『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)

現実認識の深まりの中でーー日本の場合

 一九七四年八月号の「子どもらいぶらり」(日本出版販売株式会社発行)で,児童文学作家,大海赫は,物語の結末について,
 「ぼくは,なまじっかな救いでごまかすようだったら救われないほうがいいと思うんですよ。人   間の運命とか人類の運命というのは,結局は悲劇的なんじゃないですか,現実はね。ただそれを子どもだということで,今まで甘くしたきらいがあるわけでしょう。ぼくも童話を書く上で,いつも思っていることは,ハッピーエンドにすることなんですよ。いつもそれを目指しているんだけど,いつもアンハッピーになっちゃうんですね。」(五頁)
と語っている。 
 もし,この言葉が一九六五年頃までに語られていたとしたら,児童文学の異端として非難攻撃されるか,それほどではないにしても奇異な発言と見られただろう。現在,こうした児童文学観をもつ作家は大海だけではなく,実作面でも類型化したハッピーエンドを拒否する作品がつぎつぎに出ている。日本の児童文学も確実に変わってきているのである。
 敗戦直後からこうした変化に至るまで,つまり戦後児童文学の特徴を,私は,拙著『現代日本の児童文学』(一九七四,評論社)及び『現代日本児童文学史』(一九七四「講座・日本児童文学」共著,明治書院)の拙論「現代の作品」の中で,現実の子どもの登場と政治主義の二つとしている。
 戦後のリアリスティックな作品を最初に生みだして今日に続く基礎をつくったのは『彦次』『風琴』(一九五〇)の長崎源之助,『川将軍』(一九五一)の前川康男,『つぐみ』(一九五三)のいぬいとみこ,『風信器』(一九五三)大石真たちであった。長崎と前川は兵隊として中国大陸に出征し,大石は大学予科生,いぬいは女子学生として戦争中をすごし,敗戦後同人誌によって活動をはじめた。少年少女時代から受けさせられた軍国教育,皇国史観の崩壊,敗戦による政治経済の混乱と激動の渦中で,意識的に子どもに向かって創作活動をはじめた彼らが,童心の追究とか,空想性を通じての高い理想追究とかに走らずに,大人と子どもの目の前の生活に素材とテーマを求めたのは,当然のことであったといえよう。なぜなら,彼らはまず兵士として戦わされたり,苦しい若者の時代を送らされたことへの怒りがあり,苦しい戦後生活があり,その中で翻弄される子どもたちを知っていたからである。そして,一方には,新しい憲法に象徴される民主主義国家建設の希望があった。大人にだまされつづけた若い作家として,彼らは,戦争責任を追究し,民主義建設を妨害する者たちを告発し,新しい日本の未来像を,読者に向かって語ろうとしていた。だから貧困,食糧難,対米追従の政治と人権の衝突などの中で苦しむ子どもたちを把握しようとした。その方法の下敷きとなったのは,プロレタリア児童文学とそのヴァリエーションである生活童話その他であった。しかし,若い彼らは自己の経験にもとづいて発想していたから,ブルジョア対プロレタリアといった図式で登場人物を二分したりせず,生活の中の子どもや大人をとらえ,彼らを通して貧困の実態や戦争の罪悪や民主主義的な生き方への模索をえがいた。イデオロギーの公式的適用でもなく,また子どもの世界を実生活とはどこか別な,いわば童話の世界にまつりあげることもせず,敗戦直後の日本の空気を吸い,政治・経済の影響をそのまま受ける人間としての子どもを,えがき出すことにはじめて成功したのである。
 戦後になってはじめて,完全な意味で日常生活の中の子どもが把握された背後には,言論・思想の自由がある。明治以来敗戦に至るまで,児童と政治とのかかわりなどをあるがままに自由にえがくことはできなかった。いきおい,子どものえがき方は,メルヘンによる本質の昇化結晶や,実生活で見せる一面のみにならざるをえなかったわけである。
 だが,戦後の児童文学に強く流れる政治性は,言論・思想の自由だけで説明することはできない。
