連載評論 家族という神話
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野上 暁
鬼ヶ島通信33 1999/05

           
         
         
         
         
         
         
         
    

 日本の子どもの文学・読物が、今日に続く新しい展開を見せはじめたのは一九五九年あたりからである。この頃から「日本児童文学の現代」が始まるというのが、「児童文学史的」な定説ともなっている。昨年刊行した『日本児童文学の現代へ』(パロル舎)でも、そのあたりについてかなり詳しく論じた。
 それに対して、作家の三田村信行氏から、自分の実感から言えば六〇年安保闘争以降を現代と考えたいという私信をいただいた。氏によれば、五九年と六〇年の一年間の違いは大きく、この間に同人誌『小さな仲間』で行動を共にした山中恒・佐野美津男たちと古田足日・鳥越信たちが分裂したし、政治と文学を等価でとらえ、政治を内面的に考える視点も加速されてきたという。
 たしかに、六〇年反安保闘争の敗北が、それまでの共産党前衛神話を解体し、文学思潮的にも政治からの自立が主流になってくる。また、創作を中心とした子どもの本の出版も、五九年から六〇年にかけて飛躍的に増大していることを考えると、三田村氏の指摘は正鵠を得たものといわなければならない。
 作品内容に促していうと、たとえば山中恒の『赤毛のポチ』と『とべたら本こ』との違いの中にもそれは明白に表現されている。それらを勘案すると、現代の起点をあえて五九年と固定的に考えるよりも、幾分スパンを広げて五九年から六〇年頃と修正した方がよさそうである。そこから「日本児童文学の現代」は始まる。この連載では、『日本児童文学の現代へ』に続く、「子どもの本の現代」を、作家と作品にそって論じていく予定である。

 一九六〇年、山中恒は『赤毛のポチ』『とべたら本こ』『サムライの子』と三冊の単行本を刊行した。一人の作家が一年に三冊も本を出すと言うのは当時としては画期的なことだった。しかも新人作家が、である。
「赤毛のポチ」は、同人誌『小さな仲間』に 一九五四年から五六年にかけて連載され、五六年に日本児童文学者協会の新人賞を受賞している。炭坑町のはずれの軍艦長屋と呼ばれるボロ長屋を舞台に、貧困とたたかいながらも前向きに生きるカッコという少女を主人公にした七〇〇枚に及ぶ長編小説である。そこでは、一生懸命働いてもなぜ貧困に苦しまなければならないのかというカッコの疑問から、カッコたちが軍艦長屋に労働組合を作ることによって会社と渡り合うというように、労働者の団結と連帯に楽天的ともいえそうな状況変革の可能性を見ている。それはまた、若い世代に対する期待可能性とも重なるものであった。
 しかし六〇年三月に後書きを脱稿した『とべたら本こ』では、同じ貧困家庭を描きながら前作に見られるような状況変革の意志や政治的な有効性に対する幻想は全く影をひそめているのだ。また、『赤毛のポチ』は六〇年七月に単行本化されたが、その後書きでも作者は意外な言葉を残している。
 「実在のポチは、あわれでした。痔になやむ父親のために、皮をはがれ、無惨にも、ももひきのうらにぬいつけられ、その短い生涯をとじたということです。悲しい運命はそればかりか、主人公一家をも待ちうけていました。力とたのむ母親が病死し、ヤケ酒に身を持ちくずした父親をすて、一家の生活の支柱となったのは彼女(カッコ)だったのです」
 なんという無惨、なんという残酷な後書きであろうか。組合至上主義的な楽天性に対する、たんなるてらいばかりではない。作者にそう書かせざるを得ない覚めた現状認識が、そこにはある。同人誌『小さな仲間』で「赤毛のポチ」の連載を終了した五六年から、六〇年までの間に何があったのか。
