2002.04.25

       
【絵本】
『雄太昆虫記 ぼくのアシナガバチ研究所日記』(中川雄太:作 くもん出版 2002)
 著者が小学4年から6年までの間に観察したアシナガバチの記録。
 素晴らしい!
 様々な興味と困難を糧に、著者はアイデアを巡らし、アシナガバチの観察方法を編み出していく。女王バチが死んでしまった巣を他の女王バチの巣に瞬間接着剤でつなげてみると、どうするか? 違う巣の働き蜂を別の巣に連れて行くと、どういう反応を示すか、ナドナド、白馬村で、中川の想像力は新しい実験を生み出していく。それらはアシナガバチ研究にも貴重な資料となっていく。
 なんといっても、中川のアシナガバチに惹かれてく様が美しい。
 好奇心をリフレッシュしてくれた一冊。
 素晴らしい。(hico)

『アリクイのアーサー』(著者:バーナード・ウェーバーさく みはら いずみやく 出版:のら書店 1967/2001)
 はじめにママからアーサーのご紹介。
 普段のアーサーはやさしくて、おてつだいもして、ききわけがよくて、もんくなしにすばらしいこども、なんだけど(ホントかなー?)、次のページからのアーサーといったら、
 猫はネズミクイって名前じゃないのに、なんでぼくらはアリクイなんて呼ばれなくちゃならないの?
 アーサーはどうしても納得がいかないやつ。
 遊んでらっしゃいとママがいっても、友達はいないだとかいう。学校にでかける時には何度も忘れ物をちりに帰ってくる。
 理屈屋で、あわてんぼうのアーサーって、とっても身近。アリクイなんだけど、アーサーはやっぱりアーサーでしかないのね。
 そのまんまのアーサーをうけとめてやってくださいな。(hico)

『カバなふたりはきょうもいっしょ(ジョージとマーサ 1)』(ジェイムズ・マーシャル作 安藤 紀子訳 偕成社 2002)
『親友だってひみつはひみつ(ジョージとマーサ 2)』(ジェイムズ・マーシャル作 安藤 紀子訳 偕成社 1967/2002)
 「仲良し」話。仲良しであることの楽しさは、時に内閉してしまって、部外者にはなんだかなー、なのですが、このシリーズの場合ジョージくんもマーサちゃんもどこかお間抜けで、「しょーがないな〜」と思いながら読んでしまいますから、読み手もちゃんと参加できてしまうんです。ノミの理科実験研究をしているのよと自慢気なマーサだけど、段々からだが痒くなってきて・・・・とかね。
 ローベルの『ふたりはいっしょ』(文化出版局)と違って二人が異性同士なのも、ホンワカ度を増しているのかもしれません。(hico)

『ウッレのスキーのたび』(エルサ・ベスコフさく 石井 登志子やく フェリシモ 1907/2002)
 6さいになったとき本物のスキーをもらったウッレ。
 やっと降り積もった雪。とうぜんウッレは滑りにでかけます。
 で、霜じいさんに会ったり、あわてものの雪溶けばあさんに会ったり。そしていよいよ冬王にお目通り。
 冬から春までのスエーデンの子どもの情景が活き活き描かれています。
 こういう子どもの情景って、もうないよね。(hico)

『おうじょさまのぼうけん』(エルサ・ベスコフさく 石井 登志子やく フェリシモ 2002)
 1985年フレーベル館から出てた作品の、フェリシモからの再刊。
 王さまや犬のペレと散歩にでかけたおうじょさま、走り出したペレを追って森の中へ。クマに出会って・・・。
いかにもベスコフらしい落ち着いた画に、元気なおうじょさまが映えます。
 ストーリーは元気少女物ですが、それが父親(王)と母親(お后)にちゃんと守られているのが、よくもわるくもこの作家の安定度。(hico)