 児童文学の流れを概観すると,一般に政治問題が色濃くあらわれる子どもの文学は,各国とも歴史の浅い時期に多く創造されている。そして,戦後日本は,日本の児童文学史はじまって以来はじめて自由に子どもがえがける時代になったという意味で,この児童文学史的事実に合致するのかもしれない。しかし,それだけで,日本の児童文学に政治的体質が生まれたとすることはできない。戦後四半世紀に及ぶ保守党政治の批判や弾劾は,ほとんど常に子どもの生命と基本的人権を守り,子どもの心身の健康な成長を守ることとつながっていた。たとえば,環境汚染一つをとっても,四日市ゼンソクや夏の光化学スモッグは,子どもの健康を直接おびやかしている。ところが,イギリスは排ガス規制が徹底したため,あの有名なロンドンの霧が天然の霧以外なくなり,冬でも青い空があおげる。だから,イギリス人は文明の発達と自然破壊という基本的な問題を根底に据えて作品を発想することはあっても,スモッグによる子どもの健康への憂慮を具体的に訴える必要はなくなっている。児童文学が,大人が解決しなくてはならない問題を子どもに訴え,子どものときにもっともよく享受できる遊びや,子ども自身の問題を扱わない状態は,けっして健康なことではないが,日本の場合,まったくやむをえないこととして,政治との対決がひんぱんにあらわれている。
 児童文学は,読者の年令から考えても,人物・思想・現象等々,すべてもっとも大切で本質的な部分が凝縮されて表現される。だから各作家が何々主義者であるといったことは,作品を通してだけでは判然としない。特に戦後の日本においては,子ども心身の健全な成長を守り励ます努力が,武力放棄,主権在民,基本的人権を中心思想とする憲法擁護を軸に創作活動でも展開されてきたため,ともすれば,自己を忘れ,現象の批判や統一見解的な考えが前面に表われる作品が多かった。だが,全体的には社会主義的志向が強く感じられる。これは,一つには三〇年代の社会主義志向の継承にあると私は考えている。三〇年代は赤い三〇年代といわれるほど,イギリスでもアメリカでも社会主義志向が強かったが,社会主義の推進者たちは,スペイン戦争(一九三六)などで試されている。そして,もちろん思想の変わらなかった人たちも多かったが,ソビエト的社会主義に幻滅した作家たちも相当いた。とにかく,マルクシスト,アナーキストたちは,反ファッショ闘争の中で試されたのである。日本でも,プロレタリア児童文学運動の中で,マルクシズム対アナーキズムの抗争はあったが,おしなべて弾圧され,ヨーロッパにおけるような試され方はなかった。菅忠道は『日本の児童文学』で日本児童文学者協会創立当時の性格を「大正時代の『赤い鳥』に代表される芸術的な童話・童謡の伝統と,昭和初年に興隆したプロレタリア文学の伝統との,いわば合作になるものであった」(三四一頁)と規定している。戦争中多くの児童文学作家たちは戦争に協力したから,その反省をもこめて,民主主義的な児童文学の中に流れこんだ社会主義志向を,芸術派といわれる作家たちが素直に受け入れたことは充分推察できる。日本児童文学者協会は一つの勢力にすぎないから,この団体の性格から全般を論じることは不可能だが,会員作家の数と活動の幅がひろいので,すくなくとも,戦後の児童文学に,試されないままの社会主義志向が太い流れとして入りこんだことはたしかだと思う。子どもへの責任と新しい時代における自己の確立と,試されなかったために新鮮な期待感をいだかせた社会主義志向は,だから戦後児童文学においてはつらつとした作品を生んだ。その一つが戦後の記念碑的作品である山中恒の『赤毛のポチ』(一九六〇)である。この作品の女主人公カツコの人間像は若い作家たちのめざす児童像を象徴的に示していた。物語の第一部では,カツコの家庭を中心に物語がはじまるのだが,日雇の坑夫である父と,やはりはたらきに出る母を,カツコは「悲しいことをつみ重ねつつ大人になった」と認識する。この段階のカツコはいわば個としても存在である。第二部では,カツコと受持ちの先生や,金持ちの息子だが原爆の影響らしく知恵の遅れた同級生カロチンなど,カツコと周囲とのかかわりが,単なる事実として展開するが,その過程で,相互の理解の深まりが示され,やがて理解と協力と団結という意識的な人間像と,社会変革が第三部で語られる。