 五六年二月、死後も神格化され続けていたスターリンに対して、フルシチョフがその個人崇拝を厳しく批判した。それがアメリカ国務省によって発表されると、それまでスターリンを無誤謬の指導者としてきた各国の共産党は大きな衝撃を受ける。しかし日本共産党の対応はにぶかった。同年に発表された吉本隆明と武井昭夫の共著『文学者の戦争責任』は、敗戦直後に小田切秀雄らによって展開された文学者の戦争責任追求とは一線を画し、その曖昧な主体性に鋭く切り込むものであった。そこから新たな戦争責任論争が提起されていく。それらを受けて、佐々木守は『小さい仲間』二六号(五七年三月)に「児童文学における近代性への疑問―児童文学者の戦争戦後責任」を書き、その後、数度にわたってその問題を追求する。しかしその問題提起も、既成の児童文学者に真っ正面から受け止められたとはいいがたかった。
 五九年二月、「『民主主義文学』批判」などを収めた吉本隆明の評論集『藝術的抵抗と挫折』が、六月、武井昭夫との共著で話題を呼んだ『文学者の戦争責任』の中から「前世代の詩人たち」「戦後詩人論」などを収載した詩論集『抒情の論理』が刊行されている。翌年刊行された『異端と正系』も五十年代に書かれた文章をまとめたものだ。それらが直接的に山中作品に影響を及ぼしたとは言いがたいが、そこでのプロレタリア文学派批判や社会主義リアリズム理論批判・文学の有効性理論に対する激しい批判は、スターリン批判とともに戦後の早い時機に共産主義の洗礼を受け、その思想性を学んだ当時の若い表現者に大きな影響を及ぼしたに違いない。五九年四月、日本児童文学者協会はその総会で、日米安保条約への態度表明をめぐって、新旧世代が激しく対立する。
 山中恒の『赤毛のポチ』と『とべたら本こ』では、その文体も微妙に違っている。前作の正統的ともいえるリアリズム文体に比べると、『とべたら本こ』には、その後の山中作品に特徴的な、軽妙で饒舌な独特の物語り文体ともいえるものの萌芽がうかがえる。
 「これから始められる物語は、いったい、不幸な話なのか、それとも、おそろしくばかげた事件なのか、さっぱり見当がつかない。しかし、少くも、最初は、数少ない幸運な事件として、うすぐらい新聞記事の片隅で、読む人の話題をさそったものであった。」
 『とべたら本こ』は、こう書き出されている。そして、次のような新聞記事を紹介する。「東京競馬五日目 空前の大穴
【府中発】 昨日の東京競馬十一ハンデ特別レースは前レースからの荒れを引きつぎ本命対抗馬が消え無印の一番エネマーノ六番サンダラボッケーが入着する大番狂わせとなった。連勝三万二千円・複勝七千円・単三十八万六千円の大穴となった。この単勝の幸運をつかんだのは、横浜市の吉川政一さん(四十二)で無意識に買ったものが、このレース単勝唯一つの当たり馬券だった。」
 のっけから、競馬である。しかも、いきなりの万馬券。過剰に教育的で禁欲的あった子どもの本の世界に、ギャンブルから入るなどというのは、挑発以外のなにものでもない。大穴、ハンデ特別レース、連勝、複勝、単勝などという競馬用語の乱発も、多分に刺激的だ。大人の世界の恥部はできるだけ隠蔽し、純粋に正しい文化を子どもたちに伝えることが、子どもの本の使命と考えられていた。今日でも大筋においてそれは踏襲されている。もっとも、テレビゲームの「ダービースタリオン」などで、現在の子どもたちの競馬知識は驚くほど高度になってはいるのだが、ほぼ四〇年前、そこに敢えて踏み込むところに、新人作家としての山中恒の冒険と気概が感じられる。
 この挑発的な作品は、その後の山中作品に通底する幾つかのキイワードを内在させている。大人に対する不信、親との確執、それ故の自立への志向性と強い意志、子どものバイタリティーへの信頼、それらを際立たせる饒舌で軽妙な文体といったものだ。
 父親が競馬で超大穴を当ててから、主人公の吉川カズオの家には、それを目当てに怪しげな連中がしょっちゅうたむろし、父親は酒浸りになり母親とのいさかいが絶えない。大金も程なく底を突き、カズオが貰ったお金も母親に暴力的に取り上げられてしまう。今でいえば、凄まじい児童虐待である。その後、父親は母親を大怪我させて逃亡し、警察に追われることになるくらいだから、かなり危ない暴力的な崩壊家族なのだ。
