ぱろる7号
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好きなものについて、ああだこうだとしゃべり合うのは楽しい。だらだら話すだけでも十分だが、そこに思わぬ金言がひょっこりまぎれこむと、ハッと身がひきしまる。昔、雀荘で、大敗した友人がぽそりと「勝負は勝ち負けじゃない」と舷いた。その時大勝して浮かれていた私は、虚をつかれ、一瞬のちに得心した。少なくともこの一言で、勝負事への洞察力では彼の後塵を拝することになったことを悟った。そしてこの勝ち負けの状況で、勝負を制する頂門の一針を発した彼のセンスに深く敬服したのだった。以来、私はこの言を座右の銘とし、日々の綾をときほぐすときの指針として重宝している。
このような言葉は自分の中になかったものだからこそ金言となる。つまりこの言を得て、自分の思考の現在地が明らかになる。いわは金言とは、言葉による三角測量なのだと思う。そして今、私と絵本の間の三角測量を可能にしてくれるのか、江国香織の言葉である。月刊誌「MOE」の連載時からその絵本に対する的確な把握力には、幾度となく心を揺さぶられたのだが、今回それが絵本を抱えて部屋のすみへ』(白泉社 1997)(歩みの愛らしさをとらえた秀逸な書名だ)という単行本として一冊にまとめられたのを読むと、再読三読四読をいざなう、まさに良質の絵本のようなたたずまいに再ひ魅せられた。
たとえば次のような文章。<この本にはフランシスの理屈っぽさが遺憾なく発揮されていて、そのどれもがほんとうに正しい理論なのだ。ここには理屈の崩壊する瞬間−それを書きたくて原稿用紙を百枚も二百枚も費やしてしまう人間がいるというのに−が鮮やかに書ききられている。理屈を捨てるのには勇気がいるが、しかしそれをしないとなにもできない(無意識のうちにそれをやってのける人もいるらしいのだが、私やフランシスにとって、それはつの驚きである。才能だとさえ思ってしまう)。実際、理屈を捨てない限りお弁当|つ食べられないのだ。>
これは『ジャムつきパンとフランシス』という絵本について語った部分だが、今引用した文章を読んだだけでこの絵本の美点−私だったら原稿用紙を百枚も二百枚も費やしてしまうだろうと思えるのに−が鮮やかに書ききられている。理屈を介在させても絵本を好きでいることはできるが、実際、理屈を捨てない限り好きな絵本を血肉化することはできないのだ。こうして江国香織は、さまざまな絵本とのまさに絵本的な親密な関係を、磨きに磨いてエッジをまろやかにした言葉で紡いでいく。
ポターの絵本の色については、(それからあの色。ひかえめにかわいたあかるさ、晴れた日の住宅地の色。ひさしぶりに本をひらいても、すぐにすうっと入れてしまうなつかしさがあると思う。)と語る。物語を感じさせる優れた絵本の絵について、絵を感じさせる、絵と感応する文章を綴る。その文体も含め、女性の小説家にしか書ききれない文章。そのように私たる男の非小説家は目分に言いきかせ、大いなる嫉妬と大いなる安心を得る。そしてまた私なりの絵本についての文章の書き方を再確認する。感謝。
実はもう一人、毎回心待ちにしている文章家がいる。江国香織と入れかわりのように登場して「MOE」の絵本短評を担当している、かわべしょうこ。私にとっての短評の理想形・・−その絵本の容姿と心根をぎゅっとつかむ−です。ぜひ一読を。(小野明
ぱろる7号 1997/08/29
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