 個人?個人の集合体?連帯感のある集団へのプロセスは,最初の部分が欠けたり,まん中がとばされたりして,組合わせは変わるが,以後のひじょうに多くの作品を支配する型となる。話題を呼んだ作品や,今日も子どもに読まれている作品,たとえば,『山が泣いてる』(鈴木実他作,一九六〇)『キューポラのある街』(早船ちよ,一九六一)『ドブネズミ色の町』(小暮正夫,一九六二)『ぴいちゃあしゃん』(乙骨淑子,一九六四)『宿題ひきうけ株式会社』(古田足日,一九六六)などがそれにあたると考えてよいだろう。これらは,富の分配の不平等批判という形での経済問題を基本に据え,子どもたちが現実を矛盾と認識し,その矛盾の原因把握と打破への意志を示す点でほぼ一致していた。いうまでもなく,戦後の政治性と子どもの未来性との結合の結果である。だから,このタイプの作品は本来それが生まれたときの精神がうすれた場合,類型化するもろさをもっていた。
 戦後児童文学の政治性は,くりかえしになるが,政治悪が与える子どもの成長阻害から子どもを守り育てる責任の自覚にあり,それが戦争反対,富の不平等分配批判になってあらわれていた。だが,パイを大きくして分け前をふやす,いわゆる高度成長政策の中で,相対的にくらしが上向くと,貧困の問題は徐々にうやむやにされた。戦争については,体験者たちは初期の怒りと反省と願いを失い,体験をもたない人たちは,体験者たちを模倣するか,皮相な想像による戦争問題をあつかうようになった。そして,経済問題があいまいになってくると,つぎには大きな問題として公害がクローズアップされ,素材として大々的にあつかわれることになった。
 政治問題及び社会現象と子どもとの直結は,そのときどきのトピックにとびついて,いつまでもつづいていくことができる。しかし,そうした素材の作品は,現象の説明とそれへの対症法しか暗示できない。何かもっとも本質的なものが欠けおちてしまう。この項の冒頭に引用したような変化は,本質回復への動きとしてあらわれたように思う。
 変化が作品上で明瞭になったのは,一九六九年である。そして,その変化は,政治性と児童像の画面からあらわれた。
 政治性という,いわば日本的な特徴に一つの変化をもたらしたのは,前川康男の『魔神の海』(一九六九)である。これは,クナシリ島のアイヌ人と交易を名目に彼らを収奪し,アイヌ人の反乱をひきおこした史実を基礎に,アイヌ人の若い英雄セツハヤの勇気とにくしみと苦悩を中心にして,少数民族の悲劇を再現した歴史小説である。筋がドラマティックで人物像もくっきりと表現され,物語の面白さが充分味わえるすぐれた作品であるが,画期的なのは,あとがきに「国とは,国家というのは,いったい,どういうものなのだろう」とある発想から「シサムの国(日本のこと……筆者),フレシサムの国(ロシアのこと)も,大むかしは,わたしたちとおなじような小さな部族だった。一つの部族が,ほかの部族をせめほろぼして,征服して,だんだんに国になった。つまりは部族のかたまりだ。大きな部族のかたまりは,ほかの大きな部族のむれをよせつけまいとする。おたがいに征服されまいとする。ひとりひとりの人間は,戦ったり殺しあったりする気持ちがないのに,国というふしぎなものは,みんなをにくみあううずの中にまきこんでしまうのだ。」(講談社版,二〇一〜二頁)と本文中で語る問題の提起である。
 日本をどうしたらよいかという考えは,生活のための闘争,基地問題,労働問題すべての根底にあるものとして,今まで子どものための作品の中でも考えられ論じられてきた。だが,国家と人間の関係が正面からとりあげられたことは,たとえば小川未明の童話『野ばら』以外になかったのではないか。この作品には,前川の戦争体験やベトナム徴兵拒否者たちの問題が背景にあるのだろうが,保守対革新,アメリカ・自民党政府対反帝・反独占勢力といった図式を超えた巨視的でかつ本源的な問いかけとして注目すべき変化であった。