 カズオは家を飛び出し、電車の中で知り合った老婆に連れられ、戦時下の空襲で死んだはずの山田カズオに仕立て上げられて、老婆の息子夫婦との財産を巡るいじましい争いに巻き込まれる。嫁いびり姑いじめから、財産目当てにかよ子という老婆の孫娘や暴力団まで絡む大人たちの醜い争いから逃れて実家に戻ると、夫婦喧嘩で母親が重傷を負い、逃げた父親の行方を探る警察官に出会い母親の入院している病院に案内される。カズオは無惨な母親の姿に愕然として落涙するが、母親はそんな息子を冷たく拒絶し追い返す。
 すっかり落胆し、病院を飛び出したカズオは、三ヶ月ほど放浪した後、デパートの薬品売り場で睡眠薬を買って飲み込んだところを店員の急報で病院に担ぎ込まれる。カズオは本気で死のうとしたわけではない。死にそうなくらい空腹だったから、たくさんの人がいるデパートで狂言自殺してみせ、物好きな慈善家から食事にでもありつければいいくらいに思っていた。
 ところが、その事件が新聞に載り、戦災孤児が世をはかなんで自殺しようとしたとしたと報じられてしまう。しかも、カズオが記者たちに出任せでいった名前と出生地から、空襲で生まれたばかりの息子を失ったと思っていた高橋邦夫氏夫妻が、もしや我が子ではないかとカズオを引き取る。そしてその話が美談として新聞に報じられ、吉川カズオは、山田カズオから今度は高橋カズオに変身するのだ。
 風呂に入れられ、新しく買い揃えた洋服に着替えて散髪まですると、吉川カズオはすっかり高橋カズオに生まれ変わったような気がする。高橋家は、これまでの吉川家や山田家のような殺伐とした家ではない。愛情あふれる優しい両親と、金髪で青い目の可愛い妹のいる、おだやかで明るい幸せ家族である。髪の毛も目も黒い両親から、金髪で青い目のマリ子が生まれるはずはないのだが、彼女は始めから高橋家の娘だと信じている。カズオは、高橋夫妻を、パパ、ママと呼ばされ、妹のマリ子からは「おにいちゃま」と呼ばれ、こそばゆい思いをするが悪い気がしない。
 カズオは、マリ子と同じように、高橋家の子どもになりきろうとする。しかし、前日に美談を報じた新聞記者が、その後の取材からカズオは高橋家の子どもではないのではないかと高橋家に押しかける。それを追い返す邦夫氏を、カズオはますます好ましく思うのだ。
 山田家の老婆の孫娘・かよ子とその仲間の暴力団が、金回りがいいと見てカズオを脅し、高橋家に押し入ろうとする。一味がマリ子に襲い掛かったところを、カズオが守ろうとして重傷を負う。犯人たちは逮捕され、カズオは病院に運ばれるが、そのロビーで邦夫氏はまた大勢の新聞記者に囲まれて、カズオは本当の子どもではないと言う彼らに怒りをぶちまける。
 「あれは僕のむすこだ。子どもが親に危険を知らせ、兄が体を張って妹を守り、親が、けがした子どもに輸血する。あたり前のことじゃないか。……君等は一体、何が目的なんだ。僕達が、あれと日赤病院で対面した時は、〈血をわけた実の子〉だといえとせまり、今度は、今度で〈赤の他人〉だといえっていう。……そんなことでもなけりゃ、美談ができないのか?えっ? 肉親だから、どう、他人だから、どう。君等は血統書づきでなけりゃ愛情がわからんのか?そんなもんがほしけりゃペットショップ犬屋へ行ったらいいだろう。―君等にゃわかるまい。お互いに魂と魂のふれ合いがあるから、そこで強く親子として結ばれるんだ。お互いの魂のコミュニケート(伝えること)できない親子なんか、ノライヌのざこねだ。君等は、もっと人間を見なおしてこい!」
 感動の一場面である。そして病院のベッドに横たわるカズオのところに高橋夫妻とマリ子が寄り添う。
 「カズオの顔をのぞきこんでいる三つの顔。血のつながりのない赤の他人の顔、顔、顔。その顔が無言で見つめあっていた。
 病院の外では、冬休みをたのしむ子ども達の声がしていた。
 おたあめしっ!
