『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)

第一章 新しい空想

ファンタジーにみる質的変化

神秘なものの復活

 1960年代の児童文学は、世界的に見てリアリズムの傾向が強く、空想的な作品はあまりふるわなかった。ベトナム戦争、経済問題、人種問題、若者の反乱等、人びとの関心を現実面に向けた時代の動きに根本的な原因があったと思う。
 リアリスティックな作品にくらべて数は少ないが、いくつか出版されたファンタジーを見ると、位置傾向の衰弱と別な傾向の復活が明らかである。衰えたのは、19世紀末から盛んになり、20世紀前半をつらぬいて続出したいわゆるエヴリディ・マジック(everyday magic)といわれる空想である。60年代はいわばその転換期にあったといえる。
 わが国にも数多く紹介された、たとえば『メアリー・ポピンズ』(1934)や『床下の小人たち』(1952)のような、非日常生活の中におこる不思議を語るエヴリディ・マジックが、イギリスやアメリカで衰えたのは、一つの流れが行きつくところまで行ったことから来る、新しいものへの関心に一つの原因があるにちがいない。
 伝承文学に造詣の深いアメリカのリン・カーターは、万能の指輪をめぐって、善悪がきびしく対立抗争するJ・R・R・トーキンの叙事詩的ファンタジー『指輪物語』(1951)についての作品論『トーキン、指輪物語の背景』("Tolkien:A Look behind the Lord of the Rings" by Lin Carter, 1969)の後記「トーキン以後」の中で、アメリカの児童文学作品であるキャロル・ケンダルの『ガミッジの聖杯』(1959)とその続編『グロッケンのささやき』(1965)及びロイド・アリグザンダーの『タランと角の王』(1964)にはじまる『プリデイン、ブックス』5部作、そしてイギリス作家アラン・ガーナ−の『ブリジンガメンの魔法の宝石』(1960)『ゴムラスの月』(1963)『エリダー』(1965)を、トーキンの直接的な影響下に生まれた作品群としている。そして、カーターは、トーキンの本を、
  「突然、ほとんどだれもが『指輪物語』と呼ばれる非常に長い奇妙な本を読むように
なったらしく見える。 
 SFファンが、最初の発見者だった。彼らは、『ファンジン』と称される非公刊の小部数
なアマチュア誌で、この本を熱心に論じた。ほかの人たちはだれも気づきはしなかったし、たとえ気づいても深く考えてみることもしなかったろう。衆知のごとく、SFファンは、例の気ちがいじみた宇宙ロケットものを読む。それが読めるのなら、なんだって読めるからである。」
と書きはじめている。
SFに対するとき、読者は瞠目すべき驚異を期待する。SFファンとは、驚異のあくことな
き探究者である。そのSFファンが、アイスランドの神話エッダや北欧神話や中世伝奇物語
などを縦横に駆使した『指輪物語』にとびついたことは、この作品に、未知の宇宙でくりひろげられるドラマに匹敵する想像のドラマを、彼らが見出したことにほかならない。ロジャ・ランスリン・グリーンというイギリスの児童文学者がC・S・ルイス論("C.S.Lewis"by R.L.Green,1963)で、異世界への旅を、時間を旅するもの、空間を旅するもの、異次元へ旅するものに分類しているが、『指輪物語』の愛好は、驚異の物語を好む人たちの興味が「タイム・トラベラー」ものや光波ロケットものから、神話・伝説的な要素を含む空想の別世界もの、つまり、異次元への旅へとひろがったことを意味している。
 神秘主義的な異次元の空想は、児童文学にかぎってもけっして新しいものではない。ジョン・ラスキンの『黄金の川の王さま』(1851)は、風の神や黄金の川の王さまが超自然力を使って人間を手玉にとったり、黒い岩に変えたりする伝説的な神秘の世界をえがいていた。小説家で牧師であったジョージ・マクドナルドは、北欧的な山の魔ものゴブリンたちが山からトンネルを掘って城を攻める『おひめさまと山の魔もの』(1872)で、恐ろしいもの、気味のわるいものが充満する原始的想像の世界を味わわせてくれた。そして、世界の昔話を子ども向きに集大成して童話集をつくったアンドルー・ラングは、妖精の国やそこへ入ってしまった人間の伝説を『フェアニリーの黄金』(1888)『妖精の宮殿の物語』(1906)にまとめている。最近では、主としてギリシャ神話、北欧神話、アラビアン・ナイト等の世界を素材にしたC・S・ルイスの『ナルニア国物語』(1950〜56)7巻がある。だから、イギリスをはじめとする西ヨーロッパ圏では、巨人を打ち滅して永遠の貴族社会を確立した神々の物語であるギリシャ神話や、巨人との争闘を主要部分とした北欧神話は、素材としては見なれた景色のようなものであった。そこで新しく異次元の別世界を創造するにあたって、アメリカのロイド・アリグザンダーやイギリスのアラン・ガーナ−は、手あかにまみれていないウェールズの神話・古伝説に目を向けた。
