『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)

これからの空想

現実そのものとしての空想

 ファンタジーの創造に伝統が深くかかわっていることは、すでにのべたことで明らかであると思うが、その伝統が浅い国での実験として、アメリカは興味深い実例を見せてくれる。
 アリグザンダーの「プリデイン」シリーズが完結した一九六八年、『イシー北米最後の野生インディアン』(一九六一)で日本でも知られているA・L・クローバー、テオドーラ・クローバー夫妻の娘アーシュラ・K・ル・グゥインが『アースィーの魔法使い』を発表して注目を浴びた。アリグザンダーについで大きな空想世界を構築した本格派のファンタジーであることや、読みやすさなどを考慮せずにじっくり書きこんだ文体だけを考えても、それはたしかに注目に値するものであった。
 ル・グゥインが創造したアースィーという世界は、もっとも大きなハヴノル島を中心に大小数百の島から成り、内海の中心の島ロークに魔法のアカデミーがある。このアカデミーを修了した者はあちこちの島にやとわれ、住民たちのためにその魔法を役立てなくてはならない。つまりこの世界は、魔法が日常生活の中にはいりこんでいて、群島の外側には龍がいるような世界なのである。この世界の魔法には、大きくいって二つの種類がある。一つは石を宝石と見せかける目くらましの術のごときもの、べつの一つはものの本質をさぐるといった重大なものである。この群島世界は海から盛りあがって生まれたのだが、そのときあらゆるものは真の名をもってあらわれた。真の名、つまり真の魔法がさぐりだすべき、ものの本質である。
 『アースィーの魔法使い』は、若者ゲド通称タカの目が、魔法の修業中に高慢と嫉妬心から死の影をよびだしてしまい、その影をのがれてさまよったあげく、ついに影の名を知るために逆に影を追って最後に影を自らに吸収して一体となるまでを語っている。
 ゲドは、少年時代、故郷の村に侵入した軍勢を追いはらうために、霧を発生させる呪文をとなえて村を助け、こえがきっかけで、魔法使いになるのだが、この時の侵入軍は、群島の北東に位置する四つの島から成るある帝国の軍勢である。この帝国の住民は金髪で皮膚が白く、色の浅黒いゲドたちとは人種的にちがっている。この帝国が二作目の舞台となる。
 帝国の一つの島アテュアンは、祭政一致の独裁国で、<名のない者>が支配している。<名のない者>の祭壇は暗黒の地下にあり、そこには、生まれるとすぐ巫女ときめられた乙女だけしかはいれない。そしてこの暗黒の祭壇には、かつて<名のない者>に奪われたエレス=アクベの腕輪の半分がある。それは、七つの魔力あるルーン文字がきざまれた腕輪で、和の文字のところで二つに割れて以来、アースィーに平和がなくなっている。このアテュアンを舞台にした第二作『アテュアンの墓所』(一九七〇)の物語は、第一作の主人公ゲドが和の腕輪を求めて暗黒の祭壇にはいりこんでとらえられ、巫女アルハの人間的なめざめによって腕輪ともども脱出する過程をあつかっている。
 第一作、第二作とも自己形成と自立を中心テーマにしているのだが、周囲にむらがる中小のテーマに、神沢や天沢にも通じるものがある。まず作者は『アテュアンの墓所』で、ゲドの口を通じ、「<名のない者>は、光が生まれる前の、太古の神聖な大地の力である。暗黒と滅亡と狂気の力である」と、大地の暗い面を示し、人間が美しく慈愛にみちた大地の側に立たねばならないことを訴える。さらに、彼女は魔法によって一粒の砂を何かに変えようとするときには、その結果を十分に考えねばならない、なぜなら砂一つ変えることも世界を変えることと同じであると、主張を続ける。こうした主張は、ガーナーや天沢たち、つまり新しいファンタジーの作者たちが作品を通じて伝えようとしている思想ともいえるだろう。
 他の作家たちと一脈相通じる内容をもつこのファンタジーも、やはり神話・伝統をはっきり土台としている。一九七一年十月の「ホーン・ブック」の書評は第二作の素材を「アテュアンは、アースィー同様、創造者の心中に在るが、神話の素材そのもので創り出され、昔ストーンヘンジやクレタ島の迷路となって実現した世界的な類型を反映している」と指摘する。もっとも、血のいけにえ、巫女の処女性、群島世界、有色人種の世界への獰猛な白色人種の侵入などを考えると、ル・グゥインは、カリブ海、マヤ文明、インカ文明などを下敷きにしているとも推察できるから、どこのものをということではなく、古代文明に共通した宗教、呪術、宇宙・世界観などを自由に使ったとみるのが妥当であろう。真の名を知ることが敵を無力にするという考えは、たとえば「大工と鬼六」の民話にも生きている、いわば世界中で信じられていたことである。
 ル・グゥインの作品が、ケルト的なものやゲルマン的なものほど無気味でないのは、作者が若いためか、特定の神話に依拠せず類型を土台としているためか、主題によるか、あるいはその全部によるためであろう。それにしても、暗黒の力に食われた者として、処女のまま迷路を守りつづけていたアルハが、ゲドを迷路にとじこめながら殺すことができずに苦しみ、やがて説得されて光明の世界へ脱出する過程には、神話・伝説的なものを超えた迫力がある。そして、それは単に、空想の迷路が実在感をもってえがかれ、人物の言動が目に見え、肌に感じられるという想像力だけによるのではない。空想物語の中の臨場感というより、私たちが今生きている世界で、私たち自身が経験しているような現実感がある。私は、このような特徴にこれからのファンタジー、特に日本のファンタジーの可能性があるのではないかと考えている。
 『天路歴程』は「わたしはねむり、夢を見た」とはじまっているが、重い荷を背負って天の都まで歩むクリスチャンの旅は、バニヤンにとっても他のピューリタンにとっても、生き生きとした現実であったにちがいない。科学の発達は、恐怖心、迷信、無知、偏見から人間を解放し、精神の自由な活動、人権の拡大、経済的な豊かさの増大をもたらしたが、一方で力の過信と自惚れ、我慾の充足なども増大させ、精神面での進歩を停滞させたことも否めない。
 児童文学に限っていえば、科学の発達により、古代・中世的な想像力の産物や迷信・無知の所産は、すべて絵空事とされた。ロマン主義は神話・伝説・昔話の中にこめられた美しさや真実ややさしさを高く評価したが、それも児童文学の分野では、理性のコントロールのきく限界内にとどめられていた。空想は日常との対比という位置におかれたのである。こうして児童文学のファンタジーは、現実からの逃避による心の遊びや解放、たとえによる現実批判や現実把握、教訓やいましめ、美や驚異の表現手段などになった。だが、ファンタジーが現実そのものの表現であることもできるのではないだろうか。魔法の世界と架空の人物を通して比論的に現実を語るのではなく、魔法の世界や架空の人物が現実そのものであるファンタジーが存在してもよいのではないかと思う。天沢退二郎の『光車よ、まわれ!』に登場するみどり色の制服を着た、機動隊よりこわい者たちや、龍子たちの本拠に向かって流れてくる不透明な青い水は、なにかの象徴であるよりも、現実そのものを感じさせる。また既述したアレゴリー『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』は、野生うさぎを擬人化していながら、われわれの今をさまざまな点から実感させてくれる。一つの事物、一つの現象をえがくときに、目に映じるままにえがくのではなく、心象として心に残ったものを手がかりにえがくことにより、現実に対して別な迫り方、別な表現が可能なのではないか。それによって、現実が内包するものが、神話・伝説同様に簡潔に、そのままに表現できるのではないかと思う。