 この変化の根底には,当然時代の思想的な流れがある。六〇年代後半はたしかに一つの大きな変動期であった。アメリカはベトナム戦争に全面的に介入し,世界最強の兵力を用いても民族自決を打ち破ることが不可能であることを実証し,その介入の時代錯誤と不正と残虐性が改めてアメリカの実態をさらけだした。またソビエトは一九六八年にチェコスロヴァキアに武力介入していわゆるチェコ自由化をつぶし,多くの人々にショックを与えた。また六八,九年にはヨーロッパや日本で大規模な学生の反乱がおこっている。こうした大事件個々の評価は立場に応じて異なるが,既成の体制,価値・評価基準,思想に対する疑問を多くの人々に与えたことはまちがいない。前川の作品は,その疑問を象徴的にあらわしている。
 作品に登場する人物,特に子どもの変化も変動期が背景になってあらわれている。その一番手は奥田継夫の『ボクちゃんの戦場』(一九六九)であった。これは「一つは,お父さんやお母さんに安心して大阪の空を守っていただくために,二つは,向こうで将来の立派な兵隊さんになる鍛錬をうけるために」家を離れた子どもたちの集団疎開をフィクションにしたものである。大人が見せる建前と本音,子どもだけの社会にあらわれる大人同様なみにくさの実態の伝達も貴重だが,文学史的な意味は主人公の描写にある。ボクちゃんこと源久志は学校で四年イ組の級長だったため,疎開先でもはじめは級長だが,やがて腕力と統率力ある牧野にその地位を奪われ,徐々に下積みになっていく。影響力を回復し,暴力支配下の不正を正していくためには,牧野と腕力による対決をしなければならないのだが,その体力も度胸もボクちゃんにはなく,ついに最後まで押されつづけて終わってしまうのである。だから,困難克服型のヒーローが登場する作品を読みなれている人びと,または児童文学に素朴な欲望充足を期待する人びとは,いらだちを感じながら読むだろうと思う。臆病な子どもが臆病を克服して何かをしようとすることは,ほとんど生まれ変わるに等しいことであり,現実にはあまりおこりえない。だから,困難克服型のヒーロー,ヒロインの登場する作品が読まれるのであり,一方,現実とのみぞはいつも埋まらないのである。『ボクちゃんの戦場』は,その意味で,ほとんどはじめて子どもの内面をリアルに追究した作品といえる。日本でも,大人対子どもという対立した類型的な子どもの把握がくずれたのである。子どもが変わったのではなく,子どもに対する大人の認識が深まったのである。だが,勇気をふるいおこしてボスと対決しない,いわばカッコ悪い子どもの登場は,よりよく生きたい人間の本能的欲求に矛盾するものではない。ボクちゃんは牧野にいじめ抜かれても降参して尾をふることだけはせず,耐え抜いていく。そして,牧野に「おまえはほかのジャコとちごて,いじめがいがあったさかいナ。おれはおまえをいじめてもいじめてもいじめつくしたいう気ィせェへンかった。」といわせるに至る。ボクちゃんの牧野への抵抗は,理想に向かって生きる進み方が,困難克服型のカッコよい主人公たちの方法だけでなく多様であることを示している。まとめていえば,この作品は,学童といわれた小学校の子どもたちの戦争中の受難の伝達を超えて,ひとりの人間の生き方の提示に至っている。
 奥田が試みた方法と児童文学感は七〇年代に至って徐々に大きな流れになりつつある。というのは,この傾向が『ボクちゃんの戦場』のような中学生以上向きの作品ばかりでなく,児童文学の主流である小学生向きの作品『なまけんぼの神さま』(さねとうあきら,一九七四)にもはっきりあらわれているからである。
 『なまけんぼの神さま』は,山谷地区の長欠児や不就学児を対象にひらいた教室の子どもたちをえがいた作品である。一杯飲み屋でおでんを煮ているおかあさんとふたりだけで暮らすともえは,つくしんぼ学級で福ちゃんという女の子と友だちになる。福ちゃんのおとうさんは元サーカス団員で今は競馬の予想屋をしている。ともえがお近づきのしるしに,福ちゃんをおでん屋につれていくと,福ちゃんはつぎの日から毎日おとうさんと連れだってごちそうになりにくる。そして,ともえ母子があきれ果てる頃,父子ともいなくなり,しばらくして飢餓状態でもどってくる。つくしんぼ学級の先生が生活保護を獲得してやると,おとうさんは,その金で酒をのんでしまい,ついには福ちゃんをすてて姿を消す。