 1849年にレイディ・シャーロット・ゲストによって英訳されて『マビノーギオン』と名づけられたウェールズ=ケルト族の神話は、アイルランド=ケルト族のそれほどには組織だっていない。大まかにいえば、それは光と闇、生と死との抗争を軸に展開されている。生の側にはウェールズ北方を領土とするドンの一族がいる。実りの女神ドンは、太陽神ネ−ス及び人間の保護者であるギディオンの二神を生む。ギディオンはおじのマースの城カー・ダルスに住み、弟とともにウェールズ北方のギネスの国を守っている。南方には、ギディオンと対立する死の勢力として、プイルがいる。プイルはあるとき偶然に死者の国アヌーブンのアローン王の狩のえものを横取りしてしまい、一年間死者の国の王とならねばならなくなる。その間に、アローンの敵を倒し、その妻に一指もふれなかったため、アローンつまり、死の王と深い信頼関係が生まれる。このプイルが月の女神リーアノンと結ばれて生まれたのがプリダイリであり、プイルの死後王国をつぐ。
 海の神リールも、この神話に登場する。リールはプイルと親しく、ドンと敵である。ところがこのリールが、ドンの娘ペナルダンと結婚している。
 こうした複雑な神々のからみの中で、善悪ではなく、善悪が生まれる以前の光と闇、生と死のはげしい対立抗争が、魔法と神秘に充ちた物語を通じて展開されるのが、この神話の特徴である。
 今の児童文学に最もよく使われているのが、ギディオンに関するエピソードであろう。ギディオンのおじマースは、戦うとき以外は処女のひざに足をのせていなくては生きていられない。だが、この処女にギディオンの弟が恋をする。そこでギディオンは、弟の恋を成就させるために、いくさをおこすことを考える。ギディオンは、南方の王プイルの息子プリダイリの城へ行き、きのこを馬と猟犬と金の盾に変えて、冥界からの贈り物だった豚と交換する。だまされたプリダイリは、大軍をひきつれてギネスに侵入し、マースと戦う。ギディオンは、マースが出陣中に弟をつれてマースの処女のへやに入り、弟に思いを遂げさせた後、プリダイリと戦ってこれを殺してしまう。(ウェールズ南部諸国が兵をあげて北方のドン一族を討つエピソードは、アメリカのロイド・アリグザンダーによって『タランと角の王』のストーリーにそのまま使われている。)
 足のせの処女を奪われたマースは、ギディオンを罰した後和解し、ギディオンの妹アランロードを足代にしようとする。しかし、彼女はすでにギディオンと通じていて、ギディオンの子を生んでしまう。ギディオンはこの息子に、花から乙女をつくって妻として与えるが、この妻は死の国のグロヌー=ペビルと通じて、夫を殺し、そのため後にギディオンのためにフクロウにされてしまう。(この愛憎のドラマは、アラン・ガーナ−が現代的に解釈して、神話の舞台ウェールズをそのまま使い、新しい物語を展開させた。)
 こういう古くて、しかも新しい素材を作品に結晶させた作家は、イギリスとアメリカでこの二人だけでない。たとえばイギリスでは、スコットランドの伝説を、ほとんど再話に近い形で『水魔ヶルビーの真珠』(1964)『トーマスと魔法使い』(1967)等にまとめているモリー・ハンターや、ゲーリックなものをふんだんに使った『ささやく山』(1968)のジョーン・エイキンが好評裡に仕事を続け、アメリカでは、アーシュラ・K・ル・グゥインにより、考古学的古代を土台にした新しい異次元の物語『アースィーの魔法使い』(1968)『アチュアンの墓所』(1970)『世界の果てへ』(1972)が生まれて、注目を集めていることでもほぼ推察がつくと思う。
 新しい素材への興味は、ときに軽薄と考えられるが、本来人間の自然の姿であり、進歩発展への原動力を含んでいる。現代化され、個人の着想で好きなように変えられたエヴリディ・マジックの世界が停滞し、科学的思考以前に、集団によって創造されたふしぎが注目されるようになったうらには、素朴で健康な好奇心と新奇なものへのあこがれがある。
 神話・伝説的世界には、多くの未知が含まれている。その点が、好奇心とあこがれを強く刺激する。その未知は、科学の成立に立脚して想像をはたらかせるSFと表面的には異なり、人間の経験が限られていてアニミスチィックな思考段階にあった時代の想像力の所産である。だが、ありえるかもしれない何かをさぐり解明しようとする姿勢はSFと同じであり、作者としてあるいは読者として、未知の多い、だから無限のひろがりをもつ世界にひとり身をさらす点もよく似ている。
 無限に身をさらす心細さと、それによる自己確認、そして未知への好奇心―ファンタジーにはこうした要素がある。そして、この新しいファンタジー群の未知は、地理的・天文学的な未知ではなく、精神の世界の未知である。だから、異次元のファンタジーのめざすものには、新しい未知の探究がある。古くてしかも新しさをもつ素材が、どのように使われ、子どもに提出されているか、じっさいの作品を通じて追究してみたい。
テキストファイル化神崎彩