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最近、ある雑誌社に依頼され、一九世紀以降の英語圏の冒険小説五〇作品をリストアップした。出来上がったリストは、時代をくだるにつれて、冒険のスケールが小さくなり、さらに、現実よりむしろ空想世界を舞台とした作品が増えていく傾向になっていた。(九月発売の『季刊リテレール一七号』を参照。)冒険小説の新刊を見ても、同じように感じられる。
その例として、上橋菜穂子『精霊の守り人』(偕成社、一四〇〇円)と、ヴァジニア・ハミルトン『プリティ・パールのふしぎな冒険』このみ訳、岩波書店、二四〇〇円)は、ともに別世界を舞台とし、時間の流れを背後に感じさせる作品だ。前者は、精霊にはとりつかれ、魔物には命を狙われている皇子を、傭兵の女性が助け、忍者たちが暗躍する東洋風の話。百年というタイムスパンで、歴史というものが治世者の都合で歪曲されることや、各民族の伝承が元の意味を失っていくことを描いている。後者は、神の子パールが神として一人前になる途中で手痛い失敗をし、人間になるまでの物語。黒人民話を下敷きにし、現実と幻想を自在に操り、何世紀にもわたるアフリカ系黒人の苦難の歴史を描き出している。ただし歴史を均等に描くのではなく、アメリカ先 住民に助けられ、隠れ村で暮らす黒人たちの運命に比重が置かれている。
現実世界を舞台にして健闘したと思うのが、うえのあきおぼくらのジャングル・クルーズ』(理論社、一二〇〇円)だ。夏休みを利用して東南アジアのジャングルへツアーに出かけた、子ども二人を含む九人の一行が、誘拐され、犯罪事件に巻き込まれるという話。自然破壊を阻止する活動に一役買おうとした大人の思惑が、思わぬ方向に進展するという意外性がある。冒険に危険がつきものであることや、マレーシアに少数民族が住んでいることなど、きっちり描いていて好感がもてる。もちろん冒険小説らしく、子どもの活躍する見せ場が用意されている。物語に添えられた出雲公三の画は、特に水際や夜空のシルエットの場面で黒白のコントラストのつけ方が巧みなので、幻想性さえ漂っている。(千住博の絵に感じが少し似ている。)さて、冒険はあくまで非日常の出来事だ。必ずや、日常へと戻ってこなければならない。日常生活を描き、きらりと光っていたのが、ポーランドのM・ムシェロヴィチ曜 日うまれの子』(田村和子訳、岩波書店、二一〇〇円)だった。主人公のアウレリアは一六歳。父は数年前に母を捨て、再婚している。一年前に母が病死したため、父の家に引き取られたが、居心地の悪い思いをしていた。ふとしたきっかけで、父方の祖母の家で夏休みを過ごすことになったアウレリアは、愛情豊かな祖母に助けられ、自分の殻を破り、父とコミュニケーションをもちはじめる。
この物語は、高校の用務員、へんな少女(アウレリア)、へんな若者(コンラド)と、複数の視点から交互に語られていく。この方法のおかげで、相手の気持ちとの食い違いや、他人には理解できない各自の心の動きなどが明らかにされている。面白いことに、最初いやな奴に思えた人物を含め、どの登場人物も切り捨てられていない。いつのまにかアウレリアをめぐる人の輪のなかに取りこまれ、アウレリアのみならず、これら周辺の人間までもが、本来の「自分に行き着く」という話になっている。おそらく、各自に救いがあることが、読んでいて心地よく感じられる一因だろう。なお、『クレスカ一五歳 冬の終りに』(田村和子訳、岩波書店、一九九〇)からちょうど一〇年後という設定。そちらもあわせて読むことをぜひ、勧めたい。
読書人 1996/08/23
           
         
         
         
         
         
         
         
     

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