『いちねんのうた』(エルサ・ベスコフ絵と文 石井 登志子訳 フェリシモ)
 スエーデンの一年の巡りを、ベスコフが丁寧に、楽しく描いてくれています。
 毎月の歌と画。季節の移ろい、自然の美しさ、そうしたものが、素直に伝わってきます。
 やっぱり巧いなー。
 ただし、スエーデンの風習など分からないところがあるのですが、それを下段のスペースで詳しく説明してくれているのもありがたい。(hico)

『とべ!宇宙船“地球号”(地球たんけんたい 1)』(パトリシア・ローバー文 ホリー・ケラー絵 神鳥 統夫訳 リブリオ出版)
 地球という命について分かりやすく解説した絵本。
 地球は様々な食料と、大気を積んだ宇宙船。宇宙船と違うのは、地球は資源が循環して、尽きないこと。ただし、人間がバランスを崩さなければ。
 地球を丸ごとイメージできるのがいいです。(hico)

『ふぶきのあした』(木村 裕一作 あべ 弘士絵 講談社 2002)
 『あらしのよるに』シリーズ完結編。
 オオカミのガブとヤギのメイの出会いから見つめてきた私たちにとって、物語がどこへ向かうかは気になるところ。
 ガブは仲間のオオカミに、ヤギと仲良くしているのが知られ、追われる身に。もちろんメイも一緒に逃避行。きっとあの山の向こうにはぼくたちが暮らせる場所がある。
 ガブのお腹が減ると、身の前のメイがおいしそうに見えてしまうのだけど、そういうとこ越えて、友達になっている。お互いをかばうために、嘘をついて離れようとするけど、互いにそんなこともお見通し。命より友情を優先しようとする二人。
 ラストは書けないね。
 物語は必ず終わってしまう、ってことを実感です(hico)

『はじめての和太鼓演奏』(板東誠・編著 エルくらぶ 2002)
 絵本ではありませんが、絵本『太鼓』の別冊ですから、ここに入れておきます。
 和太鼓の種類から、その演奏方法までと、楽譜によって構成されています。
 かなりしっかりと解説ができているので、学校現場なんかで和太鼓やるには、最良のマニュアルの一つになるでしょう。
 もちろん、絵本『太鼓』と一緒に読んでいただければ幸いかと。

『シロクマをさがしに』(ハリー・ホース:作 千葉茂樹:訳 光村教育図書 2000/2002)
「わたしの祖父は、北極探検の途中で、たしかにペンギンたちにあったといっています。」という、とんでもない「おことわり」から始まります。
 動物園のシロクマはみじめに見えるから、北極でシロクマを観たい「私」。ソリもハスキー犬もないので、ゴルフバッグに荷物を詰め、愛犬ルーとともに旅立ちます。ルーもハスキー犬なんかに負けないよなんて言っているので。
 こうして二人の冒険が始まる。
 イイコンビです。
 いくつもの苦難を乗り越え(っていうほどのことでもないか(^_^;)二人は北極を目指すのである。
 ルーの表情がとてもよいです。ストーリーのとぼけ具合もなかなかなもの。ペンギンだって出てくるんだ・・・・・。なんでだ・・・・。私もわからんが、いいのだ。
 オチもお約束通りで、文句なし。(hico)

『パパのカノジョは』(ジャニス・レヴィ:作 クリス・モンロー:絵 もん:訳 岩崎書店 1999/2002)
 パパのカノジョってことで、「あたし」は結構斜めからみている。
 かわっているし、かっこわるい、やつ。スポーツは観ないし、しないし、お菓子も焼かないし、だからキッチンはピカピカのまんまだし、野菜しかたべないし。
 と、あたしはどんどん挙げていくけど、このカノジョ、あたしのひみつはひみつにしておいてくれるし、口もはさまない。機嫌が悪いときはほおっておいてくれる。
 ヘンなカノジョはあたしをちゃんと認めてくれている。
 「あたし」の気持ちが柔らかくなる。
 パパのカノジョとのとってもいい関係が、ストレートに伝わってきます。
 画も、「あたし」の目つきが良いですぞ。(hico)