 ともえも学校をおえてまともな就職もできず,おかあさんの一杯飲み屋につとめて,自堕落な日々をおくるが,そこへ福ちゃんらしい荒れた感じの女があらわれる。ともえは,自分の姿を見せられた気がして,もう一度自分の力を試すため夜間高校へ入学する。
 この作品でも,強く感じられるのは,イギリスの最近の作品に通じる現実の重みへの認識である。献身的な先生たちと,いたわり合い励まし合う子どもたちは感動的だが,つくしんぼ学級を一歩出れば,つくしのようにわずかな光ですくすく育とうとする子どもたちの意志などたちまち押しつぶす偏見や冷酷さが待っている。それは,団結でも連帯感でも容易に打破できない厚い壁である。六〇年代前半までの児童文学は壁の厚さに対する認識が薄かったといえる。奥田のボクちゃんの現実もさねとうのともえの現実も,困難克服が比較的容易である階級の子どもから,それより困難な階級の子どもたちに向かっての,児童文学の接近という事実にうらづけられると思う。王侯貴族の子弟の教育と娯楽から中産階級の子弟のそれへ,そしてすべての子どもに向かって開かれた児童文学へという変化が,児童像及び子どもをとりまく現実に対する作家の認識を変えたのである。
 しかし,容易には動かせない現実の壁の存在は,物語を厳しく暗くすることが多い。だから新しい傾向の作品は,中産階級性の全盛期のものや,個から意識の高い集団へ変革する登場人物のあらわれる作品にくらべて,ペシミスティックであるとか子どもから遊離したとかいわれがちである。だが,現実ばなれした解決はセンチメンタルなものに堕してリアリティを失ってしまう。現在,日本の児童文学は,現実に対する認識の進化とあらまほしい未来像の谷間におちこんで停滞している。
 この停滞の背後には,明るい未来の展望を児童文学の必須条件とする考えがある。この考えは,児童文学が空想的な作品や,写実的であっても政治性や社会性をもたない作品の時代に必須だったのだが,子どもが大人と対比されて理想化されることをやめ,ありのままの姿でとらえられるようになった今には,必ずしもあてはまらない。
 『なまけんぼの神さま』では,ともえの前途に何一つ光明がさすわけではない。「にげだしたらゆるさない」というなまけんぼの神様につかまらないように,世をすねてしまわずにもう一度人生にアタックするともえのことが結末に出てくるだけである。それでいてこの作品からは暗い絶望感はにじみ出てこない。それは,ここに人間の生き方がえがかれ追究されているからだと思う。
 児童文学を含めて文学は,人生の意味を考え,人間の本質を追究し,生き方を模索するものであることは今さらいうまでもない。だが,一九世紀後半以来の児童文学は,空想的なものはいうまでもなく,場面や人物が写実的にえがかれた作品ですら,現実よりもものごとの理想的解決が可能な世界であり,その世界での生き方の追究であった。ヨーロッパやアメリカでは,今に至るまで政治が生で児童文学にあらわれることがすくないから,多くは個人的な生活での理想的な解決であった。既述したように,政治が直接的に顔を出した戦後日本の児童文学においても,重苦しい現実と子どもたちのかかわりの解決は,迂遠な未来との強引なドッキングによって,感情的に解決されるか,あるいは局所的な解決に終わるかしていた。だから登場人物たちは,何らかの希望や未来への保証を得て話が終わるわけだった。物事が現実よりもうまく運ぶ物語の中で生き方を模索する場合と,来るべき未来への距離が遠いこと,そして中には半端で挫折する人間もいることを正直にえがきながら,なお,生きる姿勢を模索する場合とでは,質的なちがいがある。七〇年代の児童文学は,いわばその質のちがいを生みだしているといえる。
 子どもをとりまく現実が,事実に忠実に把握されればされるほど,一見その作品は暗くて絶望的に思えるかもしれない。しかし,その中で生きる子どもの姿を通じて,いかなる環境にあっても人間が人間として生きるための行動ができる基本的諸条件が浮きぼりにされるかぎり,その作品は,積極的であり肯定的であり,子どもの成長にプラスするものである。
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