『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)

戦後日本の収穫

 現在四十代から上にいる人たちは、児童文学という呼称より童話という言葉の方が親しいのではないかと思う。戦前、児童文学は、ほぼ童話と総称され、またその名がふさわしかった。つまり、昔話風なスタイルで空想部分の多い作品にはじまり、徐々に子どもの生活がえがかれるようになっていきながら、基本的には昔話風なわくを出なかった。幼年向きの文学は幼年童話とよばれ、イソップ寓話や昔話のように、万物を擬人化した世界で寓意や人生哲学を語るか、あるいは、幼児の日常のあそびや、彼らが新しいものを認識する一瞬をとらえたりするものが主であった。代表的な作家は、浜田広介である。
 敗戦後、新しい文学がどのようにして生まれていったかについては既述したとおりだが、新しいものを求める動きの中で、幼年童話についても古い型に疑問がなげかけられ、新しい模索がはじまった。戦後、幼年童話から幼年向きの文学への変化の精神をもっとも如実に語っているのは、いぬいとみこの幼年童話批判と実作であろう。
 一九五七年に出版された『文学教育基礎講座』(明治図書)第二巻で作家奈街三郎は小川未明の昭和六年の作品『なんでもはいります』を例にとり、四百字あまりのこの短い作品を、一人の子どもの全生活が凝縮された幼年童話の典型と評した。かわいらしい正ちゃんのかわいらしい上着についているかわいらしいポケットには、キャラメルもビスケットもどんぐりも広告のビラもはいる。お母さんからもらったみかんは、はいらないかと思ったら、正ちゃんは房に分けていれた。正ちゃんのポケットにはなんでもはいるという話である。奈街はこれを、子どもが物を愛着をもって生活にとり入れ、つねに新しさを求め、さらに発見に至る全生活を語るものとした。いぬいは『子どもと文学』で、子どもは自分自身をかわいらしいとは自覚しない。このテーマを使って物語をつくる場合には、子ども自身がポケットには何でもはいるという発見をするところから話がはじまらなくてはならないと主張した。大人が発見した童心の世界から、子どもの内面の動きを軸にした作品への転換を主張したのである。
 いぬいの主張は、研究と実作に裏づけられてあらわれた。彼女は一九五四年十一月から同人誌「麦」誌上に幼年向き長編『ながいながいペンギンの話』を連載しはじめ、五七年に出版して毎日出版文化賞を受賞していた。彼女は直接の刺激を主としてアメリカの絵本・絵物語のシリーズ「岩波の子どもの本」に帰している。高学年のための作品が生活の中の子どもをめざしていたように、いぬいは幼ない子どもの実生活、つまり現実と空想とが混在する時期の子どもの姿の表現方法を模索し、一つのモデルとして外国文学に出会ったのである。いぬいから三年おくれて松谷みよ子の『竜の子太郎』(一九六〇)が、翌六一年には神沢利子の『ちびっこカムのぼうけん』が出る。
 現在も読まれているこの三つの戦後的傑作にも、戦後ヨーロッパのものとはべつだが、明瞭に共通した性格がある。いぬいの登場人物が擬人化されたペンギン、松谷のそれが民話から借りた人間、神沢のそれが伝説にヒントをえた独創と、それぞれ異なりながら、いずれもがいわば鋭気さっそうと事件にとり組み、問題を解決する勇気あふれる英雄たちであることが特に印象深い。自己中心的で心身ともに急速に成長する時期の読者に最もふさわしいキャラクターであるが、それ以上に、大人好みの哲学の表現や情緒過多の幼年童話から脱皮して、子どもの興味に合致した作品を創造したいという作者たちの精神と、民主主義的な社会を守り育てたい願いが生んだ積極的で行動的な人物像であっただろう。それらには、戦後の若さと力と希望がこめられいささかの暗さもない。しかし、同時に、いぬいのペンギンにわずかに見られる以外、人間的な長所欠点の把握とそこから必然的におこる筋の変化などは見られない。だから、テーマも、登場人物と事件との相関が必然的に語るというわけにはいかず、いぬいと松谷ははっきりと意識してテーマを盛りこんでいた。そのためか一種の力みが感じられる。ところが神沢の場合には、それがないために逆にどこか平面的な印象を生むことになった。ストーリーとテーマについて新しい幼年文学が残した宿題というべきである。