『いのちは見えるよ』(及川和男:作 長野ヒデ子:絵 岩崎書店 2002)
 盲学校の先生ルミさんは自身も視覚障害者。エリは彼女の出産に立ち合います。ルミさんは赤ちゃんと一緒にエリの学校に招かれます。
 タイトルになった「いのちは見えるよ」はルミさんの言葉。
 出産、赤ん坊、いのち。その暖かさを子どもたちに。目新しくないまでも、いいと思う。長野ヒデ子の画も、色使いからタッチまで、できるだけシンプルに、包み込むように仕上がっていて、心地良い。
 なによりすばらしいのは、出産過程が丁寧かつ迫力一杯に描かれていること。
 けれど、「いのちは見えるよ」が視覚障害者を設定することで、引き出されていきそれが子どもの感動につながっていく展開は、それが感動を喚起させようとするだけに、引っかかってしまう。視覚障害者と「いのち」が差し替えられてしまう。ルミさんが出産し「いのちは見えるよ」という物語はあるだろう。教室に赤ん坊が来てそのウンチの臭さも含めて、子どもたちが「いのちは見えるよ」と思う物語もあるだろう。しかしこの二つをつなぐには、もうひと工夫いるのではないか?(hico)

『あやのいぬ』(たきざわさおり:作絵 アスラン書房 2002)
 ぬいぐるみの犬と遊んだり、あや自身が犬になったり。そうして広がった空想で、本物(?)の子犬が現れる。さっそくクッキーと名付けて、部屋中大暴れで遊びます。
 その後、母親が帰ってきて、空想は終わり、あちこち散らかった部屋が残る。
 ここまではいい。子どもの空想(欲望)の発露が楽しく描かれている。が、最後日本物の犬が親からプレゼントされるのは、描きすぎ。
 それは空想(欲望)を目先で果たしているだけだから。それより、その空想をもっともっと広げて欲しい。(hico)

『もぐらのサンディ』(くすのきしげのり:文 清宮哲:絵 岩崎書店 2002)
 「もぐらのサンディは
 あなを ほる
 ほる   ほる
 ほる  ほる  ほる」
 といった風に、この絵本にはまず、言葉とそのリズムが色濃くあるのね。
 で、いいのは、サンディが、とにかく、ほつ、ほる、ほること。
 もちろん本当のもぐらにはほる意味はあるのでしょうが、フィクションのサンディはそんなこと気にせず、ほる ほる ほる、なんです。
 でその途次で当然ドラマは起こるわけで、でもそれは書かないわけで、
 とにかく、その「ほる」が楽しい。
 ま、オチは、男の物語になっていて、イマドキなんだかなー、なんだけど。
 清水の画の軽さは買い。(hico)

【創作】
『ギグラーがやってきた!』(ロディー・ドイル著,伊藤菜摘子訳、偕成社、2002年1月/2000年)
 低学年向きだが、幅広い年代で楽しめそうな、英国作家によるホラ話。
 ギグラーとは、何万年も前から地球上にいる奇妙な生き物。見た人はほとんどいない。子どものあとをこっそりついてまわって、子どもにひどいことをした大人に罰を加える、つまりは「仕置き人」のような存在だ。その罰とは、うんちをふませること。今回の標的ミスター・マックの足が、巨大うんちまであと数歩に迫ったところから、物語が始まる。
 ところが物語は直線的には進まない。いまか、というタイミングで、魚ぎらいのカモメのひとりごとが聞こえてきたり、巨大うんちの主である飼い犬の秘密の生活が明かされたり。章のなまえもおかしいし、ゆかいな工夫がてんこもり、という感じの一冊だ。(seri)