 とべたらほーんこ!」
 そして、「ねえ、ママ、うまいことをいうじゃないか。とべたらほんこだとさ。とべたら本こ……」「そうよ。皆で一しょに、とぶのよ」「君、どえらいことだぞ!」
 『とべたら本こ』は、現代っ子と呼ばれた当時の子どもたちの生態や感覚を巧みに捉えたと評価された一方で、著者も「あとがき」で「用心深いお母さんや、先生方からは、決して喜ばれないことは、わかっていたんだよ」と述べているように、賛否両論が湧き起こったという。
 しかし今日読み直してみると、この作品の新しさは、それらを超えたところにある。血縁を軸にした家族神話に疑問を提出するとともに、血縁家族を否定したところに人と人の新た友愛関係を見ようとしている。いや、それさえも危うい幻想にすぎないかもしれないのだ。作品に描かれる高橋邦夫氏の家庭は、あまりにも清潔であまりにも理想化されすぎている。いってみれば八〇年代に喧伝されたニューファミリーの原形でもあり、透明性はあるけれども意外にもろいガラスの家族ともいえる。吉川家や山田家が、金銭や財産を巡って血みどろの抗争を展開してみせるのに比べ、高橋家は、それらを理性的に超越している。あらかじめ「在る」ものではなく、新しく作り出された関係性の中で構築される、一種の契約家族なのである。
 このように見てくると、「吉川カズオの物語」「山田カズオの物語」「高橋カズオの物語」の三部から構成されている『とべたら本こ』はまた、血縁家族、偽装家族、契約家族という三パターンの家族の物語として読み解くことが出来る。そしてその後の山中作品には、『青い目のバンチョウ』(一九六六年)、『ぼくがぼくであること』(一九六九年)、『くたばれかあちゃん』(一九七七年)、『まま父ロック』(一九九二年)など、家族をテーマにしたものが少なくない。このうち、『青い目のバンチョウ』『まま父ロック』は、いずれも契約家族の物語であり、他の二作では、母親との確執、母親からの自立が描かれる。
 『とべたら本こ』は、「子どもの本の現代」のスタート地点を象徴する代表的な作品の一つである。そこで山中恒は、実に大胆な問題提起をしていると見ることができる。血縁家族への決別と契約家族への心情的傾斜。つまりそれは、近代の家族そのものに対する根底からの疑問を提出しているのではないか。今日いわれるような「子ども」とか「児童」という概念は、日本では前世紀末の明治中期、近代家族の成立とともに輪郭を明らかにし、「児童文学」も、そこから誕生する。その前提に対して、山中恒は疑問を投げかける。つまり、近代家族の成立によって児童が誕生し、そこに児童文学も曙光を見出すのだが、近代家族そのものへの疑念は、「児童文学」概念への疑問につながるものでもあったのだ。
 国立歴史民俗博物館の高橋敏は、「家族の時代」の始まりを江戸時代に見る。
 「十八世紀中葉には、複合家族の家は、下人の自立や二、三男の分家によって、夫婦と少ない子供の核家族を中核とする近世家族を誕生させてい。この近世家族にあっては、夫婦は家業を協業・分担し、少ない子供を後継者に育てるため、熱い愛情の眼差しを注いでいたのである。換言するなら、かつては複合大家族や村落共同体の年齢集団の中に埋もれていた子供が、近世家族の成立によって見いだされ、新たな歴史的存在となったのである。」(高橋敏『家族と子供の江戸時代』一九九七年、朝日新聞社)
 子どもの教育が盛んになるのもこの時代からで、貝原益軒の『和俗童子訓』(一七一〇年)などの教育書が盛んに読まれ、寺子屋なども一八世紀後半から一九世紀にかけて急速に普及する。高橋敏がいうように、近世家族の成立によって、それまで共同体の中に埋め込まれていた子どもが、新たに見出されるのだ。式亭三馬の『浮世風呂』が、江戸の子どもたちを活写してみせたのも一九世紀のはじめであり、川柳や絵画にも、子どもの生活がにわかに登場する。江戸時代の風俗を記録した喜多村信節の『嬉遊笑覧』(一八三〇年序)には、「翫弄」と題して、当時の幼児から子どもの遊びを三百種類近く紹介している。子どもの生活や遊びが積極的に描かれ記録されるというのはまた、江戸の庶民たちが子どもを子どもとして特殊に客観視するゆとりと視点を獲得したからなのだ。
 明治維新にともなう学校制度の成立は、こうして江戸時代に立ち現れた近世の子どもたちを、地域共同体から引き出して急速に国家に結び付ける方向に進む。家族制度もまたにわかに変容を迫られる。上野千鶴子は、日本型家族制度もまた近代の発明品であるという。
 「家制度は、ひさしく「封建遺制」と考えられていたが、近年の家族史研究の知見は、家が明治民法の制定による明治政府の発明品であることをあきらかにした。厳密に排他的な父系直系家族は、なるほど明治以前に武士階級のあいだに見られたが、庶民には知られていなかった。江戸時代の武士は人口の三%、家族を含めてせいぜい一〇%を占めるとみなされているが、残りの九〇%の人口は多様な世帯構成のもとに暮らしていた。」(上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』一九九四年、岩波書店)
