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いつの時代も「子ども問題」を語るとき、子どもが夢中になっているメディアは、大人にとって絶好のターゲットとなる。問題の原因はそこにある、と。私が現役子どものころは漫画が、その前は映画が、そして小説が、漫画の後はTV、マンガ、アニメときて、現在はTVゲームが、となるだろう。
TVゲームに関しては「現実とゲームの違いをわからなくしてしまい、現実をゲームと思わせてしまう」悪しき道具だと非難されることが多いけれど、これはTVゲームを誉めすぎ。TVゲームはまだまだそこまでのリアルさを獲得していない。そうではなく、例えば成績や偏差値という数値で自らの価値がはかられ、それのアップのために尻をたたかれる学校や家庭での日々は、あんたの将来のためと説明されるわけやけれど、成績をあげることを、経験値アップにおきかえれば、これはもうRPGそのもので、ただしゲームの方はその努力の具体的意味付け、すなわち、そうすることで君は強くなれるであろうし世界を救えるかもしれない、を与えており、そこの子どもたちは引かれているのだろう。
現実をゲームと思うのではなく、現実を反映したり、投影したりしているゲームが受けているのだ。
体調の悪い学と保健係のあかりは保健室へ向かったのだが、階段の途中で『光の石の伝説』というRPG世界の中に迷い込んでしまう。それは昨夜、学が遅くまでプレイしていたもの。これは夢だと言う学。なら私はあなたの夢のなかの登場人物だというの、と怒るあかり。『選ばなかった冒険』岡田淳作偕成社 1500円+税)はこうして始まる。
RPG世界からの脱出は案外簡単ににできた。眠りにつき目覚めればいいのだ。けれど次に眠り目覚めるとRPG世界。二人は現実とゲームの間を行き来することとなる。だから彼らはゲームの中とはいえモンスターを倒すことなどできない。しかしそれでは殺されるかもしれない。そんな時、別のクラスの勇太とゲームの中で出会う。彼はゲームはゲームであり、勇者である自分は戦うしそれでよいといい、これは自分のゲーム世界であり、「きみたちは自分の名前をもっているんだ。じゃあ、とくべつな存在なんだな」という。
戦士が仲間となるけれど、彼は勇太がバトルと名づけるまで名前がなく、それまでの記憶も全く待っていない。彼に求められているのはあくまでも戦士というゲームにおける役割だけ。それでいいのか、本当にそうなのか?学とあかりは悩む。しかし、バトルから護身術を学んだ学は、現実世界で彼をいじめていた連中をこてんぱんにやっつける。それに違和感を感じるあかり。「むこうの世界って、学校とちがって、すっきりしているっていうか、うん、まとまりがあるなって思うんだ」と思う学はやがて、「この世界での友だちのことだってよくは知らないのではないか」「もしかするとこの世界も、ゲームの世界にようにおたがいのいまの役割だけが問題なのかもしれない」という場所まで考えをすすめていく。
この物語の作者がTVゲームについてそれほど知っているわけではないことは、舞台となる『光の石の伝説』が、イマドキこんな単純なゲームはない、あったとしてもそれはクソゲーに違いなく多くの子どもが夢中になるはずもないレベルのものであることから容易に想像できるのやね。けど、この物語は、現在の「子ども問題」の原因をTVゲームに求めようとはせず、TVゲームへの違和感を、必ず現実の側へ投げかえしている。そうして得た現実への違和感を今度はTVゲームへ投げ、またそれを現実へ。この誠実は心地いい。
TVゲームを児童文学で考える。これはその第一歩として記憶されるだろう。

読書人 22/08/97
           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    

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