『生きのびるために』(デボラ・エリス著,もりうちすみこ訳、さ・え・ら書房、2002年2月/2000年)
 タリバン政権下のアフガニスタンが舞台。著者はカナダのNGO活動家で、パキスタンのアフガン難民キャンプを取材して、この物語を書いた。
 カブールで家族と暮らす11歳の少女パヴァーナを主人公に、外出もままならない女性の暮らしや知識層への弾圧、地下組織による女性のための教育運動などが描かれる。
 投獄された父にかわって一家の暮らしを支えるため、パヴァーナは少年に扮して市場で働くようになる。彼女をこっそり応援する「秘密の友だち」や、同じように男装した元級友と引き受ける怪しげな仕事など、スリリングなエピソードが迫力をもって読ませる。(seri)

『エンジェルのおるすばん』(ジュディ・デルトン著,岡本浜江訳、朔北社、2002年3月/1985年)
 「子どもが冒険と体験をつうじて人生を学んでいく姿をえがいた」(著者紹介より)『うら庭のエンジェル』シリーズ。
 主人公のエンジェル(本名キャロライン)は10歳の小学生。4歳の弟と母との3人暮らし。親友のエドナともども図書館のおとくいさんだ。
 本作では、たまの「休暇」をとって旅行に出かけた母親の留守をあずかって奮闘する。シッターとして来てくれた母の友人はかんじんなところで頼りにならず、ついに小さい弟を連れて登校するはめに。そこでも騒動が…。
 自立心と安心を求める気持ちのはざまで揺れる女の子の姿を、ユーモアを交えて描くアメリカ版「生活童話」。小さい弟の疑似母親体験をするあたり、
日本の「モモちゃん」シリーズ読者にも好適かもしれない。(seri)

『魔女になんかなりたくない!』(マリー・デプルシャン著,末松氷海子訳、文研出版、2002年3月/1996年)
 タイトルからわかるように魔女の家系に生まれた女の子が主人公だけれども、ファンタジーというよりも家庭小説の味わい。
 11歳のヴェルトは、そろそろ魔法の能力がめざめるお年頃。母親は期待しているが、本人は普通の「人生」がおくりたい。不仲な母娘のあいだを、おばあちゃんがとりもとうとする。そんな女三代の思惑とすれ違いを、「魔法」をスパイスにしておしゃれに描く。(seri)

『ハルーンとお話の海』(サルマン・ラシュディ著,青山南訳、国書刊行会、2002年1月/1990年)
 『悪魔の詩』がイスラム教冒涜の書と糾弾されたため余儀なくされた潜伏生活のなかで書かれたという、いわくつきの物語。
 「お話の海」とは、すべての物語が生まれ出てる源。そこが汚染されてしまったのを修復するため、ハルーン少年は冒険の旅に。どこかエンデの『はてしない物語』を思わせる寓話。でもエンデとは違って、アラビアンナイトやハリウッドのようなハチャメチャな活劇あり、かなりしんらつな言論弾圧への風刺ありの、にぎやかさだ。
 ハルーン少年の父、「ほんとうでもないお話が何の役に立つ」ということばに脅かされた「ストーリーテラー」(こういう職業があるのです)は、著者自身の反映だろうか。破天荒で笑いに満ちた展開のなかに、物語ることの大事さを精魂込めて訴えるパワーを感じさせる。(seri)

『テオの旅』上下全2巻(カトリーヌ・クレマン著,高橋啓・堀茂樹訳、NHK出版、2002年3月/1997年)
 『ソフィーの世界』の宗教版といううたい文句(日本での版元も同じ)のフランス小説。病弱な14歳のテオ少年を世界一周癒しの旅に連れ出すマルト伯母は、無神論者でフェミニスト。著者自身の面影が強いようだ。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つがそれぞれの聖地をもつエルサレム(ここの話だけでも、かなり勉強になった)をふりだしに、社会的な身分制と宗教が深くかかわるインドやアフリカ、政治体制の変転のなかで宗教も影響されるロシアなど、訪れる場所は多彩。なんと日本の能や茶道についての話もある。
 「ひとつやふたつではなく、世界の宗教の全体像を知ること」に主眼が置かれていることが、本書の特徴。たとえば、ひとつの宗教からどのように別の宗教が派生したのか、また創始者と後継者でどのような違いが生じてきたのか、といった多くの宗教に通じる歴史的な歩み。死と再生、犠牲などをどのように説明しているのか、なども比較される。それらをあらわす儀式や芸術などが、旅行ガイドやドキュメンタリーのノリで描かれているのが、とくにわかりやすい。文化交流事業で世界各地に滞在した著者の経験がものをいっている。(seri)