 それまで、庶民のあいだでは、母系相続や末子相続が広く行われていた。農家や商家では、出来の思わしくない息子にかわって、家付き娘に広範な人材の中から婿を探して相続させる方が戦略にかなっていたと上野は言う。そして、「農家や商家では、家督相続人が男子である必然性はない。だが民法制定の過程で、この母系相続は「庶民の蛮風」として、最終的にしりぞけられている」(同書)と。
 上野千鶴子はまた、「家族の近代」には、まず「家庭」概念の成立が必要とされたという。「家庭」という熟語はもちろん「HOME」の訳語だが、石井研堂の『明治事物起源』によれば、その普及は明治九年に慶応義塾出版社から『家庭叢談』が刊行されてからだという。上野は、家庭賛美イデオロギーの浸透には、明治二五年、『家庭雑誌』の発刊が強力に作用していると見る。食事も伝統的には性と年齢によって分離され、食事中の会話は不作法とたしなめられてきたのだが、ここでは家族共同の食事と一家団欒が推奨される。「家庭の幸福」は、相愛の一夫一婦とその子どもたちの核家族による一家団欒に象徴されるのだ。また、結婚した男女が一家の「主人」となり「主婦」となるのも、明治二〇年代のことだと上野は述べる(同書)。明治民法による父系相続を軸にした家父長制の成立は、一方で家庭賛美イデオロギーを定着させ、一家団欒の推奨などから子どもを特殊に浮上させる。そこから子どもの本の近代が始まるのだが、それらが近代国家の成立に向かう国家の要請と無縁ではなかったことが見逃されてきた。
 山中恒は戦時下少国民としての軍国主義体験と、そこから急転直下に変容した戦後民主主義下での大人たちの変節を目の当たりにし、その屈折した自己体験から独自の家族観や家庭観を培ってきたのではないか。つまり戦前の家父長制血縁家族こそが、天皇制イデオロギーの下地を作っていた、いやそれらが相互に補完しあって、戦前の天皇中心の国家主義思想を構築してきたのではないかという疑義である。天皇の赤子としての子ども存在は、まさに家父長制イデオロギーの国家レベルへの拡大である。そこに万世一系を物語化する純潔思想は、父系相続を核にした血縁家族と相似型を描くものである。そこで血縁家族は、その子どもたちにいかに暴力装置として機能してきたか。それが山中の戦時下体験からの直感的な理解だったのではないか。もちろんそこには、それだけではない個人的な体験も加味されているだろう。しかし、以後の多くの作品に見られる血縁家族と言うフォルムに対する憎悪にも似た感情は、戦時下少国民として感受した戦前からの天皇制イデオロギーへの憎悪と重なるものである。そして山中恒がその後、「児童文学者」とか「児童文学作家」という呼称を頑なに拒否して、「児 童読物作家」と名乗るようになったのも、「児童文学」が近代家族の申し子であることに対する反発でもあるのだ。子どもの養育装置として機能してきた近代家族が、その属性としての暴力性を国家規模で発現した戦時下の苦い思いが、児童文学者と称する人々のオポチュニズム重なって彼には見えたのであろう。それはまた「文学」という、近代が見出した制度に付随する雑多な観念に対する敵意でもあったのだ。
 『とべたら本こ』が、その結末において、ふやけた小市民的家族主義に収斂するのは何事かという佐々木守の批判(「児童文学は読み捨ての文学である」一八七三年、『日本児童文学』八月号臨時増刊)にも聞くべきものはあるのだが、その後の山中恒の膨大な資料を駆使した「ボクラ少国民」シリーズへのこだわりを見ると、彼はこの作品において、図らずも近代の家族の在り方そのものに疑念を提出したのではないかと思うのだ。
近代は概ね抑圧からの解放として発展段階的にとらえれれてきた。「児童」や「子ども」もその保護育成と権利の拡張の中で把握されてきたし、「教育」もまたその普及と浸透がプラス要素として評価されてきた。母性観念の成立発展も、同様な文脈にあったといってよい。しかし、アリエスらアナール学派の諸説の紹介以来、それらの歴史的な相対性が明らかになってくるのだ。そのような中で子どもの本の現代は、家族・ファミリーと、家庭・ホームをどのように描いてきたのか。『とべたら本こ』から出発して、子どもの本の現代が、「家族」をどうとらえ、その呪縛からどう解放されてきたのか、解放してきたのか。それは、いじめや家庭崩壊や、昨今の子どもを巡る様々な陰惨な事件とも無縁ではない。ここでは、家族という神話の物語られてきた現代を、様々な作家の作品を検証しながらたどってみたいと思う。『とべたら本こ』は、まだ終わらないのだ。(以下次号