 宿題に一つの解答をしたのが、いぬいと同じ同人誌「いたどり」から出た中川李枝子の『いやいやえん』(一九六二)である。これは保育園の保母である経験を生かして、主として保育園の中の子どもの、外面と内面の動きをたんねんに追った作品であった。いたずらっ子しげるのいたずらと失敗や、空想のくじらつりなど、幼ない子どもの心情に多くの共通点をもち、共感をよびおこして今も読まれている。いぬいたちの創造した主人公がより深く把握されたといえよう。ただ、主人公たちが就学前の幼児であるためか、あるいは保母的な立場からの見方が無意識に出ているためか、彼らの欲望やそれにもとづく行動が人間普遍なものにまで高まらず、どこかにしつけ臭さを残してしまい、未完成の感を与えた。やや公式的にいえば、いぬい、松谷、神沢、中川が女性であることも、登場人物をタイプにまで高められなかった一因かもしれない。えがき方が入念であり、その女性らしい特質が、はじめて幼年文学に長編をもたらしたわけだが、主人公のきめこまかい描写や行動の追跡に努力が傾きすぎ、行動の意味の把握にまで及ばなかったきらいがある。
 それは必ずしもただの推量ではないように思う。というのは、この分野に新風をもたらした男性作家二人、寺村輝夫と小沢正が、ともに戦前的童話形式の作品をかいているからである。ふたりとも人物が必ずしもリアリスティックではないメルヘン的な作品を通じて、凝縮度の高いテーマを伝えようとした。女性が、子どもの動きを重視し、ストーリーの展開に主力をそそいだとすれば、男性はテーマから発想していたといえる。
 神沢の本と同じシリーズで一九六一年に寺村が出版した『ぼくは王さま』は、
 「王さまに、
 ──なにが、一ばんすきですか──
 ときいたら、
 『たまご』
 とこたえました」(理論社版、五頁)
 とか、
 「さあ、また、王さまのはなしを、しましょう。
  王さまは、あそぶのが、だいすきでした。あそんで、おかしをたべて、あそんで、べんきょうして、あそんで、ひるねして、あそんで、ごはんをたべて・・・・・・それで、一日がおしまいになりました。」(同二八頁)
 といった書き出しでもわかるとおり、戦前から存在した伝統的な手法を使っていた。その点は一九六五年に小沢正が出版した『目をさませトラゴロウ』も同様であった。だが、寺村は、大勢の人たちにたまごやきをごちそうするためにぞうのたまごをさがすといった着想を、軽快でユーモラスな文で展開して、多くの読者に新鮮さを感じさせた。小沢は、きばをなくした虎がみんなにばかにされてひどいめにあいながら、きばをみつけたとたん、ばかにした連中をたべてしまうといった、民話の手法を巧みにとりこんだストーリーで自己の思想を展開してみせた。寺村は、変な理屈がつかない笑いを、小沢は戦後世代の思想の重みを感じさせる自己主張をして、内容的に寓話の類型を破る小さな革命をやってのけ、ともに戦前の幼年童話をまったく変えたのである。しかし、残念ながら女流作家たちが達成した物語性の獲得の面では、特別な新しさを見せていない。  
 こうして、幼年向きの文学も、高学年向きのそれ同様に、六〇年代にはいって急激に変わったのだが、新鮮ではつらつとした作品群は、同じ作家やつづく新しい作家たちによって解決されねばならない問題点をのこした。いぬいや松谷の作品は、それぞれ、テーマがストーリーの中で消化されてはいたが、力みというかたちで、現在的な政治的社会的主張が幼年文学にも必要であると思わせる部分をもっていた。中川のものは、子どもへの密着がすべてであるといった一種の経験主義へ、後続の作家たちをみちびく不安があった。寺村や小沢の作品は、松谷やいぬいや神沢同様に、作品自体は完成された高さをもっていたが、二流、三流作家が古い思想と古い手法に依りかかることを許す部分を含んでいたと思う。いずれにしても、新しく生まれた幼年向きの文学は、ストーリー、プロット、人物像のえがき方、そしてなによりも自己の表現において、解決すべき弱点を多く含んでいた。だから、その後の作品がつぎつぎに弱点を克服して新しく生まれた幼年向きの文学を向上させるべきであったのだが、それはどこかでサボタージュされている。 
 テキストファイル化赤澤 まゆみ