『トニーノの歌う魔法』(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ:作 野口絵美:訳 佐竹美保:絵 1980/2002)
 クレストマンシー・シリーズ最終訳本(出た順だと2番目)。
 「ハウル」がアニメ化される勢いに乗って、このシリーズ全4巻も一気に訳されました。
 何度も書いてますがこれは、邪悪な魔法を関しする役目の大魔法使いクレストマンシーが遭遇した「事件」たちを扱っていますが、それぞれの「事件」は別の時空で起こっています。
 パラレル・ワールドですね。
 今作はある時空のイタリアが舞台。イタリア小国カプローチは、二つの魔法使い一家の呪文によって守られている。で、この両家は仲が悪い。互いは争って新しい魔法を開発するので、国はますます発展するかと思えば地下ゴリそうでもなく、むしろ反目によって、防御の力がほころび始め、ピサなどの隣国から攻められそう・・・。
 邪悪な大魔法使いが動き出しているとクレストマンシーは警告するのですが、両家は、起こっている悪事は相手の陰謀だと思っています。
 さて、そんな中で、両家の子どもトニーノとアンジェリカ、どちらも一家の中ではイマイチ、ドジなのですが、二人は、誰とも知らない悪の大魔法使いに捕まり、もちろん両家はそれを相手の仕業だと思っていて協力もせず荒そう始末。そうこうしているうちに、大公が知らない間に、カプローチは周辺に国に宣戦布告していて、いよいよ危機に。
 快調なテンポで物語は進んでいきます。今回はクレストマンシーは脇。二人の子どもが活躍。この作家のママぐるしく変わる視点がスピード感をいやでもまします。
 設定は『ロミオとジュリエット』をちゃんと正しくぱくってます。これでいいのだ。(hico)

『Missing 神隠しの物語』(甲田学人:作 翠川しん:イラスト メディアワークス 2001)
 すでに目黒強が昨年紹介している物語。
 http://www.reviewers.jp/ronnbunn/mag/010725.htm#mi
 ここにちょっと付け加え。
 「異界の女の子」あやめは(その存在意味はネタバレなので、書きません)、年齢より幼く、人形のようで、過去に継子という孤独を背負っていると説明されます。つまり、彼女は、「異界の女の子」である以前に、恭一を代表とする男の子たちにとっての性的対象であることから、冷静に排除されています。また、恭一を中心とする仲間(男女)たちの間にも、「好き」や「嫉妬」は存在しますが、それらも、ただちに分析され、解体されます。そのようにして、この物語は(だけでなく、ですが)、かつて「思春期」と呼ばれた年齢層を描きつつ、それがかつて抱え込んでいるとされた「性」を迂回しているのです。

