴久子ワニがうたえば』(あかね書房、一三〇〇円)がナンセンス・ファンタジーでとぼけたいい味を出していた。ひとり親家庭のカナちゃんが、父親の出張中に用心棒のワニとすごす夏休みという設定。広瀬弦の表紙が物語世界の雰囲気をじょうずに予告しており、読む前からわくわくする。のびのびした物語も、その期待を裏切らない。
読書人 1995/09/22
           
         
         
         
         
         
         
         
         
    

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