遺産の継承

 空想の物語は、どのような方法で創造されるにしても、いつも必ず私たちの過去、現在、未来の解釈であり、疑問や提言や警告等であることはまちがいない。そして、二十世紀になってから、多くのファンタジーは、現実の諸問題に重点を置いて創作され、かつて神話が生と死のなぞや宇宙の神秘にいどんだような哲学はほとんど問題にされなかった。今、ふたたび作者による別世界ものが数多く登場しはじめた背後には、この失われた哲学の回復をねがう傾向があると思う。二十世紀は、発明や発見のプラスとマイナス、そのマイナスの修正、政治的対立抗争と解決、そしてあたらしい対立と抗争と解決といった現実問題の処理にあけくれて、そうした問題の根本にある生についてのなぜが問われることが少なかった。その矛盾が大きなほころびをあらわしたのが現在であり、生きることのなぜの新しい探究がファンタジーにおいてもはじまったのである。神話的素材の使用は、その一つの象徴といえる。
 それは、太古以来の先人たちの知恵に学ぶ態度である。経験の累積と観察と想像力で生と死の秘密にいどみ、宇宙を自らの意識の中にとりこんだ時代や、科学的思考が加わり宗教との間にテンションを生んだ時代などを通じておびただしく蓄えられた先人たちの思考には、現在に光を投げかけてくれるものが多い。神話・伝説・昔話の利用とは、先人たちの知恵の累積の一部分に過ぎない。だから、他の学問、芸術の成果の吸収はこれからのファンタジーをおくらでも意味深い豊かなものにしてくれる。その意味で、大規模で物語性に富み、深い洞察のある神話をもたないことを嘆く必要はない。ファンタジーとは、新鮮な着想と、物語をつくり上げる腕力と、現実に対する主題のみによって創造されるべきものではない。平凡なことではあるが、人間と人間の住む世界についての先人の思索の累積を我がものとして、現在を見つめ未来をのぞくものでなければならないだろう。
 過去の思考の財産が、もっとも有効にあらわれているのが、イギリスを中心としたヨーロッパのファンタジーに見られるキリスト教である。それはときとして有効などという段階を越え、ファンタジーの本質にまで至っている。たとえば、C・S・ルイスは、前半生を語った自叙伝で、箱庭、ビアトリクス・ポッターの絵本『リスのナトキン』、ロングフェローの詩の一節、北欧神話などの神秘性にうたれるが、やがて、それらの背後にキリスト教の神の存在を自覚する過程をえがいている。
 ふしぎなものへの恐怖、不安、好奇心が想像力を動かす。また、人間の理想も想像力をはたらかす。私たちの周囲から不可知なものが消えないかぎり、そのふしぎの根源をたずねる努力は終わらない。科学を用いてのアプローチとともに、その成果を土台としての精神的アプローチであるファンタジーもまたつねに生まれる。人間を含めた生きものと無生物が存在する宇宙を秩序だてているものを何とよぶにしても、それをたずね解釈し認識する努力は、人間の位置を定め、生命の存在の条件を知らせ、生命のもっとも充足したはじめとおわりの獲得のしかたを教えてくれる。宗教が神とよび絶対者とよぶもの、別の言葉でいえばふしぎの根源、宇宙の意味の探究はファンタジーそのものなのではないだろうか。ふしぎの根源を求める姿勢が背景にあって、はじめて、現実把握の方法としてのファンタジーも迫力と魅力を増すのではないかと思う。なぜなら、ふしぎの根源の探究は、未来への指針をさぐることにほかならないからである。

テキストファイル化岩本みづ穂