『きみにしか聞こえない』(乙一 角川スニーカー文庫 2001)
 ここには3編が収められています。
 表題の「きみにしか聞こえない」は副題が「CALLING YOU」であるように、映画『バグダッタ・カフェ』で使用された歌のイメージから作られています(歌詞の内容は知らなかったそうですから、メロディのイメージでしょう。中味も映画とも全然違うし)。
 この3編に共通した要素はコミュニケーション。表題作では、学校で孤独な生徒がいて、だから彼女はケイタイを持っておらず(掛ける相手も掛けてくる相手もいない)、が、頭の中で架空のケイタイを持つようになる。と、あるとき、そのケイタイが着メロを。こうして彼女は、同じように頭の中にだけケイタイを持つ彼と話すようになる。もちろん誰も気づかない。どうやら二人の時間はズレているらしく、彼女の方が1時間進んでいる。そして彼女は年上の(こっちは2日早いらしい)友人もできる。
 彼女はついに彼と会う決心をし、駅で待つのだが・・・。時間のズレによる悲劇と希望が乙一らしい切なさで描かれる。にしてもここにあるのは、コミュニケーションの手触りのなさ感(頭の中のケイタイだけが唯一手触りあるんだから)。乙一はその辺りをよく分かっている。
 「傷」は母親が蒸発し、暴力父親は今や病院で意識不明で寝たきり、世話にと家に乗り込んできた叔父夫妻からは邪魔にされている孤独なボクと、父親は死に母親は刑務所にいて、親戚の家を転々としているアサトの物語。アサトには他人の傷を自分に転移する能力がある。二人は、人々を苦痛から救い、アサトに付いたその傷をボクの父親に転移することを思いつく。
 ここにあるのも、「傷」という形を採るしかないコミュニケーションです。最後のひねりを書けば、説明はしやすいのですが、やめておきましょう。
 一七歳でデビューしたこの若い作家はまさに、「今」の匂いを作品しているといえるでしょう。(hico)

『スター少女アナベル エキストラになる』(エレン・コンフォード:作 ラニー・W・アンドリアーニ:絵 若松宣子:訳 フォア文庫 200/2002)
 シリーズ第二作。映画がスターを目指すアナベルの奮闘を描く。
 今回は町にTV映画のロケハンがきて、チャンスとばかり、アナベルはもう舞い上がって、なんとかエキストラに入れてもらおうと、強引にアタック。
 そのがんばりたるや、たいしたもの。
 果たしてアナベルは初の映画出演なるか?
 子どもたちが軽く読めて、物語展開というものの面白さを知るには、いい一冊です。(hico)

『アリになりたかったカメラマン』(栗林慧 講談社 2002)
 こっちはハチではなくアリです。
 著者は子どもではなく、大人のカメラマンです。
 なんか、当たり前のこと言ってる・・・。
 でも、結構すごいです。
 何がすごいって、指摘されなければ素人には、すごいってことが分からないことに全力を傾けて、すごいことしてしまったのがすごいです。
 表紙写真を見てください。著者とカマキリが等身大で、しかもちゃんとどちらにもピントが合って、背景もボケてません。
 本をめくって、見開き一杯のカマキリの写真。おお、トニサマバッタが丘から海岸を見下ろしているではありませんか? ここでもバッタにも海岸にもちゃんとピントが合ってます。
 フツーは小さな物をクローズアップして撮ると背景はボケてしまうけど、この著者、昆虫から見た風景がピンボケってのはないだろう(昆虫の眼はピント合ってるかは、私は知らないが)、ああ、アリの視点から世界を見たい! と思ってそれを撮れるカメラとレンズ構成を作ってしまったんです。
 この本はその過程をつづったもの。
 もちろん、興味のない人にとって、それがナンボのもんじゃい、他にすることないんかい? なのでしょうが、極めるとかこだわるとか、アディクションって、ナメたものではありません。
 だって、ここに納められている写真に写っている風景は、ありそうで実は一度も見たことがなかったもの。
 つまり、世界と私の関係に、別のファクターを持ち込んでくれている。
 クラクラする。
 このクラクラを子どもが感知すれば、彼らの風景は変わるかもしれませんよ。(hico)

『ひらがなむし ぶんぶん』(山下明生:作 渡辺洋二:絵 理論社 2002)
 「山下明生の空とぶ学校」シリーズ完結作です。
 本当は6時限で終わっても良かったですが、ついつい、「じしゅう」が2時限ついてしまい、これはその「じしゅう」の2時限目ね。なんだか学校帰ってから、塾に行っているみたいです・・・。
 でも、それはこの物語がつまんないって意味ではありません。
 一年生のあきおくん、テストで自分の名前を間違って書いて、おかあさんはおかんむり。
 でも、それは間違ったというより、はるおくんが左手で書いたから。左バッターの方が有利だから、プロ野球間座州はるおくんとしては、当然の訓練だった。
 そこから鏡文字が生まれて、ふつうの「は」と鏡文字の「は」を並べたら昆虫の触角と目のようで・・・・。
 不思議な想像力がストーリーを進めます。
 物語を終えて、いつものように「おまけのページ」。今回チト、理屈ですが、最後の「もじって えれい」はいいですね。言葉ではなく文字なのが。(hico)

『合衆国憲法のできるまで』(ジーン・フリッツ:作 冨永星:訳 あすなろ書房 1987/2002)
 独立戦争後、邦としての独立を主張する人々と、国として連合する必要があるとの立場の人。それぞれの邦から集まった代表者がどのようにして国の憲法を作り上げていったかを、作者は分かりやすく描いています。そしてそれを補填するための注の豊富さ。
 国が予め存在するのではなく作られて、ある、こと。そうした事実を知ることは、子どもにとって、目から鱗になるだろう。
 あとがきにあったことですが、アメリカが歴史が浅いというけれど、自らの憲法をを作って200年もそのシステムで行っている国としては、古いのね(hico)

『崖の国物語3神聖都市の夜明け』(ポール・スチュワート:作 クリス・リデル:絵 唐沢則幸:訳 ポプラ社 200/2002)
 異世界冒険活劇の完結編です。
 このシリーズの魅力はまずなんといっても、キャラたちの造形。クリスが描きそのイメージからポールの物語が出現し、その物語からまたクリスの画が産まれてくる。ここには、物語と挿絵の違和感がない。両方があって初めて成立するのね。
 それと、ここには魔法がでてこないのも面白い。魔法は出てこないが、私たちの世界とは別の崖の国の世界観が貫かれているのもツボ。
 はまれば面白いし、外せば受け付けない物語。
 そして、父と息子の物語でもある。前作で行方知れずになった実父、雲のオオカミを探してトウィックは、危険を顧みず虚空の嵐の中へと飛空挺をつっこませる。おびえるスタッフたちを、必ず守ると誓って。
 ってところから先は書きませんが、ひとまず完結したこの物語世界は、書き進むうちに広がったらしく、すでに次作は予定されているもよう。なんでも実父雲のオオカミの若き日の物語らしい。スターウォーズみたいね。
 テンポの良さは相変わらずで、一気読みです。
 ああ、時節柄、一気飲みはやめましょうね。(hico)

『なまけものの王さまと かしこい王女のお話』(ミラ・ローベ:作 佐々木田鶴子:訳 徳間書店 1979/2001)
 ナニモセン5世は、代々ナマケモノの王様。食べて寝るいがいなんにも興味がない。ムスメのピンピは元気いっぱいで、学校だって、一般に普通学校に入りたい。
 ある日王様ついにダウン。いろんな医者が呼ばれますが、いっこうに回復せず。ピンピは村の子ガウデオと友達になり、彼のおじいちゃんに元気になる処方を書いてまらいます。
 それはもちろん、なまけず自分で何でもやること。
 王様をその気にされるための二人の活躍が良いですよ。
 ま、普通のいい王様になってしまったことが、おもしろいかどうか、とは思いますが、段々成長していく王様。そう、これは子どもが親育てする話なのね。(hico)

【評論】
『マンガ 子ども虐待 出口あり』(クライアント:イラ姫 カウンセラー:信田さよ子 講談社 2002)
 泣く子も黙る、ではなく、いばる精神科医も黙る、原宿カウンセリングセンター所長をやっている信田が、ベストクライアントのイラ姫と「家族」を巡るセッション。基本的合意は「家族イデオロギー」否定ですから、ノリがいい。
 これを児童文学に置き換えると、「家族イデオロギー」否定なんて、もう、児童書否定だと思ってしまうかもしれませんね。思ってしまったなら、いいですよ。自分がかかわっている(生きている)世界との距離が測れているのだから。(hico)